はてなキーワード: ごはんとは
松戸VTuber問題さ、なんでフェミ団体の主張から勝手に脱線して乳揺れでずっと文句言ってるの?意味不明なんだけど
https://news.yahoo.co.jp/articles/c9507864e22da576e1b8446b9c610b56e096b0a8
「セーラー服のような上衣で、丈はきわめて短く、腹やへそを露出しています。」「性的対象物として描写し、かつ強調しています。」
そもそもが「女性蔑視や性犯罪を誘発する恐れがある」 から 「公的な警察のPRに採用されるべきでない」 論理の話なんだから
大前提の「女性蔑視や性犯罪を誘発する恐れがある」 の根拠が 「VTuberの乳揺れの描写が公共の場のTPOにそぐわない」 ってことではてなで騒いでるんだよね。
じゃあさ「乳揺れの描写が公共の場のTPOにそぐわない」ことが「女性蔑視や性犯罪を誘発する恐れがある」 根拠はどこにあるの?そんなのあるわけないじゃん。
騒動の批判者は無根拠な「女性蔑視や性犯罪を誘発する恐れがある」を問題視してる話の中で
論理が繋がってない話を一生懸命してるのか理解不能なんだけど。
まるでご飯の話してる時にパンの話して煙に巻いてるみたいじゃん。
あれ?この話の仕方どっかで聞いたな。そうだ ご は ん 論 法 じゃん
💩吾輩を移植すればいいのだ!
・Amazonの整腸剤 の 売れ筋ランキングなどでレビュー熟読して試す。(なさってるとは思いますけど💦)
・Tarzan(ターザン) 2021年9月9日号 No.817 [腸のチカラ] [雑誌]
ひょっとして、ごはん時に水を摂りすぎとか?
いや君の言いたいことはわかる
から揚げ食べる前にゆっくり味噌汁飲んでじっくり味わえって言うんだろ
しかし
時間も限られた昼休憩、せめてこれを一口優先してから他のことをしたいと思わんかね
そうすると口の中がもう辛いんだよ
どうすればいいかな
追伸:そういえばごはんもおいしいお米使ってますと書いてあるのだが、から揚げと一緒に食べた時点で味がよくわからない。いっそふつうのお米でいいのではないか
起きたら11時25分で、そのまま布団で二時間ごろごろしていたら、かつてこの地で一緒に学生生活を送り、遠くに住んでる友達からLINEが来た。
しまむらオンラインと一部店舗で、ちいかわのピアス3組セットがゲリラ的に販売開始したらしい。
オンラインはすでに品切れ…ピアスをあつめていてちいかわが好きな友達はずいぶん悔しがっていた。
いま住んでる県内に「一部店舗」もないそうだが、調べてみたら、私は自宅から自転車で30分くらいのところに「一部店舗」があるらしいので、急遽出かけることにした。
ちいかわのピアスの在庫の確認に行く、予定にない一日がはじまった。
ごろごろ至上主義者なので、本来なら生まれるはずのなかった一日が生まれたのだ。
しかしまたがった瞬間、前輪の空気が全ぬけしていることが発覚、慌てて家の斜め前の自転車屋さん(私の自転車の故郷でもある)に空気を入れてもらう。
ここにこの自転車屋さんがなければ、はじまったばかりの私の一日は終了していただろう。
「半年のらないと空気もぬけちゃいますよね」と言いながら、放置状態が長くて汚れていた私の自転車をクリーナーで拭いてくれ、大変恐縮する。
出際には「気を付けていってらっしゃい」と言ってくれた。
予定になかった一日の、予定になかった言葉で、とてもうれしくなる。
縁あってここに住んではいるけれど、地元ってわけでもないので道がよくわからない。グーグルマップを頼りによろよろと自転車をこいでいく。
行ったことがないところにグーグルマップ頼みで行くと、めちゃくちゃ唐突に着いた感じがすることがあるが、今回は最上位のそれ。
ほんとうに唐突についたので、友だちに「なんか着いた」と、ナガノ的な言い回しで到着を報告した。
普段は地下鉄のエスカレーターにばっかり乗っているので、その遅さに驚く。高齢者や子どもがよく乗るからだろうか?
