はてなキーワード: 希望学とは
多分同じ感じ、突然CMの曲を往来で歌い始めたり興味のあるもの目掛けて逃げ出したり、たびたび買い物の隙にいなくなったり、6歳の頃には電車で15分のところに出かけてる最中に行方不明になり、警察にもお世話になり散々探し回った親が憔悴して家に戻ったら目の前の公園で遊んでたり、奇言を叫び回って散々同行者を恥ずかしい目に遭わせてくれたりした。
母親は若干私にヤングケアラーとして下の子を押し付け気味、小学校から配られるプリントに書かれている障害向けの講座に連れて行けばと言ったらヒステリックにキレ散らかした。
本当に本当に本当にたいへんだった。
4歳で見よう見まねで「10歳から始めるBASIC」という本に書かれたプログラムを打ち込んだりしてたものの理解しているからどうかはよくわからず(でも、ちゃんと描画を始めて動いてたから仕組みは最低限理解してた様子)、たまに奇声を発したりおかしな挙動をするくらい。同級生にもバカにされているようで何回も助けに行った。
叱られても、何かされても、気にも止めずに飄々と自分の興味のみに突き進み、目を合わせて話せるのは1秒もてばいい方、とにかく没頭と多動を行き来してた。
そんな彼が頭角を表したのは中1。当時高2の私が数学を親に言われてしぶしぶ見に行ったら、すごい速さで応用問題を解く、すぐに私ができる範囲を彼は超えてった。高校の頃にはほとんどの問題が解けるようになっており、受験はどこの大学も数学だけは解けた。そう数学だけ突出して、でも他の教科も国語以外はまあまあ取れてた。英語も高校レベルでは大丈夫だった。(その後、院に入った時に書いた論文の下書きを見せてもらい書かれてる文法に頭を抱えた。)政治家と選挙区と任期についても全国の衆参ほとんど覚えていて会派まで覚えてた。まるで意味がわからない。
結果希望の進学はできなかったものの、転入する形で希望大学の希望学部に。その年の転入合格者は少なく、英語の点数が足りていなかったものの数学などで入れて貰えた、らしい(面接時にそう言われたらしい)
色々端折るけど、その後発達障害なのがわかった。そもそも彼が子供の頃、何かの障害はあるように見えてもそれをはっきり定義づけるものが成立してなかった。考えてみたら父親もアスペルガー気味(キレると叫びまくって手がつけられない。モラハラ傾向。小学校で高校の数学は終え、成績が異常によかったと複数人の同級生は私に語り、留学中にメンザに誘われたらしい)母も何かしらあると思う(常識がどこかに飛んでる。目を離すとゴミ屋敷を作る。問題多々あるのにコミュ強。人の顔と名前を50人くらいなら数分で覚える。一瞬見たら定着するらしい。意味がわからない)
弟は今人生うまくいってるかというと微妙だけど、明らかに上のレイヤーで戦っていけるだけの力がついてる。羨ましい。
両親も7歳になってもろくに会話にならないし、字は書けるのに本をちっとも読まないし、彼が12歳になるくらいまでは本当に弟については悩んでた。
彼が色々困難にぶつかりながらもうまく生きていけてるの、多分私のおかげだと思う。
冗談はさておき、母や祖父母が私の目から見ても甘やかしてるぐらい温かく見守っていたのも大きいと思う。
父は忙しすぎてややこしい子育てほぼ放置だけど叱る時はこっぴどく、甘やかす時はとことんで、休暇毎に海や山へと連れて行き無理難題を提示した。
自分で感情の整頓がうまくできなかったりして小学校で意地の悪い教頭に目をつけられたり、いじめに遭いかけたりしてたけど、母は弟の好きなものを夕飯に出したりしてた。
彼には家でそういう環境が必要だったのだなと今なら振り返って思う。
母は小学校高学年の私に障害向け講座の参加を勧められた時、本当は必要だと思ったけどその事実が受け入れられなくて苦しんでたらしい。すぎたことはしょうがないしその頃は分からなかったけど、本当に悪い事をしたと思った。
ともあれ、元気に大きくなって本当に良かった。親父お袋グッジョブ。
今本人は風変わりではあるけれど穏やかで少し臆病で正直で悪さ出来ないくらい大人しいおっさんとして暮らしてる。友達も少しだけならいるらしい。
