はてなキーワード: コスパとは
なんかすぐいやなら出てけというのかって怒るけど、制度を変えるなんて人生かけての大仕事になるだろうし(それも制度が変わっただけで人々の意識なんて世代を経なければそう変わるものでもない)、
その救世主的な精神は立派だけど普通に手間などを考えられる冷静な頭があったら自分好みの場所に行ったほうが人生のコスパいいと思うんだけどなあ
まさか9999円でアルミ筐体フォーム盛りコトコト高級タイピングサウンドのキーボードしかもスイッチキーキャップ揃った一式が買えてしまう時代がくるとは
自作キーボ界隈の嗜好トレンドを迅速に汲み取って低廉化してくる中華メーカーまじ恐ろしいわ同じ音するやつ一式安くても3万は越えてただろ
しかも南向きソケットで2.4GHzとBTの無線にも対応でまあ動画とか見る感じアルミ加工の精度は自作系のバジェットプレミアム機(QKとかZoom)よりだいぶ低そうだけど1kg超で十分重さもある
とはいえソフトウェアはVIAとか非対応の独自ソフトでろくに機能しないゴミみたいだから自作趣味の先人もまだイキれる部分はあるとはいえ
そこさえ工夫してクリアできてしまえばモノ自体のコスパは異次元なんだよなあ
サブでもっとくか……? 品切れしないうちに……
君の親が君に対して思ってる事やで>コスパ悪い
これは良い記事。
少子化の話題になるとすぐに意識や価値観の変化に矮小化して経済問題ではない事にしたがる人が沸くけれど、
この記事を見れば分かるように「子育てはコスパが悪い」も「若者の恋愛離れ」も上位大学の学生の間では起きてないんだよ
親ガチャ当たりの上級国民にとっては結婚も子供も当たり前に経験する事であってそれらへの尻込み意識なんてない。
若者が希望を持てず恋愛や結婚出産から離れているのは階級による現象だってこと。
https://news.yahoo.co.jp/articles/e8dd6ebe824bc0984ceff04d12d5c429cb88678a
『子どもは「贅沢品」になったのか。上位大学と中堅以下の大学の学生たちに見えた「意識の差」』
おおむねの傾向として、上位大学の学生は子どもにお金がかかることを気にしてはいるものの、中堅以下の大学の学生ほどは不安を感じていない。ニュースなどで現状はきちんと把握しつつ、その上で「自分は困窮者に該当しない」というスタンスを取っている。
「子どもにお金がかかることは承知しているが、その分稼げばいいだけのこと。就職は総合商社かコンサル狙い」(22歳男性・欲しい)
そもそも語り口のトーンが違う。上位大学の学生は、口では「いやー、お金かかりますよねー」などと口にはしつつ、どこか余裕がある。自助努力でどうにかなると思っている。お金の心配はないかと問うても、多くが「自分が稼げばいい」と口にする。あるいは、冷静に対案を出す。
「私立を避けるなど、選択肢によって比較的お金がかからない方法があるので、適切に選択すればそれほど苦労しないのでは」(21歳女性・欲しい)
一方、中堅以下の大学の学生は、総じて経済的な不安の深刻度が高い。卒業後の収入に自信がない。自己肯定感の低さに連動して子ども願望が低め、もしくは希望人数が控えめ、という印象だ。
中堅以下の大学の学生に散見されるのが、染み付いた「負け組」意識だ。「自分は高収入を見込めない→だから子どもを持てない」ことを穏やかに受け入れている。「勝ち組」に対してルサンチマンを煮えたぎらせるわけでも、政府の諸政策に強く異議を唱えるわけでもない。グループインタビューの場にはソフトな諦念のようなものが漂っていた。
上位大学のグループインタビューに、そのような空気はない。稼げる仕事についてガンガン働き、複数人の子どもが欲しいと屈託なく言う。子どもが欲しくない学生であっても、経済的な不安を理由の第一とするケースは非常に少なかった。獲得したいライフスタイルに「子持ち」はそぐわないから……といった理由が主だ。
上位大学と中堅以下の大学の学生たちの意識の違いは想像以上に露骨だったが、彼らの話を聞いていて思い出したことがある。かつて、特に1980年代から90年代にかけての日本社会には、経済的にも外見的にも「上位」に位置する若年男性の一定数が、個人主義的・享楽主義的なライフスタイルを貫くため「独身貴族」を決め込む風潮があった。なんなら「独身貴族」は「勝ち組」ライフスタイルの一バリエーションですらあった。
