はてなキーワード: 受験勉強とは
漢文とかもそうだけど多くの勉強が無くても「別に困らない」現実に誰も向き合えてない。
素直な子どもたちは見抜いてる。
無くても困らない分野を勉強させる理由を、大人たちが提供する気がないことを。
だからヤル気が出ないんだよ。
若い頃の豊かな感性を、不要な情報を詰め込む灰色のマシーンになってドブに捨てるより、感情をフルに使えて心から楽しいと思える遊びを全力でして、恋愛もして、青春を謳歌した方が、ずっといいさ。
いや、確かに、テスト勉強は、理解度検査の意義をブチ壊すチートだけどさ、受験勉強は日本だけじゃなく韓国でもされてるし、本来あるべき姿じゃないにしても、回避できないし仕方ないんじゃない??
別に詰め込み勉強で、受験の次の日には全部忘れてても構わないんよ
努力が結果に結びつきやすく、すぐに数字にも現れる受験勉強ですらまともに取り組めない奴が、いつ成果が現れるかも分からない状態で努力し続けることを求められる年単位のプロジェクトの仕事をできる訳ないじゃん。
受験勉強は時間のゴミ箱だよ。一切覚えてない、って誰に聞いてもそう返ってくるから。
大学受験のために必死で詰め込んだ内容は、今では全く覚えてません。
受験勉強って、入社試験が大学のネームバリューに頼りきりになってる現状の歪みをついたハックでしかない。SEO(検索エンジン最適化)みたいなもんよ。
能力を測るんじゃなく代わりに肩書きを競わせるゲームのようなこと繰り返してたら、いつか破綻するぜ。今の壊れた Google 検索みたいにさ。
こういう話すると怒る人もいるとおもうけどね、だけど考えてもみてくれよ。
テスト前に一時的に詰め込んで回避するって……、それじゃテストの意味がない。不正じゃん。
若い頃の豊かな感性を、不要な情報を詰め込む灰色のマシーンになってドブに捨てるより、感情をフルに使えて心から楽しいと思える遊びを全力でして、恋愛もして、青春を謳歌した方が、ずっといいさ。
「学校の勉強は、間違いなく自分たちの生活の役には立つけど、自分が仕事をする上ではなかなか役立たない」
「選挙には行くべき。だが、深く政治に関心を持ちたいなら、相当の覚悟を持つこと。想像以上に自分達がいい思いをしたいだけの人間が多い。まじめな人間はすぐ取り込まれる」
と認識しておくこと良いと思う
「二十歳からの20年間は、通知表の右側(人間性についての項目)が大切」「受験勉強は仕事の役に立たない」「大学に行ったら、友達をたくさん作れ。バイト(家庭教師塾講師除く)をしろ。女にフラれろ」「誤解を恐れずに言うが、大学の4年間、勉強している暇はない」
https://twitter.com/oginonobuya/status/1729446074790838438
https://ameblo.jp/nobuyavader/entry-12797678002.html
https://www.youtube.com/watch?v=OzZ3SNUmCYg
休日出勤までして必死になってもいいことはなにもないと言い放つ人は負け組なのである
もちろん元増田の主張のとおり能力の無いやつが時間だけかけてもいいことなんて何も起こらないのはそのとおりだ
才能の無いやつは才能のあるやつには絶対に勝てない努力は報われることはないのだ
一流大学出身者とFラン大学出身者ではそれはもう絶望的なくらいあるからね
だからといって出し抜いたとしても会社で出世コースに乗っかってる人から見たらそんな調子のいいことばっかいいっててもバレバレです
でもね一流大学出身者にはわかるとおもうけど受験勉強と同じで死ぬ気でやらなきゃ生き残れません
もう受験生でもない自分が高校レベルの参考書や問題集をいつまでも解いたりするべきなのか分かりません。
解いたりするべきだと思う以下の持論を持っているのですが、この持論が正しいかどうか全く確信が持てません。
以下から持論です。
まず、高校で習うことを理解していなければ、大学以降のより専門的なことが理解できないことがあるというのは確かだと思います。
だから私を含めそういう専門的なことを理解したい人は、高校レベルのことの穴を埋めるべきだと思います。