人事の人にはバカだと思われてるのかなってエピソードとかあって聞いてて不安になったけど、チームではうまくやってるみたい。
できる事を伸ばして頑張れる場所を見つけてて本当に良かった。
でも、本人も周りと比較できるようになった後、もっと大変。普通にしているつもりで誰かに目をつけられる。多分人よりも疲れるし、子供の時は特に辛い。大事にしてね。これだけよく見てる増田だもの。大丈夫。七五三はやってみたら案外上手くいくものよ。増田と増田嫁の祝いの区切りとしても是非トライしてほしい。もし残念なことがあったとしても、きっと10年後にいい思い出になるよ。その頃には上の子も大きくなって笑えるようになってる。色んな事を教えられるのは増田たち。トライしなかったら何も残らない。
障害が出てない方の子であまり周りに構ってもらえなくて放浪してた記憶があるんだけど、下の子がお兄ちゃんを大事にしてくれるように、でも平等に楽しく元気に育ててあげてほしい。
書いてくれてありがとう。
あの時期はそれぞれにとって本当に修羅だったのかもしれないけど、過ぎてしまうと懐かしい思い出だし、当時悩んでた家族みんなを思い出した。
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(そろそろ誰もみてないかな。)
元増田の苦労がわかる気がするのは俺だけ、と思って書き込んだけど、コメントがついてて&過分な褒められでびっくりした。ありがとうありがとう。
全然えらくないよ。弟で一緒に暮らしてたから、意思疎通がままならない時代はまあなんとかしないといけないけど、別に同じ親の子ってだけで四六時中真摯に向き合ってたわけでもないし。
32時間やってたFFⅤの記録を手違いで上書きされてた時は飛び蹴りしたし。普通に喧嘩もよくやったよ。
その後親に怒られるのこっちが多かったのを今思い出して不服はあるけれど。
今は色々話し相手にもなるし、専門知識もかなり長けているからアドバイスしあったりする間柄だよ。
あと、振り返ってみてうちの親は多分自分がいなかったとしても、それはそれでうまく回していけるだけの別のルートを辿ってたんじゃないかな、まあ自分がいた方が絶対幸せだったと思うんで(?)、先に俺産んでおいて親父お袋グッジョブ、とは思う。
ただ、世の中に弟みたいな人で生きづらい思いをしている人、単に自分が気づきやすいだけなのかもしれないけど、結構いると思う。
そして本人がうまく社会とコミュニケーション取れないから、それだけで酷い扱いを受けたり暴言吐かれたりしているシーンもあってさ。
それでもまだ、弟の時代は枠から少しはみ出ていても、まだ周りの大人が得意不得意はあるから、って目こぼししてくれているありがたい人たちが多かったけどさ、
今は、コミュニケーションがうまくできて、それ以外のやつは社会の荷物、みたいな雰囲気があるでしょ。
多分、コミュ強の反対はあまり人馴染みが良くないのかもしれないけど、弟も、元増田の長男も、私自身ですら、今のそういう雰囲気にうまく馴染めているかわからない。
そんなことに、たまにとっても辟易する。
そういう風に切り捨てていくのは本当に豊かな社会なの?って。
コミュ強ばかりで成り立つ社会って、それはそれで強いものになり得るのか、と思うとそうでもないと思うし。
だから。
えらいね、すごいね、って言われるよりも、こういう人もいるけれど、少し自分の興味に突進しがちの人がここにいていいんだ、って雰囲気の社会になるようにできたらいいな。って思う。
多分これは私が幸せ、というか、気になってしょうがない事が軽くなるための一つの解決の糸口。
なので、ちょっと変わった人だなって思っても、別に積極的に助けてあげよう、とか気負ったことはしなくていいから、
変に攻撃的になったり、無視したりするようなネガティブな態度を取ったりしないで欲しいのと、
周りでもしそういう図式でのコミュニケーションを見つけたら、それとなく少し緩和する勇気を持ってくれると嬉しいなって思ったりした。
