はてなキーワード: 畜産とは
最近、ヴィーガンに対するアンチを目にするようになったけど、あんなにヴィーガンへの敵対意識をたぎらせる心意気がどこから来ているのか気になる。
私はヴィーガンではないけど、彼らの主張に賛同できる部分もある。例えば、過酷な工場畜産など行っている場合は、よりストレスのかからない畜産へとシフトすべきだとは思う。その後、畜産動物を廃滅するか否かというのは議論が多分にあるのでそちらを参照していただきたい。彼らの主張のうちにもちろん一貫していない部分もあるが、そうした部分をあげつらって、賛同できるであろう主張もないがしろにしてしまうのは建設的ではない。
単純にヴィーガンの非一貫性をからかって遊びたいだけなのか、それ以上の何かがあるのか知りたい。
こういう感じでさ。
https://www.radishbo-ya.co.jp/brand/radix/chikusan/
発展途上国「うるせぇ、俺らはこれからバンバン石炭燃やして工業発展してお前らみたいに豊かになるんだ。俺らに貧乏なままでいろってのか」
ヴィーガニズムはこう。
普通人「うるせぇ、俺らはこれからもバンバン畜産して安価なタンパク質増産して豊かで美味しく健康な食生活を送る。俺らに不健康になれってのか」
見出しはレトリックで、「あっちにも反対しろ」ではなく「どっちにも反対しないだろ?」という趣旨です。
ヴィーガンの主張は主に二つ、「畜産業における劣悪な飼育環境をなんとかしよう」と「畜産業が環境に与える悪影響をなんとかしよう」です。
「菜食主義者」よりも「反畜産主義者」のほうが正確なのでは、という気もしてきます。
前者はエシカル・ヴィーガン、後者はエンバイロメンタル・ヴィーガンと呼ばれ、微妙に立場が異なります。まあ両方を兼務している人も多いのでしょうが。
たとえばエシカル・ヴィーガンの立場では「まともな環境で飼育された家畜の肉は食べてもよい」というヴィーガンすら存在しています。
一方で、エンバイロメンタル・ヴィーガンは、環境保護の観点から畜産業の問題に着目しているので、動物実験を用いた医薬品や化粧品の問題には関心が薄いでしょう。
現代の食肉生産の多くは、環境負荷の高いいわゆる 工場畜産 (factory farming) に頼っています。そして私たちは実に多くの家畜動物を消費しています。鶏が580億匹、豚が14億匹、牛が3億匹など。これは1年の数です。想像できますか?
エサとなる穀物の生産や放牧のために貴重なアマゾンの森林が広く伐採され、土地や河川は汚染され、温室効果ガスを膨大に排出しています。
世界の 飢餓人口 は8億人。そのようななか、家畜に与えられている飼料の総量は40億人以上もの食事に相当すると言われます。
牛肉100グラムを作るためには穀物が1600グラム必要とされているため、穀物をそのまま食べた場合に比べてかなりの無駄が発生しています。飢餓問題は基本インフラ、教育水準、失業率、社会構造など複雑な問題が絡みますが、それでも菜食のメリットは極めて大きいものです。
肉食は水も土地もエネルギーも浪費します。世界人口が2050年に100億人に到達するとも言われているなかで、サステイナブルな食糧体制の確保は急務です。
日本エシカルヴィーガン教会とかいうところのサイトから引用しました。
(エシカル・ヴィーガンを名乗っていますが)こういったものがエンバイロメンタル・ヴィーガンの基本的な主張だと思います。
「クリーンミート」が「再生可能エネルギー」や「電気自動車」などに相当するでしょうか。
二酸化炭素の排出量を削減しようと唱える人に「俺たちに息をするなと言いたいのか?」などと絡む人が(私の観測範囲では)いなかったことを考えると、ヴィーガンに対して「おまえたちは生きているだけで虫や微生物を殺しているのだが?」などと批判することが、かなりズレていることがわかると思います。
あるいはヴィーガン側の主張としても「畜産はコストが高いので減らしていきませんか? そのためにはまず肉食を減らしませんか?」といったものであれば、納得する人は多いのではないでしょうか。