それをせずに大学レベルのことの学習に手を付けても理解できることがある可能性はありますが、その理解したという感じに錯覚の場合が混ざるおそれがでてくると思います。
つまり理解してないのに知った気になる、いわば「何がわからないかわからない」状態に陥る可能性が出てくると思うのです。
そのうえで、そのような大学レベルのことを理解していないと理解できない、より高度な理論を学ぼうとすると、今度はわからないという自覚はあるが「なんでわからないのかわからない」という状態に陥ることになります。
つまりその高度な理論を理解するのに必要なそれに比べれば相対的に基礎的な理論や概念は複数あることも当然考えられ、そのどれを理解してないのかがわからない、特定できない、ということが考えられるわけです。
理解しなければならないこととしては当然高校レベルの部分に穴がある可能性もあるでしょう。
しかし学ぼうとするものを見ても、その理論等の全容を見て、具体的にどんな知識が必要か余すことなく把握することは意外に難しいでしょう。
単に用語の意味を知らないといったことなら、その用語をネット検索で、その用語を使っている理論のなかでもっとも基礎的なものが何かということを目星をつけて、そこから学ぶという方法がとれるでしょう。
しかし学術的文章が理解できない原因は必ずしも「単にこの言葉がわからないから」というような、わかりやすい輪郭を持ったものに由来しているとは限らないと思うわけです。
大学レベルの参考書(学術書)や論文を書く人は受験競争を経験した人なわけですが、受験勉強で得た「考え方のひな型」のようなものが、少なからずその後の思考やそれに基づく文章に影響を与えていると私は考えます。
それはもはや自覚的に認識できるものではない、無意識下にある思考の体系であるわけです。
その「枠組み」を共有していない人にとっては、より言葉を尽くさないとわからないことでも「既知の事項として」という感覚すら持たずに、その部分の言語化をせずに文章を書いている部分があると思います。
特に幾何学が絡む記述は、センス=ひな型・枠組みを持つ著者自身には空気のように当たり前のことであるために記述がシンプルになってる説明に対して、枠組みの無い人にはなんでそうなるのということがまるでわからないということが起こり得ます。
それは著者すれば「なんかこいつすごく察しが悪いな」としか思えないほど逆に理解しがたいことです。
これは大学と高校の話ではなく高校とそれ以下の話なのでたとえが悪いかもしれませんが、たとえば高校物理である部分の角度と別の部分の角度が同じという事実から式を導出することにおいて、なぜ角度が同じといえるかということの説明まではされてないみたいなことがあります。
これは、角度のことについてなら、中学受験の算数の難問を数多く解いてきたりその答に対する解説を見た経験が、まさに有機的に思考の枠組みとして血肉化した書き手自身には、条件反射的に当たり前のように角度が同じだと認識できるが、そうでない人には説明がないとわからない、という枠組みの有無による断絶ともいうべきことが生じているのだと考えられます。
しかし書き手にはすべての読者のレベルに対応することは不可能ですし、そもそも「枠組み」がある当人には1+1=2のレベルで当たり前のようにしか思えない角度の同じさを説明しようという発想すら起こらないから、こうしたことが起こると思うわけです。
そしてこの枠組みは「枠組みが足りてないから理解できないのではないか」という必要性の認識に応じて選択的に必要十分なものを特定して身に着けられる、という性質のものでないわけです。
上記は高校とそれ以下のレベルでの話ですが、大学とそれ以下のレベルという場合でも同じ構造的問題を共有していると思います。
因数分解や極限値を求めるための式変形の定石や、その他証明問題などに対して定石と呼べるような解法から定石ではない解法まで、その問題をこなしてきた人たちにとってはその経験が枠組み化しています。
なのでその人たち自身が見てきた高校レベルの参考書では途中過程として式変形など書かれていたものが、当人が研究者になって書く大学レベルの本ではその本人の主観的に自明性が強すぎてその途中過程を書くような発想すら存在しないわけです。