予定にない一日の、予定にないエスカレーターの遅さだ。
ちいかわのピアスは売り切れていた。ピアス売り場の広告の品のポップの下がごっそり空いていて、ああ、ここにちいかわがいたんだな…と感じられたけど、
念のため、モップ掛けをしている店員さんがいたのできいてみようと後をついていく。
しかし彼女、しまむらの通路を予測不能な経路設計で進んでいくのでなかなか追いつけず、期せずして謎のダンジョン感が出た。予定外のダンジョン。
やっとおいついた店員さんに、申し訳なさそうに「ちいかわもうないんです」と言われ、友達に「ちいかわもうないんですって言われた」、とLINEで報告したら
することもなくなったので、そのままイオンモール京都五条に行ってみた。ミリオンタウンのすぐそばにある。私は行ったことがなかった。
自転車をとめて入口に向かっていると、入口のそばにいきなりステーキがあるのが見えた。
まったく予想してなかったので、ちょっとはっとした。店名に恥じないいきなりステーキぶりだなと感心する。
中に入ったら今度はカルディがあった。今日は22時からオン飲みだからここでお酒を買って帰ろう。オリジナルのチューハイがおいしいとちいかわの友達が前言っていた。
カルディの前には生ジュースのスタンドがあって、カラフルなジュースの広告がキラキラしている。
これもいい、あとで買ってみようと思いつついったんスルー。なにも食べてないのでお腹がすいている、まずはごはん。
大学生だったころ、一回だけ北大路ビブレのバ~ミヤンに行ったことがある。それ以来だ。
予定外のバ~ミヤン。思い入れもなにもまったくなく、とてもすがすがしい。オーダーはタッチパネルで非対面ぶりが徹底されている。
どれも、びっくりするほどおいしいわけでもなく、顔をしかめるほどまずいわけでもなく、とても安らいだ。
ドリンクバーのオリジナルウーロン茶(冷)は、ちょっと茶葉を煮出しすぎたときのあの雑な渋みがあってとてもいい。
わたしはこの、煮出しすぎた茶の雑な渋みが好きなんだ…と気づかされて感慨深く、気持ちよくごくごく飲んだ。
予定外のいい発見があった。
食後には、凍頂ウーロン茶と仏手ウーロン茶を、それぞれポットでゆっくり飲む。
そんなことをしていたら、一階の生ジューススタンドのことがどうでもよくなってしまった。あるあるだ。
せっかくモールに来たんだしなとそのまま一周することにする。
イオンカードのポイントが、専門店で買い物すると10倍とあるのにつられて、秋の靴下を6足買った。3足いくらのやつを二組。
鞄屋さんで、地元にいる母が好きそうだなと思いながら赤い革の鞄を眺めていたら、控えめに「あててみてくださいね」と店員さんが言ってすぐ離れていく。
モールはキラキラしてるし、靴下も買えたし、ひとりでに「たのし~」と口から出てきた。予定にないことはなんでも楽しい。
京都も田舎だけど地元はもっともっと田舎で、イオンモールがもっと身近だった。どこのイオンモールも構造は同じ、期せずして故郷を感じる。
母と二人で行くと、思わずきゃっきゃとしてしまって楽しいんだよな。ゆっくりお母さんに会いたいなあ、などとしみじみ思う。
実家から離れて暮らす多くの人たちが、そんな気持ちでいる連休なんじゃないだろうか。
レモンのお酒と、白ワインのサングリアを買うつもりで並んでいたら、5倍希釈のレモネードのもとが並んでるのをみつけて、ついついそれも買ってしまう。
