はてなキーワード: こじつけとは
最近になって、とにかくなんにもやりたくなくなってきた。
具体的には、何か責任が伴うようなことや、「やらなきゃいけないこと」が極端にやりたくなくなってきた。
で、現在絶賛逃避中。なんだか最近来れが癖になってきてしまってまいっている。
すごく自分勝手で、ただの怠慢の他ならないんだけど、なかなかどうにもならなくて困る。
とにかく着手し始めるのがいやだ。考えたくもやり始めたくもない。
こういうのってだいたいやり始めると軌道に乗るはずなんだけど、それすら拒絶してるのかもしれない。
散々自己啓発やら偉人伝記やらを読みあさって、モチベーションを保つ方法!とかそれなりに理解しているはずなのに、行動に移さない。
こういう「やりたくねー!!」って時に、常々頭によぎることが
「そもそもなんでそんな事しなくちゃいけないの?なんでお前生きてんの?」
って考え。
ホントなんで生きてるんだろうって常々考えるようになってしまった。
自分が楽しめるように生きれればいいって思うようにしているけど、その「自分が楽しい」ってことがよく分からなくなってきた。
お金を使えば楽しいのか?人と関わり合えば楽しいのか?旅行をすればたのしいのか?
一体何のために生きているんだろう。生きることに意味なんて無いんだろうけど、なんか虚しくなってきてしまった。
まあ、多分こんな考えが巡るのも現実の「やらなきゃいけないこと」からなるべく逃避するためのこじつけ探しだと思う。
やれば楽になることをなぜやらないのか?
今から取り組めば、少なくともあとに回すよりか断然楽になるはずなのに。
きっと「逃げる」ことを覚えてしまったから。ぎりぎりになってキリキリ胃を痛めて作業して、間に合わなくて、間に合わせで済ませても、
自分の満足とか、他人の評価とかそんなものを無視してしまえば、結局は耐えさえすればなんとかなってしまうってこと。
でも、それは実際には、何とかなっているのではなくて、確実に自分自身を貶めてしまっていること。
他人からの評価や、自分の仕事・作業の価値を下げていることを、考えないようにしてしまっている。
だからだんだん周りの自分に対する評価も下がり、自分自身への評価も下がり、やる気もなくなって作業も滞る。
やることから逃げていれば、必ず負のスパイラルに入ってしまうこと。
今はこの負のスパイラルに突入中だってことは頭では理解できている。
問題はどうやって抜け出すかってこと。
「やればいい」んだけど、そのやる気がおきない。(やる気は起こすものだってことは十分に理解できている。やり始めることでやる気は起きるってことも)
だからいつもやっているのは、こうやって今の心情や状況を書きだす作業。
これが意外と効果があって、冷静になれる。
結局、仕事や作業にヤル気が起きなければ、自分の興味のある範囲でそれ(仕事)に近い作業すればいいんじゃないかな、と思う。
こうやってPCに向かって、僅かながらも頭を使いながらキーボードを打っていると、仕事中のような感覚に陥る。
普通の女子大生がなぜ、Google+で「日本一」になったのか - nanapi Web
真性引き篭もり: 普通の女子大生は、Google+で「日本一」になんかなっちゃいない。
他の記事もひと通り読んだので長くなるが思ったことを。
久々に様々な意見が読めて、数年前までのはてなのようで楽しかったから、感謝として。
「わたし、写真が大好きだと思われてるんですが、嫌いですね。撮るのも、撮られるのも」
写真が嫌いで、SNSも苦手だという坂口さん。それでもGoogle+に写真をアップし続けているのは、「就活のため」だ。
大学3年生になり、就職活動を始めたが、「就活でしゃべれることがないんです。好きなこととか、何もなくて。何も好きじゃないし、何もできないから、流行ってることとか、これから“来そう”なことをやろうと。目標に向かって努力した経験や、自己PRが求められた時、なにか印象に残ることが言えたら」。
「恐怖感」という言葉で感じ取り、理解した者もいたことだろうと思う。自分になにもないような気がして焦燥感に焼かれるような時期のことを覚えている者なら。
