はてなキーワード: 朝鮮学校とは
今回問題となったCMの内容は3人の少女が日本の学校を舞台に偏見やいじめを受けながらもスポーツを通じて自我に目覚めていくといった内容。しかしNIKEは事実に基づいてた言っているがでっち上げの可能性が出て来たためこのような騒ぎになった。
騒ぎの内容に関しては私が見たのは NIKEは「少女の実体験に基づき」または「三人の実体験に基づいて」と謳っているが内一人は朝鮮学校出身で日本の学校ではそういった目に合うハズがないのでCMの内容と辻褄が合わないと言うもの。
しかしこの騒ぎの原因の「少女の実体験」や「三人の実体験に基づいて」の部分の出所が不明で電凸でそういった質問をしたというTweetがあるくらい。ここから面倒なのがNIKEのサイトで載っているのは「実在のアスリートの証言をもとに」で、JCASTの方は「アスリートの実体験に基づいて作られ」なんで少女の実体験等は関係なく、この騒ぎそのものと辻褄が合わない。「差別やいじめを受けるサッカー少女3人~」と続いていくのでそういった勘違いはあるかもしれない。
こうなってくるとこの騒ぎの原因となった一文は何所にあるのだろう。
朝鮮学校に通う学生を「金正恩に忠誠を誓っている」という口実で色眼鏡で見ることが客観的に見ればいかに馬鹿げているか、日本人の政権に対する忠誠心(他にいい党がなかったからという言い訳による政権与党への圧倒的な支持率とそれに基づいた国政選挙結果。他国から見れば熱狂的な忠誠心と何ら変わらない)を見てみれば火を見るより明らかなのに。
「CMの舞台は朝鮮学校だ」なんて設定や説明は存在しないのに「出演者の一人が朝鮮学校の現役学生だった」という事実だけでそうだと決めつけること自体おかしいんだけどね。
そもそもNIKEの公式は「実在する学校を舞台にしている」なんてことも言ってなくて「現代の多くの若者と同様、ありのままの自分を受け入れられないことに悩む、実在のアスリートの証言をもとに作られています」とだけ言ってる。
一説によれば「舞台が朝鮮学校だとするなら日本人は間違っても入学できないし、朝鮮学校へ入学するような立ち場の若者は日本国内の学校には絶対通わないので
■該当のCM
■「捏造だ!」と騒いでいる人たちの一例
http://blog.livedoor.jp/dqnplus/archives/2004732.html
(参考までにブクマも→https://b.hatena.ne.jp/entry/blog.livedoor.jp/dqnplus/archives/2004732.html)
・NIKEは当該CMについて「現代の多くの若者と同様、ありのままの自分を受け入れられないことに悩む、実在のアスリートの証言をもとに作られています。」(公式より)と説明。
・CMのメインキャラクターは同じ女子サッカーチームに所属する「在日朝鮮人の少女」「クラスでいじめに遭っている少女(出自は不明だが家庭描写を見るとおそらく日本人)」「外国人と日本人のハーフの少女」の3名
・それぞれ「在日朝鮮人である自身のアイデンティティと周囲の目線」「いじめの事実と親に理解してもらえないこと」「ほかの友人たちと自分の見た目や家庭環境が大きく違うこと」に悩む描写がある。
・「証言した実在のアスリート=CMに出演している少女自身」という設定や発表はない(※捏造だと主張している側はこれを理解していない人が多いと思われる)
・上記のメインキャラクター3名のうち「在日朝鮮人の少女」として出演したのは朝鮮学校の現役学生。NIKEの要請を受けて出演することになった経緯を朝鮮総連の関係者が説明している。
事実関係を簡単にまとめてみましたが、これで何故「NIKEは事実を元にしたとか言っているが実際は捏造だった」という話になるのかさっぱりわからんのですよ…。
まず、CMで描かれたエピソードを体験した「実在のアスリート」と「CMに出演している少女たち」が同一人物であるという公式な設定や説明はありません。故にCMで描かれた体験をしたアスリートが誰であるかは不明なままであり、現時点でその事実性を否定することもできませんから「捏造」と判断することは不可能です。また「一人のアスリートのエピソードをそのまま再現している」という説明もありません。上にまとめた通りメインキャラクターはそれぞれ個別の事情と悩みを抱えた3人の少女です。当然複数人の「実在のアスリート」の体験をまとめたものだと考えるべきであり、そうである場合でも事実性は否定できず「捏造」だと断定することはできないでしょう。
