はてなキーワード: 煙草とは
何人もの男性と付き合ってきたけど、何かと別れることが多かった。
27歳になって理想の男性像が固まってきたのだが、こりゃ結婚出来ねえやと苦笑い。
・身長はできれば170cm以上ほしい(子供の身長に影響するので)
・年収は300万以上あれば可(地方のため)、正社員であること
・美少女好きのキモオタなので、ドールフィギュアタペストリーなどのオタクグッズを所持していることを嫌がらないでほしい
・最低限会話ができる知能(ニュースの話程度はできる人が望ましい)
・オタクが望ましい。ただしゲームオタクは据え置きゲ―のみとする(一緒にプレイすることを望まないでほしい)(大声で友達と通話しながらゲームしないでほしい)
・ギャンブルはしないでほしい
・煙草は吸わないでほしい
・穏やかな性格(怒っても物に当たったり手を上げない)
・強すぎず弱すぎないほどよい性欲
・平均以上の陰茎(14cm以上だとありがたい)
いまはまだ、結婚して子供作って"幸せな家庭"を築いて…っていうのがある程度共通の物語として受け入れられてるから、その根幹を否定する反出生思想への反発はかなり強い
でも、今後どんどん結婚率も出生率も下がってくるわけで、そうして子供を持たない人の方がマジョリティになると、話は変わってくるんじゃないか
マジョリティである「子供を持ちたい・持っている人」を否定するから、反出生主義は分が悪い
「子供を持ってない人・持てない人・持ちたくない人」にとっては、反出生主義はどちらかというと快く響く
「俺は子供を持ってない/持てないが、だからといって人生の敗北者だということはなく、むしろ倫理的に優れているのだ」っていう理屈を与えてくれるからな
エラい哲学者の先生が本を書いてるだけあって、論理的な破綻もなかなか見つけづらい
セクハラとか煙草なんかは、昔は当たり前に横行してたのが、いまや「ありえない」って目で見られるようになってる
楽しみですね
原作は「マイルドDQNであることが普通の田舎」の話を書いていて、作者もそういうところで育った人間なのに、アニメ化する際に都会の連中がマイルドDQN成分を無理に漂白したから、ゲェーッ!?免許取り立てで二人乗り!?みたいなことになるんだよな。
うっせぇうっせぇうっせぇわ。
田舎では赤信号は「気を付けて渡れ」だし、原付は免許取る前から乗ってもいいし、二人乗りに制限はない。煙草も酒もやりたきゃやればいい。無免許の中学生があぜ道をトラクターとか軽トラとか普通に走らせてる。私有地だからだろ?って言うけど、私有地であってもあぜ道は道路扱いだから免許はいるけど、免許と収穫どっちが大事なのかという話だ。
スーパーカブの原作でもはっきりとそう書かれている。罰金よりも大事なものがある、と。あれはそういうリアリティラインの話だ。そして別にそれは「特別」な世界の話ではなく、ごくごく一般的な田舎のマイルドDQNの思考だ。
これがアウトローの思考だと考えるのは、キレイなインハイで生息しているバカな都会人の考え方だ。田舎にスローライフを夢見る風潮は1000年前から変わっていないが、田舎の倫理観がスローなのも1000年前から変わってない。今でもエグいくらいに男尊女卑だし、なんなら部落だって過去のことじゃない。貞操観念は死んでるし、大人のいじめも度は過ぎてる。田舎が景色以外できれいなわけないだろ、常識的に考えて。
都会の物差しで田舎を測るな。都会では十代は何の責任能力もない守らなければならないガキかもしれないが、田舎では10000年前から10代は立派な大人であり、個別に尊重される労働力だ。自分の愛機を手に入れて正式に乗る権利を有したらあとのことは本人の判断に任せるべきだ。
二人乗りだってできる機構になってるんだから、したっていい。事故らなきゃいいだけの話だし、事故ったら自己責任だ。乗せたやつも乗ったやつも自分の意思で決断してそうしてる。たかだかニケツ、ガタガタぬかすな。
番号言えばいいのに、自分で探して。
雑誌やらの広告もあったから、非喫煙者でもうっすらとわかってたりしたけれど
いまはもう無理だよ。ショートホープウルトラエクセレマイルドカップとか
若い子が見つけれるわけねーやん。
・紙タバコより害が少ない
・副流煙ない
・臭いしないと主張する
→したとしても紙の煙草みたいに残らず、すぐ消える
・禁煙と書いてあるところで「iQOSは吸っていいよね?だってiQOSダメって書いてないもんね」みたいなこと言う
個人的な意見ですが紙の煙草よりもiQOSのあの化学的な(ピーナッツを腐らせて燻したような臭いしませんか?)がかなり苦手です。
でもiQOS吸ってる人は、紙の煙草と比べてやたら害の少なさとか臭いがしないとか言ってくる人が多いので、かなり滑稽ですよね。
なにも吸わないこっち側からしたら、煙草とはまた違った独特のあの臭いは本当に最悪で、害レベルでは私の感覚だと煙草<iQOSなので人里離れた森の中とかでひっそり吸って欲しいと思っている。
違いがわからない。
仕事をするのに音楽は不必要だけど音楽を聴いた方が集中できるのであれば音楽を聴きながら仕事をするのはOKって意見が大多数で、ヤフコメはNGなの?
