はてなキーワード: 篠原とは
衆議院選挙に向けて反ワクチン議員のリストがないのか、という呟きを見たので。
2022年に結成されていた「子どもへのワクチン接種とワクチン後遺症を考える超党派議員連盟」は、内部に温度差はあろうけど、事実上の反ワクチン議員の集まりである。
結成時点の参加者は以下の通り。
発起人
入会者
私が東海道新幹線に乗ったのは新幹線が開業して30年以上経った90年代。
母方の実家があるため静岡の病院で産声を上げた私が、当時両親の住んでいた社宅がある神奈川へ帰るために乗ったのが恐らくファースト新幹線。勿論記憶の欠片もない。
そこから幾年経ったのか明確に記憶があるのは、まだ0系が走っていた頃。例によって静岡の祖父母宅へ行かんと新横浜駅の待合室でこだまを待っている時の記憶。
当時、のぞみは走り始めていたが新横浜を通過するのぞみもまだまだある時だった。
全ての列車が停車する今となっては考えられないが、かなりのスピードで新幹線が新横浜を通過する時は待合室に相応の轟音と振動が伝わり、幼心に恐怖心が芽生えた。
こだまがそろそろ着く時間になると、エスカレーターを上がり4番線へ向かう。篠原側の有閑な景色を見て少し経った頃に、0系がホームに滑り込んでくる。
これに乗るといよいよ静岡のおばあちゃん家に行くぞ、と気持ちが出来上がるのだった。
そんなわけでしばらく新横浜〜静岡の往復でしか東海道新幹線というものを知らなかったが、その見聞が一挙に広がることとなる。
ある時、静岡の祖父が旅行を企画してくれた。寝台特急富士・はやぶさで九州へ行き、帰りは博多から500系のぞみで帰ってくるというものだ。(祖父も神奈川まで来てくれた)
フォルムの格好良さに憧れてはいたのに縁のない列車、と諦めていたが遂に乗れるチャンスが訪れたのだ。
空気抵抗を減らすため円形に作られた車体は2列×2列シート。高身長の祖父は少し窮屈そうにしていたが、幼少の私はそんな事気にも止めず、5時間近くの乗車をただただ楽しんだ。
何せ全てが見た事ない。そして、300km/hで流れていく景色の速さ。気付けば慣れ親しんだ新横浜のホームに降り立っていた。
そこから、中学の修学旅行で京都に行き、当時まだ試運転をしていたN700系を見たり、大学に入ってから付き合った彼女と京都に行ったり。
そして現在に至る。
三十路を越えた今では、JR東海に勤めることは出来なかったものの電車のマスコンハンドルを握って仕事をしている。
恨むこともないし、社会人になり親友が名古屋に転勤になったからと託けて名古屋に行ったり東京での飲み会の帰りが面倒で乗ったり、と東海道新幹線に乗る機会は減るどころか増える一方だった。
飲み会帰りに気軽に使うような間柄になっても、やはり新幹線という特別感は拭うことが出来ない。東京駅の東海道新幹線ホームに上がり白い車体を見る時、心の端にいつも高揚感が芽生えていた。
車両が変わり、速度が増して静岡まで1時間を切るようになり、その距離は益々近くなっていったが、社会人になった忙しさとコロナ禍にかまけて私と祖父母の距離は遠くなっていた。
予め認知症などの兆候があったとはいえ、やはり思うところはある。
静岡のホームで、ここ空いてるよ!と並んでる列を割り込もうとした祖母を窘める祖父のこと。
社会人になった後に神奈川へ祖父母が来た時、帰りの切符をグリーン車で取ってあげたらグリーン車なんて乗るの初めてだよ…と泣かれたこと。
母は、修学旅行では寝台特急で長崎へ行ったと言う。それはそれで羨ましいものがあるが、新幹線開業以前、長距離の旅とはおいそれと気軽に行けるものでは無かった。
現代では、仕事終わりに急に新幹線に乗っても1日とかからずに殆どの目的地へ行くことが出来る。
私と祖父が同じ時代を生きた時に、新幹線があって良かったと思う。
会いに行こう、をテーマ曲に。これからも日本の大動脈として人々の出会いを支えて欲しい。
そう思って文を締めます。
私が東海道新幹線に乗ったのは新幹線が開業して30年以上経った90年代。
母方の実家があるため静岡の病院で産声を上げた私が、当時両親の住んでいた社宅がある神奈川へ帰るために乗ったのが恐らくファースト新幹線。勿論記憶の欠片もない。