実際、大半のヴィーガンは、いきなり全人類の肉食を禁止しようだなんて思っていないでしょう。
「できることからやればいい」のです。
ここであなたの脳裏には肉屋を襲撃するヴィーガンのことがよぎったでしょうが、穏健派ヴィーガンに賛同すれば過激派ヴィーガンにも賛同することになるという論法はスリッピースロープにすぎません。
つまり「なるべく自動車ではなく公共機関を使おう」と同程度には「なるべく牛肉ではなく野菜を食べよう」という主張は成り立つと思うのですが、いかがでしょうか。
ちなみに私はヴィーガンではないので「おまえらヴィーガンは…」と一括りにするようなレッテルはご勘弁ください。よろしくお願いします。
屠殺はかわいそうだと思うし、畜産はコスパ悪いし環境破壊されるし。あとホリエモンみたいな頭の悪い肉食主義者を見てると、ヴィーガンのほうが理性的に思える。
正直言ってヴィーガンになりたいと思っている。
だけどヴィーガンを始めるにあたってモヤモヤする点があるのでなかなか始められない。
わたしが気になる点は以下。
・自分がヴィーガンになってもペットフードのために家畜が殺されると意味がないのではないか。
・人間がペットにヴィーガンフードを強制することはペットの権利を無視した虐待行為になりうるのではないか。
ヴィーガンの人たちは動物好きが多いのでペットを飼っている人がたくさんいると思うけど、ペットの餌についてはどう考えているのだろうか。いまいち議論されてないようだし分からない。
海外ではヴィーガンペットフードがあり、栄養面は問題ないらしい。けどそれってペットの権利はどうなるんだろう。
安心してちょうだい元増田ちゃん。あなたは死ななくていいわ。誤解なのよ。
あなたがどういう道筋でその“正しいヴィーガン”にたどり着いたのかはわからないけれど、私の知る範囲で(倫理的)ヴィーガンの主張のなかにその結論を肯定するものは無いわ。早まらないで。
功利主義に基づく倫理的ヴィーガンの観点から、あなたの誤解についてお答えするわ。
功利主義的には「苦痛の総量を減らす、または苦痛と快楽の収支がプラス(快楽が苦痛を上回る)になる」のが倫理的に良いことなのね。最大多数の最大幸福。
細かく言えば「苦痛と快楽」とは別の指標を用いた功利主義もあるけれど、動物倫理の場合はもっぱらこれ。
したがって、畜産において“飼育、屠殺による動物の苦痛”が、人類の得る利益(快楽または苦痛の低減)を上回る場合、“畜肉を食すべきではない”と判断できるわ。
逆に、動物の苦痛が人類の利益に比して十分に小さい場合、それは倫理的に許容されうるわ。
同上
ただし、たまごや乳製品はそれ自身が苦痛を感じる能力を持たないため、畜肉と比べると倫理的ハードルは低いわ。
例えばジャイナ教は非暴力が重要な教義の一つなので必然的に菜食主義だけれど、苦痛を与えずに絞った乳は飲むわ(ラクト・ベジタリアン)。
同上
衣料品の場合、動物を苦しめずに済む代替品が豊富にあるならば、あえて動物性の衣服を着るのは倫理的に肯定しがたいわね。
医薬品の場合、主に動物実験に関する問題ね。この領域は動物倫理的にかなりホットよ。
功利主義的な動物倫理においては、動物実験は必ずしも否定されないのよね。まあ論者にもよるけど。
動物実験における動物の苦痛と、完成した医薬品による人間の苦痛の低減。これの比較で後者が十分に大きければ正当化され得るってわけ。
もたらされる苦痛や死が“意思に反して”いるかどうかは、功利主義的には必ずしも重要ではないわ。
“意思に反”することで、苦痛がより増えるのであれば考慮に値するといった程度かしら。
例えば、糧を得る唯一の方法が狩猟であり、それをしなければ(人が)死んでしまう場合、狩猟による動物の殺害は倫理的に正当化され得るわ。
植物は(少なくとも痛みが神経系によって発生するという生物学的知見を踏まえれば)苦痛を感じないため、功利主義的には道徳的考慮の対象ではないのよ。
ちなみに、倫理的な考慮の対象となる立場を「道徳的地位(Moral standing)」と言うわ。
