はてなキーワード: 石見銀山とは
いいよね! 西日本の美術館・博物館! 関西というくくりからは外れちゃうけど、ワイは以下が好き。
琵琶湖の「生活の場」としての人文的側面と古代湖としての自然的側面を両方堪能させてくれる超贅沢な博物館。琵琶湖湖畔で営まれた長い年月にわたる人々の暮らしを堪能したあとに、古代湖という環境で育まれた多種多様な固有種が展示されていて、歴史も生物も好きなワイは大歓喜だった。ビワコオオナマズとかイワトコナマズとかホンモロコとかワタカとかニゴロブナとかの琵琶湖固有種、どれもここで初めて見たし、水槽での遊泳の展示だけじゃなくて固有種を使った郷土料理についての展示もあるのがもう文理融合って感じで素晴らしいのよ。さらにさらに古代湖繋がりで世界各地の古代湖の生き物が展示されていて水族館としても楽しめる最高の施設。マラウィ湖の色とりどりの熱帯魚キレイ~~~~~バイカルアザラシかわいい~~~~~!!1!!! ……あれ? ヴィクトリア湖の展示には1種類の魚しかいないぞ? あっ……(察し)
言うまでもないやつ。1日じゃ足りない。早足で回っても6時間以上かかったんだけどどうなってるんですかね。日本にいながらにしてこれだけの美術品の原寸大レプリカを見ることができるの、最高すぎますわ。おいおい西欧だけじゃなくてウラジーミルの生神女とかの正教文化圏のやつまであるのかよ。世界史の資料集で見たことある名画が勢揃いしすぎていて興奮せずにいられない。しかもレプリカだから傷めないように大事に遠いところで保管されてる本物と違って鼻がくっつきそうな距離でまじまじと見れるというのも良い。西洋美術史を一望できる素晴らしい美術館。ありがとう大塚製薬。
これも言うまでもないやつ。山奥の宗教儀式から現代アフリカの都市生活まで幅広く世界の民族文化が扱われていて最高。ヨーロッパから南米・アフリカまで、はたまた朝鮮・琉球から日本の山村まで、ありとあらゆる地域がカヴァーされていてまったく飽きない。あと途中にある世界の様々な言語で書かれた『はらぺこあおむし』とか、日本各地の方言で読み上げた『桃太郎』とか面白い。
ここほんとすき。四国各地から移設した伝統的な建築物が立ち並んでいて、海沿いの漁村から山奥の秘境まである四国という島の多様性を体感することができるし、そもそもの「日本家屋」自体の地域性を感じられるというか、気候や生業や階級によって家屋の形って違ってくるんだよなぁっていう当たり前かもしれないけど忘れちゃいがちなことを思い出させてくれるというか、いやー、良い博物館です。日本文化について勉強してますっていう海外の学生さんにはぜひここを訪れてほしい。源氏の君や富嶽三十六景とはまた違った日本文化の多様性を目にすることができるので。
銅剣の展示がすごすぎる。圧巻というほかない。荒神谷遺跡しゅごい……他にも、出雲神話についての展示が充実していたり、石見銀山の展示があったりと、神代~中世くらいまでの出雲国の歴史を知る上ではすごく良い。タタラ場体験コーナー良かったです。あとワイが行ったときはちょうど隠岐についての企画展やってて、なかなか知る機会のない隠岐諸島の歴史も勉強することができて大満足だった。明治維新のときに松江藩の郡代を追放して島民が自治政府を結成した(隠岐騒動)とか、もうたまらないよね。わぁい離島の自治政府。あかり離島の自治政府大好き。
日本に古代オリエントの研究拠点を整備したかった某皇族が県立美術館に対抗して市立美術館を持とうとした岡山市に声をかけてできたという由緒のある美術館。古代メソポタミアからペルシャ美術まで、各地域各時代の中近東の美術品が並べられていて目の保養になる。えっペルシャに影響受けた中央アジアの陶器のデザインめっちゃ好きなんですが……
平安文学の世界に入り込める博物館。ここ古文の授業でやったところだ! とか、古文の授業でやったあれってそういうことだったんだ! とか、えっ何それ知らない……みたいなのがいっぱい押し寄せてきて楽しい。あとトイレのマークが平安装束なのオシャレでいいよね……女子トイレが十二単で、男子トイレはどんなんだったっけ? 直衣? 狩衣?