彼女は賢い女性だ。自己分析も、目標設定の仕方も。早稲田という学歴を手にしたのはなんら不思議なことではないと思う。「意志が弱い」のに「恐怖感」で毎日朝3時50分に起床できる。これだけでも「普通」じゃない。褒められていい。好きでもなく、むしろ嫌いなことのため。けれど、将来に向けて役立つものを作るため。長所で点を稼ぐことでは行けない場所に彼女はいるのだろう。弱点を克服してこそ立つことができる場所に。
そして、就活を目前に控えても彼女はその方法論を用いて不器用に「これから“来そう”なこと」を選んだのかもしれないと感じた。この選択に自尊感情の低さを読み取ったとしても、病的と謗るのはどうだろう?彼女は自分と自分の人生に果敢に向かい合っている。安易に楽を選ぶような人ではないようだ。きっと彼女のいる場所では自分と同程度に出来がいいだけでは評価されないのだろう。だからこその課題解決と弱点克服。お前は何者だ。その問いにも、その答えにもおそらく彼女は気がついている。
彼女は結果を出した。Google+とInstagramということを差し引いても称えられていいのではないだろうか。確かにそれは誰にもできそうな話だ。お手軽で浅薄にも思える。パソコンとiPhoneがあればできる。インターネットは「自分だって」という幻想をもたらすツールだ。ユーザが少ないから、顔が綺麗だったから、学歴があったからということは自分も思った。嗚呼、またカモネギか、と。けれど、そういう一面もあったとしても彼女の努力は称えられていい。それがどんなやり方であろうとも自らに欠けているものを獲得しようとしている者の痛ましい努力を。壊れたiPhoneに感じるものはないだろうか?もしかしたら、壊れていたのは彼女だったのかもしれないとさえ自分には思えた。
事実、元記事にはこうも書いてある。
「1日1枚はInstagramに上げないと、というノルマに対する恐怖感で起きています。写真を1枚逃したら、私は何もない元の自分に戻っちゃう」
何もないわけがない。そんなに綺麗じゃないか。そんなに有名な大学にいるじゃないか。Google+で一位じゃないか。
ここで大事なのは“彼女にとって”は「何もない」ということだ。Google+を取ったら、彼女のいる環境では普通(以下含め)に埋没する。その恐怖感たるや如何ばかりだろうと考える。自分は自分だろなどと励まされても、“彼女には”そうじゃない。それに「何も好きじゃないし、何もできない」ということは本当に苦しいことだ。それだけ頭が良ければなんて言ってはいけない。彼女以外の者が自分のいる場所から考え言葉を発するのなら、彼女だってそうしていい。なによりも、なにもないという自分との対峙は大学生らしくまっとうな悩みではないだろうか?むしろそこに一度撓んで伸びようとする魂を感じはしないだろうか?
なにもない自分と向かい合うのは力のいる作業だ。彼女はいま奈落と向き合っているところなのかもしれない。それはこれからも時間をかけてやっていくことになる作業だろう。途中で転職や結婚や出産という転機にだって出会うことだろう。そしてそのたび自問自答しつつ、誠実にひとつずつ向き合っていくように感じた。そう信じたい。
「気持ち悪い」と思っていた一眼レフカメラも、最近は欲しくなってきた。「iPhoneのカメラには限界がある。誰かに伝えたいと思うような美しい景色が思うように撮れない時は、ちゃんといいカメラで撮りたいなと」
「気持ち悪いと思っていた一眼レフカメラ」「誰かに伝えたいと思うような」この言葉も印象的だ。
関心や興味は良いものとされがちだが、あまりに強い関心というものは異様に映る。強すぎる情熱を持って自分には興味のないことを続けている者を見かけたとき、つい引いてしまったことはないだろうか。それに、物事への関心が薄い者はネットでは目立たない。彼や彼女の発する情報はあまり役に立たないからだ。そもそもネットに現れないことの方が多いのだろう。語ることがないから。伝えたいことがないから。なぜそんなことをする必要があるのかわからない。ネットと接してきた時間が長い者と彼女のような伝えることのないタイプは互いに異形の者。でも、彼女はネットを選んだ。
何かを伝えたいと思うようなことがなかった女子大生がインターネットで「伝えたい」方向に気持ちが動いた。この先「やっぱりカメラは気持ち悪い」と思うことになっても、ここに自発性や意欲の萌芽を読み取ることはできないだろうか?
