はてなキーワード: 経済的とは
・公平ではなくなる→つかいたいやつは全員つかえば?
・社会的によくない→世界のトップ争いをするような一流選手にのみ許されし特権くらいの世情にしてみせようや
いろいろ読んでみたけど法令違反はさておき、スポーツで飯食ってるわけじゃない自分からしたらやりたいやつにはやらせとけば?って思った
公平じゃない云々のところで「経済的にドーピング薬を入手できない選手もいる」みたいな話もでてたけど正直スポーツなんて全部そうじゃん
金あって練習する環境あって優秀なトレーナーとの人脈があるやつが強くなるの、当たり前じゃん
観客側からしたらすごい記録とかすごいプレーが出てきたほうが見ごたえあるわけだし、競技の信頼性が云々言われても知らんとしか
「金メダルは●●選手です!なお●●選手はドーピングしてます!」でええやん。それを卑怯とか勝てばいいとかどう受け止めるかは個人それぞれってことで
ドーピングなしでドーピングあり選手に勝ったらスゲーと思うし、負けてもまあ相手はドーピング選手だし…ってなるし見てる側にわかってれば大した問題じゃなくない?
晩婚化だったり経済的な面だったりもあるけど、それ以上に子どもからの突き上げが大きくなっている。
子どもと言ってもいい年した大人が自分の親を批判しているだけ。
もちろんどれもダメなのはダメなんだろうけど「えっ、これも!?」と思う(*1)ようなことも中にはあって、これらが二の足を踏ませる理由なのかなって思う。
親が自分の趣味にお金使ってるだけで批判するようなエントリが上がってきてると殊更にそう思う。(*2)
婚姻率が下がってるから元々少子化なのに、頑張って育てても大人になって毛嫌いされるんじゃあねって、子なしを選択する夫婦も増えてくるんじゃないかな。
*1
https://twitter.com/dokudokuneko/status/1491360453255364609
*2
>経済的下方婚した女はいるし、その実態の一つはこれです。
うんうん、現実では「女の下方婚=男を養う+子ども持てないorワンオペ育児」なんだよなあ
なんかキラキラしてねえんだよなあ なんでだろうなあ
しかも理解ある彼くん・夫くんの多くはふとした拍子に正気に戻るor共倒れになるまでは
理解ある彼女ちゃん・妻ちゃんは夜職以外の経済力は期待出来ない
男に媚びへつらって養って貰おうとか自尊心を満たそうとか身の毛もよだつ話
単純な事実として人工子宮が宗教で許されるまではすべての人間は女から出てくるのである
そして人権があるので『はい出産ご苦労様ボッシュート』とは出来ねぇのである
ともなれば女性の自立というのはすべての人間にとって自分ごとの話のはずである
「子育ての方が大変」と言うのは、自分が親である(または子どもがいる、子持ちというステータスを持っている)ということにしか価値を見いだせない人間なんだよ。
子育てが大変じゃないと言われてしまうと自分は価値のないことをしていると思われそうと勝手に被害者意識を燃やしてしまうんだな。
子供を育てることを選んだのは自分であるものの、自分が仕事せずに子育てしてる間、仕事して経済的に自立して人生楽しんでそうな人やキャリアを築いている人にかってに劣等感抱いて
そういう人たちに自分は負けてない、なんならそれ以上に価値のあることをしているんだと自分に言い聞かせるにとどまらず他人そして社会にも言い聞かせないと気がすまなくなってしまうのだ。
長生きしたいとそもそも思ったことがない。物心ついたころから醜く老いてまで生きていたいと思ったこともなかった。
自分の周りにいた老人は年をとるにつれて同じことしかしゃべらなくなり、動かなくなり、病気がちになり、やがて多かれ少なかれ死んでいった。
認知症の身内もいた。面倒をみていた家族が尋常じゃなく、大変そうだった。
そんなんだったから家族を作るとか子どもを作るとか若いころには選択肢になかった。
20~30歳ぐらいまで鬱を発症していて希死念慮も強かった。自殺するには気力と体力が足りないけど、一度頑張ったときにオーバードーズの自殺未遂も起こした。
それでも20代の終わりぐらいから自分を愛してくれる伴侶を見つけて鬱も徐々に回復し、30代になってから結婚して、だいぶ迷ったが子どもも産んだ。
何かがよくなると思っていた。それは確かによくなった。
はたから見たらたぶん幸せで家庭円満な、これ以上ないくらいの、家族。
でも今でもやはり、ふとした瞬間にしにたいな、と思ってしまう。
長年強く強く思い続けた希死念慮はもう自分の生活習慣のようになっていて、そこらかしこで顔を出す。
車を運転していてふと出てくる。このままアクセルを踏み込んで、どこかに突っ込めば、この辛い人生を、終わらせることができるのに。
もうとっくの昔に、これ以上辛い思いをしたくなかったら死ぬしかないとわかっている。
いざとなったらスイスに行って、補助団体を頼ろうと思っている。
死期を自分で選べたらいいのにと思う。
自分がもっと年をとったときに、身体もぼろぼろになって、痛い思いをあちこちに抱えたまま、或いは経済的に不安定なまま、未来への不安を抱えて生きていたくない。
自分が自分でなくなるぐらいぼけてしまって、下の世話を他人に頼って・・・あるいは。