https://anond.hatelabo.jp/20230326003519
の続き
https://www.marymond.jp/post/%E3%83%9E%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%A2%E3%83%B3%E3%83%89%E3%81%8B%E3%82%89%E3%81%AE%E5%A4%A7%E5%88%87%E3%81%AA%E3%81%8A%E7%9F%A5%E3%82%89%E3%81%9B :<マリーモンドからの大切なお知らせ>]
マリーモンドを応援してくださっている皆様、ありがとうございます。
既に韓国では公表されているのでご存知の方もいらっしゃるかと思いますが、マリーモンドは2021年11月をもって、活動を休止することになりました。
マリーモンドは2013年に韓国の若者たちが立ちあげました。「慰安婦」にされた女性たちの尊厳を取りもどすために、一人一人の人生を学び、彼女たちを象徴する花を選び、その花をモチーフにしたアイテムを販売し、その利益を「慰安婦」問題の教育や支援に寄付していくというスタイルで、多くの人々に支持されるブランドとして成長してきました。また、その活動は「慰安婦」問題にとどまらず、児童虐待の被害者支援、性暴力被害者支援へと拡大し、暴力のない、人権が尊重される社会を実現するために行動する企業として歩みを進めてきました。
2018年にマリーモンドジャパンをたちあげ韓国の運動に連帯してきた私たちも、今回のマリーモンド本社の活動休止を、辛く悔しい思いで受け止めています。
マリーモンドが休止に追い込まれた背景には、フェミニズムに対するバックラッシュ、人権や平和を守ろうとする運動に対するバックラッシュがあります。「慰安婦」問題に取り組み続けてきた団体への理不尽な攻撃や、メディアによる誹謗中傷にも関係者は苦しめられてきました。それはマリーモンドが継続できなくなるほどの力となっています。
そのバックラッシュの空気は、「慰安婦」問題に関わり続けてきた私たちには痛いほどわかるものです。だからこそ今、韓国のマリーモンドが切り拓いた希望や、意思を絶やさずに継続させ、韓国との連帯の意思を表明するための取り組みを、日本から発信したいと思います。そのため2022年以降、当面の間、マリーモンドグッズの販売は日本を中心に行っていきます。
(略)
新しい商品の制作の準備や、韓国の休止に伴う商品の整理などにしばらく時間を要しますが、これからのマリーモンドジャパンの活動を、多くの方のご協力をいただきながら進めてまいります。韓国のマリーモンドと共にある、これからもある、という思いでブランドを大切に守っていきますので、今後ともマリーモンドを一緒に育てていっていただけるよう、心よりお願い申しあげます。
マリーモンドジャパンは2018年12月にはじまりました。3回目の冬は、すこし寂しいお知らせになってしまいましたが、新たな出発の月にもなりました。
皆様への感謝を込めて、ポップアップショップ・セールを開催します。東京と大阪で同時開催です。ぜひ皆様、ポップアップショップにいらして下さい。
ところが法人が解散してしまった。するともう韓国のマリーモンドどころか、人身取引組織の支援者である希望のたね自体も再生が課題となってしまった。
JudyさんはTwitterを使っています: 「@himasoraakane @YouTube 「あの団体」御一行様ですが… 3月22日 正義連の水曜集会に参加していました。 https://t.co/okcohd1eWW」 / Twitter
https://twitter.com/SXMKPQtD7a4OB2F/status/1639586449044672512
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23.03.21 16:32l最終更新23.03.21 16:33l
ユン・ソンヒョ(cjnews)