ですから、大学レベルの本を理解するには、およそ考えられるかぎりのあらゆる高校レベル以下の問題を解いて理解することを片っ端から行いその経験を積んで枠組みとする必要があると思うのです。
でなければ結局「何がわからないかわからない」「なんでわからないかわからない」という状況に陥ると思うわけです。
予備校講師の数学のアドバイスで「数3は数1Aと数2Bの知識がなければ理解できないというが、だからといって数1A・数2Bを完璧してから数3に取り掛かる必要はない。完璧は難しいのだから同時並行でよい」という趣旨のことを書いていたのを見たことがありますが、まずこれは受験勉強に関してのアドバイスであるということに注意するべきだと思います。
つまり点を取るためなら、完璧でない理解でも、ふわっとした理解でもパターンとそれへのあてはめとして、問題は解けてしまうということは十分考えられるからです。人口無能、あるいは中国語の部屋のようなものかもしれません。
一方で学問として理解するということにおいては、厳密に完璧に理解していなければ、ただの知ったかで、それは全く理解してないのと同じ価値しかないのではと思うわけです。まさに論理として理解しているのではなく「受験で点が取れる感覚」でパターン認識としてわかった気になっているだけだと思うからです。
また、大学以降のより専門的なことが理解できれば、高校で習うことはすべて理解できる、というわけでもないと思います。
先ほどの高校物理の例にあるように、高校レベルのことが当たり前になってる人が書いた大学レベルの文章には、高校レベルのことは書いてないことがあるわけです。
そして、どの大学レベルの理論を学ぼうとするかによっては、自分の持つ枠組みで十分にその理論が理解できるということはありえます。ありとあらゆる高校レベルの枠組みを網羅している必要はないわけです。
なので、大学レベルのことは理解してるが、その大学レベルの文章に高校レベルのことは書いてないかもしれないので、その後大学レベルのことにしか触れなかった場合、高校レベルだけど初見だと解けない問題が死ぬまで解けないままであるということが起こり得ると思うわけです。
たかが高校レベルだから、初歩的なんだから受験生じゃなくなっても真面目にとりくむほどではないと思うかもしれません。
しかしそのように単なる初歩的なこととされるかは、意義深いこととされるかは、時代次第の相対的なことではないでしょうか。
2000年以上前ならピタゴラスの定理を理解することも十分意義深いことだったでしょう。
時代が進むことによって、より高度な定理や理論が発見され、既存の定理はそれを理解するためのより初歩的なことと規定し直されるというだけです。
このような文脈での主語はあくまで「人類」です。言い換えれば、人類のうち誰かひとりでも知っていたり理解していたりするようなことを全て知っているような、仮想的な知性にとっての意味付けだと言えると思います。なかば無意識的にこのような仮想的な知性と自分を主語のうえで同化させてこのような「初歩的/意義深い」という価値判断をくだしているにすぎないのではないでしょうか。
あるいは「文明」を擬人化して主語においているとも言えるかもしれません。「文明」にとって、容易に理解できる初歩的なことかどうかということです。
一方実際に世界を経験する主体の単位は「個人」であり、わたしであり、あなたです。
ある時代にとって意義深いけれど今は初歩的なことを理解してない個人がいるならば、人類や文明が主語である場合、それが最先端の知識=未知であるか、または既知となって間もないか、で意義深いかどうかの価値が規定されていたのですから、個人を主語にした場合も同様に考えればよいのではないでしょうか。
つまりその個人が理解してないのなら、それはその個人にとって意義深いことなのだと思うのです。
大学レベルとか高校レベルとか関係なく、「自分が知らないという意味で意義深い」解ける問題を増やしていくことは、この世界や現象に対する理解の解像度をあげると思うのです。
だから大学レベルのことには書いてない高校レベルの問題の解法も赤本や難関大を意図した参考書には無数にあるので、それを解き続けることには、それを飛ばして大学のことを学び始めることを通じては経験できない意義深さがあると思うのです。
