はてなキーワード: フラワーとは
物証がない殺人で「犯人」を有罪にした結果が歴史に残る冤罪事件ですが。
それから、ニュースで印象に残っている事例を根拠に女性という大きな属性について語るのって典型的な差別脳なので、
頭が悪いと思われたくないならやめたほうがいいですよ
「ニュースで印象に残ってる事例に対する女性の反応」を根拠に語ってるんですが。
件の不起訴事件や「フラワーデモ」、それを批判した弁護士への攻撃を批判した女性がどれだけいるんですか?
「女性専用車両なる男性差別を利用せず批判し、推定有罪を求めず、自力救済をしない女性は批判の対象外」とずっと言ってますが、
そんな女性が何人いるんですか?
饅頭怖いの誘い受けならともかくな。俺だって『おっぱいこわい!』とか言ってエロ画像求めるわ。
でも残念ながら頭がフラワーガーデンじみたキモ・ヲタ(男女を問わぬ)や、自分の言葉で世界を変えられるなんて思ってるお気持ち表明マンfeat.お気持ち表明ウーマンはネットに多く、本気で言っている。
いやアホでしょうよ。見ず知らずの人間の優しさに期待して弱点や苦手を述べれば手心加えてくれたり、気遣ってくれるなんて甘っちょろい考え。
それされたら怒る、それされたら嫌な気持ちになる、それされたら死にたくなるってわかりやすい弱点。
『そう言われたら嫌なんだね!そうされたら嫌なんだね!たっぷりと言ってたっぷりとしてあげる♡』と思う奴が出てくる、まず俺。
仮に『私はこれ食ったら苦しんだ果てに死にます』とアレルギーを述べたとして、九割九分九厘はお前を思い遣ってくれるだろうがね。
でも一厘はこう思うぞ?『食えない!?甘え!!食べさせて改善させよう!』『見たいよぉ見たいよぉお前が苦しんで死ぬ様を見たいよぉ』って。倫理が邪魔して実行しないのが殆どだけどな。
追伸:この増田前に見た!なんて無粋な事言うのも居ると思う。お前の中ではそうだろうしそれも俺と思っていいぞ。それだけ俺と同じ思いがいるってワケだ。
資生堂 アネッサ筋肉CM取り下げか 性暴力抗議デモ「オナニー」発言の弁護士出演で抗議殺到
判決文読まずに、司法のルールも知らずに「私が有罪と思ったことを無罪にするな」と主張するのって「オナニー」じゃないの?
「司法が市民感覚と乖離してる~」ってお決まりのフレーズ言うかもしれんけど、市民感覚に最大限寄り添った市民感覚通りの裁判をなんていうか知ってる?
「人民裁判」っていうんだよ。それを是とするなら法律いらないんじゃない?
推定無罪原則を破棄して「合意の証明」を求めたりするのもそう。オナニー。
君が大手を振って外歩いてられるのなんでか知ってるか?「犯してない罪を着せられない」という当たり前のことが守られてるからだぞ。
それを自ら破壊しようとしてどうするんだ。あ、対象は男だけですか?
弁護士と資生堂の表現の自由を奪う。使った資金や作った人の労力、思い入れなど微塵も考えずに表現を踏み潰した。
こいつらどれだけ腐ってるの?思慮が足りないの?自分のこと以外考えられないの?
嫌なら見るな、買うなで終わりだろ。
CM潰しを呼び掛けたり、不買運動を呼び掛けたり、海外に拡散しての不買すら狙ったり。
資生堂が寛容でよかったな。
今回の件で思ったわ。
こいつら、人治主義目指してるだけだ。自分たちが決定権を持ってる人治主義を。
もともと支持してなかったけど、今後とも絶対に支持しない。
邪魔する奴がいたらそっちを支持するし、なんなら私も邪魔する。
フラワーデモってのは #性暴力を許さない #WithYou あたりのタグ付けで発信されてる。まあそんな感じ。
私はフェミニズムについて学んでるとか活動してるわけじゃない。若い人多そうだし散歩ついでの軽い興味。
あと今年の東大祝辞を読んで「え~~~!名文~~~~!!!」と感動したから。
デモの流れとしては
19時集合→主催側の用意した人たちのスピーチ→参加者の中でなにか発言したい人がスピーチ、で2時間。
流れは先月分のレポで知ってたのでたくさんの人の話が聞けるならまあ思想が違うこともあるやろとは思っていたけどこの活動の目的とゴールはどこだ。
中之島公会堂ってわかる?
花見シーズンならともかく夜なんかだらだら歩きたいカップルとランニングする人が通るくらい。
デモというからには啓蒙や布教といった内容があるものだと思っていた。それは宗教か。
なんせ世の中に訴えたいことがあるもんだと。
でもスピーチの大半は「過去にこんな性被害・ハラスメントを受けてこんな気持ちでした」という個人体験の披露。
言いたくないがそんな話は散々聞いた。
被害体験を話すのは勇気のいることだろうし涙してしまうような話もあった。
でもここすでにそれ系に関心と憤りがあって来てる前提の奴ばっかやん?
