はてなキーワード: 美徳とは
10代男女のSNSのアイコンでアニメアイコンとは違う少女漫画みたいなド爽やかな似顔絵使ってるやつあるやん
投資詐欺とか意識高い系サロン運営者みたいな自画像の美化できっしょ、実物はチビ猿やんけ
まだ自撮り使ってる陽キャDQNの方がマシやんと思う事がままあったんやが
物心ついた頃からSNSが身近にある10代にとってはネットにキラキラした美しい自分を載せることって自然な事なんやな
ワイらみたいな年寄りは自分を美化しすぎると恥ずかしいと卑屈になってちょっとふざけたアイコンで自我を保ったりするが
悩みを一人で抱えて黙ってる事が美徳だったのは周りに助ける余裕があった時代だけだよ
みんなが自分の都合で利益の取り合いしてる世の中で他人に遠慮してたら不幸まっしぐら
自分の都合で話すことを恥とは思わないけど、恥ずかしくないの?って聞かれたら「そういう時代もあったよねw」くらいしか返しようが無い
マスク着用、とりわけ男性のマスク着用について、私が以前から少し考えていたことを書いていきたいと思うのですが、
昨今のマスク着用について、人の少ない屋外ではマスクはしなくていいよ。といった具合に喧伝が進んでいると思うのですが
それでも私を含め、人通りの比較的少ない屋外でもマスクを着用している人はまだまだ多いという印象です。
私に関してはマスクをしてないとやはり心配という思いと、そもそもマスク着用がそこまで苦ではないといった理由で屋外でも着用しているわけですが。
しかしながら、屋外はおろか屋内、例えば満員電車の中でもマスクを外している人というのもこのところよく見かけるようになりました。
マスクできない理由というものも人ぞれぞれにあるでしょうから、そこは尊重していきたいとは思ってはいるのですが……
そんな中、気づいたことがあるのですが、屋外屋内限らずマスクを外している人には圧倒的に男性が多いということです。
以前からもマスクを着用しない男性が叩かれたりなどはよくニュース記事でも見た記憶があるのですが、
なぜ一部の男性はマスクを着用したがらないのか。逆になぜ女性はマスク着用に抵抗がないように見えるのか。
ここからはあくまで私の推測と観測範囲(と偏見)が大いに絡むのですが、
割とヤンチャというか盛んな男性性を顕示している男性にマスク非着用率が高そうという印象があります。
そういう男性にとって「マスク」というアイテムは自身の弱さを外部に対して晒すというようなそういう印象を持っているのではないか?ということです。
「弱さ」といってしまうと語弊があるかもしれませんが、自身がマスクで外部からの攻撃を防御している姿は「情けなさ」に直結すると思っているのではないか?といいますか。
強いことが美徳と刷り込まれた男性(意識的や無意識的かはさておき、特に男性性を武器に社会をサバイブしてきた男性)にとって、
マスクというのは、攻撃性を外部に晒すことを良しとされてきたのに、生まれて初めて自身の身を守るという防御性を晒すことを求められた経験というか。(そのつらさと規範性についても考える必要は大いにあると思いますが)
その他にも、男性は自身を大切にしない傾向が強いという特性ゆえ、自身を守る・大切にするという象徴でもあるマスクを着用しなくてもいい、
単にめんどくさいから、うっとうしいからなど、さまざまにその理由というのは考えられるのですが(めんどくさいから○○しない。というのはそこに特権性が隠れていると私は思っているのですが、そこは今回は割愛)
マスク着用とジェンダーは実は密接に関わっているのかもしれない。と私は思うようになっています。
逆に女性がマスク着用に抵抗がなさそうなのも、マスク着用などに見るある種の「抑圧」に晒されることは女性にとって慣れっこであって、
そういう抑圧を無意識的に引き受けてしまうという背景もありそうな気はしています。(特権男性は抑圧経験が極端に少ないがゆえにマスクへの抵抗も強いのでは?というのもひとつ考えられます)
あと、女性というのは顔の美醜のジャッジを常に受ける存在でもあり、マスクをしているとそういうジャッシを軽減できますし、そういうのもありそうな気もしています。
とはいえ、単にマスクをしているとメークが簡素で済むなど実利の面での効果も考えられますが。
考えすぎという面も大いにありますし、なんでもかんでもジェンダーに結びつけるのはよい向きではないとは思っていますが、
イケイケのフェロモン強そう系の男性集団になぜかやたらノーマスク率が高いという、私の観測範囲限定ではあるものの、そういう光景を見かけると
↑の増田。
追記↓
文章中で結構疑問文あるけど、それらはお互い面倒くさいだろうから全く答える必要なし。なんなら返信自体くれなくていい。それよりゆっくり考えて。善人を騙るのであれば全部読んで端的に反論して俺を納得させろ。
個人的に、善人って名乗る奴は荒らしとか誹謗中傷する奴より苛つくんで、つい噛みついた。悪かった。
俺以外の誰かが漫画とかで正義感養うこと自体は否定しない。ただ「完全に理解した」で思考停止するのはバカのやることなんで、気をつけて。
追記↑
ちゃんと律儀に返すのは誰にでもできることじゃない。
さんざん小馬鹿にしてくる俺のことを本心でどう思ってるかはともかく、そこは元増田の美徳だと思うわ。
あえて断言するけど、元増田は善人ではない。
これから結構キツいこと言うけど、善人でありたいと願うなら、俺がこれから偉そうに言うことを肝に銘じとけ。
ちなみにかなり長いから、あんま傷つきたくないなら最後のまとめだけ読んで。
1つ目に関してはまあ善行でいい。
3つ目は正直、俺からすると「いただきます」「ごちそうさま」並に当たり前で日常の行為だ。自ら善行と宣言するにはいちいち覚えてられないほど小さい。
追記↓
感謝って何か分かるか?