彼女は「好き」を獲得し忘れてしまったのか、どこかに置き忘れてしまったのだろう。だからこそ傾向と対策を練り、「型」の反復から入って習得しなければならなかった。そして、恐ろしいまでの勤勉さで、本来は好きというだけで心理的報酬が発生する行為を、他者からの称賛という報酬で自分の中に意欲として還元し定着させつつある。このことがいつか他者からの称賛という報酬がなくても行為自体が報酬をもたらすようなものとして彼女の中に育っていくといいと願う。考えてみて欲しい。多くのひとはもう記憶もないような幼い頃に獲得したか、考えずとも手にしているものを彼女は二十歳を超えてから獲得しようとしているのだ。野暮なことは言わず、讃え見守りたいと思う。もしよかったらあなたもボタンを押し、気が向けばなにかコメントするだけの簡単なお仕事をしてみてはどうだろうか。翼を広げ飛翔する彼女を目にすることができるかもしれない。それはインターネットから翔び立つことかもしれないけれど。
岡田有花という方を自分はよく知らない。しかし、この取材はきっと彼女も困ったのではないかと感じた。岡田氏は「写真大好き」な女子大生と出会うはずではなかったのだろうか?意外な言葉に戸惑ったのは彼女も同じだったのではないか?確かに記事の内容はありがち。わかりやすい良い話にしたかったのだろう。しかし、穿った見方をすればこの方は自分がネットで付与された(と思しき)物語を坂口さんにも着せようとしているような気がしてならない。「普通の女子大生」なんて表現は彼女が京大でなければ出て来なかった言葉ではないのか。また、彼女は一度自らに問うてみるといいと思う。自分が向けられた男性からの視点を内面化していないかどうかを。こうすればネットでは受ける視点が男性目線からのものであるのなら、あざといパッケージは文章を安くする。
そしてこのありがちな文章に対してのカウンターである『普通の女子大生は、Google+で「日本一」になんかなっちゃいない。』があまりに凄すぎた。素晴らしすぎた。誰もが薄々感づいていて言葉にしなかったことを暴いてしまった。それぞれの方がそれぞれの部分に喝采を贈ったのであろうが、自分は次の部分だった。
3年以上前からブログを書いている女性を、思い出せるだけ思い出してみてほしい。全員ぶさいくである。1人の美女もいない。美しさの欠片も無い。顔も醜い。心も醜い。そういう人達ばかりである。不平不満とくだらない馴れ合いをはき出して、だらだらいきている醜い人ばかりである。1人として美女はいない。もちろんの事、美男もいない。美しさは消えるのである。インターネットから消えるのである。時間と共に消えるのである。美しい者は、インターネットを捨て、廃棄し、跡を濁さず消えて行くのである。インターネットという地獄では、醜い者だけが生き残るのだ。そういう風に出来ているのだ。
すべてとは言わないがそう思う。自分にとってこの「美しさ」に儚さや弱さも含みたい。多分、ある種の脆弱さという美しさを持った彼や彼女たちはインターネットからも弾かれる。長くネットに表現を置くことができる者は強者であると言ってもいいと自分は思う。
だから思い出して欲しい。「ワンチャンあるかも」ということがどれだけ美しい者たちを潰してきたかを。
女性に「クン」とつける中高年男性向け雑誌のように「タン」などと語尾につけてキャラ化し、持ち上げるだけ持ち上げてコンテンツとして消費し、そして次の対象へと関心を移す。そのとき、賢く、美しく、センスのあり、慎ましやかな者を選んでいたのは他ならぬ「ワンチャンあるかも」という者ではなかったのだろうか?そういう者たちが結局美しい者を淘汰していってしまう。残るのはマシュマロの中に鉛が入ったような女性だけである。「私の名ならば女。それ以上でも以下でもない」と賢い女なら気づく。そして鎧を身につけるか、鉛を飲むか、逃げるかしていく。また、当然の如く逆もある。どちらかだけが捕食者とは限らない。女というだけで入れ喰いならフォトショ覚えるくらい安いものだ。これを楽しめるのもまた人間としてのある種の強さとこじつけてもいいのかもしれない。
男の敵も女の敵もお互いとは限らない。いつの間にやら話の流れは新旧ネットの流れになっているらしいがそれも含めて自分が感じ取ることをどんなゲームにしてもいいし、そんなものはないと木で鼻をくくったように言ってもいい。それが自分の考えだと感じるならそこから行くしかない。そして、それが違うからこそ人と出会うのは面白い。
最後に、個人的にはネットで多数と繋がりたくはないと考えていることについて。
Twitterが普及してからある種の文章をあまり見かけなくなったように感じている。エッジの効いた、ヒリヒリするような、血の滴るような文章を。嫌だったひともいるのだろうが、自分はああしたごりごりとした長文が読みたくてネットを見始めたクチだから大変残念だ。その一因はネガコメとかあの辺もあったんだろうなと思う一方で、ブログならば見えない読者を一人失うだけだったのがTwitterと連動させたことで明確に誰から拒否され関係が切れたのかがわかるからではないのかとも考えていた。それが罰のようなものとして認識されているのではないだろうかと。人間関係の煩わしさがネットに持ち込まれることで混沌と表現と情報は薄まっていく。ネットを現実と重ねていく流れがあるのならば空気を読むのは当然のことだ。日常の罪をネットで告白することの意味に気づかない者たちが晒される見せしめのショーも連日開催中だ。自宅、職場、学校まで晒される。あまりにリスキー。お利口でいい子になっていくのは必然だろう。誰かが自分に関心を向けてくれたときのあの興奮を一度でも味わったことがある者ならば。好かれたい、愛されたい、褒められたい、繋がりたいと願うのならば。
旧世代と誰かを括って責任押し付けるのは簡単だ。若いってそういうことだ。けど次はお前の番だ、お若いの。この流れの先に待っているのがパノプティコンでも向かいの囚人に片目を瞑ってみせようじゃないか。