京都精華大学の本気を見た気分。日本が誇るマンガ文化についての圧倒的な展示。『キャンディ・キャンディ』とか、超レアなやつじゃん……オタクなら一度は行っておきたい博物館っすね、はい。
城下町だけあって武家屋敷を模した建物(そして敷地内には実際に家老屋敷が現存している)で大変よい。やっぱ博物館は展示品だけじゃなくて雰囲気も大事っていうか、西洋の博物館が靴のまま上がりこむのが普通なら日本の博物館では靴を脱いで畳の上で展示を見るんだよ! っていうコンセプトを感じられて好もしい。そして中世後期~近世以降の松江の歴史が丁寧に展示されていて、たぶん古代出雲歴史博物館とセットで見てまわることで出雲国の通史がわかる構造になってるんだと思う。面白かったです。
美観地区の高台にある旅館を改装した美術館。和風の町並みの真ん中にある和風建築で浮世絵を見るの、雰囲気があってとてもよいし、展示されてる絵がどれも贅沢。さらにキャプションが完全な日英バイリンガルなので「インバウンド狙ってます」感が強く(なおオープンしたのはコロナ禍の真っ最中だった模様)、実際外人さんにはウケると思うので日本に行く人には紹介してあげたい。ミュージアムショップも充実しててよき。相馬の古内裏Tシャツ買っちった。
小豆島の町中にある古い家屋を改装して美術館にしたやつ。1つの家屋じゃなく、ご近所に点在する複数の家屋が1つの美術館になっているので、順路に沿って巡るイコール小豆島の街歩きになるという、一石二鳥な美術館。実際ワイも順路に沿って見て回ってる最中に美味しそうな和菓子屋さん見つけて名物の大師まんじゅうとか『からかい上手の高木さん』とのコラボお菓子とか買っちゃったもんな……。注意点としては、あくまで「博物館」ではなく「美術館」、つまり妖怪アートを展示しているところであって妖怪の学術的展示をしているわけではないということ。なので現代の作家が考えたオリジナル妖怪とかSDGs妖怪(何だよそれ)とか妖怪コンテストの入賞作とかも展示してあるんだけど、いや現代美術の展示として見るとめっちゃ楽しいなこれ。妖怪に仮託したイマジネーションを楽しむ施設です。上の国芳館と同じくインバウンドの外人さんに強くオススメしたい。あと入館方法がハイテクで良い。
この規模の美術館にしては立地がパーフェクトでは。マジでJRの駅の真横とかにあるぞ。そして外観がまず目を惹きつけられるし中に入ると濃厚な現代美術空間で、日本のあまり広く知られているとはいえない現代美術作家の作品が色々あるし、瀬戸内国際芸術祭で展示された作品なんかもあったりして(そういえば丸亀市の市域にはけっこう離島があるんだよな)、いや自分の知らない文化っていっぱいあるんやなと。夭折した作家や認知症にかかった作家の特別展とかもやってて、作家の人生込みで味わえる美術館になってるなぁ。
小さくてすぐ見終わってしまうけど、竹久夢二の絵に包まれて大正ロマンに浸ることのできるプチ贅沢な美術館でしゅき。ミュージアムショップは夢二グッズが充実していて何を買おうか悩んでしまう。クリアファイルとか普通に普段遣いできるオシャレさだわ。猫のイラストのやつ買っちった。
日本酒の作り方に関する展示がすごい丁寧な上に、酒蔵直営だからミュージアムショップという名の酒屋がめっちゃ充実してて良き。酒が飲める飲めるで~酒が飲めるで~♪ いや本来の意味でのミュージアムショップもいいんだけどね。日本酒グッズがいろいろ置いてあって楽しい。
展示品が1つでも美術館を名乗っていいんだ、っていう勇気をもらえるよね!
小説の世界と現実の世界が渾然一体となった感がすごい幻想ミュージアムとして見るとなかなか面白いよね!
小学生が書いた竹島についての学級新聞とかが飾ってあってドン引k……いやいや、日本の領土を守ろうとする姿勢に好感が持てるし、アンケートに答えると無料で竹島が描かれたエコバッグをもらえるから、松江城とか松江歴史館とかを観光する前にここに立ち寄るとついもらって荷物になっちゃうパンフレットとかを持て余さずに済むから便利だよ! めっちゃオススメ!