感謝ってのは、相手が先に何かしてくれた結果、それを得難いものだと思ったから出てくる気持ちなんだよ。
つまり、「相手が先に何かしてくれた」の時点で相手にとってはマイナスで、感謝の言葉を伝えたところでマイナスが精々プラマイゼロにはなっても、善行と呼べるほどプラスになることはない。
この場合善行と呼べるのは元増田の行為じゃない。先に施してくれた相手の行為だ。
そこに気づいてない時点で考えが浅い。
追記↑
重要な情報が2つ抜けてる。「誰に譲ったか」と「席を譲るまで元増田がどのように席を確保していたか」だ。
情報を補足して、たとえば「電車で席に座っていた元増田は、目の前にいた高齢者を見て席を譲った」だとする。
このような場合だと、やっぱり自ら善行と宣言するには弱過ぎる。
別に高齢者じゃなくて妊婦でも子連れでも障がいのある人でもそうだけど、大抵の人は一、二回遠慮するもんだ。そういうやり取りによるストレスが、座れたことによる安心感を上回る場合もある。
さらに、目の前に席を譲る対象がいなかった場合、元増田は「誰に席を譲ろうか」と考えて車内を見回すだろう。その選択はどのようにしている?自分の中で優先順位があるんじゃねえの?見た目じゃ分からない辛さを抱えてる人だっているだろう。ホントにそれは善行なのか?
俺からしたら、席を譲るというのは独善的な行為だ。譲らないよりはよっぽどマシだけど、「不良が子猫を拾う」みたいなもんで自ら宣言するほどのものじゃない。
それに比べたら、「電車ん中?譲ったりすんの面倒だからずっと立ってる」って奴の方がよっぽどまともだ。
元増田自身が普段は座ってないと辛いタイプの人間だったらすまんけど。
てか、それくらいのことしか挙げられないの?本当に小さすぎる。それくらいならいくらなんでも俺だってするぞ。
駅構内で明らかに困ってる男性外国人に声かけて乗るべき電車教えたらめっちゃ感謝されて無理矢理駅構内の回らない寿司奢られたとか普通にある。いやこれは俺的にすげえ対価貰ってるし、善行じゃねえけど。
追記↓
ちなみに上記以外にも道案内したことが何度かあるけど、俺は八方美人しがちで「人助けしてる俺カコイイ」って欲がある。だから俺の道案内は善意じゃないし善行でもない。自慰行為にたまたま近くにいた他人を巻き込んだだけ。
追記↑
「良い結果」ってのはその他人にとっての良い結果なの?それとも元増田にとっての良い結果なの?
元増田の善意による「良い結果」が人を殺したら、元増田は事後的にその善意についてどう考えるの?反省するの、しないの?
「良い結果」と、「良い結果が人を殺した」って事実とをどう(追記:「どう」っていうのは、「人を殺したり、他人に迷惑をかけた」以外にもどこかに影響が出てる可能性があるだろ、その影響範囲の内外を線引きする覚悟は出来てんの?みたいな意味)天秤にかけて、誰が(追記:どちらがより悪いかを)判断するの?