「だからこう活動ができれば」「こう行動をすべき/して」って〆るわけではないんだ…。
被害の慰めや治療に聴衆役として利用されてしまった…という気持ち。
それとも悲しさ辛さを正しく共有できれば結束が強まって活動意欲が上がるんだろうか。
いや、実際に参加してみて私はなにか学びを得られると無意識に期待してたんだなって気付いた。勘違いよくない。19時にいなかったのもたぶんよくなかった。事前に準備されていただろう主催側のスピーチをあまり聞けてない。もちろんフェミニズムに関心がある人たちが上野千鶴子のように話をできるとは思ってない。学びたいなら本を読めばいい。
無関心層への届け方や地域での支援を拡げる活動ではなく体験を共有する活動だった。
まあ勘違いにより自分の期待した話が聞けなかったって愚痴だよ。
「フラワーデモ行った、って人間が身近にいることがなにかの励みになればと思って持ってるSNS全部に今日参加するって書きました」みたいな話してた人もいたので私は増田に書くね。
っていうか本気で表現したい、伝えたいのなら、同人誌(自費出版)で規制をかけない表現もいくらでもできる(お金もそのほうが儲かる)のだから、
雑誌という「権力」が気に食わなくて「戦争」したいだけだって結構広い範囲から見透かされるよね。
子供にタバコをいいものとして見せたくないってごく普通の親の願いだよ。
その少女漫画雑誌でなければいけない理由は? LALAやフラワーズなどの成年むけ漫画雑誌じゃだめなんですか?と。
シンデレラを改変してもいいけど、シンデレラ原典は低年齢層に支持されるから勝ち続ける。作品そのものの力だ。
漫画も童話も大人からみたら嘘だけど、嘘は嘘として提供されてていい。
棲み分けてからならいくらでも大人の理屈をふりかざせばいいのに
わざわざ少女マンガ誌にきて棲み分けをぶっとばすって一般読者からみてもへん。
ガチエロ妊娠プレイをそれがリアリティだからという理由で少年誌に載せたがるのとおなじくらいに歪んでいるよ。
でもまあ、ほっといてもこんな横車推しはとおらないよ、
漫画家が勝ってもその少女マンガ誌が出版規制対象になる結末しかみえねえし。
男性漫画家があの手この手でやってる規制突破と規制のいたちごっこを
(もっと悪いことにそのときに差別やジェンダーを特権として使おうとした)という悲しい結末。
おやおや、フェミ嫌いはフェミの作品が規制されるときも表現規制反対って大騒ぎするんじゃなかったですかね?
少女誌にタバコを載せてさしあげろとかいってもっと反社会的な活動につきすすむんじゃないのかwww
混乱して黙ってしまったようですけどねwww
表現の自由を守りたいという意見は、それを原則論として語りつつも、背後にある危機感はなんだろう。
ようするに、「快不快」によって表現の流通が左右される社会が是か否か、ということが動機のように思えた。
そうであれば、すごくよくわかる。いや、わかるというのは、同意しているわけじゃなくて、なるほどな、だから日本の表現の自由ってふわっとしてるんだなということ。
振り返ってみる。
日本の表現規制の有り様は、戦前のエロ・グロ・ナンセンス発禁にあるように、当局が国民の大多数が不快と思うであろう「不健全」で「公序良俗」に反する表現を対象としてきた。
つまり、割り切った言い方をすれば「健全」と戦っているのが表現の自由の戦士だというふうに思える。
でも、ひとたび、「表現の自由」の思想的な出発点をヨーロッパやアメリカの歴史から振り返ってみると、戦士の動機づけとしてはあまりにも心もとない。
表現の自由とひとことでいっても、思想的な背景は、それぞれ背負っている歴史が異なる。
この国の憲法や憲法判例が示してきた表現の自由は、ヨーロッパのそれとはかなり異なる。
17世紀にアメリカに最初に渡ったピルグリムファーザーズの世代は特に、当時のヨーロッパのプロテスタントに対する不寛容の被害者であった。
メイフラワー号の協約に象徴されるように、お互いに異なるFaith(信条)を持つ者同士が、どちらが正しいとして糾弾することなく、社会を構築しようという、社会の多様性の確保が原点だ。
1970年代には、ヘイトスピーチを巡ってさまざまな紛争が連邦最高裁まであがり、不協和音こそ社会の強さとまで判決の意見で述べているものがある。
当時の裁判官のたとえを援用すれば、空気を浄化しようとするやつが社会の敵なのだ。
人間は不完全なのだから、正しいものなど、最初から先験的に決められない。ということから、この国では、思想の自由市場などという言い方も生まれてくる。
しかし、他方で伝統的な価値観や習慣もそれなりに強い。いやかなり強い。