この文章の作者は「ネット企業に対する風当たりが強すぎる、なんとかしろ」と言いたいだけのところを、最終節で無理に
成長産業/企業全体に一般化して「フェアな目線を持とう」と言っているわけで、このような一般化には無理がある。
そうでないというなら現代日本の他の成長産業の成長企業が嫌悪感を向けられているという例を挙げて一般化して見せよ。
そもそもタイトルが「日本人のネット企業に対する意識」なのだからネット産業以外への言及を含むような文を含めなければ
このように突っ込まれることはない。おそらく関連企業に勤めるのであろう筆者から世間へのルサンチマンが見え見えである。
どこの国でも一般大衆が新しく出てきた企業に対して「フェアな目線」を持っているなどという事実はない。
「ムラ社会」云々も完全なこじつけであり論理的ではない。ホリエモンに足りなかったのは
バカにはたとえ話の方がわかりやすいだろうから、たとえ話で。
という主旨の妄想行為をはたらいている男性について女性諸君はどう思うのですかね。
ノンケの人(少なくとも同性愛をカミングアウトしてはいない人)のイチャイチャを日常から拾い出してモエるというやつですよ。
明らかなねつ造・こじつけあるいはガチの人ネタもあるんだけど、あまりに「友情=セックスのない同性愛」的な感じのネタもあるんだよね。
ちょっとこの子らデキてんじゃないの? 的な。
やられる方は不快だろう。それはわかる。
そして、だから、隠れてひっそりやる。本人には絶対にわからないように。
いいよね別に。隠れてひっそりだし。
大学で同じサークルとか一緒の授業取ってるジャニーズ系の男の子に目が吸い寄せられるのとおんなじだもんね。
それがあんまりイケメンだったら、女子会かなんかで話のついでに出して好みがどうのこうのって盛り上がること、ありえるもんね。
それと一緒だ。
…と、いうようなことを、知り合いの女に力説してみたんだけどなんか話が通じてないっぽいんですよ。すげえ嫌な顔する。
いったい何が受け入れ難いのかしらん。
で、考えてみたら、恋愛対象として特定女性を取り上げて「あの女の子いいね」とか言うのと、特定女性をレズビアンであると妄想して「あの子達レズっぽい、萌え」とかやるのって、全然違うもんね。
男女の問題じゃなくて、男女逆転させても一緒だね。
という主旨の妄想行為をはたらいている女性について男性諸君はどう思うのですかね。
ノンケの人(少なくとも同性愛をカミングアウトしてはいない人)のイチャイチャを日常から拾い出してモエるというやつですよ。
明らかなねつ造・こじつけあるいはガチの人ネタもあるんだけど、あまりに「友情=セックスのない同性愛」的な感じのネタもあるんだよね。
ちょっとこの子らデキてんじゃないの? 的な。
やられる方は不快だろう。それはわかる。
そして、だから、隠れてひっそりやる。本人には絶対にわからないように。
いいよね別に。隠れてひっそりだし。
大学で同じサークルとか一緒の授業取ってるピタピタTシャツの巨乳の女の子に目が吸い寄せられるのとおんなじだもんね。
それがあんまり強烈に巨乳でピタTで美人だったら、酒の席かなんかで話のついでに出して好みがどうのこうのって盛り上がること、ありえるもんね。
それと一緒だ。
…と、いうようなことを、知り合いの男に力説してみたんだけどなんか話が通じてないっぽいんですよ。すげえ嫌な顔する。
いったい何が受け入れ難いのかしらん。
普段あれだけ巨乳がどうこう貧乳はアカンとか何とか所構わずエロネタ振りまいてくるくせに自分がオカズにされんのは拒否反応とか都合良すぎンだよカスが。
趣味とか嗜好とか立場とか、そういうのが合わないというのとはまた別な話。
死んでもいない人を死んだことにして、惜しい人を亡くしたとかつぶやいちゃうような人。
この馬鹿が一人で言ってる分にはまあ糞野郎氏ねってフォロー外してオシマイなんだけど、フォローしておきたくなる人も感化されて「本当なら寂しいですね」とか書いちゃうから害悪極まりない。
価値基準がいち早く感傷に浸ることで情報通だと周囲にイメージつけたいんですかね、このタイプは。
人それぞれ、何かニュースがあったら一言何か意見したくなるのはわかる。
でも、何のニュースがあっても自分が熱狂的に愛する何か、アイドルでも歌手でも役者でもチームでもいいや、それにこじつけて語っちゃう人。誰かが死んだら私の好きな○○が死んだらと思うとー、誰かが成功したら○○がぁ~。
うん、君がその○○を好きなのはわかった。
似たタイプとして、いかに自分が熱狂的かをアピールするのに必死な人。「○○が大好きすぎてぇ~」「○○がないと死んじゃう」
■ねじ曲がった「自分の都合のいい解釈」を前提に論評しちゃう人
一番わかりやすい例は「平野綾、所属事務所を解雇される(クビになる)」かな。
このケース、平野綾自身が所属事務所に対して契約解除を求めたというのが事実だったんだけれど、事務所が「ファンクラブを解散します」という文書を出した段階で「平野がついにクビになった」と騒ぎ立てる人が多かった。
彼ら、彼女らにとっては平野が解雇される、イコール平野が自らの意思にかかわらず酷い目にあったほうが気分がいいからそういうモノカキをしちゃうんだろうね。
ドヤ顔で「アイドルなのにキス写真流出しちゃったんだからしょうがないよなー」とか書いてるのを見ると、ああ、この人と友達になりたくないな、と思う。
■略語が個人的すぎて理解できない人
twitterって文字数限られてるから、略語使って圧縮するって考え方はまあわかる。ソフトバンクモバイルをSBMって表記したり、横浜ベイスターズをYBと表記したり。略語として定着したり、団体などが自ら使用してる場合は、まあ文脈からだいたい理解できる。
どっこい、よくわからない略語を日常的に使って何言ってるかわからない人、たまにいますよね。「俺はそれをよく知ってるし俺は理解できるから省略表記」なんですかね。
TKGとか、このあたりは最初意味わからなかったけどだんだんなじんできた。ADPとか未だにわからん。ググってもわからん。
■○○ってマジなの?