考えが浅すぎる。善人を名乗る決意が安っぽすぎる。むしろ一周回って悪人に見える。鱗滝左近次だって色々言ってるだろうが。漫画からなんも学んでないじゃん。鬼滅読んでないなら知らんけど。
学の無さや配慮の無さ、怠惰性がたたって良い結果にならない事があるのは自分でも認めるところですが、基本的に他人には善意を持って接したいと思っていますし、自分に関わった人間には良い気持ちでいてほしいと心から思っています。
と言ったな。
これを俺は、元増田が「俺は基本的に善人である」と個人的に思っているのだなと捉えていた。
で、俺の質問「元増田の思う『善人』の定義は?」に対する回答はこうだ。
上記のような想い(善意)を持っている人間は「善人」かなと思います。
おいおい。
それ最初(追記:元記事の時点)に言わないといけないやつだろ。
元増田は以下のどっちなんだよ。
どちらにしろそれ以外にしろ、善人でありたいなら「善人」って言葉に対するそのクソ甘い認識は改めろ。
「自分は善人である」、そう思うのは自由だ。自己暗示かもしれないし。
だけどそれを人前で言った瞬間に、その言葉は元増田自身の定義「二分されるものでなくその時の状態を表す」をもって矛盾か、嘘か、傲慢になる。
その矛盾や嘘や傲慢は、自覚のありなしに関わらず、少なくとも俺にとっては悪意以外の何物でもない。
かろうじて元増田にとって悪意ではなくても、その矛盾や嘘や傲慢は、善人であろうとすればするだけ元増田自身を苦しめるだろうが。
その定義に沿うなら、せめて「俺は常日頃からできるだけ善人の状態を維持したいと思ってます」と言え。
明文化するのは難しいですが「社会で生きていく中で他人とのトラブルを避けることができるような考え方、マインドセット」という感じですね。
でもそれ(追記:元増田の定義)、元記事の「善意を良しとする考え方(正しい正義感)」と何か関係あるんか?
要は事なかれ主義ってことだろ?そうとしか読めねえよ。(追記:元増田の言う)善意だとか正義感とかと全く関係ない。
長い追記↓
いやも〜、この言葉がまじで意味分かんなすぎて、俺、あんま考えずに強い言葉で断じちゃったよ。
お互いの認識に齟齬があるかもしれないから、修正するために補足する。修正できるか分からんけど。ややこしいし。
まず、「善意はその主観的な〜」の「その」ってのがどれを指してるのかすっげえ分かりにくい。
指示語(https://ja.m.wikipedia.org/wiki/指示語)の多用は読者に要らぬ誤解を招きやすいから気をつけた方がいいよ。俺も気をつけるわ。
で、今んなってよ〜く読むと、なんとな〜く「その」は「誰か」のことで、「その主観的なハッピーエンド」は「誰かの視点で納得のいく、モヤモヤとしたものが残らない結末」のことなんかな〜ということがかろうじて分かる。
すなわち「善意はその主観的なハッピーエンドの押し付け」を読み替えると、「善意とは、『対象自身が納得でき、かつモヤモヤとしたものが残らない結末』を、同対象に対して押し付けることである」ってことになる。
いやいやいや、分かりづれえって。
俺はさあ、この記事を書いた当時、「え、意味分かんね」ってなった後ちょっと考えて、「その」は直前の「善意」のことなんかなと思ったんだよ。
そうすると、「善意はその主観的なハッピーエンドの押し付け」って言葉は、「善意とは『元増田が主観的に考えたハッピーエンド』を『誰か』に対して押し付けることである」って読める。
違うんだな。やっと分かった。あ〜疲れた。
以上の追記と、元増田が思うハッピーエンドの定義を総合し読み直して、ついでにちょっと言葉遣いもアップデートして俺の主張をあらためると、以下のようになる。
ハッピーエンドを押し付けるとき、対象が善人の状態か悪人の状態かは気にしねえの?「善人悪人は二分されるものでなくその時の状態」なんだろ?
押し付けるときに善人か悪人かで結末が違ってくるかもしれないし、同じ結末でも善人か悪人かで納得したりしなかったりするんじゃねえの?
元増田は対象に、ハッピーエンドを押し付けることの合意を事前に取るの?取らないの?
合意を取るのであれば、ハッピーエンドを押し付けるのは元増田であるって情報は対象に知らせるの?知られないようにするの?
合意を取らないのであれば、どうやって対象が求めるハッピーエンドを導き出すの?
ていうかそもそも「結末」ってなに?どの時期・どの場所・どの目標にゴールポストを置くの?置くところは誰がどういう基準で決めるの?
たとえば、一旦元増田の善意でなんらかの形で結末の位置が決まってハッピーエンドを迎えた善人が、後の人生でバッドエンドを迎えたらどうすんの?心を痛めるの?反省するの?あるいはバッドエンドを迎えないようにその善人の一生をずっと見守るの?それともハッピーエンドの後については関知しないの?
