はてなキーワード: 哲学的ゾンビとは
死後マトリックスのように首に線突っ込まれた状態で目覚めるのだ。
私の周りにいる人間たちは哲学的ゾンビで、つまりゲームのキャラクターで、この世界に人間は私しかいない。この世界は人生シミュレーションゲームなのだ。
目が覚めたとき、このゲームをプレイしていた「そいつ」の中で私は生き続ける…「そいつ」が私のことを忘却した時が本当の私の死なのだ。「ああ、そんな人間の人生をプレイしたこともあったね」なんてね。
「そいつ」が再び別の人生シミュレーションゲームをプレイすることを輪廻転生と言う。
「そいつ」は人間の形をしているのかどうかはわからないけどね。今の私が見たらクリーチャーにしか見えないような奴かもしれない。
死がこの世界からの唯一のログアウト方法なら、このゲームを作った奴は不老不死を実装するわけがない。つまり、不老不死が達成された世界が「一番上」ってことだ。
さらに言うなら、不老不死だからこそ「そいつ」は人生シミュレーションゲームなんていう1ゲーム80年くらいかかるようなくそ長い娯楽に興じているのだ…何せ時間はたっぷりある。
「そいつ」の中で生きている人間は何人もいるのだろう…私も死後そこに加わる。「そいつ」の中でほかの人間の魂たちとくだらない話をしたりするのだろうか。もしかしたら「そいつ」は世界にとりのこされた唯一の生物なのかもしれない…さみしさからいろいろな人間の人生を体験しているのだ。
つまり、死後は天国でも地獄でもない状態に身を置かれることになると信じてるし、現世で徳を積んだらどうなるなんてこともないと思ってる。次はもっとましな世界を体験してみたいものだと死後「そいつ」の中で主張してみたい。今度は強くてニューゲームを選んでくれよ。来世への期待は大きい。
そんなことを考えながら私は日々生老病死の苦しみから目をそらしている。
ホログラフィック宇宙論やら量子コンピューターやら、全く理解はできないがなんとなくシミュレーション仮説を補強してくれそうな記事をかいつまんで読んでみたりしている。
これが宗教じゃなくて何なんだ。
横からですが、黒人なりLGBTなり恐い犬なり何であれ、嫌う自由を認めて欲しい、と言われると
「内心で思うのは自由」「それを公に主張することは対象の人・事物の自由を奪うことにつながるので要注意」という話になるのだが、
「そういう人・事物と距離をおきたいのに今の社会では叶わず、実質的に自由を阻害されている。この事態を解消したい」となると、
「同じ思いの人達と連帯してポピュリズムに訴えて、『同じバスや電車に乗らなくて済むように法改正せよ』(例)と働きかけるのがよい」
「もしくは自分の意識改革をしてしまうのが手っ取り早い(彼らを嫌っている自分の内心の方を変えてしまう……見た目は我慢と同じだが)」
多分、元増田の思いとしてはそこまで過激な話ではなく、「嫌いと言っただけで鬼の首でも取ったかのように総叩きにされるのはおかしいのではないか」
くらいの疑問が出発点だと推測するが、個人的にはこういう何が差別であるという話は価値観の一時的な流行だと思っている。
何かの正当性に基づいた正当的な攻撃というよりも、流行の言説にそぐわない発言をすると流行の御旗のもとに殴られるという現象であって、
そういうものだと受け入れるしかないし、納得がいかないならやっぱり増田なりなんなりで同じ思いの人達に声を届け問題意識を共有しつつ、
いまは匿名で増田なりで自分の意見を表明することは、よっぽどの内容でない限り自由に(=実害を被ること無く)実行できるが、
皆の「嫌い」の想いを綺麗にまとめ上げることが出来れば、
それに対する抗弁をネット上で表明するだけで思想犯として収獄されるよう流行を変えることも不可能ではないはず。
皆が自由に好悪・気持ちを表明しつつ、それ自体が他者への攻撃とはならないように……というのは確かに美しいのだが、
何が攻撃であるかの区別・評価をつけること自体が十分に攻撃的なので、仕組みづくりとしては表明が全方向的に「攻撃にならない」ようにする他なく、
反出生主義者の意見とは「子供に生(の苦しみ)を強要するな、それを強制させる原因と責任は両親にある」というものである。
