つらい。つらい。どうにもつらい。
なにをどうがんばっても今よりより良い状態に辿り着ける気がしない。今まで今までなりにがんばってきただろうにそれでどうにもならなかったので今更どうにもならないとしか思えない。生きる才能がなかった。生きることに向いていない。その才能がない。本当に向いているなら今はもっとよりよいじょうたいに或るはずである。そうでないということはつまりこれから生きていても無駄なのではないか?
なにか大義のためであったりそうでなくても今よりほんの少しずつ物事をよくしていくために人間は生きているはずなのであるがそれがない。だったら生きている意味などないのではないか? おそらくない。ならばなぜこんなに辛い気持ちを味わってまで生きていなければならないのか?
この辛さがいつか報われて今よりももっとよい状態をいつか手にできると信じられるからこそひとは辛さに耐えられるのではないか。あるいはよほど辛さに前向きに鈍感であるかだ。わたしにはそれがなく今の人生は延々続く責め苦に感じる。自分の人生がこれから面白いものになる期待が持てない。どうせ今までがんばってきてそれもなにひとつうまく料理ができなかったのだ。
わたしは凡百の才しか持たぬ。いや凡百以下である。就活で失敗したのは、就活という枠組みに適応できなかったという理由なのではきっとなかった。単にひととして劣っているので雇い口がなかったのである。自己評価が低いのではない。能力が低いからこそ、評価が低く、評価が低いからこそ、自己評価が低いのである。それほどまでにどうしようもない人間であるからして、生きているだけでそれは無駄なのであろう。
こんなにつらいならきっと死んでしまったほうがまだマシだ。そうであるのに、死ぬとそれはそれでいろんなひとに迷惑がかかる。親は紛いなりにも悲しむだろうし、それはそれとして、昨年祖父の葬式があったが、それがひどくめんどうだった。それに親族知人に自殺者が出るというのはたぶんかなり気分の悪いものだろう。中学生の頃に自殺未遂をし、弟に死にたい気持ちを吐露したら、親に「そういうことは弟には言わないで」と言われた。当然だ。弟には申し訳のないことをした。愚痴や弱音、希死念慮の吐露は他人にとっては害だ。わたしは生きていく価値のない人間であるから他人に害なすことは道理に合わない。生きる責め苦から逃げ出したい。けれど他人に迷惑をかけることなくこのゲームから降りることは許されない。
ああどうせ死ぬならそのまえに、死ぬ気で好きなことをやってみろって? もうやった。やった。でもなんにもうまくいかないんだよ。なんも楽しくない。映画を見てる最中は楽しいけれど、その後はなんにも残らない。結局のところ創造的な営みでなければひとは快楽を得ることはできないんだよ。でもその創造的な営みには才が要る。気力が要る。体力が要る。それがなんにもないんだよね。時間はきっと作ればあるはずなのにね。自分で自分を楽しませてやれない。死にたいわ。労力に対して、脳内で分泌される快楽物質の量が圧倒的に不足している。要はコスパが悪いんだよね。でもうつではないと思う。だって毎日自炊をして、出勤してる。要はつまり、単にわたしは生きるのに向いていないってこと。生き物として間違っているということ。
運動?やってるよ。毎日自転車通勤してる。野菜?食ってるよ。大量にたまねぎと人参を刻んで煮込んでスープストックつくって、それにしめじやほうれん草ドカドカ入れて毎日食ってる。瞑想?してるよ。じゃなきゃ、もうとっくに潰れてる。でもね、だめなんだなぁ、これが!
やっぱり、低級市民。やっぱり、負け組。みんな優しいから、そんな君も生きていていいんだよと言ってくれる。でもみんな、やっぱり、わたしよりよほど立派な人間なんだよね。