そこから幾年経ったのか明確に記憶があるのは、まだ0系が走っていた頃。例によって静岡の祖父母宅へ行かんと新横浜駅の待合室でこだまを待っている時の記憶。
当時、のぞみは走り始めていたが新横浜を通過するのぞみもまだまだある時だった。
全ての列車が停車する今となっては考えられないが、かなりのスピードで新幹線が新横浜を通過する時は待合室に相応の轟音と振動が伝わり、幼心に恐怖心が芽生えた。
こだまがそろそろ着く時間になると、エスカレーターを上がり4番線へ向かう。篠原側の有閑な景色を見て少し経った頃に、0系がホームに滑り込んでくる。
これに乗るといよいよ静岡のおばあちゃん家に行くぞ、と気持ちが出来上がるのだった。
そんなわけでしばらく新横浜〜静岡の往復でしか東海道新幹線というものを知らなかったが、その見聞が一挙に広がることとなる。
ある時、静岡の祖父が旅行を企画してくれた。寝台特急富士・はやぶさで九州へ行き、帰りは博多から500系のぞみで帰ってくるというものだ。(祖父も神奈川まで来てくれた)
フォルムの格好良さに憧れてはいたのに縁のない列車、と諦めていたが遂に乗れるチャンスが訪れたのだ。
空気抵抗を減らすため円形に作られた車体は2列×2列シート。高身長の祖父は少し窮屈そうにしていたが、幼少の私はそんな事気にも止めず、5時間近くの乗車をただただ楽しんだ。
何せ全てが見た事ない。そして、300km/hで流れていく景色の速さ。気付けば慣れ親しんだ新横浜のホームに降り立っていた。
そこから、中学の修学旅行で京都に行き、当時まだ試運転をしていたN700系を見たり、大学に入ってから付き合った彼女と京都に行ったり。
そして現在に至る。
三十路を越えた今では、JR東海に勤めることは出来なかったものの電車のマスコンハンドルを握って仕事をしている。
恨むこともないし、社会人になり親友が名古屋に転勤になったからと託けて名古屋に行ったり東京での飲み会の帰りが面倒で乗ったり、と東海道新幹線に乗る機会は減るどころか増える一方だった。
飲み会帰りに気軽に使うような間柄になっても、やはり新幹線という特別感は拭うことが出来ない。東京駅の東海道新幹線ホームに上がり白い車体を見る時、心の端にいつも高揚感が芽生えていた。
車両が変わり、速度が増して静岡まで1時間を切るようになり、その距離は益々近くなっていったが、社会人になった忙しさとコロナ禍にかまけて私と祖父母の距離は遠くなっていた。
予め認知症などの兆候があったとはいえ、やはり思うところはある。
静岡のホームで、ここ空いてるよ!と並んでる列を割り込もうとした祖母を窘める祖父のこと。
社会人になった後に神奈川へ祖父母が来た時、帰りの切符をグリーン車で取ってあげたらグリーン車なんて乗るの初めてだよ…と泣かれたこと。
母は、修学旅行では寝台特急で長崎へ行ったと言う。それはそれで羨ましいものがあるが、新幹線開業以前、長距離の旅とはおいそれと気軽に行けるものでは無かった。
現代では、仕事終わりに急に新幹線に乗っても1日とかからずに殆どの目的地へ行くことが出来る。
私と祖父が同じ時代を生きた時に、新幹線があって良かったと思う。
会いに行こう、をテーマ曲に。これからも日本の大動脈として人々の出会いを支えて欲しい。
そう思って文を締めます。
漫画家・芦原妃名子さん死亡の報を受けて「脚本家のせい」がトレンド入りするのは最悪の流れ(篠原修司) - エキスパート - Yahoo!ニュース
https://l.pg1x.com/bicy1dabR4VrDiAf9
芦原妃名子さん訃報めぐり元放送作家が私見「脚本家への誹謗中傷は絶対にやめてください」(日刊スポーツ) - Yahoo!ニュース
https://l.pg1x.com/JqS7JZGDVKk1cyBf7
漫画家で参院議員の赤松健氏 「セクシー田中さん」芦原妃名子さん訃報受け「脚本家を責める流れになってはならない」(よろず~ニュース) - Yahoo!ニュース
https://l.pg1x.com/HXfrcG5gk3p8LeGS8
いや。おかしいやろ。
監督やプロデューサーの言い分が「大正義」だったとしても「原作というもう一段上の大正義」があるんだからな、表立っている。