この点について、ちょっと確認したいことがあるので、小話を考えてみる。
ここに、ある「半-反出生主義者」の夫婦がいたとする。(半-反出生主義者とはなにかは後述する。)
ある日、この半-反出生主義の夫婦の間に、なんと子供が出来ていたことが発覚する。
(彼らは反セックス主義者ではない。また、何事も完璧ということは無い。)
真-反出生主義者の夫婦であったならば、即座に人工妊娠中絶の予約を入れるところだろう。
半-反出生主義者とは、反出生主義思想に共感しつつも、実は心のどこかで子供が欲しいと感じている人々のことである。(造語)
「ええ、半-反出生主義夫婦のためのピッタリなお薬があります!」と医者に言われる。
それは中絶のための薬ではない。
哲学的ゾンビとは、人間と物理的/行動的には全く同様であるにもかかわらず、主観的な意識を一切持たない、(人間のような)存在である。
(哲学的ゾンビは、広い意味では人間ではない。特に反出生主義的な意味では人間ではない。)
半-反出生主義夫婦の懸念点は、「生まれてくる子供が、想定外の悲惨な生にさらされてしまうかもしれない。」という点である。
であれば、子供を主観的苦しみのない状態、つまり哲学的ゾンビにさせてしまえばよい。
子供が欲しいという願望も叶えられ、しかもその生の責任は両親には無い!
この夫婦は即座にその薬を処方してもらうよう依頼した。
彼らは薬を使用し、その後"それ"を出産した。"それ"は半-反出生主義夫婦に大事に育てられた。
"それ"はすくすく育ち、快活に動き、喋り、感情を示し、両親を愛しているかのように振る舞った。
そして時々(半-反出生主義夫婦が事前に想定していた通り)、想定外の不幸な出来事も起こり、"それ"が悲惨な目(?)にあうこともあった。
"それ"は苦痛ある生を生きる人間ではないことを知っているからである。
そして夫婦は、"それ"に対して「人生は苦しい時もある」「誠実であれば人生は必ず好転する」などと説いて聞かせ、我慢を学ぶよう伝えた。
またあるときは、夫婦が"それ"を愛しており、かつ"それ"が愛するそぶりをする関係であるにもかかわらず、
二種間の対立において、夫婦が実質-暴力的手段を選択することもあった。(それは肉体的暴力ではなく、その時は最も非苦痛的な対話だったと考えていたが、後になってそれもなんらかの苦痛を伴う暴力的手段だったと気付くタイプの方法だった。暴力に関する議論は日々更新されるため、こういうことも時々起きるのであった。)
その事実に気づいたときも、やっぱり半-反出生主義夫婦は全く動じなかった。
"それ"はやはり、苦痛ある生を生きる人間ではないことを知っていたからである。
また別のある日、"それ"は、学校の小テストで100点を取ってきたことを自慢げに報告した。"それ"は誇らしげである。
夫婦は大喜びする振る舞いをしてみせたが、どこか冷めた調子だった。
"それ"はやはり、苦痛等を生きる人間ではないことを知っていたからである。また、反出生主義夫婦的には、喜びの有無自体は大した問題ではなかったためでもあった。
ところで、現実の反出生主義者は、この"子供"(私はこの夫婦が産み育てた対象を"子供"と呼びたい)を、
「かわいそう、両親に利用されるだけの道具にされてしまった哀れな人間」と感じるのだろうか。
私の理解では、反出生主義者はこの"子供"に同情するはずがない、という認識である。
なぜなら、反出生主義者の主張は「生まれてくる子供に(不幸になるかもしれない)生を強制するのは親の責任である」という点であるはずだから、
自分たちが産む"子供"から生を(つまり主観的世界を)取り除いてしまえば、
反出生主義者のいう強制された生はその"子供"には無いはずだからである。
もしも反出生主義者が、子供から生を取り除くこと自体が悲惨な行為である、というのならば、それは自己矛盾に陥るのではないのだろうか?
(つまり、夫婦が産むと決めた対象に対して、(生を取り除かずに)生きていてほしいのか?それとも生きていてほしくないのか(生を取り除くべきだったのか)?)
