はてなキーワード: 死に至る病とは
徳川の時代に若い男だけがかかる死に至る病がはやって、男が激減
序盤こそわかりやすかったけど、本格的に過去編に入ってからは文章多いし歴史ものってことでわかりにくい言葉がたくさん出てくるしで正直挫折しそうにもなった
でも土日で体力あったし慣れてきたら読めるようになった
でも一気読みじゃなかったら都度読み返さないと内容把握できなくて挫折してたと思う
・話のキモになっている病気について単にそういう病気があったから逆転したーというだけで病気を放置したままにしないこと
・中学レベルの日本史の知識の裏を独自の解釈で埋めていってくれて、無味乾燥だった日本史の知識がどんどん色づいて感じられるようになっていったこと
あと性格もほぼ同じに見える
女も男もほぼみんな同じ顔に見える
いまんとこ読んでて楽しかった話は、
だな
真面目に答えず、出来る限り嘘と虚構を織り交ぜて答えていきたい。
いい質問だ。
と思ったが、考えてみれば修正はされるものの陰部の描写自体はしっかりとあるのでこの例えは不適切だな。
パブリックドメインになっていて手軽に観れるものもあるから、興味があるなら自力で探したまえ。
今でこそ医学の進歩で治る病気は増えたが、昔は不治の病だといわれていたものも多い。
その時代の人々はどうしていたと思う?
立ち向かっても勝てない病は、受け入れたのさ。
死に至る病であっても、人によっては笑いの種にしたものもいるほどだ。
さしずめ、その時代の意志を受け継いだ“不治の病”が、重課金なのではないだろうか。
生憎、私は医学には明るくないので、それが不治の病かどうかは分からないのだが。
描く必要はない。
正確に言うなら、チキンライスにケチャップを使っているのだから、かける必要がないということだ。
誤解して欲しくないので念のため言っておくが、ケチャップなどのソースをかけていないオムライスはあるからな。
もちろん、ライスにケチャップを使わずに、卵部分にのみケチャップかけているオムライスも店も実際に存在する。
私の店ではない。
私は嘘は言っても間違いはしない。
すごく前の話
大学に入って初めて好きになった人がメンヘラっぽい人が好みと言っていた。
でもリスカしてるほどは嫌いって言ってた。
メンヘラ的要素を一切持っていなかった私は必死にメンヘラになる事にした。
とにかく精神的に悪いものをたくさん考えて自分の心を病ませるようにした。
昔の辛い出来事を思い出して夜寝れなくなったりした。
それをTwitterで呟いて見せつけたり日常会話で相談して距離を縮めていた。
私はそれでも物足りなさを感じた。物足りなさというか自分の負の引き出しに限界を感じ始めてきた。
そこで目をつけたのが、「自分が何か死に至る病気にかかってるんじゃないか」って不安になる事だった。
自覚はなかったけど、きっとそのとき、心のどこかで、病気が不安って事ならネタが尽きないって心の何処かで思っていたんだと思う。
実際かかってる人がいるのに、それなのに、死に至る病気が不安って騒いで相手してもらおうなんて最低なことをきっと心の何処かで考えていたんだと思う。
騒いだきっかけの9割は、その人に構ってもらうためだった。でも騒ぐうちに本当に自分は病気なんじゃないかって思い始めてきた。強い不安と共になんだかんだで自分は病気じゃないだろって自信の2つがあった。
実際に、検査をたくさんして病気には何1つひっかからなかった。
でも本格的な検査をして、たくさん緊張した。たくさん病気の知識が頭に入ってしまった。
どんどん混乱していった。
最初は構ってもらうために騒いだのに、日が経つごとに本当に病気が不安で仕方なくなっていた。
その後、その人に怒られることをして縁は切れた。
でもそのとき発症し始めた、病気不安が一年以上経った今も続いてる。
今は構ってもらうために不安になってるんじゃなくて、ただただ不安になってる。
まだ21歳なのに病気が怖くて仕方がない。毎日体を触って確かめてる。ちょっと何処か痛いだけで死ぬ病気に結びつける。
ネットでふと見たけど、これを心気症って言うらしい。私は心気症だと思う。
はたからみたら健康なのに騒いでて馬鹿みたいだから、誰も真面目に聞いてくれない。
内科に行っても血液検査で以上なしばかり。腹部エコーを撮って以上なしばかり。でもいつもどこかしら痛い、辛い、今はお腹が痛い。
医者すら信用出来なくなってきて、色んな病院へ行く。そしてたまに精神科に行けと言ってくる医者がいる。精神科に行ったら軽いうつ状態ですねって言われて精神安定剤を渡される。精神安定剤を飲んでも涙が止まらなく不安で仕方ない。
でもそれと同時に毎日自分が死ぬ病気なんじゃないかって不安で不安で仕方ない面もある。