が、今回話を聞いた上位大学の男子学生たちから、そのような兆候はまったく見えない。むしろ、勝ち組男子ほど子どもを作りたがる。「子どもは金がかかる=子どもは贅沢品」である現在の日本社会においては、当然と言えば当然の帰結であろう。
分かる。桃のコスパは異常
そこで本当に幸せコスパがいいの?という疑念が出てきて、それに対抗するための説得力として神という道具が必要になる
宗教の目的は「人が幸せに生きるライフスタイルの提案」(とコミュニティを円滑に活動させるシステム)なのです
頭の良い人は自分で幸せに生きるライフスタイルを見つけることができますが、そうでない人はできません
そんな人は、ただ生きるのが辛いだけです
頭の良くない人こそが、宗教が提案するライフスタイルに沿って人生を送ると、自分で考えた結果より上の幸せに生きることができるのです
ただしそこが弱点なので、お金を取られて周りを不幸にする人がでてしまいます
また宗教が提案するライフスタイルは、それぞれの宗教で違うので衝突が起きてしまうのもデメリットです
しかし本来ならお金がなくても、宗教が提案するライフスタイルに沿って人生を送ればそこそこ幸せになれるんです
この先お金がなくなって娯楽が減り、どう時間を過してよいかわからなくなる人が増えます
その時は、宗教の事を思い出してください
某テーマパークに行った帰り、子供が熟睡してしまって、荷物はリュックに入れ、子供は抱っこして電車を乗り継いで帰ったことがあるが、何かの修行みたいだった。
幸い駅の駐輪場に子供を乗せる自転車で来ていたので、駅までついたらそれに熟睡した子供を乗せて帰ったのだが、なかなか大変だったな。
子供が多少大きくなって寝なくなっても、「キリキリ歩け!」みたいなことを言って、疲れた子供に鞭打つ必要があるので、精神的につらい。
これが車だと、「疲れたら寝てていいんだよー」と甘いことを言える。
電車で行くと遠回りになるようなところにあるテーマパークにも車だと簡単に行けるし、現地まで手荷物を運ぶのも楽だし、駐車場代を払ってもおつりがくる快適さだとは思う。
「恋愛はコスパが悪い」と感じるのって、それだけ自分がこの社会において底辺で低スペックだから相手に振り向いてもらえないし
万が一振り向いてもらえて結婚出産に至った場合間違いなく自分からの遺伝で子供を不幸にすると考えているからだと思うんだよね
そしてそういうふうに思う人が増えたっていうのは、要は格差が(現実にそうかどうかはともかく、少なくとも人々の意識の上では)拡大したって事。
K子との出会い
私がK子と出会ったのは、まだ雪の残る3月上旬、札幌のすすきのでのことであった。
K子は、私がごくたまに寄るカフェ兼バーでウエイトレスをやっていた。
年は30歳、身長157cm。体型はややガッチリタイプに見え、いわゆる固太りに近かった。
顔はまぁまぁ整ってはいたが、頭部はアメフトのボールのように大きかった。
完璧なメイクを追求してるようで、白塗りの土台が厚く、丸い輪郭が、さらに強調されていた。
キッチリ描いた眉に、メリハリをつけたアイライン。目元周りには、そのひとのお化粧への設計意図が表れるものだがK子の場合それは、顔の大きさを、目を拡大させることでごまかそうとする意図だった。
それとK子のメークには、悪い意味でのバランス感覚という特徴も見られた。
あちらとこちらの均衡を保とうとして、薄くするのではなく、厚く盛る方にいってしまうのである。
さらにK子は勤務中はロングヘアーをタイトに縛ってるので、目元が上がって鋭角的になるのだが、これがふしだらで好色な印象を与えかねない外見になってしまうのだ。
それはせっかくのよい素材での料理を、調理でなくソースで惑わし、お門違いの高級感を添えたつもりの洋風メニューのようだった。
白人の風貌という、ないものねだりを追いかけた挙句、醜くなってしまったマイケルジャクソンのようであった。
K子は、そんな女だった。つまり、どこにでもいるひとだ。
K子はその日も普段どおり給仕をしていた。時刻は夜の9時。私のオーダーはグラスビールだった。
私のテーブルにもやってきた、そこで2人は始めて目を合わせた。