それならその50代のおっさんがヤフコメにコメントを書き込むことによって集中力が上がるとか気が散らないっていうんなら別にOKなんじゃないの?
一定時間ごとに煙草を吸わないと気が散るとか、一定時間ごとにコーヒー飲まないと気が散るって人と同じで、一定時間ごとにヤフコメを確認してコメントを書き込まないと気が散っちゃうだけの人かもしれないじゃん。
人はそれを依存症っていうと思うんだけど。
タバコ吸う人とコーヒー飲む人と音楽聞く人と一緒じゃないの?集中する方法が違うだけでさ。
んで聞きたいんだけど、漫画読みながらじゃないと仕事に集中出来ない人は漫画読みながら仕事してていいの?
恋人とラインしながらじゃないと集中できない人は恋人とラインをしながら仕事してていいの?
ツイッターで裏垢の投稿写真みながらじゃないと仕事に集中できないなら?
あれはどうなの?これはどうなるの?それは?どう?どうなの??今どきの会社って仕事としての結果が出てれば何しててもいいの?
深夜に殴り書いた言葉を公開させてください。
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私は夢見る、私の性別がなくなることを。
女友達と手作りの料理を持ち寄って会った。母親に男かと揶揄されるたび居た堪れない気持ちになる、と話したらいつのまにか女性の生きづらさの話になって、社会で圧迫される自分自身のことについて話してた。
絵の中で無性別になれるようになったこと、裸を描けるようになったこと。それは昨年唐突に訪れた解放で、ふりでない、本当の意味での理解が訪れた瞬間だった。昔からの友達に突然カミングアウトされたり、周りにいろんなセクシュアリティの人が増えて、そこに対して何も思わなかったけど、一方で私はどう考えてもシスヘテロで、ただ家族の強制する性の価値観はあんまり理解できなかった。
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女の子らしさはガサツで割と男性的とされる趣味の多い私にはハードルの高い問題で、170cm近い体躯と王子役を押し付けられまくった経験から「LGBTなの?」「腐女子なの?」と言われることも多々あり、それが耐え難き苦痛に感じる私自身も嫌だった。
普通であることに安心する家族。普通であることに怯えるわたし。曖昧な言葉には常に適度な距離感が必要で、冷静さを欠いた議論には意味がない。そういう話をするたび、周りの“いい人”たちはみんな私のことを考えすぎだと言った。そんなに思い悩むから生きづらいのだと。
思考をやめる気はさらさらないが、一方で年々神経を蝕まれつつあるのも事実だった。精神科にかかったことはないし、これからもお世話になるつもりはないが、胃痛で薬を飲むという意味がわかるようになってしまった。自傷的に何度か手を出した煙草のせいだが、倦怠感で身体が動かなくなったりもした。腹痛で意識を失いかけた。神経症で人は死ぬんだと思った。
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「S/N」を見たのは好きな人の影響だが、どうしてあの人を好きになったのかを思い出した。どうして彼じゃなきゃだめだったのかを。酷い時も、辛い時も沢山あったし、客観的に考えればこうした方がいい、とかもいっぱいある。ただ、それが重要なわけではなくて。愛の器官が母親の甘い束縛と重め(笑)の虐めで壊れて、他人からの暴力や罵詈雑言を崇拝の一形態だと感じるようになってしまったんだと思ってた。精神的に魘されないと安心できないのかと。でも違う。