まとめれば、高校レベルのことが足りないために大学レベルのことが理解できないこともあれば、大学レベルのことでは身に着けられない高校レベルのこともあるので、結局この世の中をよりよく理解する手段として高校レベルのことも大学レベルのことも等しく有効なら、まずは高校レベルのことを完璧にしなければならないのではないか、と思うわけです。
ここまでが持論の全容です。ですが世の中の成果をあげている科学者の全てがこのようなことをしているとは到底思えないので、自分の考えが合っているなどという確信は全く持てないわけです。
なので、ぜひ、反論できるところがあったら教えてください。
このトラバには異論はない。そこで最後に追加で言っておきたいことを書いて終わりにする。
大学レベルの参考書(学術書)や論文を書く人も所詮は受験競争を経験した人で、受験勉強で得た知識が少なからずその後の思考の枠組みに影響を与えていると思うんだよね。
それで「枠組み」なんてものはなかなか自覚的に認識できるものじゃないから、その枠組みを共有していない人にとってはより言葉を尽くさないとわからないことでも「既知の事項として」という感覚すら持たずにそういう言語化をはしょって文章を書いている部分があると思う。
特に幾何学に関する記述は、本人のセンスにとっては空気のように当たり前のことでその説明がシンプルであったりしても、なんでそうなるのってことが枠組みの無い人にはわからない。ある人からすれば「なんかこいつすごく察しが悪いな」としか思えない。
これは大学と高校の話ではなく高校とそれ以下の話なのでたとえが悪いのだが、たとえば高校物理である角度と別の角度が同じという事実から式を導出するのに、なぜ角度が同じかという説明まではされてないみたいなことがある。
これは中学までの数学を身に着けた人にとっては当たり前のように角度が同じだと認識できるが、そうでない人には説明が必要。
しかし書き手はすべての読者のレベルに対応することは不可能だし、「枠組み」さえあれば当たり前のようにしか思えない角度の同じさを説明しようという発想すら起こらないから、こうしたことがある。
こういうことはは中学受験レベルの算数から差がはじまっていて、ああいうのが解けるような学力をセンスとしてあるいは勉強したことで枠組みとして身についてる人と、そうでない人とでは、同じ文章では伝わらない程度の断絶ができていると思う。
自分には大学レベルの本を理解する素地が足りているのか、と思うから、彼らが通っているはずの受験勉強から得た枠組みと同じものを自分にも構築すべく、高校レベルのことを勉強しなきゃという強迫観念がなくならない。学術書や論文の書き手も当然すべてのレベルの読者には対応してないし、かりに対応しようとしても「枠組み」は「空気」のようなものだから、枠組みを持たない人間を無自覚に想定読者として排除してしまうだろうから。
> 全問正解するような人はそもそもすでに研究者になってるような生粋の学究の徒
これは研究の中でも、特に数理系の理論系に多そうな気がするんだよね。実験系とかは、たとえば、元素一つずつ試して物性評価するとか、もっと地道な努力が要されることがある。そういう点で、受験と研究は違う。あと、そもそも金の問題で研究に進まないとかも全然あるから、この引用元は単純に成り立たない。
さらに、モチベーションも違う。親の保護のもと受験でナンバーワンになり、卒業後はさっさと就職する人もいれば、受験生の頃から純粋に学問として深ぼり、金のない研究生活を厭わない人もいる (受験勉強が暇でファインマン物理学とか読んで余裕で受かる特異なタイプはこっち)。
どれだけ傷つこうが他者を敵視しない、ネガティブにならない。新しい相手から見た自分は完全に初見。
その敵視やネガティブが性格の一部だと思われる。敵視やネガティブになることでクオリティの低い人間が引きつけられやすくなる。そうするとますます敵視したりネガティブになりやすい。そんな地獄の底のような人間と誰も結婚したくないというのは明らかだ。