希望種子基金日本青年たちは3月20日に陽山を訪れ、「キム・ボクドンの道」を通った
日本の青年たちが日本軍「慰安婦」被害者であるキム・ボクドン(1926~2019)、祖母の慶南(キョンナム)量産生家を探して22日、ソウルで開かれる「水曜集会」にも参加する。
21日、キム・ボクドン平和公園陽山市民推進委員会(下記推進委)は、希望のたね基金(代表ヤン・ジンジャ)が日本の青年20人余りと一日前日(20日)の陽山を訪問し、「キム・ボクドンの道」を歩いて関連活動を行ったと明らかにした。 。
2017年6月に日本で結成された「希望のたね基金」は翌年から韓国で青年ツアーを進めてきている。 コロナで中断されてから3年ぶりに日本の青年たちと一緒に訪れたのだ。 この団体は2015年慰安婦関連した日韓合意以後、日本で「若い世代に事実を正しく知らせよう」という趣旨で結成された。
「キム・ボクドンの道」は、メギドゥル村学校で量産を人文学の観点で体験するために開発した地域化教育プログラムの一つで、キム・ボクドンおばあちゃんの生家から小説<スラド>の中の日本軍慰安婦共出場所である土橋まで続く区間だ。
特に非営利団体の「キム・ボクドンの希望」が民主化運動記念事業会とともに昨年10月末に「キム・ボクドン希望学校」を開き、量産を訪れて「キム・ボクドンの道」を回答しながらさらに知られた。
ヤンジンジャ代表は「コロナ19で青年期が中断されている間に状況が変わった。 なくなった」とし「これまでおばあちゃんたちはずっと帰ってきて、もう直接会える方を見つけるのが大変な状況になった」と話した。
ヤン代表は「生存者に会えない世代として記憶を継承していくためにどんな活動をしなければならないのか考えなければならなかった」とし「そんな中、「キム・ボクドンの道」の存在を知り、記憶を継承する良い事例だと思った」と付け加えた。 。
青年たちはこの日ソウルからリョウサンに来て、推進委執行委員・会員たちが出て歓待した。 パク・スヨンさんは、金の祖母の生家で故人の生涯を日本の青年たちに聞かせた。
当時通っていた住民も関心を見せて応援した。 参加者たちはキム・ボクドンおばあちゃんも歩いた道に沿って量産南部市場サムジ公園に移動した。
サムジ公園には日本軍慰安婦被害者を称える「少女像」がある。 推進委はここで「金福洞平和公園、平和の少女像」を市民の手で作ろうとする意義と進行経過を話した。
この時、日本のある青年は「どんな力が市民をこう動かせるか」と尋ねた。 これにイ・ホンスさん(ヤンサン)さんは「あまりに遅く分かるようになったごめん」とし「キム・ボクドンおばあちゃんの訃告」を新聞で報告書だと量産での日本軍慰安婦の病気の歴史を知ることになってごめん、故郷で一緒に戦わずキム・ボクドンおばあちゃんだけ 苦軍奮闘させた申し訳ない」と答えた。
続いて参加者たちは春秋公園にある春秋園寺を訪れた。 ここはキム・ボクドンおばあちゃんが1947年帰郷して壊れた体と心を療養したところで、おばあちゃんが療養される前には母親が石火を持って置いて引かれた娘が無事に戻ってくるためにいつも訪れた場所として知られている。
当時、キム・ボクドンおばあちゃんの母親が持っていた石仏は、まだ法廷の隅にある。 日本の青年をはじめとする参加者たちは石仏の前にお寺に参拝もした。
イ・ジヤン執行委員長は「切る姿は痛みを一緒に覚えている人々の切実な祈りだった」とし「春秋原師を出る道には天理香の香りがいっぱいだ。 同行する私たちの心が天理万里に広がり溢れることを望む心だったはずだ」と話した。
希望のたね基金青年ツアーは最後の場所として通道士白蓮がんを訪れた。 ここにはキム・ボクドンおばあちゃんが立てた石などがある。 彼女は1992年に公開証言を皮切りに日本軍慰安婦問題解決のために国内外活動し、以後釜山にしばらく拠点を置いてここに石などを建てた。
李執行委員長は「おばあちゃんが証言し、日本軍の戦争犯罪証拠が生きて証言するにも日本は認めようとしなかったし、日本軍慰安婦問題は解決の兆しがなかった」とし「おばあちゃんは休息のため釜山に降りてきて、その年が 1999年だ。1947年の帰郷ほど体も心も疲れただろう」と話した。