するとK子は私の顔を見るなりハッとした顔をして上背をやや引いた。私は「ああまたか」と思った。
なにが「またか」なのか。それはその時の私の顔が彼女にはイケメンに写った、ということの了解である。
断っておくがこれは自慢ではない。なぜなら、こうしたことは4年に一度、つまりオリンピック開催と同じ頻度でしか、私に訪れないからだ。「またか」と感じるのは、4年がさほど長くも感じられない私なりの時性であって、傲慢の致すところではない。
毎日のようにこういうことが起きる人を、真のイケメンというのだが、この程度のいわば「プチ・イケメン」なら今のご時世、結構いそうである。
私の顔は、それどころかまぁどちらかといえばブサメンである。口が飛び出た造作が特徴で、唇も厚い。佐藤浩市の2倍は厚い。
このせいで、顔の下部にボリュームが出てしまい、シャープには見えないモヤッとした風貌になっている。
たとえるなら、ガリガリ君のような輪郭であるし、佐藤浩市の親父の三國連太郎みたいでもある。
芋というか、類人猿、合わせればゴリライモ。私はそんな顔なのである。そしてもちろん、あなたに「そんなことないよ」といってほしい、そんなケチな性分も持ち合わせているのだ。そこがまた醜い。
ここ20年ほどで男もするようになった「化粧」とは、もともと目立たないもの(一重まぶたなど)を、まやかしの力で輝かせる補正技術だと思うが、私の口元のように、はじめから飛び出ているものを、平たく目立たせずに抑制する用法には、それはまったくといっていいほど役立たない。
しかし男の場合、三國連太郎がそうであったように、また、佐藤浩市がそうであるように、絶対的なブ男というものはいない。バナナマンの日村も最初見たときはびっくりしたが、慣れれば愛嬌がある顔である。
男は、風貌をある水準(清潔感と常識のあるファッションセンス、そして似合う髪型、できれば細身)まで満たせば、異性にアピールできてしまうのである。ここらへんが女子と違う。無愛想でもある程度はイケてしまうということだ。かくして私のような者でも、こうしたラッキータイミングが巡ってくるときがあるのである。
さて私にハッとして頂いた女子に対しては、私はだいたい挨拶をするようにしている。
ここでいう挨拶とは、店や本人の迷惑にならぬよう気を遣いながら、名刺を手渡すことだ。
できれば一言添える「もし、よろしければ、お近づきになれれば…」みたいなことだ。
ハッとする、させるというのは直感の神秘である。人間のあまたある能力のうちでも一二を争うような、めちゃめちゃものスゴい、宇宙の誕生レベルの認識だ。
人間(じんかん)にヴァイヴレーションが伝播する。あるひとがある人の存在にピン!とくれば、その相手にも同じピン!が、誤解も曲解もなく瞬時に伝わる。だれも解明できない感覚。こうした体感に対しては対象化なぞハナから諦め、人として素直にしたがい、謝辞を述べるのがスジというものであろう。
とりあえず自分を規定する第一歩として世の中には名前というものがある以上、名乗る。
「4年に一度」がいつなんどき訪れるやもしれない。そんなときのために財布に名刺を2~3枚入れておく。
こうしたなんでもない普段の心がけが、出会いを引き寄せる具体的な手段なのだ。
こうした縁で、私はK子と付き合った。世間には「よくまぁこんなサエないのと一緒になったなぁ」というのが男女問わずいるが、なんのことはない自分もその仲間入りであり、K子の方でもそう思うときがあったかもしれない。つまり、サエないのはお互い様だったのである。最初のうちは。
だがしばらくすると私にはK子の大きい顔と太い骨格が、次第にいとおしく写ってきた。
そして次に、それがかけがえのない尊さに思えてきた。
というのも付き合い始めてすぐに気づいたことだが、K子は私と最初に目が合ったホンの0.1秒の閃き、焦点で、自分の開削に成功した、まったく優れた女だったのだ。
私との邂逅によってポン!と新規開設された自我内の回路に、まったく純粋に従った。
世俗的な疑いとは、私と付き合うことのメリットデメリットやコスパを考えることや、趣味や好みが合う合わないというような話などである。
K子はそれらを考えもしなかった。だから、デートで会ってもあまり話さず、肩を寄せ合い、手を握り腕をさすり、見つめあったりするだけだった。それでどちらも了解した。ドンと存在が大きいのである。100%ピュアな肯定性の塊。
