はてなキーワード: 哲学的ゾンビとは
http://www.phys.cs.is.nagoya-u.ac.jp/~tanimura/time/note.html
今サーバがメンテナンスでみえないっぽいけどめちゃくちゃ面白いね。いまさらだけど。
メタな話をすれば、哲学者側は最先端の物理学者との対談で自分の論に箔をつけて業績にできるめったとないチャンスで、対する物理学者側は正直こんな本が出ても業績としてたいして価値があるわけでもなく、無難にお茶を濁しても誰も何も言わないだろう状況へこのガチなファイターの投入である。(ほめてる)
https://twitter.com/tani6s/status/1193542355975950336
https://twitter.com/tani6s/status/1193542463169810432
心の哲学が何を問題にしているのか、とか全然興味なかったけど、おかげさまで浅いなりに理解できたし興味も出てきた。谷村先生が頑張らなければひっそりと専門書の棚に気付かれることなく置かれてるだけだったかもしれない本だったかもしれず、関係者は谷村先生に感謝しすぎてもしすぎることはないんじゃなかろうか。
ところで谷村先生が指摘した部分というのは、理系の研究者や人間であれば多かれ少なかれ感じていたが言語化するのがためらわれた結果、これまで表面に上ってくることのなかった問題のように感じる。
学生の頃、人文系研究室の卒論と科学系研究室の卒論とを同じ発表会で見る機会があったけど、科学系の教授の人文系の発表への容赦ないツッコミを思い出した。
用語の定義にしろ立論にしろ結論を導く論理にしろ君たちあまりに緩すぎないか?というのが共通する雰囲気だと思う。
科学が発達していなかった昔、哲学は科学がまだ扱えない領域を先んじて論理の力で掘り起こす役目を担っていたと個人的には思う。(谷村先生の期待もこういうものではなかっただろうか。)
だが色彩論でのゲーテのニュートン批判とか、時間論でのベルクソンのアインシュタイン批判とか、科学が哲学に先行して真理を掘り起こした結果、取り残された哲学が宙ぶらりんのままになる状態が19世紀以降は顕著になってきたんじゃねえかと思う。まあ哲学のことはよくわからんのでアレだが。
ベルクソンとアインシュタインの対話の翻訳をネットで拾って読んでみたが、ベルクソンが長く理解しにくい文章で考えを述べる一方、アインシュタインは明晰で短い文章でバッサリと切っていて既視感がすごい(語彙力)
今、AIとか脳科学の研究が進んで、心に関する諸問題も哲学ではなく、科学の俎上で実際に解決される可能性が高くなってきたと思われる。
意識のハードプロブレムとかも、哲学側からの「まだまだ科学に扱えないものがあるんだよ!!」という断末魔の叫びのようにも感じられる。
だが科学は進む。
意識の問題も脳というハードウェア上に構築されたニューラルネットワークの状態空間として科学の領域に取り込まれ哲学の領域はまた一歩小さくなっていくのだ。
地動説で人間の住む地球が宇宙の中心ではなくなったように、進化論で人間が神に作られた特別な存在ではないことがわかったように、有機物が生命の作用なしに合成できることがわかったように、意識もまた特別な何かではなく、我々自身が哲学的ゾンビなのだということを認めざるを得ない瞬間が必ずくるだろう。
キリスト教が根底にある思想は最後まで魂の特別性に拘泥するかもしれないが仏教だと五蘊皆空と思えばどうということもない気もする。
まとまらず終わる。
現象判断のパラドックスは「心的現象には対応する物理現象が必ず存在する」で完全に説明できるにも関わらず、なぜパラドックスと言われ続けているのでしょうか?
この問題が現在も「パラドックス」として扱われているということは、この説明を受け入れない人たちが一定数居るということだと思います。
彼らはどのような理由でこの説明を受け入れないのかを教えて下さい。
100年前であればともかく、21世紀の現在に上の説明が誤りであり、対応する物理現象が存在しない心理現象があるといった主張をまじめにする人が多く居るとは思えません。
※哲学的ゾンビは「対応する心理現象が存在しない物理現象は想定可能」という話なので、上の主張とは異なる。
またもっとも簡単に思いつく理由は「直感と一致しない」ですが、世界の法則が人間の直感と一致するとは限らないというのは様々な物理法則で示されていることであり、これも議論を生き残れるような根拠とは思えません。