もうね、いくらでも出てくる。正直ツッコミどころが多すぎてキリがない。
「あっ、元増田はハッピーエンドが好きなんだね〜良かったね〜」ってことしか分からない。
なんで俺がわざわざネチネチこんなにツッコんでるか。
ツッコミの回答がどうあれ、元増田の善人を標榜した上での態度は無責任なんだよ。
対象が考えるハッピーエンドが「人類滅亡」とか「不老不死」とか「異世界転生」とか「世界平和」とかだったらどうすんの?
一応元の主張も残しておく。
追記↑
誰かって誰?特定の第三者?ランダムに選んだ第三者?元増田?その人自身?それとも不特定多数の人?
モヤモヤとしたものが残らなければ良いんだったら、バッドエンドだってそうなり得るだろうが。その「誰か」が具体的に誰を指すかは知らんけど、いずれにせよ元増田の定義により、「善人の状態」とは限らないんだから。
主観的なハッピーエンドの押し付けは、それはもう全くもって善意じゃねえ。
全体的に考えが浅い。徹頭徹尾、自己中心的で曖昧模糊で矛盾が多すぎる。
ただただ黙々と善人で「あろうとして」、何かに尽くした元増田の言動を、元増田の意志とは関係なしに「たまたま」見た「誰か」が判断するんだよ。
だから「誰かにとっての善人が、他の誰かにとっての悪人」ってことが起こる。
善人ってのは、自分で名乗るもんじゃねえんだよ。んなもん、言った瞬間に、元増田の想定しない「誰か」にとっての嘘になる。想定してる「誰か」だって幻滅するかもしれない。「森羅万象にとっての善人」なんてあり得ねえんだから。どっかにいるんなら具体例を挙げてみろ。
誰かにとって嘘と判断されることを受容できてなお善人を自ら名乗るってんなら、元増田はもはや善人じゃない。いつでもどこにでもいくらでもゴキブリみてえに湧いてきやがる、クソったれな偽善者だ。
んでもって善意とは何かと考え続けろ。
これは漫画百万冊読んだくらいじゃ到底解決できない。ひたすら長くて、複雑で困難で苦しくて、だけど唯一真っ当で、一生つきまとう課題だ。
「人生の三大美徳は、怠惰(Laziness)、短気(Impatience)、傲慢(Hubris)」by Larry Wall
そうはならんでしょ
2のやつがコンビニやめてもっと自分を大事にしてくれる会社行けば良いだけやで
けどまぁ上のいうことを素直に聞いて黙々と仕事してくれる人ってどこでもありがたがられる・可愛がられるけど
北海道にやってきて早10年、奴らに謙遜は通じないということをようやく学んだ。
渡道のきっかけは大学進学。とはいえ動物のお医者さんの大学ではなく、札幌に位置するただのFラン大学。在学者は北海道出身者が半分以上を占め、私の友人もほとんどが実家住まいだった。
私は本州の地方出身のため、大自然いっぱいの土地は心地よかった。しかし、友人関係で徐々におかしいと思うことが増えてきた。謙遜が通じないのだ。少しでも謙遜を交えて話すと、後日それが陰口に変わる。
私「いや〜カツカツでなんとかやってるだけだよ〜」
という会話をしたとする。すると後日「あいつんち貧乏なんだってよ」という噂が回る。
しかもそれが別の友人経由で心配される。「今月キツいって聞いたけど大丈夫?」のように。友人は心から心配してくれているが、かなり話が変わっている。最初は私が嫌われ者なのかと思った。しかし長く付き合うとわかった。北海道民は謙遜がわからない上に噂好きなのだ。
Fラン大だからと思ったがそうでもないらしい。そこそこ札幌では大手の企業に就職したが謙遜が通じないのは変わらない。
出る杭は打たれる文化の根強い本州のど田舎で育った私には自然と謙遜する話し方しかできなかった。もちろん謙遜しすぎもいやみったらしいため加減が必要ではあるが、(仮に事実だとしても)見栄っ張りは良くない・謙遜は美徳という意識が刷り込まれている。
そのため言葉を額面通りに受け取られる文化に慣れず謙遜し続け「あいつはたいしたことないやつだ」と思われるに至る。幸いなことに人事評価には影響ないようだが、同期では1番できないやつと思われている。北海道で謙虚に生きるとナメられることをようやく学んだ。
奴らは謙遜しないでありのままを話す。それに慣れて話すことができれば心地いい環境だと思う。大自然のように素直であるがままなのが北海道民なのだ。それもそれで美徳だとは感じる。