「何が道徳的地位を持つのか」というテーマは分野や論者によって異なっているわ。功利主義の場合、「苦痛を感じる能力を持つ」ことが道徳的地位を持つ条件ね。
厳密に言えば動物でも苦痛を感じない、例えば海綿動物(きわめて原始的な動物群。神経を持たない)、も功利主義的には道徳的地位を持たないと言えるのね。
また、道徳的地位は持つ/持たないの2択ではなく、強弱も存在しているわ。功利主義なら苦痛を感じる能力の程度ね。
例えばエビ1匹を殺すより、ヒト1人を殺した方が倫理的に悪いと判断できるわけ。
これは個々の人間にも適用でき、健常な成人を殺すより新生児や重度の知的障碍者を殺す方が倫理的に悪くない(もちろん両方悪いが、比較すればそうなる)。
功利主義者がリベラリスト(の一部)、特に障碍者支援者などから嫌われるのことが多いはこれが理由ね。
同上
命を奪うかどうかにこだわってるようだけれど、功利主義的に重要なのは苦痛よ。死は苦痛の一形態たり得る資格を持つというだけ。
自然破壊につながる水道水やミネラルウォーターを飲むべきではない わかる
んー?ここら辺は倫理的ヴィーガンよりも環境主義的ヴィーガンの主張に似てるかしら。
でも環境主義的ヴィーガンの場合、畜産や養殖(の一部)による環境負荷を語ることが多いから、ヴィーガンの主張としてはあまり見ないわねこれ。
水資源の利用による環境破壊はあるにせよ、この書き方だと曖昧過ぎるのよねえ。元増田ちゃんもうちょっと具体的にお願い。
なお、功利主義的に答えるなら、その営為で発生する苦痛が人間の快楽(または苦痛の低減)を上回らない限りOKってことになるわ。
地球温暖化に寄与している二酸化炭素は化石燃料などの地下資源由来で、地上で吸って吐いてした分はほぼ無関係よ。
陸上の炭素循環は(長期的に見れば)収支が釣り合っていたのだけれど、地下に封印されていた(炭素循環の外側にいた)分の炭素が放出されたことで、プラスに傾いちゃったわけ。
家計で言うなら年収200万円(手取り)で年間支出が200万のご家庭に、月々1万円の副収入が加わって年12万円の余裕ができましたって話よ。呼吸は年収に含まれ、支出は炭素固定(主として光合成による)で、化石燃料が副収入。
ちなみに、畜産による温室効果ガス放出(主としてメタン)への寄与はけっこうな割合(確かCO2換算で全体の約14~18%くらい)。あなたが牛ならゲップをやめるのは倫理的かもしれない。
全部わかる
あら?もしかして徳倫理学の方だった?功利主義は結果主義の一分野なので“気持ち”なんてほとんど関係ないもの。
徳倫理主義は、雑に言うと「動機が善ならば善」というもので、良かれと思ってやれば善であるっていう素朴な倫理なのよね。
最近は見直しが進んでるって話だけど、あまり勉強してないから詳しくないのよ。この分野。
呼吸し、水を飲み、命ある動植物を自然から奪い、貪る者は悪魔だ
みんな死のう
死なない者は悪魔だ
功利主義からはまず導かれない結論なので、やっぱり徳倫理主義なのかしら。
でも、良かれと思って“呼吸し、水を飲み、命ある動植物を自然から奪い、貪る”なら、徳倫理主義的には善なのよね。
ここまでは功利主義の観点から答えてきたけれど、やっぱり本人の倫理的観点も考慮しなきゃ片手落ちよね。
でも困った。元増田ちゃんがどんな倫理的基盤でヴィーガンになったのか、わからないわ。
最初の方の考えは倫理的ヴィーガンに対するよくある誤解またはジャイナ教当たりの非暴力主義とPlant thoを混ぜこぜにした感じ。中盤は環境主義っぽいけど問題視する部分がズレてるし不明瞭、後半はさっきも言ったけど徳倫理学っぽいけどなんか違う。
うーん、ネットからいろんな主張(誤解や曲解を含む)を集めてきてパッチワークした感じなのかしら。
ヴィーガンへのバッシング目的で書かれたなら「藁人形乙」で済むけれど、真剣に悩んでいるなら誠意ある回答が必要よねえ。
けっきょく“正しいヴィーガン”が何なのかはわからなかったけど、変な結論から脱却するための私的おすすめ方法を3つほど挙げてみたわ。
良ければ死ぬ前に試してみてちょうだい。チャオ!