(そもそも産むな、は回答になっていない。なぜなら、産んではいけない理由を回避している出産についての議論なのだから。)
なんにせよ、正直に言うと、
反出生主義者とは言えない私にとっては、この"子供"は、生きることを両親に奪われた、本当に哀れな人間であるように感じられる。
このような「哀れみ」は、反出生主義者とは分かち合えない感情なのだろうか?もしかしたらそうかもしれない。
昨日の深夜にリストのみ投下したが、再掲する。人間は深く先のことを考えすぎたり、コミュニケーションの中で他者にどう思われているかを考えすぎたりすると神経衰弱気味になることがある。現に自分も大学の頃そうなったし、サラリーマンになった今でもよく破滅的な思考になることがある。特に夜。自殺を試みたことも2回ほどある。しかし、そういう時は一旦現実から離れ、距離を置くことで新しく見えてくるものもあるし、希死念慮も軽くなることがある。そのため、世の中の自殺志願者に向けて、手軽にできる現実逃避方法をここに記しておくことにする。
ベタだけどけっこういい。個人的なおすすめ記事の例は以下(教養のなさがバレたらごめんなさい)。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/なぜ何もないのではなく、何かがあるのか
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/技術的特異点
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/事象の地平面
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/哲学的ゾンビ
・寝る
夢という名の究極の現実逃避
・散歩
ややパンチは弱いが、いい場所があるならまあまあ効く。ただ疲れるので元気のない時はあんまり。
・外食
・読書
おもしろい小説とかがあればいいけど、そうじゃないなら読む気にならないことも多いが…青空文庫のアプリを入れてランダムに読むのも割とおすすめ。
聴覚はごまかせるが、視覚が暇になってしまうという難点がある。youtubeはその点一石二鳥。
・風呂に入る
これもかなり効く。タブレットやスマホを持ってネットサーフィンと組み合わせればより効く。ただ、のぼせるから注意。
他人を使うという点でハードルは上がるが、しゃべるとストレスが圧倒的に軽減されるのを感じるだろう。
・日記を書く
書くまでにめんどくさい病を克服しないといけないけど、書き始めると過去の分まで補充して行きたくなる不思議。
・部屋の掃除
掃除作業自体もいいし、部屋が片付けばそれによって気持ちがすっきりするから、一石二鳥である。
・服の洗濯
洗濯して干すまではいいけど、たたむのは実際面倒という難点はある。そしてたたまなければ部屋が汚くなるという諸刃の剣でもある。
そもそも興味のある音楽が一切ない場合は無理なので、ラジオとかネットとかで気になった曲を頭のなかでリストアップされている時にほぼ限定される。
・映画館に行ってひとり鑑賞
これはかなりいい。ただ唯一の難点は、時間が合わないと1時間とか2時間とかつぶさなければいけないこと。その間にやることがなくなってしまい、散歩という体力を消耗する手段に出てしまう場合も多い。
・一人になれる場所へ
ただし、人があふれている東京ではなかなか難しい。都会だとマンションの建設予定地などが意外とよかったりする。
・はてな匿名ダイアリーに思いの丈を投稿する
本webサイトは民度が低く、実際上はなんの役にも立たないが、馬鹿がたくさんいることを確認して人類の中での自分の立ち位置が意外に上位であることを知れる点でメリットはある。
・青春18きっぷで旅に出る
男なら意外にも割と誰でも興味持てると思う。店員も、意外と無駄に話しかけてこないので快適。
寝転がって読めたら最高なんだが、手がつかれるし首も疲れるのが難点。ハードルを感じる時は短編集がおすすめ。村上春樹の短篇集は引き込まれるような奇妙な魅力があるので一度試してもらいたい。
・歯を磨く
すっきり!これが意外にいい。
・過去の思い出にひたる
日記とか写真とか昔の記録とか何か書いたりしたものとか材料があれば、それを見てのんびりする。夢日記をつけていれば、それを読むのもあり。
・勉強
ザ・現実逃避。最近は映画のストーリーを丸々10分程度にした動画も大量に出回っているので、それを見るのもアリ。また、「movie clip」で検索すると、過去の名作映画の名場面ばかりがたくさん見つかるのでこれもおすすめ(ただし日本語字幕は基本的にない)。
俺=世界。
俺は世界そのもの、というのはラリパッパな妄言のはずだけど、形而上学という考え方をかますと許されるんだから不思議なことだ。
例えば雷鳴。
雷が鳴る音を聴くとき、自然科学としては、雷鳴という「客体」があって、それを俺という「主体」が感じる、という構図になるはずだ。
しかし、と考えてみる。
もしも雷が鳴っているその場所に誰もいなかったら、果たして雷鳴がそこに「ある」と本当に言えるだろうか?