この前NHKの「ストーリーズ 事件の涙」で、バス停にいた路上生活者の女性が急襲されて亡くなった事件を扱っていた。
そのとき、生前、すでに路上生活者となっていた彼女、大林さんが、ショッピングモールのエスカレーターのそばでキャリーバッグを持ってうなだれている写真が出てきた。
今日とても楽しかったから、帰る前に振り返ってもういちどモールの中を眺めていたら、頭にその写真が浮かんできた。
彼女は私だと思う女性はたくさんいて、私もやっぱりその一人だ。
今は買い物をしている側だけど、結婚も仕事もしているけど、それで安定しているというわけでもない。
大林さん、何かひとつボタンを掛け違えていた自分なんだ、あるいはこの先の自分なのかもしれないな、そういうことを思いながら自電車を漕いで帰路に就く。
もう夕方になっていた。
古い美容室の前を通りかかったら、女性のお客さんが出てきて、そのあと店内の明かりのトーンが少し下がった。
ああ彼女は最後のお客さんだ、髪色が明るく、ぱりっとしたパーマがかかったご婦人。彼女のリニューアルした髪の毛を、美容師以外で最初に見た他人は私だ。
これも、ほんとうならなかったはずの今日の、全然予定にないことでちょっとうれしい。
わたしなんかでよかったのかなあと思いながら、似合ってますよと心の中でいって自転車をこぎ続ける。
ガソリンスタンドの前を通りかかる。私が通ろうとしているので、スタンドから出ていこうとする車を、店員さんが手で制している。
今日私がちいかわ探しにいかなかったら、この車はここをすんなり出て行ったんだろうなと思いながら、店員と車に会釈をして通り過ぎた。
ガイドブックにも載ってない、小さな神社の舞殿が、橙色の献灯で照らされいて美しい。
いつも電車の中から裏側を見ている整骨院の、表側を通り過ぎて行く。
「○○施術院」とだけ看板の出ている普通の民家、「どんな施術を…」と、なぜかちょっとエロい妄想をしてしまう。
空気を入れてもらった自転車屋はまだあいていて、お礼が一言いいたかったけど、店員さんは奥にいたから声をかけるのはやめて通り過ぎた。
考えすぎてもはや自分の容姿が客観的にどうなのかよく分からないけど、素は結構なブスでばっちりメイクして着飾れば普通かちょいブスくらいだと思う。
そんな容姿で数十年生きていれば普通はブスなりの諦めとか処世術とか身についてくるんだろうけど、私は未だに自分のブスさに悩み、絶望し続けている。
私は幼稚園の頃から眼鏡をかけていた。小学校も半ばになるととんでもない癖毛が発現した。当時はナル〇ヤ系ブランドが流行っていて、『もどき』のちょっと派手な服をたまたま一着買い与えられた。これはちょっと似合わないような気がする。でも鏡を見ない限り服だけが目に入る。可愛い、テンション上がる!
と引かれた。「お母さんが勝手に買ってきたんだよ」と強がった。
おしゃれをすることと、可愛らしい格好をすることが怖くなった。ぐりぐりの癖っ毛をショートカットにし、お下がりでボロボロのパーカーとジーンズを着た。眼鏡はなぜか無難な横長のレンズじゃなくてまんまるなやつをかけさせられていた。おまけに度が強いのでめちゃくちゃ目が小さく見える。
それでも私は密かに希望を抱いていた。なぜなら、それらは言わば足枷だからだ。
眼鏡を外した自分の顔を鏡で見ると、なかなか可愛かった。鼻はちょっと大きいけど、見慣れれば平気なレベル。目はぱっちり二重だし悪くないんじゃない? コンタクトにして縮毛矯正をかけられる時が来たら……見てろよ!