早く寝なくちゃいけないのに、またネットで病気のことを調べてこんな時間になってしまった。大学入る前までは健康診断サボるくらいだったのにね。
最近夢は死ぬ病気の記事がずっと流れて行く夢を見る。毎日怖い。
助けてほしいけど、どうやったらここから抜け出せるか分からない。
誰かが酷いことをしてくるとかではなく、自分自身が悪いんだ。調べなきゃいいし少しの痛みなんて気にしなきゃいいんだ。全部頭では分かってるはずなのに心が動かない。
人生の夏休みのはずの大学生活がこんな形で辛くなるとは思っても見なかった。
病気が怖くない人達が羨ましくて仕方ない。ここから出してほしい。助けてほしい。終わりが見えない。幸せなはずなのに幸せじゃない。
どこにもこんなにたくさん書けないからここに書いた。
Yahoo!知恵袋を見ると私と同じ心配性が沢山いる。でも回答には不安を煽るか、検査した方が良いですよっていうのばかり。
検査しても、ネットで見た闘病ブログの医者の誤診の記事が頭の中にずっとあって、医者すら信じられない。
最近知り合いに言われたこと。
そんなに検査して、もし本当に検査が必要なときにお金が無くなってたらどうするの?
本当にその通りだ。でも、いつも本当に検査が必要って思って検査してるのも事実なんだ。
真っ暗の道をずっと歩いてる気がする。
夜更かしは体に悪いのに寝れなくて結局こんな時間になってしまった。今日も沢山泣いた。昔みたいに寝れるようになりたい。頑張って寝ます、お休みなさい。
既卒無職男。名前も知れない大学を出て、4月からニートを続けながら、暑くなってきたのでそろそろ自殺しようと思う今日この頃。
高校生の頃にはすでに僕の人生は終わっていると感じていた。24歳で死のうと思っていた。大学出て、二年ぐらいなら貯金もあるし、少し遊んで、それで死のうと思ってた。
働く気なんかさらさらなかった。大学の求人票や説明会に来てるのは飲食、介護、販売とお察しの業界が顔を揃えているし、それ以外だって良くて中小の営業職、いくら探しても魅力的な会社なんてなかった。もっとやりたいことも他にあった。
だから、就活はしなかった。新卒カードはどぶに捨てた。死ぬつもりだったから。ここ三年ぐらい、死なねばならないって自分に言い聞かせて、自己暗示をかけてきた。声に出して、癖になるぐらい言った。
作家になりたかった。ラノベ作家でよかった。ラノベ好きだし。ある新人賞で担当編集がついたはいいものの、デビューには程遠い。作家になりたかった。クリエイターなりたい病にかかっている。
もしデビュー出来たら、もう少し生きてみようと思ってた。でも、書きはじめた頃みたいな、新人賞に投稿し始めたときのような書いていて、自分の作品にドキドキしたりする感覚がなくなってしまった。妄想が止まらない感覚がなくなってしまった。作家として一番重要な書いていて楽しい感覚が失われてしまった。
僕は多分、作家としてはもう死んでいる。あと2年耐えるのが辛い。もう死にたい。
最近、死にたい病が凄まじいので耐えられない。本当は精神科に行きたい。でもお薬は飲みたくない。書けなくなりそうだから。
少し前までは死を前にした幸福感みたいなものがあった。でも今はまた悲しい気持ちばかりが溢れている。一番怖いのは半身不随とかで生き残ること。これが怖くて飛び込みも飛び降りも決心がつかない。それに痛いのも怖い。縄を買ってきて平日昼間に決行すればまず間違いなく逝けると思うんだけど、失敗が怖い。
おやすみ。
http://anond.hatelabo.jp/20140527221621
いやいや、そこまでマジメに考えるべき話でもないって。
人間はつまらないことですぐくよくよする生き物だから、相手がちょっとそっけない態度を取っただけでも「悪意あり」として受け取ってしまったりする場合がある。
「この人がこんなにそっけない態度を取るのは、もしかして、自分の事を悪く思っているからじゃないのか・・・? あるいは他の人も・・・?」と。
そう誤解させない為にも、何気ない時候の無駄話を挟んで、必要最低限くらいの親しみを相手にアピールする必要がある。
まあ確かにめんどくさいよね。でもやらないよりも遥かに敵を作らずに済むもんなんだよ。
初めての増田(リカバード職員やってるんだが。)がホッテントリ。。。びっくりしました。
リカバード職員という職種や、依存症が回復するということ、逆に回復出来ない依存症者の末路など、色々なところに興味を持っていただけたようで、嬉しい気持ちです。
もちろん一部誤解を招いた部分もありましたが、これは私の力不足に拠るところであります。
今回は少しでも誤解を解ければと思い、依存症者が陥っている負のループについて書かせていただきます。
私は、生活保護を受けている依存症者がお金を持ち逃げするからといって、彼らがダメ人間であると決めつけることは早計であると考えています。