さらに、3人のメインキャラクターとして出演した少女のうちその経歴がはっきりしているのは「在日朝鮮人の少女」の1名のみで、「クラスでいじめに遭っている少女」を含めたほか2名については不明のままです。残り2名の出演者が朝鮮学校の学生だという情報もありません。上記のまとめやブクマでは何故か「いじめは朝鮮学校で起こったこと」とか「朝鮮学校での出来事を、日本の学校での出来事、と書き換えた」みたいなことを言っている人がいますが、そもそもCM内では「在日朝鮮人の少女」と「クラスでいじめに遭っている少女」は別の人物であり、さらに「在日朝鮮人の少女」が学校内でいじめられる描写は存在しないのです。上にも書いたとおり3名のメインキャラクターは個別の事情や悩みを抱えていることから「在日朝鮮人の少女」と「クラスでいじめに遭っている少女」もそれぞれ別のアスリートの体験をモデルにしていることは簡単にわかることだと思いますが、こういう主張をしている人たちはたった3名のキャラクターとそれぞれの体験・描写の区別がつかないか、あるいはCM内容の正確な把握すらしていないのでしょう。
②「CMの元となった体験をしたアスリート」は存在するが、NIKEはその証言を聞いていない
③「NIKEにエピソードの提供をしたアスリート」は存在するが、そのアスリートが証言した体験・事象は存在しない
④「NIKEにエピソードの提供をしたアスリート」は存在するが、CMで描かれた内容はその体験内容と大きく異なる
以上のような事実が必要ですが、今回はそのいずれにも該当しないのです。
このように、メインキャラクター3名のうち「在日朝鮮人の少女」として出演したのが朝鮮学校の現役学生であったという事実を根拠に当該CMが「事実を捏造している」と判断することはできず、現時点で「実在のアスリートの証言をもとに作られた」というNIKEのCMが捏造であるという根拠・論拠は存在しません。故に今回の事実をもって当該CMを捏造だと主張することは論理的にできないはずです。
にもかかわらず、最初にリンクを貼ったまとめやそのブックマークコメントでもNIKEのCMを「捏造だ」と騒いでいる人が多数います。彼らは上にまとめたような基本事実や理路の整理をしたうえで物事を判断することができなかったり、事実関係や理路を無視してとにかく当該CMで描かれた差別やいじめといった事象を否定することが目的になっていたり、あるいは事実関係など端からすっ飛ばして炎上騒ぎに便乗している愉快犯だったりするのでしょう。いずれにせよ彼らにまともな思考や判断ができているとは言えません。ただ、厄介なことにこのような人たちは無駄にアクティブだったりもするので、自身の主張や同調者の主張を必死に拡散し、いつの間にかそれを自分たちのコミュニティにおける規制事実にしてしまうわけです。
しかしながら、より広い視点で見れば、批判側が上記のような事実関係や論理を無視した難癖をつけ続ければ「差別やいじめといった自分たちに都合の悪い事実を無理やり否定する日本社会の異常さ」が誇張され、逆説的にCMで描かれた事象の事実性とNIKEの正当性(あくまで本件CMの描写に限り、ですが)が補強されることになるでしょう。そして彼らがそのような行為を繰り返せば繰り返すほど、NIKEが仕掛けた今回のマーケティングの効果が高まることになります。
「日本を貶めるな!と主張している人たちが自覚のないまま日本を貶める言動をしている」という光景は歴史修正主義界隈で何度も見ていますが、本件はそれとまったく同じものだと思います。いつか、彼らが自分たちのおかしさに気がつく日はやって来るのでしょうか。
それは学生時代に聞いた在日三世の子の入学式での新入生代表挨拶だった。
動かしつづける。自分を。未来を。 The Future Isn’t Waiting. | Nike
CMの内容は在日の子、ハーフの子、いじめ被害者の3人の少女たちが、サッカーを通して差別やいじめといった日々の苦悩や葛藤と向き合い、自分の生き方を選んでいく、というような内容だ。
このCMについてはSNS上で色々討論されているらしく、YouTubeの評価からも見て取れるように賛否両論である。
自分は特に問題を感じる事なく見ていたので、ここまで大きな話題になると思っておらず驚いている。それよりも、はじめに述べた学生時代に聞いた新入生代表挨拶の事を思い出していた。