彼は「釜山に降りてきて、おばあちゃんは通道師白蓮岩に石灯を見た」としながら「石灯を見てどんな心だったのか私たちは推測すら難しい。 ソウルに行った」と説明した。
キム・ボクドンおばあちゃんを最後まで祀ったキム・ドンヒ「キム・ボクドンの希望」運営委員も青年期行に共にした。 彼は「おばあちゃんは「私は希望を持って生きています。私に従ってください」と言われました。 心を読む"と目を覚ましたりもした。
希望のたね基金青年ツアーは推進委に平和公園の造成に使ってほしいと20万ウォンを寄付し、推進委は「平和の少女像」が描かれたバッグと「キム・ボクドンバッジ」をプレゼントした。
推進委は22日から今後毎週水曜日午後4~6時の間、量産イマートの前で「キム・ボクドン平和公園、平和費少女像作り水曜活動」を繰り広げる。
去る18日韓国を訪問した希望種子基金青年たちは22日景福宮見学に続きソウルで開かれる'第1588次水曜デモ'に参加した後日本に帰る。
김복동 생가터 찾고 소녀상 앞에 선 일본 청년들 - 오마이뉴스
20万ウォン?不正送金としか言いようがない。事故がなかったのが幸いだ。もし事故が起きたらアイセックのように誰が責任を取るのかよくわからない状態になっていた。
またこのお金はどこから出しているのか。法人はもうないのである。本来は法人の名前では出せないはずである。
登記をこのままにして活動することはできない。会社のような法人と違い、税金はかからないのだろうが。
契約はすべて取り消すことができる。なぜなら、法人格が存在しないからである。おそらく課税されないから放置しているのだろうが。
しかし、その一方で登記を再生するには、まず過料に処せられる可能性がある。
募金をいくら正確に扱っていようが、そもそも韓国国内の活動が違法である。
認知プロファイルすると、この団体の法人登記住所には誰もいないため、法務省からの通知も気づかなかったのだろう。つまり実態のないペーパーカンパニーであることがわかる。
ということであれば、韓国へ旅行している以上、希望のたね基金は全く実体がなく、양징자が寄付金を一人で使っていたにすぎないということになる。
オーマイニュースには希望のたね基金のツアーと書いてあるので、個人的な旅行だという主張は無理である。
さらに正義連は批判されこそすれ、同情する余地は全くない。慰安婦をかわいそうだとか、なにか支援したいと思うときには絶対に正義連の関係者と取引してはいけない。こいつらは完全にクズだ。
以上から、この団体には実態がまったくないうえに、代表者が個人的にお金を使い込んでいる可能性が高い。
以上から、寄付したり、マリーモンドの製品を買ったりしてはいけない。
HPにもある通り、もはや慰安婦とは関係がないことが明らかである。
さらにもとの正義連自体が韓国で刑事告訴されている。他ならぬ慰安婦の証言をきっかけに、である。したがってファクトチェック以前に直ちに謝罪すべきなのである。
でなければ慰安婦の告発を無視する以上、慰安婦なんて本当はどうでも良くてお金儲けの道具にすぎないという連中でしかない。
また、法人格はない以上、現時点では契約したり、お金を受け取ったり支払ったりはできない。例えばマリーモンドの商品を買おうとしてお金を支払っても商品は来ない。なぜなら、法人格がないのでそのお金がどこに行くのかがわからないからである。
令和の終わりのお祭り騒ぎがあったので記念カキコ。カキコなんていうやつもういねーか。ははは。今思えば平成の終わりに象徴的なニュースがいくつかあって、令和のソフトウェアエンジニアを予見していたと思ってさ。
平成の終わりに経団連は、新卒一括採用の終了と、終身雇用制のギブアップをアナウンスした。当時からWeb系エンジニアにとってはどちらも馴染みが薄かった制度だけれど、それが令和のうちに一般に広まった。このアナウンスに続いたのは、新卒採用時の一律初任給の廃止であり、会社側にかかっている従業員解雇についての規制緩和だった。