雷が鳴り、それを俺が聴いている、という関係の一方で、俺という存在こそが雷鳴を生じさせていると言えないだろうか?
さらに、もう一段飛躍する。もし、俺こそが雷鳴の原因となるなら、雷鳴と俺を分ける必要は、実はないんじゃないか?
「俺」が「雷鳴」を聴いている、のではない。
ただ「雷が鳴っている」。このとき、俺は俺であるとともに雷鳴そのものだ。
俺にとって、俺以外のすべての人間に自我があるかは証明できない。
周りの人々はすべて俺の作り出した妄想かもしれないし(「水槽の脳」)、もしかしたら、意思のない人形であってもおかしくはない(理屈上、ということで、本当にそうだと思っているわけじゃない)。
「俺」は違う。
他者の場合とは違い、そこに意思があるかどうか証明しようとして失敗するまでもなく、俺は自分に意思があることを理解している。我思う…ってことだ。
そして、そんな俺はなぜか、この時代に日本の男性の体に「生じた」。これが一番わけがわからない。
俺が生まれる前にも宇宙は当然存在していたし(一説には138億年前…)、俺が死んだ後も宇宙は当然続いていくが(こっちは一説には10の100乗年後に「終わる」らしく、厳密に言うと、あらゆる運動がそこで停止するので時間の意味がなくなるらしい)、特別な俺はなぜか、20世紀後半に生まれたいま30過ぎの日本の男性だった。
自分ってものについてラディカルに考えると、要は自分に関するこだわりを強くしていくと、逆説的に、肉体としての自分が何者であるかは価値を失っていく。
俺は別に、10年後にジンバブエの5歳の少女に生まれてもおかしくなかった。
(もしも)自分について俯瞰することさえ可能なら、アマゾンの猿でもよかったのだ。
でも、とにかく俺は日本の俺だった。たぶん理由はないんだろう。にもかかわらず、なぜ? という強烈な驚愕は消え去らない。
俺はこの世界において超超超…と超を100回重ねても足りない究極の特異点だ。
もちろん、俺以外の人たちだって、「彼らの世界」ではそれぞれが唯一無二のポイントになる。
でも俺はそれを、理屈ではなく想像で理解することしかできない。
他者を社会的に尊重することは当然だが、彼らが結局、俺という世界の一部でしかなく、彼らが死のうと俺の世界は終わらないが、俺が死ねば世界そのものが消滅するという事実は、それとはまったく別のことだ(一連のこの辺は、永井均『子どものための〈哲学〉』『西田幾多郎 <絶対無>とは何か』にくわしい)。
…
そして俺は、ずっと両親との関係で悩んでいる。
こんな観念的で、浮世離れした形而上学に果てしなくぶっ飛ばされたはずなのに、血縁のしがらみに何十年もさいなまれている。
仲が悪いわけじゃない。
ただ俺も、母親も父親も、うまいことお互いへの愛情を示せないでいるフシがある。
愛情がないのではなく、表現できないのだ。なんとなくだけど、バリバリのビジネスマンだった二人が、乳児のときから長いこと俺の横にいられなかった罪悪感みたいなものが原因っぽい気がする。
俺はもう30過ぎなのに…。
そんなの、もういいだろ…と思いながら、呆れている一方で完全に笑えないのは、たぶん俺もどこかで、彼らを許していないんじゃないか、という気がする。
もういいよ、父さん母さん、と言いたい。
というか、何も言わないでただ抱きしめてあげるのが正しい気もする。一度だけじゃなく、会うたびにそうしてやるのが正しい気がする。
そうしたいができない。俺たちの誰かが死ぬまでに、俺はそうしないといけないと感じる。
その一方で、三人でそろって食事しているとき、不意に、「この人たちはなんなんだろうな?」という気持ちになることがある。
話をしていて、特別難しいことをしゃべっているわけじゃなく、単純に俺と、頭の中を覗いてみるわけにいかない他者の間で、ちゃんと「会話」が成り立つことが奇妙でしかたがなくなる。
