はてなキーワード: 法学とは
人文系研究者のハシクレ(そろそろ若手じゃなくなりそう)として補足しておく。
文系、特に人文系では博士論文の執筆がキッチリ3年で終わる人は少ないし、博士課程にいられる年限を使い果たしてしまう人も多い。しかし、東大をはじめとした多くの大学では「博士課程単位取得退学後3年間のうちに博士論文を出して防衛できたら、課程博士と見なす」という運用をしている。
したがって、最近よく見る経歴は、「◯◯大学大学院博士課程単位取得退学、博士(◯◯学)」というもの。これは単位取得退学したあとに博士号を取得した、という意味。
実際に単位取得退学で助教や講師のポストをゲットした人は最近でもたまに見かける。増田の同年代で2~3人くらい(あくまで増田の観測範囲なので、実際はもっと多いだろう)。まあ、そういう人たちは和文論文だけじゃなくて、英語論文(分野によっては+英語以外の外国語論文)書いてたし、下手な博士より論文数多かったけどね……。博士号取得者を蹴落として任期付きポストをゲットした単位取得退学者も知ってる。純粋に業績が多ければたまに博士号取得者ではなく単位取得退学者が選ばれる場合があるということ。
このように、形式上は単位取得退学でも応募できる公募は今でも多い。JREC-INで文系の公募を見てみると、「博士号取得者、あるいは、博士の学位を取得した者に相当する能力を有すると認められる者」っていう募集条件が書いてあることがあるけど、後者が単位取得退学を指している。こういう条件の公募、普通に東大でもまだ出てるからね。ただ、条件に書いてあるからといって選ばれるかというと、よっぽど卓越してない限り厳しいんじゃないかしら。
(修士号しか持ってなくても業績が卓越してれば採用されるというのは、みんな大好きユーリィ・イズムィコa.k.a.小泉悠センセが示しているところだと思う。彼はそもそも博士課程に入ってないはずだけど、ロシア軍を分析するアカデミックな著書を何冊も出してたら東大の専任教員にまで上り詰めた)
とはいえやはり、博士号持ってない人への風当たりは強まっている。一部の宮廷や有名どころの国立大学では、常勤ポストの募集にあたっては人文系であっても博士号を要求しているし、学振PDや海外学振は10年くらい前から文系でも博士号必須になっていたはず(逆に言えば、40代以上の文系研究者の中には、博士号なしで学振PDやってた人が大勢いるってこと)。
ただし、博士号持ってない人への風当たり、というのはあくまで若手の就職市場でアカポスに採用されるかどうかという話で、もう就職しちゃったセンセについては博士号の有無とかあんま気にしたことない……博士論文以降ロクに論文書いてない人より、単位取得退学で面白い論文や著書いっぱい書いてる人の方がエラいじゃん? というのが文系の感覚だと思うんだが、どうだろう。池内恵センセくらい業績があったら、博士号の有無なんてもう誤差でしょ誤差。
ただ、外国で博士号獲った人についてはやっぱり一目置くかも。はてな界隈で有名な人だと北村紗衣センセとか。博士論文というのはだいたい1冊の本になるくらいの分量のものを書くということなので、それを外国語で書いてる時点ですごいよ。特にアメリカだと博士課程では厳しいコースワークがあるから、あれをくぐり抜けたってことだもんね。
最初に「文系、特に人文系」って書いたけど、「文系」と「人文系」は違う。「文系」は「人文系」と「社会科学系」に分かれていて、文学とか哲学とか歴史学とかは人文系、社会学とか政治学とか経済学とかは社会科学系、ってことになってる(あくまでもこれは日本の話。国によって分類は違う。たとえば歴史学を社会科学系に入れる国はヨーロッパにはいくつもある)。「単位取得退学」はもともと文系全体でよくある経歴だったけど、今ではほぼ人文系に限られてる印象。上で書いた単位取得退学でポストをゲットした人たちも、観測範囲ではみんな人文系。
ただ、法学・政治学は20年くらい前まで学士助手という制度があったので、学歴という点では人文系以上にガラパゴスだったりするのだが……学士号しか持たずに教授になってらっしゃる人たちが何人もいる分野です。はてな界隈で有名な人だと木村草太センセとか大屋雄裕センセとかね!