■誰かのtweetに対して、○○を××に空目と絡んでばかりの人
言われたほうはどーせいちゅー。
■□■総評。
「フォローリムーブ自由です」ってプロフィールに書いてあったら、何書いてもいいみたいな考えの人は合わない傾向。フォロワーは勝手に俺をフォローしてるんだし、合わなければ外せばいいじゃん、という問題じゃないんだにゃー。
少なくとも今お前がしたtweetは、お前をフォローしてる何十何百何千の人のタイムラインに流れるんだよ。それについての責任感というか、配慮が欠けている人をガンガンリムーブしていったら……。
どうやら、俺にはtwitterは合わないようだ。
みんな結構印象で読んでるな、例の記事。
親子関係に端を発すること書いてんだからそこんとこフォーカスした内容になるのは必然。
むしろ「親のせいにしている」「こじつけている」という読み方が多いのが気になる。
優先順位のつけかたに不満があるという批判ならともかく、外を大事にすることを無条件に否定的に捉えているあたり、下手くそだなぁと思う。
無条件に否定なんかしてない。というか、母親のやり方では大事にされてるのは外ではなくて対外的な母親自身像だ。っていう話でしょ。
具体例が出ててそれに対する批判という形で書かれてるから、感覚的に具体例側に近い人が反論したくてたまらんみたいだけど。
ブログの人、自分の対人関係の問題を分析して原因を突き止めて、親子関係を何とかしようとしてるじゃん。適切な対処じゃん。
逃げで親がどうこう言ってるわけじゃあないよ。
というか、「親がどうこうとか言ってればそれは全部逃げ」みたいな認識してる増田の方がヤバイ予感。
相手が真顔なのに「殴る」とまで言うか普通。「肯定するかしないかはおいといて」一旦相手の言い分を受け取る技術が足りないんじゃないの?w
失敬失敬w
言わねーよりマシw
正直自分がこの人の親だったらこの子は社会で生きて行けるんだろうかと心配でしょうがない。
絵に描いたような「大きなお世話」。
そこまで言うならこういう人間が周囲に居て案の定失敗した時に助けてやるんですよね?
https://twitter.com/flurry/status/110154365943283713
研究成果自体はともかく、末尾の一文がひどすぎる。>『電離放射線は1895年のレントゲンによるX線の発見から、わずか110年余の歴史しかない。それにも関わらず、発見時に既にヒトの細胞を電離放射線から防護するDNA修復機構が生命に存在……』
引用元は 放射線の修復蛋白NBS1によるRAD18を介した損傷乗り越えDNA合成の開始 — 京都大学 で、ここには
電離放射線は1895年のレントゲンによるX線の発見から、わずか110年余の歴史しかない。それにも関わらず、発見時に既にヒトの細胞を電離放射線から防護するDNA修復機構が生命に存在していたことは驚きである。
と書いてあるけど、普通に読めば「人間が発見するよりはるか昔から自然には放射線を処理する仕組みがあるのだ。不思議だ」という感じだと思う。けど彼の解釈は、
https://twitter.com/flurry/status/110155013535436800
えーと、その、レントゲンがX線を発見するまで、たとえばベータ線やガンマ線も飛んでなかったとおっしゃるわけ……? 論文の筆者、ひいては研究成果まで疑いたくなるという。
だそうで。どう読んだらそうなるの?いや、わかるよ。「人間がX線を発見したからX線が世界を飛び始めた。それから110年、生物はこんなに早く進化したのだ」って読んだんでしょ。でもさ、そのひねくれた読み方をひねくれているという認識を持たないで普通に書き出しちゃうの、ちょっと面白いなあ。
んでこれ。
https://twitter.com/apesnotmonkeys/status/110170002589630464