千里市じゃないよ吹田市だよ。恥ずかしい。訂正しときました。いや知ってたんですよ? 吹田市だっていうのは知ってたんですよ? でもなぜか書くときに千里市とかいう謎の自治体が出現してしまったんだ……
出生
天文14年(1545年)、猿楽師の大蔵信安の次男として生まれる。長安の祖父は春日大社で奉仕する猿楽(現能)金春流の猿楽師で、父の信安の時代に大和国から播磨国大蔵に流れて大蔵流を創始した。この頃に生まれたのが長安であったという。
父の信安は猿楽師として甲斐国に流れ、武田信玄お抱えの猿楽師として仕えるようになったという。長安は信玄に見出されて、猿楽師ではなく家臣として取り立てられ、譜代家老・土屋昌続の与力に任じられたという。この時、姓も大蔵から土屋に改めている。長安は蔵前衆として取り立てられ、武田領国における黒川金山などの鉱山開発や税務などに従事したという。
武田信玄没後はその子・勝頼に仕えた。天正3年(1575年)の長篠の戦いでは、兄・新之丞や寄親の土屋昌続は出陣して討死しているが、長安は出陣していない。天正10年(1582年)、織田信長・徳川家康連合軍の侵攻(甲州征伐)によって武田氏は滅亡する。
ただし一説では、武田勝頼から疎まれたため、武田氏を自ら離れて猿楽師に戻り、三河国に移り住んでいたとも言われている。
遠江国佐野郡懸川宿の年寄に対する掟書(『德川家奉行衆連署傳馬掟書』慶長6年1月、個人蔵)[2]。伊奈忠次、彦坂元正と連署しており、「大久保十兵衛」[3]と記され黒印が押されている
甲斐武田家が滅んだ後、長安は徳川家康の家臣として仕えるようになる。家康が甲州征伐の際に逗留用の仮館を長安が建設したが、この時に家康がその館を見て長安の作事の才能を見抜き、仕官を許したといわれている。また、一説では家康の近臣で、旧武田家臣の成瀬正一を通じて自分が信玄にも認められた優秀な官僚であり、金山に関する才能に恵まれていることを売り込んで、家康に仕えるようになったともいわれている。
長安は大久保忠隣の与力に任じられ、その庇護を受けることとなる。この際に名字を賜り、姓を大久保に改めた。天正10年6月、本能寺の変で信長が死去して甲斐が家康の所領となる。しかし当時の甲斐は、武田家滅亡後の混乱から乱れていた。そこで家康は本多正信と伊奈忠次を所務方に任じて、甲斐の内政再建を命じた。ただし、実際に所務方として再建を行なったのは長安であるとされている。長安は釜無川や笛吹川の堤防復旧や新田開発、金山採掘などに尽力し、わずか数年で甲斐の内政を再建したと言われている。
天正18年(1590年)の小田原征伐後、家康は関東に移ることになる。この時、長安は青山忠成(江戸町奉行)、伊奈忠次、長谷川長綱、彦坂元正らと共に奉行(代官頭)に任じられ、家康が関東に入った後の土地台帳の作成を行なった。これは家康が後に関東で家臣団に所領を分配する時に、大いに役立ったと言われている。
また、関東250万石のうち、100万石は家康の直轄領となったが、この時に長安は長谷川長綱、彦坂元正、伊奈忠次と共に関東代官頭として家康直轄領の事務差配の一切を任されている。
天正19年(1591年)には家康から武蔵国八王子(後に横山)に8,000石の所領を与えられた。ただし、八王子を以前に支配していた北条氏照の旧領をそのまま与えられた形となったらしく、実際は9万石を与えられていたという。長安は八王子宿(現・東京都八王子市)に陣屋を置き、八王子十八人代官を置き、宿場の建設を進め、浅川の氾濫を防ぐため土手を築いた。石見土手と呼ばれている。
長安はまた、家康に対して武蔵の治安維持と国境警備の重要さを指摘し、八王子五百人同心の創設を具申して認められ、ここに旧武田家臣団を中心とした八王子五百人同心が誕生した。慶長4年(1599年)には同心を倍に増やすことを家康から許され、八王子千人同心となった。
慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いが起こると、長安は忠次と共に徳川秀忠率いる徳川軍の輜重役を務めている。戦後、豊臣氏の支配下にあった佐渡金山や生野銀山などが全て徳川氏の直轄領になる。すると長安は同年9月に大和代官、10月に石見銀山検分役、11月に佐渡金山接収役となる。
慶長6年(1601年)春に徳川四奉行補佐にて甲斐奉行、8月に石見奉行、9月には美濃代官に任じられた。これらは全て兼任の形で家康から任命されている。異例の昇進と言ってもよく、家康が長安の経理の才能を高く評価していたことがうかがえるものである。
慶長8年(1603年)2月12日、家康が将軍に任命されると、長安も特別に従五位下石見守に叙任され、家康の六男・松平忠輝の附家老に任じられた。7月には佐渡奉行に、12月には所務奉行(後の勘定奉行)に任じられ、同時に年寄(後の老中)に列せられた。
慶長10年(1605年)、大久保長安を普請奉行として武蔵御嶽神社の本社を普請。
慶長11年(1606年)2月には伊豆奉行にも任じられた。つまり長安は家康から全国の金銀山の統轄や、関東における交通網の整備、一里塚の建設などの一切を任されていたのである。現在知られる里程標、すなわち1里=36町、1町=60間、1間=6尺という間尺を整えたのも長安である。
これら一切の奉行職を兼務していた長安の権勢は強大であったと言われる。また、7人の息子を石川康長や池田輝政の娘と結婚させ、忠輝と伊達政宗の長女・五郎八姫の結婚交渉を取り持ち、忠輝の岳父が政宗となったことから政宗とも親密な関係を築いていたと言われている。そのため、その権勢や諸大名との人脈から「天下の総代官」と称された。この頃、長安の所領は八王子8,000石(実際は9万石)に加えて、家康直轄領の150万石の実質的な支配を任されていたと言われている。
慶長17年(1612年)7月27日、中風にかかり、家康から烏犀円を与えられている(『駿府記』)[4]。
しかし晩年に入ると、全国の鉱山からの金銀採掘量の低下から家康の寵愛を失い、美濃代官を初めとする代官職を次々と罷免されていくようになる。さらに正室が早世するなどの不幸も相次ぐ中で、慶長18年(1613年)4月25日、中風のために死去した[5]。享年69。
長安の死後に生前の不正蓄財が問われ、また長安の子は蓄財の調査を拒否したため、慶長18年(1613年)7月9日、長安の嫡男・藤十郎(37歳)、次男・外記(36歳)、三男・青山成国(30歳)、四男・達十郎(29歳)、五男・内膳(27歳)、六男・右京長清(23歳)、七男・安寿(15歳)、以上7人は切腹となった。また縁戚関係の諸大名も改易などの憂き目にあった(大久保長安事件)。
ほとんど外様に近い立場から[6]老中(加判)に就いた唯一の人物であり、その謎めいた生涯は多くのフィクションの対象となっている。
無類の女好きで、側女を70人から80人も抱えていたと言われている。
金山奉行などをしていた経緯から派手好きであり、死後、自分の遺体を黄金の棺に入れて華麗な葬儀を行なうように遺言したという[7]。
自然や歴史のある場所で、そこで半日過ごせる施設、そこを起点に周囲の散策ができたりする場所を選んでみた。全都道府県でやりたかったが、東北、四国、九州はちょっと見当がつかなかった。
茨城……アクアワールド大洗
栃木……足尾銅山
群馬……富岡製糸工場
千葉……マザー牧場
埼玉……鉄道博物館
東京……上野動物園、キッザニア、国会議事堂、高尾山、東京タワー
神奈川…新江ノ島水族館
長野……松本城
富山……恐竜博物館
静岡……登呂遺跡
愛知……明治村
三重……鳥羽水族館
滋賀……比叡山
京都……大文字山
大阪……海遊館
兵庫……姫路城
奈良……奈良公園
鳥取……鳥取砂丘
島根……石見銀山
広島……平和記念公園
山口……秋吉台
本題に戻すのね
今日本に必要なのは消費だ、っていうことだっけ?
肯定してるほうか否定してるほうかどっちの増田なのか分からんですけど、
そうですねえ、消費しないと経済が回らないのは分かるけど、今の日本人にバブル期みたいな消費力を求めるのは酷ってもんじゃないかと・・・