ところで、公募条件に「外国で出された博士に相当する学位」という謎の文言があることがある。外国で出された博士、ならともかく、外国で出された博士に相当する学位って何だよ。
実はかつての日本同様に博士号は功成り名遂げた大物が書くものという文化がまだ残っている国があって、具体的にいうとロシアとかそのへんの旧ソ連諸国。あのあたりでは博士候補(カンジダート・ナウク; кандидат наук; kandidat nauk)っていう学位があって、これがPh.D.に相当する。博士候補論文は大学院に進んで数年かけて書くやつで、実質的に博士論文。博士候補号を持ってればロシアでは准教授になれる。ロシアに留学して博士号獲った、って言ってる人のかなりの割合が、実は博士候補号の取得者だったりする。まあ、ロシアのカンジダート号は他国のPh.D.と同等っていうのはよく知られてるから、別に嘘じゃないんだけどね。
ところでウクライナでは2014年7月にこの博士候補制度をPh.D.に置き換える制度改正を始めて、2020年には全廃したらしい。うーん、ロシアとの縁を切って西欧と共通の制度に置き換えるなんて、2014年にいったい何があったんやろなぁ(棒読み)(時期的に完全な偶然というのもありそうだけど)。
“博士課程単位取得退学、博士”これは課程博士と同じ扱いです。3年の課程を修了し学位論文間に合わずに退学した場合も、3年以内に学位論文が出れば課程博士となるのです。
厳密には、「◯◯大学大学院博士課程単位取得退学、博士(◯◯学)」のすべてが課程博士というわけではありません。単位取得退学から10年後に博士号取得したら論文博士ですし。なので、経歴を見るか(たとえば、2022年に単位取得退学して2023年に博士号獲ってればほぼ確実に課程博士)、あるいはCiNiiで博士論文を検索するかしないとどちらかはわからないですね。
色んな理由があるので一概には言えませんが、本人の博士論文の構想が壮大すぎる、とか、書き上げる前にポストゲットできたから退学しました、とか、そういう場合が多いんじゃないでしょうか。課程博士論文を書き上げた人の経歴はみな似通っていますが、博論を書き上げられなかった人はそれぞれの理由があるものです。
そんな人、少なくとも最近は聞いたことないですけど、いつの時代の話ですか? 何がしかの業績(必ずしも論文という形である必要はないです。たとえば安藤忠雄センセみたいな場合)がなければ大学のポストには就くことはできません。もちろん霞が関から元官僚がゴリ押しされたりすることはあるかもしれませんが、それは業績なんも関係ないし……
この議論ならストレートで論文博士の東浩紀はそれだけで尊敬されても良さそうだけど学者からも石投げられてるし結局空気なのかな
東浩紀センセは、デリダ研究で博士号を獲った俊英だから叩かれてるんじゃなくて、彼の政治的意見を気に食わない人が多いから叩かれてるんでしょ。博士号獲った人は尊敬に値するけど、それはそれ、これはこれですよ。海外で博士号獲ってる人の意見に同意できないとか、日常茶飯事だし。
横増田だがこの件、当初(https://b.hatena.ne.jp/entry/s/www.yomiuri.co.jp/national/20231118-OYT1T50127/)が政教分離(憲法20条)に反する(違憲だ)、から始まってるからおかしなことになるんだよな。
法的問題と政治的問題、道義的問題を区別すべきというのはもっともで、法的に問題ないからと言っておのおのの政治的合理性や道徳心から批判が生じるのはあるだろうし、それを表明するのは全く問題がない。
ただ「法的に問題がある」が最初にぶち上げられちゃったんだよな。国葬の一件(行政法上、内閣に実施の権限があることに問題がない(侵害留保説)が、あくまでオレオレ法解釈に基づき食らいつく)でもあったが、批判者側が法曹でもなく法学に精通しているわけでもないのに法を振りかざし過ぎなんよ。
自然科学系もそうだが、人文科学系も恥かいている人多いと思うぞ。人文科学系は公務員試験受けるタイプを除いて法学の知識あるわけでもないが、もっとも自公政権に批判的な人の割合が多い層でしょ。
法学の雑誌でインパクトファクター10なんかあるわけないだろ笑
https://anond.hatelabo.jp/20231118203326
「政治上の権力」は政治活動ではなく国や地方公共団体の機能としての統治的権力を指すのが通説である。これは勝手に言ってるわけではなく、憲法学者が書いたまともな本であれば同じように解説してある。
あれ?いつも靖国神社参拝への批判に「政教分離の精神に反する」とかしてなかったっけ?