似たような経験のある人にはお分かりだと思うが、これはかなり危険な勘違いだ。鏡の前では誰しも『良い顔』を作ってしまう。しかも私の場合は裸眼だと鏡にかなり顔を近づけなければよく見えなかったので、至近距離からパーツごとに凝視していたことになる。全体のバランスが全く見えていなかった。
中学に上がったらもっとあからさまにブス扱いされ始めた。クラスのヤンキー達から陰で変なあだ名をつけられてクスクス笑われていたらしい(何ヶ月も続いた後にようやく知らされた)。あと、ブスハブりというか、差別。いじめと言うほど積極的ではないにしろ、クラスの可愛い子達、運動ができる子達、コミュ力の高い子達からスッと避けられる。あとに残った、(私の脳内では私より)極端に根暗な子達と仲良くするしかない。友達を選ぶ権利もない。いじめではないからどうにもできないが、私にとってはこれが一番堪えた。
それでも希望はある。高校に入ったらコンタクトにして縮毛矯正も許可するって親が言ってくれた。卒業まで耐えれば大逆転待ったなし!!
そして待ちに待った高校に入学した。私は美少女に生まれ変わった。いや、これが本来の姿だったのだ。さあ、今後毎日お弁当を食べるグループが決まる瞬間。隣の席の可愛い子、その前の席の可愛い子、後ろのいかにも運動部な子よ、仲間になろっ!
……ダメだった。彼女達は私など視界にも入らないかのように三人で机をくっつけてお昼を食べ始めた。私はあれよあれよと言う間に近くの席の変わり者達に取り込まれ、一年間そのグループでごはんを食べた。これでは中学校と同じではないか。一体なぜ。
行事の際に集合写真を撮った。そこに写った自分は美少女ではなく、能面みたいな顔だった。丸顔なんだか面長なんだかよく分からない縦にも横にもデカい顔に『見慣れれば平気』どころじゃない巨大な鼻とそれを際立たせるちんまりとした口。大きくて綺麗だと思い込んでいた目は巨顔に占める比率で言えばむしろ細く、まりもっこりみたいな三白眼でかまぼこ形だった。それらのハーモニーが最高に気色悪かった。
さて、ようやく自分がブスであることを悟った私は希望を失い、それまで以上にブス扱いに傷つくこととなった。
メイクやファッションを学び、失敗を繰り返しながらも徐々にマシにはなった。しかしメイクには限界があり、鏡の前で「お! イケてるんじゃない?」と思っても他人から見れば誤差のレベルで、特に複数人の中で比較されてしまえばほとんど意味はない。大人になれば流石に真っ向から「ブース!」と罵られることはないが、一緒にいる可愛い同僚だけ毎日褒められたり、とある男性社員からブスとデブだけ嫌がらせを受けていることに気づいたりして、その度に深く傷ついた。ブスならそんなのよくあることだし、そもそも毎回褒めそやしてもらえるほどの美人の方が少数派でブスがそれを望むなんてちゃんちゃらおかしいと頭では分かっているのだが、思春期までずっと「私は本当は可愛い」と思い込んでいたせいで余計に受け入れられない。新しいコミュニティに入るたびに、ついつい美人扱いを期待してはがっかりしてしまう。本当に馬鹿げている。
整形すればいいのでは? と思われるかもしれないが、そこまで大掛かりでない整形で何とかなりそうなのが鼻くらいしかない。顔も頭も大きい、目の位置は高い、顎はない、酷い巻き肩が治らないのも悩みだし、手足はかなり短い。肌質も髪質も声質もゴミだ。よくアイドルなんかが「顔の輪郭を髪でごまかしている」と馬鹿にされているがご存知だろうか、輪郭を髪で隠すにも素質が必要なのだ。顔が生え際から大きくせり出しているとほとんど隠せない。