https://twitter.com/flurry/status/110175456388583424
@apesnotmonkeys ぎゃー。目的論的な発想と親和性が高そうで、この先生の進化についてどのように理解しているか、というのも……
ここまでいくとよりひどさが増す。今まで彼が確認していたのは、時間軸、つまり「起源」と「発見」を混同してしまっているのではないか、ということであった。
そこにさっそうとapemanが「種の起源」を持ち出す。これも「起源」つながりだからまあ、議論にそくしているとはいえる(「人間にとっての進化というのは『種の起源』で始まったが、それ以前から進化それ自体は存在する」という誤解(あるのか?)と類似性があるなんて話だからつじつまは合ってるけど、この後の反応に注目)。
でも次、「目的論的な発想」とか言い始めて、さっきまで時間軸上で混同してるんじゃないといっていた話が、いきなり別の議論、つまり手段と目的の混同に飛躍するという面白さ。進化論のよくある誤解=目的論的発想だから脊髄反射しちゃったかな?でも、先ほどの研究者の文章には、確かに「時間軸上の混同」は100人中1人は間違えるレベルの書き方はしているけれど、目的論的なことは一切書かれていない(だいたい「親和性が高い」なんて、科学者であれば相関と因果の違いくらい誰でも意識してるだろうし、自然科学の議論全般が「目的論と親和性が高い」のだから、こじつけにもほどがある)。いくらなんでもここまで拡大解釈されたら研究者も「こいつに説明しても意味がない」となるだろう。
で、ふたつを合体。すると「人間がX線を発見してから110年、その放射線に適用するために人間は処理の仕組みを持ったのです」なんてことに。こんな読みをした奴は、お前くらいだよ。
http://d.hatena.ne.jp/yuhka-uno/20110901/1314876472
この記事に対して、コメントやブクマで「筆者のコメント欄に対する反応が残念・びっくり」とか書いてる人がいてビビる。
何が残念なん? どこが驚くとこ?
「itiさんを困った親と決めつけてる!」みたいに言ってる人いるけど、これ正直筆者の親と同類の「困った親」扱いされても文句言えんレベルだよ。
論拠がないどころか、明らかに文中に「本来なら親の責任や役割であるべきことまで、私が担わされることもあった」て書いてあるのに、母親は親業やれてなくてその分担を子どもにさせているのに、「援助がほとんどない状態で3人の子育てをされたのではないか」とか書いちゃうって。
3人の子育てじゃないでしょ。2.5人か下手したら2人でしょ。そういう文章でしょ。
それをああいう風に解釈ねじまげるなんて、認識がそんなに簡単に歪んじゃうなんて、言いたかないけど何か、何かがあるんとちゃうか。と思うっしょ。
怖過ぎる。
あれ見て「悪口だ」「陰口だ」「決め付けだ」「こじつけだ」と思った人も同類だよ。ちょっと我が身を省みてみる必要あるよ。
だってあの文脈でアレが出てくるって、しかもそれを指摘されて悪口とか言っちゃうって。どういう理屈でそうなるねん。ちょっと説明してくれんか。
「ひとを尊敬するのは素晴らしいことなのに、『こんなひとを尊敬するなんて困った方だ』扱いされて失礼しちゃうわ」ってな話なのか?
あの文脈で尊敬ポイント無いやん。「ひとを尊敬する素晴らしいワタシ」ってやってるだけやん。まぎれもない困ったさんでしょこれ。
「結果的に悪く出たけれど、でも子どものためを思ってしたことなのに、困ったモンペ扱いされて失礼しちゃうわ」ってことなのか?
子どものためを思ってりゃ砂糖玉でもいいのか、米のとぎ汁でもいいのかって言われてるやん。これもまぎれもないモンペやろ。
「そもそも尊敬するとは書いたけど、筆者に尊敬を強いたわけじゃないのに、困った強要者扱いされて失礼しちゃうわ」ってことか?