# これはどこに投稿するのが正解なんだろう?
オタクはフェミを「繊細チンピラ」「繊細ヤクザ」「お気持ちヤクザ」などと揶揄します。
(そのほか「フェミナチ」などオタクの悪口はとてもバリエーションが豊富で感心しますね)
そのような揶揄が仮に許されるならばオタクはゾンビと称されるのが妥当でしょう。
「お気持ち」の対義語を考えれば、すぐに「哲学的ゾンビ」が思い当たります。
またネット上においてオタクは物量作戦を展開する様が観察されますが、それもゾンビを連想させます。
フェミの振る舞いをナチスに例えるのであればオタクはゾンビと言われても仕方がないですね。
この程度のオタク用語で言うところの「ブーメラン」は五分もあれば考えることができます。
しかし、現実にはオタクは別に(フェミによって)ゾンビなどとは呼ばれていません。
(おかしな話かもしれませんがオタクが仮に非オタクであったならその集団はオタクによってゾンビと揶揄されていたでしょう)
というのは、嘘。
ほんとうは私以外の全員が哲学的ゾンビになればいいのにと思っている。
なにもかもに疲れてしまって、とりわけ、自分のせいで傷ついたり悲しんだりする人がいるという事実が耐え難いのだ(もちろんその事実は過剰な自意識が見せた幻覚の可能性もあるけれど。ほんとうは私ごときで苦しむ人などはいないのかもしれない)。それでも他人と話していて、あ、今、相手を傷つけたな……と手触りでわかる瞬間がある。ぞっとする。ほとんどトラウマに近いのに学習能力がないから何度も繰り返してしまう、救いようがない、それでも相手が哲学的ゾンビならばつけた傷は表面的なものだということになる。というか、そもそも、相手はなにも感じてはいないのだ。それならばどんなにいいだろう!
見た目・行動・反応といったあらゆる外面的側面が人間そのもので、しかしその中身はゾンビであるという存在があったとして、人間とゾンビを区別することができるか、という問いかけである。
仮にそんな存在がいたとすれば、捕まえて解剖でもしない限り、我々は人間と哲学的ゾンビとを区別することはできないであろう。
彼女らは、美少女の見た目をし、美少女として振る舞い、そして美少女のような声で笑う。
果たして、彼女らの魂は美少女なのだろうか。それともやはり美少女の殻を被ったおじさんに過ぎぬのだろうか。はたまた自分をおじさんだと勘違いしているだけの美少女なのだろうか。
なんと言うか、漠然と哲学的なのではなく、特定の思想とかなりシンクロ率が高いみたいなのを知りたい。
最近読んだ中では、
だなと思った。
そのようなものがあったら、教えて欲しい。
追記:
とても参考になった。
漫画・哲学の素養が乏しく、カバー範囲が狭いのだが、回答できるコメ・ブクマだけ回答させてもらう。
ドラえもんをニーチェ的に読むと言うのは、過激な試みに見える。
どうもこれはそうっぽい。読んでみる。
パプリカはどうやらそうっぽいので、これも読んでみよう。
よく知らないけど手塚治虫の「ブッダ」は仏教思想とシンクロしてるらしいな。伝聞なので間違ってたらゴメン(意味不明/ファンロードでなんか凄いの読んだ記憶あるが内容とか何一つ思い出せんので偽記憶かも
「ブッダ」レベルでシンクロしている漫画が、哲学的なマンガと言って差し支えないものなのではないかと考え直した。
手塚治虫の解釈が入っているかもしれないが、仏典と仏教史からマンガを起こしているからな。
ブッタとシッタカブッタ
ちょっとググって見た。内容紹介には「宗教でも心理学でもない」ってあるんだけど、心理学と仏教のミクスチャーとして読んでみよう。
オーダーとずれるけど面白いよ /有罪無害玩具http://tirasimanga.web.fc2.com/TUM/043/043.html 下校時刻の哲学的ゾンビ https://omocoro.jp/kiji/64616/
これも要チェックで読んでみる。
なんかこっちの方が鬼気迫るものがあるな。
俺にそれを読み解く能力があるかが疑問だが、チェックしてみよう。
毎年忘れてた!ってはっとして毎年メモしておくんだけど判で押したように毎年忘れてしまって
ほんとはその友達のことも他の人も大して大事だと思ってないから忘れてしまうのか
自分の誕生日も全然めでたいと思ったことないし家族から特に祝われたこともないから他人の誕生日にも頓着できないのか
どっちにしろすげークズだし空っぽな人間すぎてヤベエなってなるし
お祝いしてくれるのありがたいし申し訳ないしでもう大変
正直なんでこんなやつと未だ友人でいてくれるのかわからない いい人なんだよ 大事にしないと
そんなよくできた人を目の前に自分は脊髄反射かなにかで生きてて哲学的ゾンビかなにかで
自我なんて上等なものなどないんじゃないかなってことまで疑う 人間性が皆無