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わたしはきっと、何者にもなりたくなかったんだと思う。透明になりたいし、全てになりたい。もう殴られたくないよと強く願ったら17歳になる頃には殴られなくなったけど、真綿で締め付けられるような虚無が残ったからいつも首に縄をつけてぎりぎりで生きてる。側からはそう見えないはずだけど。好きなトラックメイカーが音楽よりもいつか結婚した時の愛する人の方が大事だよ、と言っていて、すごく驚いた。私はずっと、天啓のような何かを信じることでしか、辛い過去を受け入れられずにいたから。いまもそうだし、そうでないといけないと思うの。
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本当にばかばかしくて、ちょっと幼い話だけど。わたしは、好きな人がわたしの目をじっと見て、「眼鏡でもかわいいよ」と言ってくれたその一言で22年近くの呪いが解けた人間である。でも、親の呪いがこんなに深くわたしの中にあるって知らなかった。
小さい頃から蝶よ花よと育てたられた私だけど、母は写真を撮るたびに眼鏡を外させた。かわいくないから外しなさい、と言った言葉はいつの間にか習慣になって、眼鏡さえ外せば最強なのだという行きすぎた自尊心すら生んだ。実際に眼鏡の有無で同一人物だと気付かれないことがあったのも遠因だろう。わたしは眼鏡を諸悪の根源にすることで耐えていた。
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恋愛にもそんなに恵まれず、高校で軽い虐めに遭った際「わたしがかわいいからでしょう?」と母の言葉の確認をとったら、途端にキョトンとした顔をされ、その時から全てがわからなくなった。ルッキズムの最下層に突き落とされたような気分だった。
当時の私は髪のとかし方も知らず、見えている世界のレイヤーが少なすぎたので、たしかに見目麗しくはなかったと思う。でも好きなバンドのインストアイベントで憧れていたギタリストに前の女の子と明らかに異なる冷たい目を向けられたこととか、そういう体験が、私の不安を加速させた。何をやっても痩せなかったし、服屋の服は全部小さすぎて似合わなかった。最悪だった。
大学生になって古着にハマって、ようやくアメリカサイズの服を着ることでサイズの問題を解決したけど、やはり可愛いという言葉が怖かった。私から一番遠いところにある気がした。
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好きな人の言葉は頭の先から足元まで響くような衝撃で、衒いのないトーンは私を惑わせた。本当に、本当に、誰に言われても嘘だろうと、嫌悪感しか抱かなかったその恐怖が、ようやく解放されたような気がしたのだ。それ以降は人の褒め言葉を、きちんと信じられるようになった。
まあ今もコンタクトはたまにしてるけど、選択肢に眼鏡を含められるようになったのは、あの時好きな人が認めてくれたからだった。それだけで意味がある。私は体質的に目が乾きがちで、眼鏡ですら頭痛や眩暈がすることがある。健康被害よりも強迫的なコンタクト依存から解放されたのは、本当に嬉しかった。
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「S/N」を見た時に自覚した。わたしは他の人では満たされない渇きを、好きな人ならわかってもらえる気がしたのだと思う。ジェンダーの話はわたしも後追いだし、LGBT当事者でもなくて、フェミニズムに明るいわけでもない。どちらかと言うと旧体制的で、内心少し男根主義に傾いてるけど、でも、多様性を締め付けられる社会が本当に息苦しかった。私が可愛いものを好きなのはかなり異常者で、可愛くないことは罪だって、ずっと見えない誰かの声が聞こえて死にたかった。でもそれを人は幼いという。若気の至りだと。本当にそうだろうか?
