2020-05-10

一点物芸術としての演劇悲劇

平田オリザ発言炎上している。

平田氏の感覚世間一般とズレていることと、ネット大衆演劇界隈への敵対心があることが、炎上根底にある。

ではなぜ平田氏は「大衆」に向けて「大衆」に支持される言葉を発することができないのだろうか。

演劇は複製芸術ではない。

映画のような複製芸術においては、作品評価に関して大衆から牽制を受ける。

どれだけ批評家が高尚な文章で讃えた作品であっても、大衆からの支持が全く得られない作品は、市場から消える。

市場から消えると、批評家言及しづらくなる。そして、その作品は忘れられてゆく。

別に大ヒットになる必要はないが、DVD販売され続ける程度、あるいは配信され続ける程度の大衆からの支持は、作品が残るためには必須なのだ

これは小説においても同様で、全く売れない作品市場から消えて忘れられてゆく。

どの作品市場に残すか決定しているのは大衆なのだ

一方、一点物芸術である美術場合事情は全く異なる。

今、名画とされている絵画作品も、多くの人びとを感動させたから名画とされているのではない。

名画とされているから、多くの人びとが感動しているのだ。

何を名画とするか、それを決定しているのは、美術のごく狭いサークルの人たちだ。

そのサークル実態時代と共に変わるが、昔は王侯貴族であったり、現在ならコレクター美術批評家だ。

世界現代美術でも数百人もいないごく少数のプレイヤーコレクター)が美術作品の値段を決めている。

さなサークルのなかで価値を認められたモノが、美術館に飾られ大衆もそれに感動しているわけだ。

大衆からの支持なんて全く必要ないし、大衆から牽制も受けない。

狭いサークルのなかでさえ認められたなら、それは歴史名前の残る作家作品になるのだ。

演劇もこの美術世界に近いものがある。

芸術性の高い演劇を見る人の絶対数はどうしても少なくなる。

観客も演劇ムラの人たちがどうしても多くなるし、そういうムラ内での評価作品価値を決めていく。

から演劇人も大衆に向けて言葉を発する機会よりもムラ内に向けて発言することがメインになる。

よって平田氏も大衆ウケる言葉を述べることができないのだ。

またネットユーザーの少なくない数が演劇界隈を敵視しているのも、演劇を見る機会がないからだろう。

ジャニーズディズニー不祥事には擁護厨が湧くが、演劇場合、それが少ない。演劇を見ている人が少ないからだ)

演劇人はメディアでの発言権だけはあるので、ふだん演劇と関わりのない人たちからは「なぜあいつらだけ特別なのか」という気持ちが出てくる。

これらは演劇という表現に関わる構造的な問題であり、演劇が一点物芸術としての特性を持っていることの悲劇だ。

全ては必然なので、解決しようがない。

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