そしてそうしたK子の態度は、私の細胞のすみずみにあまねく影響を与えた。小さな自分に固執していた私を、彼女は開放してくれた。
こういう女に慣れると、小顔ブームとか、華奢な女子やスタイルに固執するのは、矮小なことと知れる。しつこいようだが慣れればあの日村ですら、ファニーフェイスである。
K子はやがてメークが薄くなっていった。コスメへの依存を減らしていった。
単なる身だしなみ以上のそれは、まやかしだと気づいたのだ。
食事や運動に、それまで以上に気を遣い、毎日しっかり生活を積み上げていくよう、意識的に自分を導いていった。
現代人はただ毎日暮らしてゆくだけで、目に見えない「不純物」が、アカのようにたまってゆく。
人はいつも意識的に「みそぎ」をしなければならない。するとみそぎなんてしなくていいんだ、そのままのあなたでいいんだと社会その他は全力で否定する。だがそれは違う。甘言に引きづられてはいけない。やつらはあなたから銭を引き出したいだけだ。
メイクはそうした「不純物」の象徴であった。それがズバッと削ぎおとされた。
人の本来的な美しさや輝き、魅力は、外から取ってきて付け足すものでない。自分の内面から湧き出させるものだ。
こんなことは実に当たり前のことだが、不純物の洪水の中にいると気づかない。
自分から「湧き出させること」が自然に出来る人は、この世にいながら永遠を手にしたも同然なのである。
理想のカップル、なるものは知らない。知らないがそれは「人それぞれ」ではない。
以上この文は、まだ見ぬあなたと、まだ顕在化してない私を想って書いた。
<了>
K子との出会い
私がK子と出会ったのは、まだ雪の残る3月上旬、札幌のすすきのでのことであった。
K子は、私がごくたまに寄るカフェ兼バーでウエイトレスをやっていた。
年は30歳、身長157cm。体型はややガッチリタイプに見え、いわゆる固太りに近かった。
顔はまぁまぁ整ってはいたが、頭部はアメフトのボールのように大きかった。
完璧なメイクを追求してるようで、白塗りの土台が厚く、丸い輪郭が、さらに強調されていた。
キッチリ描いた眉に、メリハリをつけたアイライン。目元周りには、そのひとのお化粧への設計意図が表れるものだがK子の場合それは、顔の大きさを、目を拡大させることでごまかそうとする意図だった。
それとK子のメークには、悪い意味でのバランス感覚という特徴も見られた。
あちらとこちらの均衡を保とうとして、薄くするのではなく、厚く盛る方にいってしまうのである。
さらにK子は勤務中はロングヘアーをタイトに縛ってるので、目元が上がって鋭角的になるのだが、これがふしだらで好色な印象を与えかねない外見になってしまうのだ。
それはせっかくのよい素材での料理を、調理でなくソースで惑わし、お門違いの高級感を添えたつもりの洋風メニューのようだった。
白人の風貌という、ないものねだりを追いかけた挙句、醜くなってしまったマイケルジャクソンのようであった。
K子は、そんな女だった。つまり、どこにでもいるひとだ。
K子はその日も普段どおり給仕をしていた。時刻は夜の9時。私のオーダーはグラスビールだった。
私のテーブルにもやってきた、そこで2人は始めて目を合わせた。
するとK子は私の顔を見るなりハッとした顔をして上背をやや引いた。私は「ああまたか」と思った。
なにが「またか」なのか。それはその時の私の顔が彼女にはイケメンに写った、ということの了解である。
断っておくがこれは自慢ではない。なぜなら、こうしたことは4年に一度、つまりオリンピック開催と同じ頻度でしか、私に訪れないからだ。「またか」と感じるのは、4年がさほど長くも感じられない私なりの時性であって、傲慢の致すところではない。
毎日のようにこういうことが起きる人を、真のイケメンというのだが、この程度のいわば「プチ・イケメン」なら今のご時世、結構いそうである。
私の顔は、それどころかまぁどちらかといえばブサメンである。口が飛び出た造作が特徴で、唇も厚い。佐藤浩市の2倍は厚い。
このせいで、顔の下部にボリュームが出てしまい、シャープには見えないモヤッとした風貌になっている。
たとえるなら、ガリガリ君のような輪郭であるし、佐藤浩市の親父の三國連太郎みたいでもある。