そういう土地柄では、動機づけとして、多様性の確保というのは、正直、あまりピンとこない。
むしろ、彼らの原点は、教会から弾圧された経験であり、その反動としての「神を冒涜する権利」だ。
伝統的にカトリック教徒でありながらアンチクライストを叫ぶ、そんな権利を求めている。
とくにフランスでは、公共空間を設計するにあたり、真理の判断権を持つかのように振る舞う教会がとてもまずい存在だった。
権力をふるいたがる教会に口出しをさせないことが重要なテーマだった。
それゆえ、その解決のため、一方では、表現の自由というコンセプトで権利を宣言し、他方で、政教分離という原則を確立して、公共空間設計のための理論武装をしていく。
だから、イスラムのスカーフを公立学校から排除しようとしたりする動きが起きるし、
ひとたびムスリムの神を冒涜するような表現をしたことで、襲撃を受けたりすると、社会は「涜神の権利はいずこに」とがぜん盛り上がるわけだ。
アメリカにしても、フランスにしても、それぞれ動機づけは異なるものの、表現の自由を守ろうとする信念というか確信の力は、
極めて強い。テロがあったり、社会情勢の変化で揺れ動いたりするものの、いざ事が最高裁までいくと、
じゃあ、国づくりの原点に戻ろうじゃないかという話になって、17世紀の悲惨な経験が思い出として蘇ってくる。
その動機づけの強さにこそ、新大陸にしても、旧大陸にしても、表現の自由を将来に渡って確保しようとするエネルギーの再生産があり、いわば持続性がある。
翻って、日本。
快不快のような勝手な基準で決めつけられたくはないよね、誰しも。
でも動機づけとして、やっぱり弱いんだよね。
ここで、仮に、日本は、アメリカ式の表現の自由を真似っ子しているのだ、としようか。
でも、日本社会は、アメリカほどには、多様性を求めてないでしょ。むしろ移民なんか大嫌いでしょ。
多様な意見なんか、どの組織でも出てこないでしょ。会議でも右に習えでしょ。
普段から多様性を確保しようというマインドがベースにあって成り立っている社会とは全く違う。
そんな社会では、エロい表現のときだけ急に表現の自由だのと盛り上がるのは、歯が浮くような思いがする。
公共空間におけるエッチなものの取扱なんて、はっきりいって、社会が合意していればどっちだっていい。
じゃあ今度は、大陸が17世紀に経験した熾烈なコンフェッショナリズム、この思想的な背景を
表現の自由として日本国憲法が参照している、と仮に想像してみる。
この場合、仮想敵は、いってみれば、国家神道とファシズムかな。
(*ところで大河ドラマの「いだてん」って、健康ファシズムの視点でみると面白いらしいね。みてないけど)
「国によって右へならえを強制され続けた結果、自分たちが戦争に動員されてひどい目にあった思い出」とでもいうべき動機づけは
定期的に思い出す機会があるかぎりは、ある程度は持続的たりうるのかもしれない。
でも、第二次世界大戦を思い起こしてみると、国民が国家のキャンペーンに煽られて動員させられる、というのは、
なにも敗戦国のドイツや日本に限った話じゃないし、アメリカ含め、あちこちの国でウイルスのようにファシズムが蔓延しかけていたのが現実。
またファシズムをコントロールできた国もない。その意味で、真の意味でファシズムに抗し切った国はないように思う。
表現の自由っていったところで、自然の摂理かのように、神がバランスをとってくれるわけじゃないんだよね。
そうすると、いざ日本にとって対外的な脅威(例えばアジアの隣あたりの国らへん)が増せば、
表現の自由なんか、どうでもよくなっちゃう程度のものなんじゃないか。
このあたりの感覚は、動機づけとしては重要なんだけど、日本の場合、ちゃんと思想として、自分たちの言葉で自分たちを守る武器として昇華してないんだよね。
敗戦で混乱していた時期にすかさず、日本国憲法を戦勝国からもらった、というところで思考停止になった、という面はあるかもしれない。
もらったもので、とりあえず勉強して運用してみよう、という時期が最初はあってもいいかもしれない。
でも、戦後30年、40年、とりいそぎ運用していたものが定着していく、という過程で
例えば「思想の自由市場」ってよくよく考えてみると、日本社会では、あまりピンと来なくね?みたいな気づきがあっても良かった。正直、「思想の自由市場」って日本社会じゃ、なんの役にも立たない理屈だと思うんだよね最近。
また、フランスの公立学校でのムスリムのスカーフ論争。大方の日本人は、何あれ?状態。背景となる歴史が違うんだから
それを知らずに無理やり、政教分離って憲法に書いてあることを適用しようとしてきて、実は消化不良を起こしているんだけど、
そういうことがよくわかったという話。