産まれたのは田舎に片足を突っ込んだような地方都市の外れ、治安もあまりよろしくない場所で娯楽なんてないような場所だった。
あるのはカルトに区分されている宗教の地方本部とされる教会、あとヤクザの事務所にラブホテルくらいだった。
そんな場所に住むのは訳アリの人間が多く、例にもれず我が家も絵に描いたような機能不全家族だった。
多重債務者でありながら定職につかず、家族に暴力だけは振るう父親。何事においても被害者意識が高く、必要以上に他人に対して攻撃的すぎる母親。
怒鳴り声が響かない日はまずなく、幼少時何度泣き叫んだだろう。物理的に命の危険を感じた事は多すぎて思い出せず、都市部であれば児相か警察に通報されていたのだろう。そんなレベルに酷かった。
だがそんな我が家の日常が許される程に、また我が家と同じよう怒号や女の金切り声が響く家が集まっている場所だった。
隣家に住む老婆がいた。お孫さんが定期的に遊びに来ていて、周囲に同年代の仲がいい子がいなかった自分は一緒によく遊んでもらっていた。
簡単な料理を教えてもらったり、花札や株札の遊び方を教えてもらった。その老婆の所に遊びに行くのが楽しみで、お孫さんは今週くるのかなぁなんて毎週楽しみにしていた。
そして老婆が施設に入る事になり退去した数年後、あの人は在日一世だからね、と両親がこぼしたのを覚えている。その発言の意図は未だにわからないが、確かに彼女が教えてくれた料理は韓国料理に近いものが多かったような気がする。
その老婆は通名を名乗っていた。両親から民族名を聞いたような記憶があるが覚えていない。
通っていた小学校の近くには朝鮮学校があり、三年生になるとそこの生徒と交流会のような物定期行事としてあった。それにあたり韓国という国が日本の近くにある事、そこに国籍を置く人々が通う学校が近くにあるという事、簡単にそれらを数か月にわたって学んだ。
学んだ内容については覚えてないのだが、チマチョゴリを着た彼女たちが(少年もいたのかもしれないが記憶にない。それほどまでにチマチョゴリを着た彼女らの印象が強すぎるのだ)日本で生活している為、自国である韓国を知らない。だから韓国を知るために、そして韓国という国を忘れない為に専用の学校に通い、言語も含めて学んでいるのだと言っていたのを強烈に覚えている。
彼らの胸にはハングルで書かれたネームプレートがつけられていた。
そんな幼少時を送ったからか、韓国という国に嫌悪感を抱く事なく、自然と私は韓国という国、文化に興味を覚え英語とは別に韓国語を選択し、学ぶ事となった。進学先を決める強いファクターにもなった。
学ぶにあたりそこで出会った人達は全員が民族名を名乗っていた。ネームプレートはハングルではなく我々が読めるように漢字だったけれど、漢字一文字のそれをつけていた。
中学からの内進生であった自分は、中学の頃から高校での授業を睨んだ進学コースにいた為、入学式に特別な感情を抱く事なくただの年間行事の一つとして参加していた。
国歌斉唱、校歌斉唱、式辞、祝辞とつつがなく進んで新入生代表挨拶。去年も見た光景をあくび交じりに見ていれば、壇上には知らない子が立っていた。
正直なところ、代表挨拶は内進生の子、もっと言うと中学時代の生徒会長あたりだろうと踏んでいたので外部入学生がするのが意外だったのだ。
そう言って始められたそれは、彼女の生い立ち交じりの自己紹介だった。
在日三世である彼女は民族名と通名を持っている事。日本で生まれた為母国とされる韓国を知らない事。そして中学までは通名で生活をしていた事。
自分の正しい名は通名である、だが中学までは通名でいたためにそれを名乗る事ができず、また名乗らなかったが故に民族名を誰にも呼ばれる事がなかった事。
自分は何なのか、日本人ではないというが韓国語は離せないし韓国にいた記憶もない。日本で生まれ、日本で育ち、日本語を第一言語として話している。だが国籍は韓国籍で、知らない場所を母国として両親からは語られる。
それに実感は伴わず、ただ強い疎外感だけが常につきまとうのだと語る彼女に、どれだけの苦悩があっただろう。言語と韓国内の文化は学んでいたけれど、在日コリアンという問題を、更に在日三世と呼ばれる人たちが抱えている問題について無知だった自分は、彼女の言葉に頭を殴られたかのような衝撃を受けた。
ただ高校からは民族名で通い、今日からその名と共に胸を張って生きていくのだと語っていたのは覚えている。