尊敬まで強いてたら完全にモンペ勢でしょ。あの文脈であのタイミングであそこで出した意図に問題があるんよ。
親批判記事に親無条件擁護コメントで対抗したら「あーこの人ストレス溜まってるお母さんとかかなあー」って言われるよ。
追記:
ぎゃはははは。見つかった。いや場内リングはもう満杯感がしたのでw
1.常に怒る
シンプルな方法です。常に周りにいかりのエネルギーを発散しましょう。部下が失敗したらもちろん大声で怒鳴ります。たとえ部下が成功したとか、友人が自分のために何かしてくれたとしても、そんなことは当然という気持ちを強くもち、「そんなことは当然だ!」と思考回路そのままのことを口にしましょう。もちろんそれ以外でもオーケイ。息が臭いヤツがいたら、「てめー、口くせーんだよ!」と怒鳴りつけてやる。周りはあなたを腫れ者扱いし、少数の尊敬と多くの軽蔑を得られることでしょう。
2.感情に任せて怒る
怒るとき、理性的に怒ってはいけません。みっともない怒り方の多くは、感情に任せることです。たとえ相手に正当性があったとしても、「そんな理由があっても、おめーの口くせーのは変わらねーし!」と相手の意見を突っぱねた上で怒ることが大事。この怒り方は逆ギレと称されるもので一時期は若者の特権とされてきましたが、最近のtwitterを眺めているとそうとも言い切れませんね。
3.いきなり怒る
幾分状況が限定さている怒り方になります。ある人があなたにとって不愉快な行動を恒常的にしてくる。それに対していきなり大声で怒鳴りつけます。出来れば他人の癖ですとか、まばたきの仕方が変、鼻息が荒い。このような些事に対して突発的に怒れると、とてもみっともなく思われます。普通の声で注意したり、できたらやめてほしい、気をつけてほしいなどという生易しい言葉をかけるだけではみっともない怒り方とは言えません。毅然と。きっぱりと。「おめーくせーんだよ! 口とか!」
4.理由をこじつけて怒る
難易度があがります。2の感情に任せて怒るというのと重複する部分もありますが、要するに詭弁を弄して怒るということです。詭弁とは理由をでっちあげて怒ることで、たとえば口が臭いという件について怒るとき、2の場合は「てめー口くせーんだよ!」となりますが、4の場合は「関係ねーけどてめー、口くせーし!」となります。このとってつけた感がいかにもみっともないのですが、頭に血が上っていると時に冷静になれず、いかにも正当な理由でいかりをぶつけてしまいがちです。きっちりと、みっともなく怒れるよう落ち着いて詭弁を用いましょう。
5.人前で怒る
こちらは状況を選びます。1~4の怒り方ができるときは、大いにこの方法で怒るべきです。多くの人間から、なんともみっともない人間として見られる、実に素晴らしい方法。皆さんの目の前で「てかてめー、まじ口くせーし!」と怒鳴りつけてやれば、(なんとみっともない、器の小さい人間なんだこの人は……)という評価が得られます。しかし、正当な理由で怒るときには尊敬の念や、他の方々にしてやったりという感情を押し付けられるので、正しい状況判断能力こそが重要になってきます。
もちろん口のくさい相手にたいしてみっともなく怒る方法はこれだけに尽きません。またこの1~5についてもさらに技法が細分化されており、到底語りつくせておりません。詳しく知りたい方は自分の身でもってお試しください。
普段は考察厨の強引過ぎるこじつけにうんざりしてたりするんだけど、まどかマギカとその放送中に起こってしまった東北関東大震災(東日本大震災)に関しては共通点を思い浮かべずにはいられなかった。
第9話でQBが"エントロピー"という言葉を出してまどかに対して語っているが、このシーンを見て「ついていけない」と感じた人もいるかもしれない。でもこれは現実でも起きる可能性のあるエネルギーの問題を抽象化したものだと考えられる。QB曰く「エネルギーは形を変換する毎にロスが生じる。宇宙全体のエネルギーは、目減りしていく一方なんだ」 実際に化石燃料などの資源から発電する時や、遠距離の送電をする時、あるいは電化製品などで別のエネルギーに変換される時に起きるロスが生じている。化石燃料は無尽蔵では無いし、一度発生させた電力を増やすことができない以上は、エネルギーは問題自体はいつか直面せざるを得ない状況にあった。多く国では比較的効率の良い原子力発電を使うことで問題を先送りできていたが、実際に福島第一原発が危機的状況になりさらに関東地方を中心に電力不足に陥ってはじめて、これまでの原発が抱えていたリスクがどういうものだったのか誰にでも理解できる形で表面化した。QB達のような異星人と同様に、なんらかの新しい発電システムを模索していかないといけないのは間違いないだろう。
また、魔法少女は"魔女"という人間に害をもたらす存在と戦っているが、そのことを他の人に気づかれることは無い存在として描かれている。これはリスクというものがいざ問題に直面しないと認識するのが難しいと言うことを表現してるように思える。もちろん事前にリスクに対してある程度まで対策を行うことは不可能ではない。しかし、未来を完璧に予知できない以上はリスクに対して完全に対策を行うことはできないし、なによりも普段の生活だけで精一杯な全ての人々にこのようなリスクの本質について認識させるのは難しいし時間もかかる。しばしばマスコミによってパニック的な消費行動が起きているが、それを避けるためにも個々人で様々な分野の研究結果やフィクションなどに目を通して悪い可能性というものについて普段から考えておくことは有益だと思う。本当に起こるかどうか不確定な物事へ、対策を行うと言う判断をしてそのための時間的・金銭的なコストを支払うことになるのは他でもない自分自身である。そういう意味で「徹頭徹尾自分のためだけ」なのだと思う。