https://www.nichibenren.or.jp/document/statement/year/2004/2004_03.html
国政の最高責任者である内閣総理大臣が、その地位にあるものとして一宗教法人である靖国神社に公式参拝することは、同神社を援助、助長、促進する効果をもたらすものとして、国の宗教活動の禁止を定めた憲法20条3項の精神に悖る
この言い方だと、今回の、岸田首相の創価学会・池田大作への言及について違憲と感じる人が出てきてもしゃーないだろ。
もしかして、日本弁護士連合会は、法学的には明らかに合憲なので、真正面から違憲とは言えないから「精神に悖る」とかいって法律に詳しくない一般人ミスリードしてたんか?酷くね?
(事実関係)
○最高裁判事の枠や各団体(裁判所・弁護士・検察官)からの一名を推薦し、内閣はそれに従うという慣例が成立したのはここ50年ほどで、法的根拠はない。
○慣例ができるまでは内閣も最高裁も各団体も枠にとらわれず、内閣の任命権は実質的なものであった。
○現行の慣行については賛否がある。(利権ではないか/バランスが取れている)
(所感)
○そもそも最高裁判事の任命権は三権分立の趣旨からすると内閣から最高裁への牽制機能であり、それが形骸化していることは制度の趣旨に反するのではないか。
以下の記事のブコメにおいて、「最高裁判事の任命を慣例に従って日弁連の推薦の通りとしなかったのは間違っている」という前提のブコメが大半を占める。
安倍内閣が崩した最高裁判事選びの「慣例」 6年経て「元通り」に:朝日新聞デジタル
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/www.asahi.com/articles/ASRC65HZXRC2UTIL03S.html
○このレベルのことが6年かかる。公文書改ざん、不誠実な答弁などのモラル崩壊や倫理欠如が「彼」以前のレベルに戻るまでどのくらいかかるのか
○本当に本当に酷い政権だった。「無能による社会の衰退」より更にタチの悪い「卑劣さによる社会の破壊」が続いた。まだ与党内にその残滓は残っている。
○法学的な顕著な実績もない加計学園学園関係の弁護士が最高裁の裁判官になったり、安部政権はめちゃくちゃだったよね。亡くなって本当によかった https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%A8%E6%BE%A4%E5%85%8B%E4%B9%8B 典型的お友達人事
○今でもできないはずなのだが、ペナルティがないのが問題。政治が司法に干渉できる余地が絶対ないように、干渉が犯罪化できるように法律を整備しなおすべき。
○幼稚で未熟な政権がおよそ10年続いた事を考えれば司法の失われた10年はあまりにも長かった訳だ。
○どこが元通りなんだ。何の反省も改善もない。つぎはぎを当てただけ。また別の悪が現れたらすぐ崩される。
○「人事によって政権の意に沿う方向に物事を動かすのは安倍・菅義偉政権の特徴だった」司法だけでなく、教育機関や公共放送・日銀・内閣法制局など、独立性が重視される機関で尽くやった。
だが、それは果たして正しいのだろうか。条文を見ていこう。
(日本国憲法)
第六条(略)
2 天皇は、内閣の指名に基いて、最高裁判所の長たる裁判官を任命する。
第七十九条 最高裁判所は、その長たる裁判官及び法律の定める員数のその他の裁判官でこれを構成し、その長たる裁判官以外の裁判官は、内閣でこれを任命する。
(略)
なるほど、6条2項からは、最高裁の長官の指名は内閣に権限があり、天皇の任命権は形式的なものと理解できる。