制作契約のことなんぞ視聴者もスポンサーもしらんわ、マジで(笑)
スポンサーは「放送される」っていう契約だし、視聴者は「TVを見るだけ」っていう緩い契約しかない。
心配するのは連鎖やろ。だが、連鎖でも起こらん限り、というか「TV屋の畑に流れ弾で人死が出る」ことでも無い限り絶対に改めんのがTV屋や。
まぁ、死んでも気にしないけどなアイツラ。だって「制作なんてのはトカゲのしっぽ以下」なんだもの。
バイタルパートは「スポンサーと仲良くやっていつもどおり、いつも以上に金を引っ張れるプロデューサー」と「スポンサーの趣味と、プロデューサーの性癖をしっかり理解して制作会社含めキャスティングするディレクター」だけだからね。
後は全員ただの兵隊。なんぼでも取り替えが利くし、取り替えられないディレクターは取り替えられるだけ。
ってのは簡単。
原作を読み込んで、原作の芯を捉えて、その芯をベースに再構成して、DやPの趣味や性癖、スポンサーが望ましいと思われるものを統合して入れること。
こんなもん「ゲームのノベライズ作家」なら全員普通にやってるぞ。できない奴はいなくなるだけ。
あんだけ作品をやってるのに、それができていない脚本家を排除できていない、あるいは脚本家オリジナリティがウケるDやPとのツルみが問題になるかな。
『ガンダムSEED』や『サイバーフォーミュラ』の監督と嫁脚本が、当時のオタクにぼっこんぼっこんにされていたんだけど、当時小学生~中学生の平成キッズにウォッシュされて「傑作!名作!」って扱いになってるのを苦々しく思ってる古参オタクは大勢いいるだろ。
まぁ、嫁が死んだのは可哀想だとは思うけど、今の映画の出来が良くなっているという話もあるので、嫁がキラやハヤトを偏愛しすぎていたのではないか、というのは今更だが、ちゃんと指摘していいでしょ。
作者のバレエ漫画をいくつか読んだけどどれもハッピーエンドにはなってないね バレエ未経験の自分からするとそれがリアルに感じられたけど(リアリティについては経験者に語ってもらうしかないが)
はたから見ればバレエって、自然な成長に抗って軽やかな少女の体を維持しなければ踊れない理不尽で不健康な芸事に見える きれいな姿勢を身体に覚えさせるためにやってますみたいなエクササイズ感覚でやってる子はまた違うんだろうけどローザンヌバレエコンクールを目指すような子は食事制限当たり前で第二次性徴に怯えて育つんじゃないの?偏見かな?
第二部のあの子はクミちゃんで確定 児童ポルノ界隈で外国人の富豪に才能を見出されて買われた、みたいな裏事情を自分は勝手に読み取った
クミちゃんは何より好きなバレエで才能を発揮できてるから、それまでの不遇も物語的にはチャラになるかんじなのかなと 主人公の篠原妹が世界トップレベルのバレリーナとしてではなく、コレオグラファーとして成功しそうだという話の筋もダンサーの禁欲的生活からは少し距離を置いたかんじで読者としては安心して読めたきがする(実際のコレオグラファーの生活はしらんけど)何が言いたいかって言うとバレエ未経験の自分からすると最高に説得力を感じる漫画だって事
テレプシコーラは踊りを司る女神の名前で、「舞姫テレプシコーラ」はバレエ漫画である
ハンタのネフェルピトーの念能力の名前は、タイミング的には女神からではなく漫画から取ってると思われる
この漫画は現代日本のバレエ事情をよく描いていて面白いのだが、「バレエ漫画だよ」といって他人にオススメするには無駄に鬱展開が多い
一方で篠原妹の同級生・空美(クミ)ちゃんはろくにレオタードもシューズも買えないどころか風呂もなかなか入れない極貧限界家庭のブス
そんな空美ちゃんだが、伯母は元有名バレリーナで厳しく指導されてきたためバレエ技能は篠原姉妹を優に超える
伯母はバレエキチガイであり、飯が食えなくてもとにかく踊れという人間
「不遇な環境にあり軽んじられてる者が実はTUEEE」自体はありふれたプロット
でもそこで「空美ちゃんは親に売られてたびたび児童ポルノ撮影させられ、無職の家族を養ってる」という展開をブチ込んでくる
サッカー漫画や野球漫画でユニフォーム買えない貧乏少年が児童ポルノとかなかなかないだろ????