ヒットしたフィクションの作品には、その時代の人々が抱えている問題を何らかの形で表現していることが多い。このような作品は将来的に生じるかもしれないリスクというものについて考えをめぐらす絶好の機会になり得る。だからこそ、自粛や自主規制は最小限に抑えて欲しいところである。しかし、すでに放送された「ワルプルギスの夜」後の破壊されて水に沈んだ町並みについては、被災地の現状を強く連想してしまう。もちろん偶然の一致によるものだろうが、現実問題としてそのような映像は被災者のPTSDの回復に悪影響を与える可能性もあるので、放送する側がどういう判断を下すのか気になるところである。
正直、嵐とかakb48とか、その他アイドルに熱中してるやつとか
どーにかしてるぜって思ってたんだ。2010年の途中までは。
なんで、そんなに熱中しなきゃいけないんだって。
普通のおじさんやおばさんが「嵐いいね!AKBの前田も篠田もいいよ!」
かもしれない。その逆で批判的なことなら、ガンガンと話のネタに
するのかもしれないけど。
個人的には、若い子たちがキャーキャー言ったり騒いだりするための
っていう見方が大半だと思う。
前で公言して、そういったアイドルグループに本気になる
大人が大量にいたら一般的にはおかしい気がする。
自分は、そう思ってた。あの時までは。
そう、ももいろクローバーに出会うまでは。
フシギなアイドルグループだと思った。
聞いてみたけど、その時は、怪盗少女と走れ、以外は
ろくなもんじゃないと思った。
そのろくでもない歌に価値があることを知った。
歌だけ聞くと、ろくなもんじゃないんだけど
舞台作品になった。
本格的な芝居やミュージカルとは比べ物にならないっていうのは
よくわかるんだ。自分も実際にNYに行ってブロードウェイ見てきたから。
挑戦していてスゴイと思うんだ。
だけど、ももいろクローバーを見た時に感じたのは
そういう種類の感動じゃなくて、「学校の文化祭が上手くいったよ!」
みたいな種類のものだった。
すごい感動するじゃん。そういう感動。
それが楽しいって思える。
実際に、自分もチケット買って、ももクロの世界に入ってみたけど
普通の日本社会というワールドにいたら、決して見ることのなかった
景色なんだよね。
「ああ、こういう視点のスライドっていうのは何年ぶりだろう」
みたいな感動があったわけ。
その代表的なのが、次のやつだろう。
「同じCDを何枚も買わしたり、金を払って握手したり、写真とったり
するなんて、会社のオッサンたちに搾取されていることに気づいてないの?」
自分は、ライブには行っても、同じCDを何枚も買ったりとかしてまで
これからもしないだろう。だがメンバーの生写真は一枚づつは購入する。
これなら映画館に行ってポスターを買うのと同じレベルだと思う。
ああやって、一般的には「搾取されている」部類の人たちというのは
それが好きでやっているんだから放置しといたら良いんだと思う。
普通なら金が底をついたら諦めるでしょう。
ビジネスの手段であって、それで実際に儲けになっているんだから
車をディーラーで買ったことのある人ならわかっていると
売る時にだって、あれもこれもつけたらもっと安くするとか
いろいろ必要ないようなサービスまで付いていたりする。
進んで買いに行かないよね。
ブランド料を払ってでも、服や車を買うわけでさ。
まあ、デザインとか色々理由をこじつけようと思えばつけられるけど。
何にでも難癖をつけて、あれがダメ、これがダメっていう人たちは
結局その人自身がダメってことに気づいていない。そういう人たちに
「そんだけ偉そうなこと言ってるあなたは一体どんな人なんですか?」
まあ、かつては自分もそうだったんだけどね。
人それぞれ、そうやって良い点っていうのが必ずあって、それを
見いだせるかどうかっていうのが、重要なんじゃないかなって思ったわけ。
悪い点を見つけることっていうのはすごく簡単なんだけど
良い点を言えっていわれると見つけるのに四苦八苦する。
以前、アメリカで暮らしてた時に、ひどい人種差別にあったわけ。
日本人っていう以前に、アジア人っていうことだけで、殺されそうに
なったりね。そんな時に、ホームステイ先のおじいちゃんが
言った言葉があるんだ。
「いくら酷い悪口を言われようとも、その場では、そういうことを言った人
だけが愚か者であって、自分の愚かさをわざわざ言いふらしているような
というわけで、まあ、そういう経験があったんで、
「ももいろクローバーの世界」を知っている人からしたらso what?だから。
あと、ファンのストーカー化っていうのは別問題で
それはその人が悪い。
色々書いて長くなってしまったけど、「ももいろクローバーの世界」
が好きだからそこにいるだけで、嫌になったら帰って来るだろう。
なんか宗教みたいな世界だが、要は信じるか信じないかっていうことだと思う。
それらは関係ないことを関係あるかのようにこじつけることができる、ということを示しているだけであって、事件と無関係であるということを意味しないよね。
つまり、無関係なことを持ち出しているという主張に無理があるのであって、誘導の可能性とか信憑性の問題とかをつっこむべきだったということだと思う。