もちろん、これは犯罪ですので、相応の償いは当然するべきでありますし、依存症であることを理由に免罪されるとは思っていません。
ただ、彼らが半ば犯罪行為に及ぶ思考プロセスは以下のようとなり、決して全員がダメ人間であるからというわけではありません。
病気がそのような行為をさせている部分もあるということを理解していただけると、うれしいです。
お酒を飲まずにいられない・ギャンブルせずにはいられない(そういう病気であるというのが大前提です)
→お酒を飲まずにいられない・ギャンブルせずにいられない(病気の症状としての強迫観念。本人の意思でこれが止められるなら病気ではない)
→お酒を飲まずにいられない・ギャンブルせずにいられない(病気の症状としての強迫観念。本人の意思でこれが止められるなら病気ではない)
ループの間、強迫観念は頭の中から離れることは無く、むしろ積もっていきます。苦しみは増していきます。
そして、この苦しみから解放されるために、軽重に関わらず犯罪的な行為(生活保護費の持ち逃げ・万引き・お金の借り逃げ・・・)に及ぶことがしばしばあります。
ここがポイントです。
「犯罪を犯してはならないことは分かっているのに、犯罪を犯してしまうほどの強烈な強迫観念の苦しさ」であることが依存症の恐ろしさです。
例えて言えば、高度に訓練された兵士も極度の拷問にかけられたら機密を自白するかもしれませんね。
そういうことです。
一瞬、ホッとします(酒を飲んで、プハー!うまい!と思ってホッとしたことありませんか?その感覚です。ギャンブルでも依存症者はその感覚を味わいます)
そして、依存症でない人は、適度なところで、お酒やギャンブルをやめることが出来ます。
しかし、依存症者は1杯目の飲酒や1回目のギャンブルから「渇望現象」を引き起こすこととなります。
アルコールであれば、1杯飲むと、2杯目が欲しくなり、2杯目を飲むとさらに3杯目が欲しくなる。
これは基本的に止まるところを知りません。
(だから依存症者は、絶対に最初の1杯、最初の1回のギャンブルに手を出してはいけないのです)
軽度のアルコール依存症者にはそれほどの傾向はありませんが、重度になると連続飲酒発作といって、自分でお酒を止めたいのに止められなくなる(血を吐きながら飲むような感じ。頭では酒を止めたいけど、身体が勝手に動いて飲んでしまう)状態になります。死ぬことは珍しくありません
アルコールの場合、極度の酩酊、ギャンブルの場合(たいてい)財布が空になるまで(仮にちょっと儲けても、ギャンブルへの渇望現象でさらに儲けようとして結局財布は空になる)やってします。
そして、深い深い後悔に襲われます。
後悔の念を抱えた依存症者は、常に周囲の目におびえ、罪悪感を抱えて生きています。(依存症っぽい人の独特の雰囲気ってこういう理由もあると思います)
・日常的にさらされている飲酒欲求・ギャンブル欲求という、自分の意志ではコントロール出来ない強迫観念(コントロールで来たら依存症ではない)
・1杯飲んだら(1回ギャンブルをやったら)やめられなくなる渇望現象
のループから抜け出せず、常に周囲の目におびえて罪悪感を抱えながら生きています。
話しが少しそれますが、依存症者のこのループは病気であり、依存症者はこのループに対して完全に無力です。
しかし、本人は、アルコールやギャンブルをコントロール出来るものと信じています。
故に、依存症は否認の病気(私はアルコール依存症じゃない!と言い続けて酒を飲む)といわれます。
まー、周りはみんな酒飲んでるし、酒飲むのは楽しいし、アルコール依存症者って人間関係も酒で作ってるようなものですし、酒を取ると何も残らないんですよね。。。実は。
この辺の、依存症者という病気と生き方の関係について語り出すと1記事になっちゃうので、割愛します。
閑話休題。
これを延々と何年にも渡りループし続けて最終的に肉体的に死に至る病がアルコールギャンブル依存症です。
肉体的な死の原因は、病気(肝硬変・膵炎・糖尿病・各種ガン・・・)から自殺・人間関係の崩壊による他殺まで様々です。
肉体的に死ぬ前に、社会的に死ぬことも多いですが、社会的な死を恐れて自殺するパターンもあるでしょう。
例を挙げていけばいとまがないと思います。
ネット依存症には詳しくありませんが推察するに、
・ネットの世界(ゲームなのか、SNSなのか、ネットサーフィン(死語?)なのかわかりませんが)に浸ってないといられない強迫観念
・一度ネットの世界に入ると、ネットを渇望する現象(ネットの接続を切れない→食事や睡眠のリズムが狂い、仕事が出来なくなる)
依存症者がはまり込んでいる負のループについて、ご理解頂けましたでしょうか。
もちろん、だからといって、依存症者の犯罪が許されると思っていません!!!