相手の嫌なところばかりあげつらって自分の承認欲求を満たそうとすると「お高く」とまりだす。もはや本来の目的を見失った状態になる。これを自覚できなくなると危険。友人にも見捨てられかねない。
何かを勝ち取るためには現状の己の魅力を上昇させなければならない。そしてそれは短期間では得られない。
そうやって今まで生きてきたという自分を受け入れること。そしてそういう自分が他人に認められなかったとしても、それも受け入れること。
何が変化させられるものなのかを考え、ひたすら行動する。欲しいもののために自分の相場を限界値まで上げていく。今の自分で行けるところというのは、大学受験で受験勉強せず入れるところを探すようなものだ。
今まで色々なことをサボってきたから婚活することになっている。
保険を置くことでより状況が悪化する。傷つかないように自分の身を守ることでより傷つく。生きるために死ぬ。怖いからより踏み込む。ベストを尽くす。ベストを尽くせない自分がいたとしても、それすらも己のベストなのだと知る。
本気でやって失敗することでより成長する。魂が破壊されるレベルの失敗があったとしてもそれを乗り越える。
保険を置くから相手のレベルが落ちる。たとえば相手から保険を置かれていることは見抜くだろうし、自分が保険を置いていることは相手に見抜かれるものだ。婚活は戦場であり、狩場である。二兎を追う者は一兎をも得ずという。
相手が二兎を追っていることがわかっていても気にせず追わせておけ。どうせ二兎目が自爆する。自分が一兎目なのだからドッシリと構えておけ。自分の判断と決断と直感を信じろ。自分の人生の相手だぞ。
全力でやっていると応援する人間が現れて、良いアドバイスや良い自己肯定感上げが来ることがある。全力でやるから、自分の力不足を自覚できて、恥と無知を晒して人に頼ることができる。そういう人間を助けたくなる人は多い。
相手の気持ちどころか、自分の気持ちがわからないことがいちばんの問題かもしれない。何を欲しているのか、自分でもわからない。どうしたいのか、これでいいのか、わからない。動いてみてから「やっぱり違った」と思うことは無数にある。
自分が幸せになりたいだけならうまくいかない。これは相手不在の考え方で、相手を理解しようとする気がない。相手に依存するだけになる。だから、そういう人間には相手も「自分が幸せになりたいだけ」の人間までしか集まらない。自分主体でもあり、相手主体でも考えられる、そういう相手を意地でも見つける。
自分主体でエゴをぶつけエゴで支配しようとすると、相手は相手が幸せになれないと判断して嫌われる。相手のことを本当に見ているか、本当に見えているか、自分のことだけしか見えていないと呆気なく終わる。
婚活を通じて人生初の大恋愛を味わう人もいる。それは外からはとてもわかりにくい。それに婚活に限らず、必死で本気に行動している人間を笑う人を相手にする必要はない。
相手にしてしまうのは、己自身がそれを恥じているからだ。「婚活ごときで必死になる自分」というみっともなさ、ここまで落ちぶれたか、これが市場価値かと思う情けなさがあるはず。それを受け入れられないから相手にしてしまいメンタルが落ちる。
こんなことが簡単にできたら苦労はしない。それにこれは金科玉条の絶対遵守すべきルールでもない。
しかし相手からしたら、そういうことが可能な人間と結婚できたらどんなに魅力的だろうか。自分がそういう人間になればいい。もし足りなくてもそれはそれでいい。それを補完してくれるような存在が見つかれば、その人と結婚すればいいのだから。
妥協するから、妥協される。妥協しなければ、妥協されない。どちらを選んでも間違ってはいないが、妥協したくないのなら、妥協しなくてもいいのかもしれない。
競争相手も当然これができると考える。競争相手にもリスペクトを。競争相手も人生を賭けている。
自分だけができると思うと自惚れる。競争相手を祝福する必要はないが、呪う必要もない。競争相手の健闘を祈り、だがそれでも自分が獲得するという覚悟を持つ。
タイトルの通り。
現在33歳になって、いよいよ友人との関係が終わりを迎えつつある。
似たような内容の増田を数日前に見かけて、俺も少し書いてみたくなった。
元々高校の同級生で、同じ部活の4人でかなり仲良くしていた友人たちがいた。