もはや新卒採用がなくなったのだから、一律の初任給も当然なくなった。ソフトウェアエンジニアだけ初任給が高いなんてことが普通になった。新卒なのか経験者なのか入社時期で区別できなくなったし、同期入社の横のつながりみたいなものも薄れて給与を比較する相手は同期だけじゃなくなった。これは給与の上昇が止まらないソフトウェアエンジニアを、旧態依然とした大企業でもきちんと給与を出した上で雇うための方策でもあった。GAFAに人材を取られ続けるようなマネを大企業はしなかったし、その程度には日本の経営者もバカじゃなかった。それにGAFAばかりが人材の引き受けてではなくて、国内でもベンチャー企業のソフトウェアエンジニアの給与はかなり良いペースで上がっていて、それらに負けないためにも大企業は給与を上げていく必要があったんだ。
誰も彼も給料が上がったというわけじゃなかった。きちんと教育をうけるなり、実績を持っているなりする若いソフトウェアエンジニアが年収700-800万くらいのそこそこ良い給与でキャリアが始められるようになった。令和五年くらいの話。
一方でうまく行かなかったソフトウェア開発プロジェクトを簡単にパージする必要も出てきて、USのレイオフのような仕組みをどうにか導入しようと目論むやつが出てきた。ソフトウェアエンジニアの方も、それを承知でキャリアを組み立てている。平成の終わり頃はある種のフリーランスエンジニアがそのような立場を担っているように見えたけれど、もう少し安定と高収入が得られるようになった。
こうしてソフトウェアエンジニアの高給が知られるようになると、コンピュータサイエンスを学ぶ学部学科は人気になった。小学校から授業でもやっていて親しみをもっている高校生も増えていた。業界に優秀な人が来たのはいい話だけれど、情報系に人気がなくてラクラク希望学部に入った自分としてはなんだか申し訳ないようなつまらないような気持ちもする。ライバルは弱いほうが良いし。
AIが職を奪うなどという戯言もあったけれど、少なくともまともなソフトウェアエンジニアとは縁がない話で、令和の間にはアルゴリズムを自分で設計したり、適切な手法を選択できるAIは現れなかった。
平成の終わりに30代でバリバリ働いていたソフトウェアエンジニアは令和の間も仕事には困らなかった。優秀な若手が増えたとはいえ、人手不足には変わりがなく現場のエンジニアでもマネージャーになっても仕事はある状況が続いている。平成の終わりには35歳エンジニア定年説なんて全く聞かなくなっていたし、今も5年程度で転職を繰り返すキャリアプランが50代後半まで通用している。そして75歳まで年金をもらえない僕らは60からの定年までの15年が問題になっている。
歳はとったけど、つぎの御代も楽しくソフトウェア開発したいなー。
「大学教師が新入生に薦める100冊: わたしが知らないスゴ本は、きっとあなたが読んでいる」のCSVファイルを重複排除・ソート。出現数3回以上だけを抜き出してみた。記号が統一されていなくて漏れてしまっているのもあるかも知れない。(ゲーデル、エッシャー、バッハ─
の長音風記号はなぜか統一されていて、Amazonでも全く同じ表記)
某国立後期試験が後二週間と迫った頃、受けた大学を全落ちした自分はそれでも焦りが無かった。
落ちた私立大学は自分の希望ではなく親の希望する学部だったから、寧ろ落ちてよかった。
唯一希望学部として受験を許されたのがこの国立の後期試験だったから・・・
という前置きは放置して、とりあえず二週間で小論対策をしなければならない。
予備校なぞ行ってる暇はない。
どうしようと迷う暇も無くやったことは以下。
下地なので、普段暇なときにやっておくとよし。
中学の頃から言われるがままやっていた事なので、正確に言うと「二週間でやったこと」ではないが大事。
何でもいいので小論問題集を買う。
ただし解かない。
問題を見た後模範解答を原稿用紙に丸写しする。
これをひたすらやり続ける。