「自分は『(通名)』ではない、『(民族名)』です。よかったら。『(民族名)ちゃん』と、呼んでください」
そう結んで壇上を降りた彼女の強い目を、意思と希望に溢れた目を思い出す。
外部生には彼女と同じ選択をした三世の子が多くいた。聞けば民族名を名乗る為にこの学校を選んだ、というような子もいた。
そしてその全員が、壇上で生い立ちを語った彼女と同じ目をしていたのを覚えている。
CMの話に戻そう。
CMの中で女の子が山本(YAMAMOTO)とプリントされているユニフォームの部分を、金(KIM)と黄色いテープかなにかで修正したのを着て歩くシーンがある。
これは誰かによるいじめによってなのか、それとも彼女が己で修正した物なのかは不明だが、自分は「彼女が修正した物なんだ」と受け取った。
チマチョゴリを着て怯えるように通学していた彼女は、きっと自分が何者なのかがわからなかったのだろう。だが、彼女は民族名を名乗る事を選んだのだ、彼女が彼女である為に。
CMの意図としては、それはサッカー(=スポーツ)が切っ掛けなのだろう。そしてマイノリティとされ虐げられる人々が、ありのまま生きる事ができる未来を、進もうとする努力を応援していますというメッセージと共に。
3世の時点で強かった国籍からくる自己への戸惑いは、更に強い物だろう。
その恐怖を想像するしかできないが、その世代の彼らが納得のできる選択ができる事を、自己に胸を張ることができる人生を送れる事を願ってやまない。
海乱鬼 @nipponkairagi
N「社内では把握しておりません」
N「はい。仰る通りです」
私「金さんは朝鮮学校の中学生。日本の学校で苛めは受けていませんよ」
私「総連は公安監視対象団体であり、拉致にも関わっている。Nikeが総連に協力を求め、日本人差別の捏造をしたとしたら大問題では?」
N「確かに仰る通りです」
私「事実関係を確認し、HPやTwitter等での説明を求めす」
受付の対応は非常に良かったです。
@downtown_middle
@Rintaro28502769
Korean propaganda is always made out of fabrication and lies.
In fact, there’ve been a series of violent incidents, such as the Kansai ready-mixed concrete incident,
in which Japanese people are threatened and killed They have something in common with BLM and ANTIFA.
@xxnmxx55
こういう記事がありまして。
「差別のない街の見本に」川崎ヘイト禁止条例 7月1日全面施行 在日コリアンの思い - 毎日新聞 https://mainichi.jp/articles/20200630/k00/00m/040/196000c
朝鮮学校に通い始めて1カ月が過ぎた頃のことだ。初めて買った定期券を持ちバスに乗り込もうとすると、運転手がいきなり目の前で定期券をビリビリに破った。それが何を意味するのか、10歳では分からなかった。
こういうエピソードが成り立つためには、70年代初頭には「乗車時に定期券をバス乗務員に手渡し、記載の氏名まで仔細にあらためたうえで、はじめて乗車を認める」という運用が普通に行われていた、あるいは行われている地域が、いくらかはあったということが言えなければならないと思います。もちろん時代背景も地域差もあるとは思いますが、このような運用は、ありえたのでしょうか(渋滞の原因になりそうですが…)。自分はこの方より10歳ほど若い世代なので単純に比較してはいけませんが、バス定期券はさっと見せるだけで乗車できました。
で、上のような手渡しの運用が普通であったとすればよいのですが、そうでないならば、「子供が差し出した定期券を(乗務員が通常のフローでないにもかかわらず手に取って、氏名を確認したうえで在日コリアンだと認識して)ビリビリに破った」ということになりますが、幼少のころの記憶とはいえこの()の部分を忘れたり省略したりするものでしょうか。