それに鼻って弄るとすぐにバレる。あくまで私自身のことに限定した考え方だが、知人に整形したとバレたら美人もくそもないではないか。年に一回くらいのペースで会う美人の先輩が、会うたびに「また綺麗になったね」と褒めてくれる。私のゴッテゴテの化粧から「美人になりたい!! 綺麗って言って!!」感を読み取って言ってくれているのだろうなと思ってたまらなく恥ずかしくなる。そういうくだらない自意識も捨てられない。美人になりたいブスのくせに。
「人柄が顔に表れる」という言葉がある。本当に? 顔に出るにしたって限界があるだろう。もともと吊り目の人と垂れ目の人が同じくらいニコニコしていたとして、どちらの方が柔和に見えるかなんて分かりきったことじゃないか。『目つき』って何だ、結局目の形や黒目の大きさによるものじゃないか。
「女芸人のあの人は美人じゃなくてもいつもニコニコしているから可愛らしいじゃないか」もよく聞くけれど話にならない。芸能人なんてのは美人じゃなかったとしてもなんだかんだ好印象な顔、『様になる』顔なのだ。私のような不快感を与えるタイプのブスなんて見たことがない。
そう、私は多分なんとも不快なタイプのブスだ。香椎〇宇っていたでしょう。彼女はもちろん美人だったけど、彼女の目つきがきつい感じ、お堅そうな感じだけを持ち合わせたブスがいたとしたら……それが私。どこへ行ってもまず第一印象は良くないし、良くてくそ真面目に見られてしまう。滅多に打ち解けられないし、一つ失敗したらすごく失望されるし、みんなと一緒になってはしゃいだら苦笑いされるかギョッとされる。悲しい。寂しい。性格ブスが進んで雰囲気もますますブスになる。せめて好印象な顔になりたかった。
最後に、なんで都会ってスタイルの良い人がやたら多いの? ただの健康診断の会場ですら私より小さい人が見当たらなくて愕然とした。身長だけで言えば私はごく平均的なはずなのに。何というかみんな頭身が高い。『モーニング』の世界に一人だけ『コロコロコミック』のキャラが迷い込んだみたいで恥ずかしかった。じゃあね。
久し振りにおかゆを炊いた。
ほぼ玄米だけで栄養を摂っていた宮沢賢治の頃とは違い、ごはんのお供はそれほど重要ではない。外食についてくると少し嬉しい、箸休めのような存在だと思っていた。
しかしおかゆの時は違う。ふやかしすぎてお水を足したりしているうちにどんどん増える。半合でもお茶碗で 3, 4 杯ある。そんな相手でも、豆皿に小盛りのお漬け物が戦い抜いてくれる。
はじめから塩味を薄くつけたのでは、こんなにも唾液は出ない。お漬け物という形になっているからこそ、塩味や酸味の存在感が最初から最後まで強く保たれ、お米を麦芽糖に導いてくれる。口内調味の醍醐味だ。
さらさら、ぽりぽり、するする、ぽりぽり。お漬け物をいただくためにおかゆがあるのか、おかいさんのためにお漬け物があるのか、そんなことを考える間もなく夢中になっているうちに空になる。
おかわりをよそい、ふと思い出して、パックされたコンビニ焼き鮭を取り出す。お弁当の定番、冷めていてもバッチ来いのごはんのお供だ。はい優勝。ただ昔と違って薄味なので、旨味を味わうものなのだろう。崩して混ぜ込み、ごまを振る。一口ずつではなく、ずずずとかきこんでみる。あー、うまい。味変というにはあまりに贅沢なバリエーションになった。
再度のおかわり。おなかも落ち着いてきたので、一杯目よりはゆっくりと、お漬け物自体を味わうようにかみしめる。しば漬け、うまいなあ。最後の一口はおかゆだけで。散々ほかの味と混ぜた後だが、いやだからこそか、お米っておいしいな、と思う。
なんとなく味覚がリセットされた気になった。日々の生活の中でおざなりになっていた食事が、また楽しめそうだ。明日は何を食べようかなあ。
逆なのかな?