ただ、
依存症者には、生まれながらにしての依存症者、つまり生まれて初めて飲んだお酒で「渇望現象」を引き起こし、その翌日から「強迫観念」にさらされる人もいます。
ある日突然、飲酒量が増えて、毎日朝まで飲み歩き始める人もいます。
定年退職まで休日しかパチンコしてこなかったのに、定年後、月に100万円ギャンブルに突っ込み始める人もいます。
明日の依存症者はあなたかもしれませんし、隣の「良い人」かもしれないんです。
ダメ人間が依存症者になるというのは、すべてが間違いとは言いませんが(もちろんダメ人間もいます)、ごく一部で、大半は真っ当な人です。
それを知っていただきたくてこの文章を書かせていただきました。
アルコール依存症自体、私の病気でもありますし、病気について言語化することは仕事の役に立つので、また何か書きたいと思います。
でも僕にはそれが幸せかわからない。皮膚感覚、実感としてわからないんだ。経験がないことだから。
それにもういい大人なんだし、社会が是とするものを是と言うしかない。
努力をしていた時期もあった。でも一向に片方向なままだった。テレビみたいに。
双方向でマルチメディアなインターネッツになりたかったが、それは叶わなかった。だからわからない。
しかしいまこの状況でその知り合いの嫁にこの話をしたらどうなるだろう?
彼女はまるで、自己否定されたように感じるだろう。そう、いま彼女らが僕にしていることと同じように。
リア充はふつうに生きて暮らしているだけで、非リアの存在を否定している。
もし僕が努力をしていた時期に努力が実って双方向になっていたら、非リアの気持ちなんてわからないだろう。
もし彼女らが努力をしても実らずに非リアになっていたら、リア充の気持ちなんてわからないだろう。
僕がしたいけどできないことを、あいつはしたくもないのにできていたりするんだ。
イジけていたければイジけていればいいし、イジけていてはダメだと思うなら行動すればいい。ただそれだけだ。
人には、進歩できることとできないことがある。
I can (not) advance.