そして、79条1項から最高裁裁判官の任命権は内閣にあることが一目瞭然だが、この任命権が6条2項の天皇による任命権のように形式的なものなのか、それとも指名権まで含む実質的なものなのかは実はどこにも規定されていない。
最高裁裁判官は、現在概ね裁判官出身者6名、弁護士出身者4名、学識経験者(学者や行政官など。検察官もここに入る。)5名で構成されている。
そして、退任者が出た場合、退任者と同じ出身母体(裁判官/日弁連/検察庁)が自分の枠に誰を当てはめるかを内閣に推薦する。
内閣は最高裁長官の意見を聴取した上で決定するとされているが、出身母体からの推薦は一名であり、最高裁はその推薦を尊重し、内閣はその通りに任命している。
1970年代はじめ頃までは推薦された者について内閣と最高裁で議論が交わされ、内閣が最高裁に従わないこともあった。
更に、検察庁と日弁連両方から別の者が推薦され、内閣で判断することすらあった(例えば日弁連から4名、検察庁から2名の推薦があり、内閣で1名を決定するなど)。
それ以降は、各団体は枠を意識して推薦するようになり、内閣は各団体からの推薦のとおりに任命するようになっていった。
実はこれは一切根拠がない。元々戦後5:5:5でスタートし、その後5:4:6となったり4:5:6となったり5:3:7となったり様々だ(前述の通り複数の枠からそれぞれ推薦されることもあったので、内閣の判断で枠が動くこともあった)。
しかし、概ね1970年代はじめから、ある枠の後任者は当然にその出身母体から推薦するという慣例が取られるようになった。また、推薦される者が一名に限定されたのもこのころで、内閣の任命権が形骸化されたと言って良いだろう。
そして、この枠については二通りの評価がある。なお、これらの意見は安倍内閣による任命への評価を避けるために00年代以前のものとしている。
「最高裁長官の意見を聞くかは内閣の自由だが、この習慣は是非続けて欲しい」(最高裁長官 裁判官出身 矢口洪一)
「既得権益。秘密裡に行われ、少数の人のみによって進められる。」(朝日新聞記者 野村二郎)
以下は私見だが、宮川判事の「特殊日本的な状況」という意見が非常に興味深い。宮川判事は肯定的な意見としてこれを述べているが、「出身母体間や推薦者間に軋轢を生じさせないために事前に調整している」という意味合い(実に日本的だ!)だろうから、今となっては肯定的に受けとるのは難しいのではないかと思う。
別の論点として、三権分立の制度趣旨としてこの任命権がどういうものか見ておきたい。
三権分立の説明において、最高裁から内閣への牽制機能として違法性の審査があり、内閣から最高裁への牽制機能として最高裁長官の指名と最高裁判事の任命がある。
ここからは再度私見となるが、最高裁判事の任命権が形式的なものであるならば牽制機能としては意味がない(小学校のときに習った三権分立の図が誤り!)ため、制度上は(天皇による各種任命権と違って)実質的なものととらえるべきだと考える。
また、上述の矢口長官も「最高裁長官の意見を聞くかは内閣の自由」と述べているように、少なくとも当時の関係者は既得権益などではなく単なる慣例であり、実質的な任命権は内閣にあると考えていたようだ。
従って、最高裁判事の任命権は実質的にも内閣にあり、安倍内閣の行った慣例破りが正しいかどうかはその人選が適切であったかどうかで判断されるべきではないだろうか。
弁護士枠の判事は、まず日弁連が候補者の推薦リストをまとめ、最高裁がその中から数人を選んだ上で、最終決定権を持つ内閣が決めるのが近年の慣例だった。