辛いならヴィーガンなんてやめちゃっていいと思うの。割に合わないわ。もし心苦しいなら減肉食主義(Reducetarian)くらいから始めてみたら?
私も環境主義的観点(スパイスとして功利主義も一振り)からSemi-vegetarianやってるけど、あまり縛り無いから楽よ?
ヴィーガンからは偽善だなんだ言われるかもしれないけど、まあいいじゃない。自分が納得すればいいのよ。
(2) 勉強する
ヴィーガンやるなとは言わないけれど、何かしらの倫理的または論理的支柱がないと厳しいと思うの。
元増田ちゃんの考えを見るに、あまり一貫した基盤を持っていなさそうだし、環境問題についても詳しくなさそう。体系立てて学ばないと混乱して変な結論にたどり着いちゃうものよ。
いろんな視点、論者ごとに調べてみて、自分に合う立場のものを探してみるといいわ。まずは模倣からよ。
おすすめはピーター・シンガー。「すごいなあ。ぼくにはとてもできない」ってなるわ。
(3) 食生活的ヴィーガン(Dietary vegan)になっちゃう
食事だけヴィーガン。健康目的が多い。一番気楽なタイプのヴィーガン。動物倫理とかうっちゃってる(またはつまみ食い)。毛皮のコートも着ちゃうかも。時たまニセ科学に両足突っ込んでるから注意。
やめたいときにやめられるし、始めたいときに始められる。亜種として一時的ヴィーガン(Part-time vegan)なんかもあるわ。
「ちょっと一週間くらいヴィーガンになるかー」とかできちゃう。「それヴィーガンなの?」という気持ちに蓋ができるならおすすめ。
動物は人間のご飯でした。過去数千年も人間は狩猟採集で生きていました。
狩で仕留めたマンモスを食べて氷河期を生き抜き、山でシカやイノシシを食べて生き抜きました。私たちの祖先はヤギや豚や牛や羊や鶏を、長い長い長い年月をかけて家畜化しました。家畜化なんて一朝一夕一世代で出来ることではありません。祖父から父へ、父から子へ、飼育のノウハウを受け継ぎながら、家畜を食べる肉食文化を発展させました。
色々な国で色々な食文化が発展してきました。それは日本のように仏教によって禁止されながらも、こっそりと楽しまれたり、文明開化とともに最先端の料理として食べられたり、ヨーロッパのようにソーセージやベーコンや干し肉なんかにして長期保存できるようにされたり、焼いたり蒸したり揚げたりして、美味しく食べれるように工夫されたりしてきました。イヌイットのように生食する民族も、沢山の香辛料でスパイシーに食べる民族もいます。食文化は、宗教やその土地の気候と密に絡み合いながら発展してきました。
文化は人間が長い歴史の中で作り上げた叡智の結晶です。衣、食、住の1つである、生き物にとって欠かせない「食」の文化は何にも劣らない人類史の大切な要素です。文化人類学的な価値を持つものです。
生物学的にも人間が動物を食べるのには意味があります。日本人だけが海苔を消化できるように進化したことは有名ですが、お肉も同じです。人間が肉を美味しく食べて、消化して、エネルギーとして利用できるのも、人間が長い間肉を食べ続けて、そのように進化したから美味しくお肉が食べられるのです。お肉を食べるのは人間が生態です。人間は雑食なのですから。
連綿と続くこの歴史の中で、動物が可哀想だという考えを持ち、肉食をやめることもまた文化です。人類がそのように方向転換し得る可能性を持つこともまた大切なことです。
しかし、それを望まぬ人に強要すること、人間全体から肉食文化を奪うことは文化の破壊です。畜産家や肉屋やコックさんから仕事を奪う権利は誰にもありません。
食文化は生活に根付いて始めて意味があります。レシピの本だけあっても仕方がありません。肉を食べないということは今まで育んできた肉食文化を永久に手放してしまうことになります。日本の和食が文化遺産であるように、世界の肉食文化は和食よりもうんと重要な文化です。ヴィーガンの肉を食べない「食」が尊重されるべきように、私たち雑食の食文化も尊重されるべきです。