人は平等ではない。
がんばったって必ず報われる保障なんてない。
がんばりもせずに報われる人もいる。
がんばったことによって報われる人もいる。
がんばりすぎて死ぬ人もいる。
ただそれだけだ。
それがこの世界です。
0~999の範囲の数値をつくる乱数発生器があって、生まれながらにして人は数値を与えられる。
そして皆、"平等"に、「数値を1000にする努力をせよ」と強制されるのだ。
数値をくれるクイズで1問目と2問目が5ポイントだったのに、最終問題が100ポイントだったりするんだ。
そういった、いろんなこの世の事実を見て
何を感じ、何をするのか。
その時どきに於いて、希望に見えるものに向かっていくことしかできない。
いま現在に希望に見えるものが未来永劫に亘って希望であり続ける保証はなく、実際にかつて希望だったものが絶望に変わる実例もたくさん見ているけれども、
そのように決定しなければ死に至る病に冒されるだけ。
ならば決めよう。その先に何があろうとも
その人生を変えてみせよう
この夏の健康診断で再診となり、先月中頃に結果が出た。
結果は死に至る病というやつだった。それで今月で仕事をやめて療養となった。療養というか入院というか。治癒はしない。寛解だ。この結果を告知してくれた先生に感謝する。
正直真っ先に思ったのは「ああ、やっと働かなくていいのか。嬉しい」だった。
地方のSI屋。毎月80時間を超える時間外。病気との因果関係は証明できないだろう。
すぐに上司に報告して、そこから引継ぎが始まった。それももう終わった。あとは一足先に有給消化でもいいじゃないだろうか。他社はどうしているんだろう。
この年で独身でよかったと思う反面、まだ両親には告げられていないのだが、仕事を辞める以上言わなければならないだろうなと、それだけが気が重い。孫の顔を見せられないどころか、悪ければ逆さまで見せてしまうことになるだろう。
いままでいろいろ増田に書いてきたけれど、一旦これで終わりだろうか。これまでバカみたいな軽い文章を書いてきたが、ステージが進めばもっと重い文章も書けるのだろうか。読ませる文章というか。
有り余る時間を何に使おうか。それも憂鬱にさせる。そのうち時間が止まるんだろうけど、その手前までは。
じゃあな。
優秀な創作家は、必ず一つは自らの『死に至る病』を持っているものだ
つまり、強烈な問題意識というものだ。自分の人生の中で、これだけは解決せねばならないという、そういう根深い問題を抱えているものなのだ。
よくよく、「作家になるにはどうすればいい?」とか、「作家になるにはどういった素質が必要なのか」という問いを投げかけてくる人間は多いが、しかし実際のところ、そんな問いを繰り出してくる時点で、その人物が作家という存在からひどく遠い位置にいるのは分かり切ったことである
本当の意味で優秀な作家というものは、自身の中に常々考えているある一つのことがある。そのことが、彼に創作を強いるのだ。
そして、彼は自分の創作の中で、その問題とケリを付けようとするのである
私が言いたいのは、結局のところそういう問題を抱えていない人間には、創作をする意味は無いということだ
そしたら、なんだか血がどばっと出て、ヤバい、どうしよう。そんな感じ。なんか疲れてる時、web をブラウジングしてたら、なんだか昔の恋人を奪った奴の事をつい検索したくなったりしてね。僕の昔の恋人、仮に A としておこう。彼女がそいつと結婚したのも知ってるし、子供もいるというのも聞いた。SNS で、なんとなく、写真も見た。なんとなく、ね。thumbnail only。ちゃんと、見るのは、ちょっと出来ない。メールを送ったりして普通に話をするのは難しいと思う。意味も無いし。地震の時、メールをくれてうれしかったのは憶えてるけど、それはなんというか、有事で僕の神経も普通ではなかった。
A とは結婚するつもりでつきあっていたし、いろんな将来の話もしていた。子供が出来たら、きっと泣き止ませ方が分かんなくて、私も泣きながら僕の職場に電話してくるとか言って、二人で爆笑してた。その頃僕はクソ野郎でいろんな意味で子供だったから、今思えばね、別れて、僕は成長した。僕の人生にはプラスだったと思う。でもさ、なんていうか、あの時別れてから、僕の心の中には深い闇があって、その闇を近くに感じない事はあっても、それがなくなる事は無かった。
それで、今日、たまたま、本当にたまたま、深く考えもせずに、検索とかしちゃった訳ですよ。Google。名前なんて憶えてないなぁと思いつつ、職場とか、断片的な事を組み合わせていったら、ぽろっと出て来ちゃったのよ。そいで、奴の web を見た瞬間に、なんというかその闇の中に居た時期の事をすべて、体で思い出しちゃって。どうしようもない、不安。足がガタガタして、怖かった。これは死に至る病。僕がとった行動、つまり全ての情報をシャットアウトする、のは正しかった。今ようやく、落ち着いて来たこの不安の中で生きていけるとは思えない。
http://anond.hatelabo.jp/20111017024535
はて、どう応えたらいいものやら、と一晩考えておりました。