芋というか、類人猿、合わせればゴリライモ。私はそんな顔なのである。そしてもちろん、あなたに「そんなことないよ」といってほしい、そんなケチな性分も持ち合わせているのだ。そこがまた醜い。
ここ20年ほどで男もするようになった「化粧」とは、もともと目立たないもの(一重まぶたなど)を、まやかしの力で輝かせる補正技術だと思うが、私の口元のように、はじめから飛び出ているものを、平たく目立たせずに抑制する用法には、それはまったくといっていいほど役立たない。
しかし男の場合、三國連太郎がそうであったように、また、佐藤浩市がそうであるように、絶対的なブ男というものはいない。バナナマンの日村も最初見たときはびっくりしたが、慣れれば愛嬌がある顔である。
男は、風貌をある水準(清潔感と常識のあるファッションセンス、そして似合う髪型、できれば細身)まで満たせば、異性にアピールできてしまうのである。ここらへんが女子と違う。無愛想でもある程度はイケてしまうということだ。かくして私のような者でも、こうしたラッキータイミングが巡ってくるときがあるのである。
さて私にハッとして頂いた女子に対しては、私はだいたい挨拶をするようにしている。
ここでいう挨拶とは、店や本人の迷惑にならぬよう気を遣いながら、名刺を手渡すことだ。
できれば一言添える「もし、よろしければ、お近づきになれれば…」みたいなことだ。
ハッとする、させるというのは直感の神秘である。人間のあまたある能力のうちでも一二を争うような、めちゃめちゃものスゴい、宇宙の誕生レベルの認識だ。
人間(じんかん)にヴァイヴレーションが伝播する。あるひとがある人の存在にピン!とくれば、その相手にも同じピン!が、誤解も曲解もなく瞬時に伝わる。だれも解明できない感覚。こうした体感に対しては対象化なぞハナから諦め、人として素直にしたがい、謝辞を述べるのがスジというものであろう。
とりあえず自分を規定する第一歩として世の中には名前というものがある以上、名乗る。
「4年に一度」がいつなんどき訪れるやもしれない。そんなときのために財布に名刺を2~3枚入れておく。
こうしたなんでもない普段の心がけが、出会いを引き寄せる具体的な手段なのだ。
こうした縁で、私はK子と付き合った。世間には「よくまぁこんなサエないのと一緒になったなぁ」というのが男女問わずいるが、なんのことはない自分もその仲間入りであり、K子の方でもそう思うときがあったかもしれない。つまり、サエないのはお互い様だったのである。最初のうちは。
だがしばらくすると私にはK子の大きい顔と太い骨格が、次第にいとおしく写ってきた。
そして次に、それがかけがえのない尊さに思えてきた。
というのも付き合い始めてすぐに気づいたことだが、K子は私と最初に目が合ったホンの0.1秒の閃き、焦点で、自分の開削に成功した、まったく優れた女だったのだ。
私との邂逅によってポン!と新規開設された自我内の回路に、まったく純粋に従った。
世俗的な疑いとは、私と付き合うことのメリットデメリットやコスパを考えることや、趣味や好みが合う合わないというような話などである。
K子はそれらを考えもしなかった。だから、デートで会ってもあまり話さず、肩を寄せ合い、手を握り腕をさすり、見つめあったりするだけだった。それでどちらも了解した。ドンと存在が大きいのである。100%ピュアな肯定性の塊。
そしてそうしたK子の態度は、私の細胞のすみずみにあまねく影響を与えた。小さな自分に固執していた私を、彼女は開放してくれた。
こういう女に慣れると、小顔ブームとか、華奢な女子やスタイルに固執するのは、矮小なことと知れる。しつこいようだが慣れればあの日村ですら、ファニーフェイスである。
K子はやがてメークが薄くなっていった。コスメへの依存を減らしていった。
単なる身だしなみ以上のそれは、まやかしだと気づいたのだ。
食事や運動に、それまで以上に気を遣い、毎日しっかり生活を積み上げていくよう、意識的に自分を導いていった。
現代人はただ毎日暮らしてゆくだけで、目に見えない「不純物」が、アカのようにたまってゆく。
人はいつも意識的に「みそぎ」をしなければならない。するとみそぎなんてしなくていいんだ、そのままのあなたでいいんだと社会その他は全力で否定する。だがそれは違う。甘言に引きづられてはいけない。やつらはあなたから銭を引き出したいだけだ。