例えそれが両親であっても、「こいつらはなんなんだ?」 と思う。
俺の言ってることが、相手の言ってることが、お互いに本当にわかってるのかな? と思う。確かめようがない。なんとなくその場では笑って飯を食ってる。
…
形而上学と家族への愛情と、どっちかがどっちかへの反発なんだろうな、と思っている。
本当は家族の一員の息子としてキレイに収まりたいけど恥じらいと恐怖心で叶わないために、極端な哲学に走ってごまかしている。
あるいは、心の相性としては形而上学の世界の方が向いているが、どっぷり漬かるのが怖いせいで、家族に目を向けたくなる時がある。
若いときから、もう面倒だったから、どっちかに決定的に俺を方向付けてほしかった。
ベタベタしすぎるくらいまともな家族愛に包まれるか、SFチックなぐらい高純度な精神体になってしまいたかった。
どっちかになれると思っていたがどっちにもなれない。たぶんどっちにもなれないんだろうな、というのが、最近薄々わかってもきている気がする。
昔自殺したかった。今でもたまにあの時死んでればと思う時がある。
ただ、今はだいぶ死にたい気持ちが薄れてきた。だがそれと同時にかつては自分の気持ちや周りのことが明瞭に感じられていたけれど、今はぼんやりとしか感じられなくなってしまった。歳をとって考えるのに疲れてしまったのだと思う。半ば哲学的ゾンビのように、刺激に対してそれらしく応答するだけ。虎になりかけている李徴子のように時々人間らしい感覚を思い出すが、それ以外は人間らしい自分をモヤがかかっているようにしか知覚できない。
生きるのは楽になったが果たしてそれは良いことなんだろうか?生きていれば良いんだろうかとふと思う。親を悲しませないとかそういうことは自分以外の話だ。自分自身のあるべき姿として、自分を失ってまで生きていることに本末転倒感がある。
自殺(特に、金銭や色恋などの積極的な理由のない自死。三浦春馬については理由を知らないが)の話を聞くと、明瞭な自分を失わずに自殺したのだろうかと羨ましくなる。そして一瞬だけかつての明瞭な世界を思い出して夢から覚めたような気持ちになる。
2について腑には落ちた。つまりこれは元増田の「嘘がつけない世界」の中である発信者(ルートであるなにか。AIなども含まれる)が何かの意思を吐露するとき、そこに嘘の「意図」は含まれない、という事を言いたいんだと。しかしそこでも疑問はある。仮に哲学的ゾンビであるAIがプログラム的に真実の解を知りながら嘘をついた場合も不可なんだろうか。彼に意思も意図もない(一歩さかのぼり、意思と意図の定義となると生物の定義並みにあやふやな感じがしなくもない)。
そんで予知に関しては、自分は自由意志に関する話をしていて、増田は決定的な世界について話をしている。これは単純に何を起点にして正解とするか、の違いなのでたしかに平行線かも知れない。
未来のことを何も考えられない 死んでしまいたいけど周りの人のことを思うと躊躇してしまう
何もかもが嫌だ 8時間労働ってシステムにそもそもついていけないんだと思う どんな楽な仕事でも週5でやるなんて無理だ
鬱病チェックシートをやると軽度〜中度と出るし、ADHDもそうだ 座ってる・寝てる時にずっと体のどこかを動かしていないと落ち着かなくて、そういう点からもちょっとADHDの傾向はあると思う
でも多分貰えないんだよな 大学には行けるし社交もまあギリできてる 飯も作ってるし部屋も汚いとはいえ床は見えてる
ただの甘えなんだろう
でも死にたい 死にてえよ 死にたいっていうか死はどうでもいいから意識を無くしたい 誰か代わってくれねえかな 哲学的ゾンビになるんでもいい