好きな人に会う前から、男性に恋をしても、きっと眺めるのが好きなだけだった。男性の男性性は愛おしくはあるが恐怖で、私は母の教育方針もあって、結構性をタブー視してた。ちょっとフィクトセクシュアルの気もあるせいか、虚構を覗き見ることだけが唯一許されてる気がして、それ以外は全部怖かった。そこがギリギリのライン。
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それでもようやく付き合ってもいいかなという人に告白されて、焦りであっさり色んなことを済ませてしまったわけだけど、思ったより呆気なくて、何も感じなくて、その行為はいつの間にか虚無感に満ちた義務になった。心がない行動は演技で、いつも断れない自分も嫌だった。でも私というキャラクターが彼を承認した以上、そのキャラクターには責任を持たなければならない。告白を承認する、他人の人生を背負うとはそういうことだと思った。
そこには頭では納得していたけれど、ある時期から本当に、他人に身体に触れられること、好意を抱かれることに恐怖を抱くようになった。何度か背筋が凍るほど嫌な思いをしたせいもあるだろう。私を世の中に貸し出すのが無理になって、人が信じられなかった。そしてどこかで、プツンと糸が切れた。
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…好きな人もその一人といえばそうだし、それは最悪の搾取の仕方ではあったけれど、あれよあれよと巻き込まれたプライベートな時間は、たぶん優しさであったように思う。私は余りにも臆病で、そして彼の傷は大きすぎたから、私たちは付き合うという選択を保留することにしたけれど、彼は私に好意を伝えてくれたし、たくさん泣いていた。
なんかもう、それだけでよかった。
セックスは搾取じゃなくて優しさで、きっとお互いを信じ合うことで、小さな希望で、だから好きになってくれる人たちに怯えるのは私が間違ってるって思う。でも怖かった。
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好きな人は、私が今まで誰にも話さずに来た、心の穴を知っていた。きっと直感的に。運命めいたことを言うとキザだから言わないけど、彼は他の誰にもない魔法で、私を狂わせるけど、よく考えたらそれが無ければ痛くて痛くて生きてられなかったかもしれないし、また勉強が好きになれたからとか、恋心で作品が作れるからとかそんな現金な理由よりも、なによりも私が感じていた性の不安とか、かわいいに怯える切実な揺らぎとか、そういう感情に無理解でいなかったから。普通に属してるひとたちは…家族も含めて、気づいてなかったのだろう。私が泣くたびに宥められて惨めになる。好きな人だって適当な時あるけど、もしかしたら私のその不安を、あなたならわかってくれるんじゃないかと。
そういう、希望だったんだ。
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私の部屋はいま彼がくれたお洋服とか、お揃いのものとか、ドローイング、筆跡で満ちている。ちょっとファナティックだと自分でも思う。
でもこれしかなかった。彼になりたかったというよりか、嘘でもいいから愛されてみたくて、その嘘を嘘で終わらせるのが本当に耐えられなくて、本人の知らないところでそれを実現させるために、彼を統合失調的に創造しようとしたのだ。なぜか告白されたり、結局関係性がよくわからなくなったりして、側からみればきっと軽い地獄なんだろうけど。毎日家でも学校でも暴力を振るわれたり表現手段を持たなかった頃よりは、全然幸福だよ。
それそのものが救済なんだ。
私はセックスのない世界に行きたかった。それが思い出せたことだけでも、(私が生まれる前に作られた)この作品はとても、とても深い爪痕を私の身体に残したと思う。
それなら車社会に生きてるお前は交通事故で人が死ぬことを容認してる人殺しになるし煙草の根絶運動に参加しないお前は煙草の害で人が死ぬことを容認する人殺しになるじゃねーか。
良心的兵役拒否について書いた元増田。うんそうだね、そういう意味では、全ての人間は他人を殺める可能性があるから人殺しだと俺は思ってるよ。
車だって、教習所や更新の際に散々、事故起こした時は人殺しになるよというビデオ教材見せられて、それでも自分の意志で「事故が起きたら他人を殺すかもしれないけど、生活のために車を運転したいです」って許してもらって、「免許」をもらってるんだよね?
でもって、万一事故起こしたときの自賠責や任意の保険料も自分の意志で払ってるんだよね?車がなければ交通事故は起きないかもしれないけど、みんなが便利になるために、多少の犠牲は目をつぶりましょうって、人が死ぬのをわかっていながら、金で解決してるんだよ。そんなのみんな分かっていることだからあえて言わないだけ。
タバコなんてもっとひどい。生活のために必要がなくて、副流煙で他人に有害とわかっていながら、自分が気持ちよくなるために吸ってるんだよね?副流煙で死ぬ人が多少出るかもしれないけど、その分は、タバコ税払ってくれたら許しましょうって国が特別に許してくれてて、それに乗っかってるわけ。
車もタバコも、他人を殺める危険性があるものは、危険性があるのを承知の上で、税金払って許してもらってんだよ。
なんで池江選手だけ、車やタバコより遥かに他人を殺めることがわかっているものを、「頑張ってるから許して!」で金も何もコスト払わずに利得もらえるわけ?社会は持ちつ持たれつでやってるのに。盗人猛々しい、抜け駆け許すなよ。行列に割り込むよりずっと酷いズルされてんだぞ、わかってんのか?