仲のいい4人ではあったものの、成績は俺だけが学年でも下位30%程度で、残りの3人は上位10%に入るような成績だった。
結局俺は関関同立に進み、残り2人は京大に2人と国立の医学部に1人が進学した。
ただ、思えばその時点で軽いコンプレックスを抱くようになっていたと思う。
明らかに俺だけ大学のレベルが違ったし、会う都度、彼らの大学生活の話に出てくる同級生や先輩の質みたいなものが、俺の周りとは違うような感覚があって、表現し難い疎外感のようなものがあったと思う。
もう一つ、他の3人と俺との間の隔たりとして、実家の太さの違いがあった。
俺以外の3人はかなり実家が太く、いわゆる高級住宅街に住んでおり、それこそ家の床が大理石だったり、よくわからんけど高そうなステンドグラスがあったりした。
初めて友人の家にお邪魔した時にケーキとコーヒーが出てきて、心底驚いたのを今でも覚えている。友人を家に招く時は、ポテチや煎餅に、ファンタなんかを出すのが俺の中の常識だった。
俺はというと、地元でもあまり平均所得が高くない地域に住んでおり、2LDKで築年数もかなり経過したボロマンション住まいだった。家には呼べなかった。
そんなことを気にする様子もなく、3人とも本当にフラットに接してくれたが、その邪気の無さがかえって妙な居心地の悪さに繋がっていたような気がする。
卑屈なだけと言われればそうなんだろうが、それでもなんとなく恥ずかしいような情けないような気持ちは心のどこかにあったと思う。
大学に入学して以来も定期的に会っていた。卒業後の進路として、俺は公務員を目指しており、大学4年の夏に試験に合格し、無事公務員として就職した。
俺以外の3人だが、1人が司法試験の受験勉強に励み、1人はそのまま院進し、1人は医学部のため卒業時期が違うといった形で、俺だけが少し早く社会人になった。
定期的に飲みに行ってはいたが、やはり俺以外の3人の方が学生で時間が取りやすく、俺だけが参加できない会も増えていった。
参加しても、俺だけが仕事の話をしている中でみんなはまだ学生として話しているので、なんとなく噛み合わない感覚も抱いていたと思う。
それでも一緒に過ごした時間も長い大切な友人たちだったので、話を合わせながらみんなで学生レベルの安居酒屋でワイワイ楽しんでいた。と思う。
なんか当時は本当に楽しかったはずなのに、今思い返せばそうじゃなかったような気がしてきてしまうのが本当に悲しい。
俺と3人の差が顕著に現れ始めたのは、25歳になったあたりだと思う。
みんなそれぞれ社会人になり、それぞれ医師・弁護士・一流企業勤めと、同い年だというのに、俺が40代になってようやく辿り着けるかどうかというレベルの金を稼ぐようになっていた。
もちろんみんな良い友人ではあったので、年収の話になることは少なかったが、最近した買い物の話や住んでいる場所の話でなんとなく、経済的な格差を感じることが増えたように思う。みんなで行く店も、俺にとってはけっこう背伸びしたお店へといつの間にか変わっていた。
思えば年収の話なんかは、明らかに俺だけ水準が違うことを気遣って、あえて避けてくれていたのかもしれないな。なんかそうやって、友人同士なのに、薄ら弱者として気遣いを受けている状況が本当に耐えられないと感じてしまった。
年に数回会うような関係がずっと続いていたが、最近になって、旅行に行かないか?という話題が出た。
普通に近場の温泉なんかに行くイメージでいたが、話を聞くとシンガポールに行くとかいう話になっていた(たまたま2人で話していたらしい)。
旅費なんかも密に調べてくれていた。言っても目玉が飛び出るような金額ではないものの、妻子もいる中で、正直シンガポールに行くだけの金銭的な余裕は全くない。
が、妻子持ちなのは俺以外の3人も同じだし、おそらくお金のことを気にしているのは俺だけなんだろうなと思う。
なんとなくだが、今回の旅行を断ってしまったら、いよいよ3人と俺との関係はもう終わってしまうような気がする。
もう明らかに属している社会の階層が違うということは気づいているのに、それでも背伸びしてしがみつくべきなのか、正直言ってわからなくなっている。
ただただ一緒にいて楽しかったはずの4人なのに、どこで間違えたんだろうな。