この仮説は多分正しくて、統計のやり方によってはこれ一本でこの話は終わるだろう。
ハンバーガーを食べ過ぎた次の日のウンコは消化しきれなかった動物性脂肪と科学的な調味物質が組み合わさった独特のマクドナルド臭がウンコから漂ってくるものだ。
それと同じように、日本人が日常的にご飯を摂取することで、日本人のウンコからはご飯の匂いが立ち上りやすいだけなのだと結論づけることは出来る。
が、ハンバーガーウンコを出した直後にハンバーガーを食べても「ウンコと同じ匂いじゃね?」と感じることはあっても「この匂いはウンコの匂いだ」と感じることはない。
日本人の脳に「ウンコ」として刷り込まれ学習された匂いと、ある種のご飯が醸し出すベチャベチャとして湿っぽくもどこかすえて炊きあがったような匂い、その両者の一致はあまりにも親しすぎるのだ。
そもそも人間が感じ取れる匂いの種類ってどれぐらいあるんだろう。
ただ間違いなく言えるのはご飯はたまにウンコの匂いがするってことだ。
匂いのやたら強い割り箸だったり、金属臭のキツイスプーンと組み合わされることでウンコとして完成する感じはある。
つまりはご飯がウンコ臭いとき、ご飯が担当しているのは「水気」「香ばしさ」「食品臭」などのいわば「負のシズル感」とも言える部分であり、それに食器が放つ「非食品臭」が混ざることでウンコが誕生するのだろうか?
水分と温度を伴った空間の中で物質の状態を変化させ、それらを強烈な蒸気と共に完成させる。
その結果として作り出される高温で高エネルギーな物質は雑菌たちにとって格好の繁殖地となり、毎秒毎秒生命活動を繰り返すことで雑菌は排泄物としてゲオスミン臭などを残していく。
人間のウンコとは人体に住まう小さな命の作り出したウンコの集合体でもあるのだ。
そしてご飯もまた、その表面上に置いて無数の細菌達が毎秒毎秒刻一刻とその数を増やしながらウンコを繰り返している。
いわば全ての食品は雑菌のウンコまみれであり、人糞との違いはそのウンコの濃度の違いでしかないとも言える。
音を表現するデシベルが対数刻みなのは人体が感じ取る感覚が対数刻みだからであるからだが、それは視覚や嗅覚でも同じである。
それはある匂い物質のある濃度に対して人間が感じる匂いを1とするとき、100分の1の匂い物質に対して人間が感じる臭さは100分の1よりも大きいということだ。
ご飯や割り箸の表面に集った微生物たちの微生物ウンコの密度が人間のウンコの何万分の1まで下がれば人体はその匂いを感じ取らずに済むのだろうか?
その答は「食品の匂いがウンコから遠ざかればそっちにかき消されることが出来る」と結論付けられるのではないだろうか?
つまる所、ある種のご飯からウンコの匂いがするのはやはり「そのご飯はウンコの匂いがするので、全ての食品が必然的に纏ってしまうウンコっぽい匂いを自分の匂いでかき消すことが出来ない」ということなのではないだろうか?
つまり、やはり「ご飯は時折うんこっぽい」というのは是なのだ。
白米至上主義の日本国民としては非常に悲しい結論だが、この現実から逃げていては日本食に発展の未来はないだろう。
受け入れよう。
古くて小さい飲食店とかだとトイレが家庭にあるような個室ひとつで、手洗いはトイレの上の水がでるやつでやってね、みたいなスタイルのことがある。
そこにハンドソープを置いてある場合もあり(洗い流すのに苦労する)、何もない場合もある。
そういうところではなるべくうんこはしないようにしたいけれど、切迫してる場合はするしかないじゃん。
水だけでよく洗い流しはするけれど、なんだかなあと思いながらその手でごはん食べて、なんだかなあと思いながら現金手渡しで支払うことになるんだよねえ。