ポルノの世界は撮影者が被写体を誉めに誉めてお姫様扱いだからそれがクセになるみたいなのを聞いたりするが
空美ちゃんは「ブス入ってたほうが生々しくて受けるけど流石にブスすぎる」とか無茶苦茶に罵られながら撮られる
空美ちゃんはバレエの天才であることを認められ費用を免除された上で活躍したりするも、一家で夜逃げし、転校届けも転居届もどこにも出されず消息不明になる
空美ちゃんはその後再登場とかしない マジでどこでなにやってるのか不明 なんだよこれ
第二部に、経歴が怪しげで謎に包まれた美女バレリーナが登場し、見た目は空美と似ても似つかないが踊り方が空美の特徴そのものであり「空美が整形し出自を偽った姿」ではないかという疑惑を読者に抱かせる
結局その答え合わせはなく消化不良のままで終わる
どうも作者はドロドロしたものを混じえつつ書いていこうと構想していたようだが、ちゃんと取材したりするうちに気が変わってドロドロ部分を放り投げたんじゃないか
おっとりマイペースな妹と違い、自分に厳しく鍛錬し勉強もできて中学受験では進学校にも行く
空美ちゃんという、それまでどこかの教室に所属していたわけでもないのに自分を超える能力を持つライバルの出現に燃えて張り合い、スポ根する
日常生活を送れる程度にはすぐに治ったものの、バレエをやる上では以前のように踊れず違和感があって上手くやれない
おっかなびっくり稽古をするうちに再負傷、治療中に二次性徴を迎え、体のバランスが大きく変わる中で踊れないのはバレリーナにとって命取り
篠原姉は踊れないうちは体が育たないようにと食事をこっそり捨てるなど病んだ行動を取り始める
生活はできるがバレエには苦労という微妙な問題を国内で対処できる医者がおらず、海外のバレエに詳しい名医に見てもらおうという案が浮上
篠原家は小金持ちだが大金持ちではなく、借金しようかとか祖父母の家を売ろうかという話になる
国内で数回手術したのも苦痛だった篠原姉は、元に戻れる保証もないのに親に多大な負担を与えてまで渡航して手術するのを嫌がった
勉強はできるので、バレエをすっぱり諦めてアスリートを助けられるような医者を目指したいと母に言う
しかし母は「それは逃げじゃないか、もう少し頑張ってほしい」と返す
篠原姉は学校からの帰り道に、タワマンに入っていく人を見かけ、ふらっと追従してオートロックを抜け、屋上から飛び降りて自殺してしまった
自殺までさせなくていいだろ
なんだこれ
スラムダンクの三井がバスケできないからって自殺するようなもんだ
篠原妹はバレエを続けていくが、周囲の天才であった姉も空美も消えていき、その他の子も勉強に専念とか美容体重キープを求められて摂食障害になったなどで辞めていく
「昭和ひとけた生まれというのは、育ち盛りを大戦争の最中に迎えているから、本当にしょうがない。思想は鬼畜米英だし、食べものはない。特に東京の下町などは何もないといっていいくらいで、主食はサツマイモ、菜はカボチャ」だった。
「渥美もこうした環境の下町で育ったから、死んでもサツマイモは食いたくないクチだったろう」あれれっ、いきなりこれではだめかなと思った。それはそれとして渥美関係の本はどれも面白い。気を取り直して片っ端から見ていくと、一冊だけだったが探していたものが出てきた。役者で渥美清の付人でもあった篠原靖治の「生きてんの精いっぱい 渥美清」(主婦と生活社、1997)で、こうあった。
「地方へロケに行っても、食事はごく質素なものでした。朝は旅館やホテルの中の食堂での和食、昼はやはり日本そばかラーメン、またはふかしいも。夜もご馳走というよりはおいもの煮っころがしのような物を何品か選んで食べます」 「宿の人と仲良くなってくると、さつまいもをふかしてもらったりもします。渥美さんはこれが大好物で、ロケ現場にまで持って行くのです」
長年、「シノ、シノ」と可愛がられてきた人の証言だけに重みがある。渥美清はいも嫌いの多い世代の一人だが、他の人たちとは違っていた。なぜか、それが本当に好きだったようだ。
発起人
入会者
ソース(https://youtu.be/ODvOxIMM15o)
主要人物の面子はワクチン危険論なら何でも飛びつくので、慎重派もいるとしても勉強会等で影響を受ければ実質反ワクチン集団になる見込みは濃厚。立民は衆参議員全体の1割くらいか。
ワクチンの安全性に懐疑的な態度自体は健全なので議論するのはよいのは前提であるが、その役割をここに求めるのは無理であろう。
さかのぼること今から20年前。1997年に放送されていた、トヨタ自動車・カローラツーリングワゴンのCMで共演したシノラーとユースケは「ゴーゴーカーロゴン♪カーロゴン♪カーロゴン♪」という、なんとも印象的なフレーズを口ずさんでいました。
この歌は瞬く間に評判を呼び、その勢いに乗って、2人は音楽ユニット『カロゴンズ』を結成。1998年1月には、シングル『カロゴンズのテーマ』、同年5月にはシングル『カロゴンズのラブソング』を発売しました。
話を現在に巻き戻して、今年の3月。篠原は自身が監修を務めたベストアルバムに、カロゴンズ名義の2曲を収録したのだとか。
そのこともあって、先述の対談でデュエットを歌った思い出話をユースケに振ると、彼は「(カロゴンズは)俺の黒歴史」と、バッサリ切り捨てたといいます。2人の「カロゴンズ愛」には、かなりの温度差があるようです。