この()の中身はいろいろバリエーションはありえそうです。例えば、地域にこの方が在日コリアンだということが知れ渡っていたので、嫌がらせを受けるというようなことなのですが、その場合でも定期券が乗務員に、なんらかの段階で手渡されていないと、「ビリビリに破」られません。定期券を手渡して確認するフローがスタンダードでない場合、ここの部分はあまり平和的とは言えない感じで行われる運びになりそうなのですが、この場合もやはり、その部分を忘れたり省略したりするようなことはあまりなさそうな気がします。
個人的な判断としては、単なる記憶違いか、フィクションだろうな、という気がしています。まあ、どうですかね。10歳ですからね。でも、そんなあいまいな思い出よりも鮮明なエピソードがもっとあるんじゃないですかね。
在日コリアンの方への苛烈な差別が過去にあり今もあるということを否定する気はさらさらありません。それらは一刻も早く是正されるべきです。なのですが、作り話やあいまいな記憶を都合よく盛った話で興味を喚起しようとしているならば、それはあまり品の良い話とは言えません。
ただ、これは受け手のリテラシーの話でもあります。このエピソードをそのまま額面通りに受け止めて「まあ、ひどい」とか言っているようでは、話にならないのでは、と思います。
元増田です。
実のところ、“明らかに人権侵害”と書きましたが、現時点で「~~だからホームレスは公共の場所に相応しくない」「~~だから自閉症患者は公共の場所に相応しくない」は罰することも損害賠償を請求することもできません。地方自治体などにはヘイト対策法に基づいて阻止する努力が課せられていますがそれだけです。
なぜならば、現在の日本の制度では、人権があるのはあくまで特定の個人または法人であり、『在日朝鮮人』や『同性愛者』や『女性』といった抽象的集団の人権は認められていません。『ホームレス』『自閉症患者』もこの点では同列です。以前ヘイトデモに損害賠償が認められていましたが、あれはあくまで『朝鮮学校』と名指しした(一条校ではないだけで、法人格は取得しているはずです)ことが原因です。
ただ、私はこのような抽象的集団についても、ごく最小限のヘイトスピーチ(殺せ、追い出せなどを直接的に訴える行為というのが個人的基準)は取り締まられることはやむを得ないと考えます。もちろん、「ヴェニスの商人はユダヤ人へのヘイトスピーチだ」は広義にはその通りであるとは考えますが、「だから禁書にせよ」については私は断固として反対します。
それで、skrnfさん(小文字だと見づらいのですが、SKRNFを小文字にしたのがidですよね?)の意見は「表現するのは自由、それに抗議するのも(『ガソリンを持って行くと電話する』『集団で大量に抗議電話をかけて麻痺させる』などの犯罪にならない範囲ならば)自由』というものであると理解します。その通りです。
ただ、ここで気をつけるべきなのはそれが“感想”であるか“意見”であるかです。
“感想”であるならば、よほどのことがない限り否定するべきではないと考えます(明らかに書いてあることを書いていないと表明するなどはまた別です。たとえば、「大魔王バーンが何のために地上を征服しようとしたのか分からなかった」という感想があったら「明らかに当人(当魔?)が言ってたじゃねーか」と否定されるのはやむを得ません。)。たとえ『剣道や弓道を見ると戦争を連想して不快になる』『城跡を見ると戦争を連想して不快になる』『レイプ物AVを見ると性暴力を連想して不快になる』『慶應大学にある福澤諭吉像を見ると脱亜論および日本によるアジア侵略を思い出して不快になる』『コロンブス像を見るとネイティブアメリカン迫害を思い出して不快になる』『少女が管楽器を咥える姿は口腔性交を連想して不快になる』であっても、この段階であるならばまだ感想です。
ただし、「~~だから止めろ」「~~だから公共の場所には出さないで欲しい」になったらそれは“意見”であり、意見を表明する者はそれに対する反論も受けなければなりません。
そして、抗議もまた意見です。つまり「このような絵は公共の場所に相応しくない」という抗議に対して「これこれの理由でそのような意見は間違っている」と指摘するのも同様に表現の自由であると考えます。
だから私は、レス先の増田氏が述べた「イヤだから見ないを実行できない場(公共の場など)には出さないでほしい」という部分を中心に「リベラリズムの観点からそれは間違っている」という意見を述べただけです。何も「レス先の増田氏がリベラルの敵だから排除せよ」のように訴えるつもりは一切ありません。もちろん、その意見に対するskrnfさんのレスは正当な意見として尊重します(同意するかは)別です。