現実にある問題に直面しており、その根本となっている「自己肯定感」の乏しさについて書きました。
具体的な問題について語るつもりはありません。特定されたくないですしww
ここ数ヶ月、ほぼ初対面の方に「自信なさそうだね」と言われることが数回あったので、
頭の片隅にずっと、考えるべき命題としてありました。私が感じる「生きづらさ」の原因でもあります。
私は、自分のことをメンヘラだとか、境界例だとかの、診断基準にちっとも満たないと思います。
ただ、現在凹んでいる自分を支えてくれている大きな柱が、恋人であることに気付き、
依存してしまったら彼に申し訳ないし、不健全な関係になってしまうなあ、と気をつけようとしています。
「冴えない」と書いたのは、「うちの愚妻が…」といった風な謙遜の意味です。今の恋人は、私にとって大切な尊敬できる人です。
ただ、今までの恋愛遍歴は、人に自慢できるようなものではありませんでした。依存、共依存はろくなもんじゃないです。
恋人がいる、友人がいる、という状況を以って、はてな民の皆様からは反感を買っているようです。
予想はしていましたが、嘘を書くつもりもないので、正直に書きました。
でも、程度問題に還元されたくはありません。最も苦しみ、弱い立場に置かれた人にしか、発言権はないのでしょうか。
私には私の感じる、固有の困難さがあります。分かち合える人、そうでない人、様々にいて当然だと思います。
恋人、友人、家族、趣味の世界…様々な他者からOKをもらえたとしても、
自分で自分にOKを出してあげる、その穴だけは埋めがたい人もいるのです。
「リア充」というのは、世間で認められたある種の「望ましさ」です。価値観のひとつです。
そういう価値観に染まらないぞ、と断言できる自分のことは好きです。
誰かのご指摘の通り、そういう自分に恍惚とすることもあります。
ただし、対人関係構築の不器用さから、すべてのコミュニティでうまくやっていけてるわけではありません。
自分への理想も要求水準も、すごく高いです。世間の価値や、自分への要求をすべて満たせない自分にも苛立ちます。自信が持てません。
これらは、「表面」⇔「深層」といった関係ではありません。それこそ分裂しちゃうよ。
私からすると、すべて私を構成する面です。私は、アイデンティティを多面体として捉えています。
好きな面も、嫌いな面もあります。もっと、好きな面を増やしていけたらいいのにな、というくらいの話です。
SNSで臆面もなく、恋人とのイチャイチャ写真をうpできるくらい、自信の皮が厚ければ
さぞかし生きやすいだろうな、と思います。そうなりたい、というわけではありません。そんなん恥ずかしいしww
秋の夜長に、ちょっとキャッチーに書きすぎたことを反省しつつ、
現実に起こっている問題に対処することでしか、自己肯定感は復活しないぞ!と、自分を戒めたいと思います。
「持つ者と、持たざる者」なんてキャッチーに書いたけど、ホントは多かれ少なかれ、みんな持ってるんだと思います。
自己肯定感ゼロの人は、それこそ死に至る病なので、死んでしまうか、その寸前かと思います。
私にも、自己肯定感が高い時期もあれば、低い時期もあります。今はどん底ですが。
「きっと何者にもなれない」私の人生で、自己のプライドと、どう折り合いをつけていくか、正念場です。
それと、皆さんが私について書いてくださったことは、あくまで「仮説」です。
エビデンスもなしに、私という人間を100%理解したつもりになってる方、断定的な口調で物を言う方、
自分の理解できる範疇・型に当てはめてくる方・・・には苦言をいいたい気分にもなりました。
最後に、極端な人のみが、悩みを持っているわけではありません。
生まれてから死ぬまでの間、人間はどれだけ不幸を体験するのか考えてみた。不幸かそうでないの基準は、予想できるタイミングなのかどうかの違いなのかもしれない。
・じいちゃん、ばあちゃんが亡くなる
最大で4回
・両親がなくなる
最大で2回
・死に至る病にかかる
これは1回。持ち直したら、不幸じゃないよね。
・死ぬ
これも1回
この先のは、ランダムイベント。何かを得て、それを失う系のイベントが多いような。
・友達が亡くなる
若いうちだとびっくりだ。歳をとれば、それなりか。
・嫁もしくは旦那が亡くなる
結婚しないと発生しない
・浪人生になる
23%。考えようによってはチャンス。
・就職できない
需給バランスが合っていない時代もある
・会社を馘首になる
1.5~2%/年 そんなときも
・火事で家がなくなる
6万/4686万戸 年間で0.1%くらい
・交通事故に遭う
100万件/12000万 年間で0.8%くらい
・自己破産する
14万/12000万 0.01%くらい
・結婚できない
20~34歳の未婚率は2000(平成12)年には、男性68.2%、女性55.5%
・子供ができない
DINKSの割合は、8.2% もう少し低めか
・子供に先立たれる
100000人生まれると20歳までに732人亡くなる 0.73%
・うつ病にかかる
100万人 / 12000万 0.83%
・ハードディスクが壊れる
0.34%