メイクはそうした「不純物」の象徴であった。それがズバッと削ぎおとされた。
人の本来的な美しさや輝き、魅力は、外から取ってきて付け足すものでない。自分の内面から湧き出させるものだ。
こんなことは実に当たり前のことだが、不純物の洪水の中にいると気づかない。
自分から「湧き出させること」が自然に出来る人は、この世にいながら永遠を手にしたも同然なのである。
理想のカップル、なるものは知らない。知らないがそれは「人それぞれ」ではない。
以上この文は、まだ見ぬあなたと、まだ顕在化してない私を想って書いた。
<了>
はてなにも漫画好きの人がたくさんいておすすめ漫画のエントリーとかもよく入ってくるけど、漫画って読むのにめっちゃお金かかるのにすごいなーといつも思ってる。
一巻500円とか800円とかするじゃん。それをシリーズごとに10巻とか20巻とか集めるわけでしょ?800円で20巻となると16,000円もするわけですよ。そんなシリーズを10も20も集めてるって、今の時代相当ブルジョワな趣味ではないかと思う。1巻読み始めたら半強制的に全巻読まなきゃとなるから心理的ハードルが高いし、かと言ってつまらなくて1、2巻で諦めたらそれこそ金をドブに捨てたような気持ちになってしまう。
しかも漫画って単行本一冊買ってもものの30分で読み終わってしまう。もちろん何回か読み返すとは思うんだけど、コスパ考えるとそこまで良いとは言えない気がしてしまう。
みんな漫画喫茶とかサウナで漫画読んでるのかなと思ったけど、はてなのエントリーに入ってくるような面白いけどメジャーじゃない漫画達ってそういうところに置いてなかったりするじゃん。いろんな漫画を網羅してる人達って一体漫画に年間いくら注ぎ込んでるんだろう。
面白い漫画は次々と生まれてきちゃうわけで、それを追っかけるのにも大変なコストがかかってくるでしょ?個人的には漫画ってゴルフやら釣りなんかより余程ブルジョワジーな趣味に感じちゃうんだよなー。漫画をあまりお金をかけずに楽しむ方法があったらぜひ教えてほしい。
いつもこういう時は家で爆睡するだけなんだが、たまには金と時間を使ってリフレッシュしてみたい。
候補としては
・銭湯…よく行ってたけど、最近はサウナブームで混んでたりマナーが悪い客が目についたりするのであまり行ってない。コスパは良いかな。
・温泉宿…客の少ない場所を選べば思いっきりリラックスできそう。でも金と移動の労力がかかる。妊娠中の妻がいるから今は行かない。
・マッサージ…昔一回だけ行ったことあるけどなんか男に触られるのが合わなくて行ってない。アラフォーになった今なら気持ちいいのかな?
・メンエス…行ったことないからいってみたい。結局エロは活力。でも高い。妻にもバレたくない。
こんなもんか。
ミドルクラスの作るならパーツショップの近くに住んでるならともかく、相性で動かないだとかで返品や交換等いろいろやる時間考えたら普通にその分働くなり勉強するほうがコスパ良いレベルだと思うわ。
色々婚活も進めていたがもう潮時と思い、アプリで出て来る人や自分のスペックを見ながら胸焼けして疲れてしまった。
不景気に拍車掛かっているけど、それで無くても子育てはそもそもコスパは悪いと思う。恋愛などがあって相手と自分の子供を作りたいと言う苦労を進んでやるのだから色々採算も合わない行為と思う。それでも得たいという思いからやるので、まあコスパは悪いと思う。
既に亡くなった育ててくれた親の事を思い出してさらに自分の子供の頃を考えると本当に頭が下がる。最近たまたま母親を題材にした歌を耳にしたが自分の事のようで涙が出て来た。後悔と感謝しかない。
婚活界隈で相手を見てスペックや性能がと互いが互いに足元見合う事にも自分が嫌になって来た。
自分は親の姿を見て自分も子供を持ちたいと思ったが、相手からすると低スペの自分を不満持たれながらそんな人とやっていけるかというともう体力がそこまで持たない。
無理を通してもそんな生活は成り立たないだろう。
自分も無理だし、異性側でスペックとか言い出している人は一生無理と思うし、言っている時間がもう自分の賞味期限が加速して減っているのだから目も当てらられない。