制限された字数で起承転結の配分をどうやるかが分かる。
語尾を揃える(~ですます調か~る~だ調)。
起承転結を守る。
毎日国語の先生に(現文だろうが古典だろうがどうでもいい)小論課題を出してもらい翌日提出⇒添削のコンボ。
コレを二週間やり続ける。
希望学部は伝えておくべきだが、課題は理系よりもニュートラルなオールラウンドな物が多かった。
問題を読み、結を決めてから大まかな展開を決めて書く。
後は書くべし書くべし書くべし。
試験の状況はというと、時間制限の半分で書き直しもなくフィニッシュ。
文字数も丁度。
高校時代家出していた際にクリアした小島監督作ポリスノーツのネタがここで活かされた。
偏差値40代だった落ちこぼれがセンターで足きりラインを突破し、
話がずれた。
小論に戻すと、自分が思う一番大事なポイントは下地部分だと思う。
読書しろと言われたりするが、一冊読み終わる間に丸写しした方がいいと思う。
次のような推論、「わたしは君よりも裕福である、従ってわたしは君よりもすぐれている」とか、
「わたしは君よりも雄弁である、従ってわたしは君よりもすぐれている」とかいうのは、得心ゆかない。
だが次の推論「わたしが君よりも裕福であり、従ってわたしの財産は君のよりも勝っている」とか、
「わたしは君よりも雄弁である、従ってわたしの演説は君のよりもすぐれている」とかいう方は、むしろ得心ゆく。
だが君は財産でもなければ演説でもない。
エピクテートス 提要
[学歴][学閥][シグナリング理論][ハロー効果][情報の非対称性]
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%83%AD%E3%83%BC%E5%8A%B9%E6%9E%9C
例として、ある人が難関大学卒であったり、
その人が学力や体力や字の上手さにおいてだけでなく、人格的にも優れていると思い込んでしまうケースが挙げられる
(それらの事柄と人格的に優れているか否かは、ある物体の色と形が互いに独立の事柄であるように、互いに独立の事柄である)。
その商品やサービスを実際に使ったりみたりした事がないにも関わらず、
良いイメージを与える。
それによって購入意欲を刺激したり、購入したりする。
ハロー効果 Halo effect || INVENIO LEADERSHIP INSIGHT
http://leadershipinsight.jp/dictionary/words/halo_effect.html
業務成績が優秀であることは全く関連のないことなのにも関わらず、
「優秀な人物」と判断してしまう
http://blog.goo.ne.jp/gb3616125/e/3edd7aacc7893a7f78957e5910eabad4
[学閥][閨閥][派閥][藩閥][同調圧力][空気の研究][先輩][保身][企業][就職]
次のような推論、「わたしは君よりも裕福である、従ってわたしは君よりもすぐれている」とか、
「わたしは君よりも雄弁である、従ってわたしは君よりもすぐれている」とかいうのは、得心ゆかない。
だが次の推論「わたしが君よりも裕福であり、従ってわたしの財産は君のよりも勝っている」とか、
「わたしは君よりも雄弁である、従ってわたしの演説は君のよりもすぐれている」とかいう方は、むしろ得心ゆく。
だが君は財産でもなければ演説でもない。
エピクテートス 提要
http://anond.hatelabo.jp/20081221200806
http://anond.hatelabo.jp/20090922122517
仕事できない人って・・・http://anond.hatelabo.jp/20100702010352
向上心がないやつはほんとにどうしようもないhttp://anond.hatelabo.jp/20100707221911
http://anond.hatelabo.jp/20130816225200
http://anond.hatelabo.jp/20131017012538