死は私にとっていつも身近で、いつもそこにあるもの。
死を自分で選べたらいいのにと思う。
中国に投資しまくったあとで、いつの間にか大きくなっちゃって慌てて叩いてるって印象がある。
そもそもなんで、こんな米国と中国が経済的に結びついちゃったのか。
でもさ、米国の好きなようにできそうな国なんて他にも沢山あるわけで。
1. はじめに
反出生主義は、昨今のインターネットにおいて注目を集めている思想の1つである。
この思想はしばしば誤解されがちで、「陰キャ非モテの妬み嫉みから産まれたルサンチマンの申し子」のごとく扱われる。しかし、大筋としては「現在生きている人が死ぬべきであるという主張」ではなく「産んでしまうこと自体が苦痛の押しつけである」という建付けのロジックとなっている。
その具体的な論法はそれなりに複雑で、論理展開自体も多くの批判を浴びてきた。それでも、未だにある種のバズワードとして、「反出生主義」はインターネットに巣食う若者の語彙に侵入している。
ただし、個人的な意見だが、思想というものはそれを実行する行動があってはじめて充足されるのだと思う。国会前で手作りのプラカードを抱えて珍走する路上の高齢者も、大人とつるんで政治的フレーズを口から出力する高校生大学生も、その点においては真摯な態度だ。TwitterでJAのイラストにケチをつける自称フェミニスト諸氏も、自らの思想との向き合いかたとしては評価できる部分もあるのだとは思う。少なくとも、2chやTwitterの匿名垢で独自理論を垂れ流しながら具体的には何の行動もしないオタクくんよりは遥かに好感を持てる。
では、反出生主義者を自負するインターネット戦士諸君に要求される「行動」とは何なのだろうか。
それは、ひとえに「女性の権利擁護」「性的マイノリティの権利擁護」「高齢者の権利擁護」の3本柱に集約される。
女性の権利擁護と表現すれば、一見するとTwitter-feministを想起させる危ないフレーズにうつる。しかし、女性の権利擁護、特に「産まない自由」や「独身を謳歌しバリバリ働く自由」を擁護することが肝心である。
これは、現代の価値観においては正しいとされる内容である。このことを口に出したところで、いわれなき批判を受ける機会はないと断言できる。だからこそ、反出生主義者にとっては格好の隠れ蓑かつ武器となる価値観であると確信している。
産まない自由を謳歌していただくことは、女性にとってもキャリアの中断(産休育休であれ、中断には変わりない)や育児コストを削減するのみならず、固定のパートナーに拘束されないことで気軽な恋愛を楽しめる期間が継続するという確固たるメリットが存在する。そして、反出生主義者にとっては言うまでもなく、思想の方向と合致する結末に繋がるルートである。そして、この自由を長く謳歌することは、生物学的束縛によって「産めない状態」へと繋がる。そこで不妊治療等を頑張ったところで、多くの場合は1人程度の子供を持つのみであるから頭数としては減らすことができる。仮に、ひたむきな努力の末に2名の子を授かることができたとしても、頭数は決して増加しない。その点でも、女性にそのプライベートやキャリアを追求していただくことは、反出生主義者にとって好都合である。
性的マイノリティ。古典的な統計としては、全人口の1割程度を占めるとも主張される存在である。そのカテゴリの人々においては(彼らとも彼女とも表現しづらいので、少なくとも合意が形成できるだろう点として人という表現を採用している:これは、自らを人以外の生物や物質であると主張する方々の権利を侵害する意図をもって行われている表現ではないということを断らせていただく)、子を為すことが現行のバイオテクノロジーによっては不可能である場合が多い。私は任意の2名が結婚という契約を結べるように社会体制を再構築することが急務であると心底確信している。個人的な思想としては、他人のカップルがどれだけセックスしようがどうでもいいし、結婚しようがどうでもいいのだ。興味がない。だからこそ、勝手にしてくれればいい(それによって私は一切困らない)。
ただ、これを反出生主義のポジションから眺めると、所謂クィア思想が普及し、子を為さないパートナーシップがますます増加していくことは、積極的に歓迎すべき事態であるといえる。社会的にこれらの思想を擁護することは、従来であれば「社会義務的に」子を為すことを強いられていた人々が、その苦痛を受けることなく、過ごすことができる。望まれて産まれてきたわけでもない子供の数を減らせるなど、喜ばしいことでしかない。虹のふもとには黄金のつぼなど存在しない。
高齢者とは、日本社会における最多数派であり、常に最大派閥の世代として生き永らえてきた階層である。彼らの医療・福祉に多額の金が流れ込んでいることは明らかであり、一方で次世代の教育への国家的投資がないがしろにされてきたという指摘は昔からよく為されていた。
労働者から徴収される諸々の金額総計は近年著しく増大している。消費税増税でガタガタ騒ぐ世間は、この部分についてはあまり取り上げないという印象が強い。また、既存の控除等が廃止することも注目されず、こうして現役世代からの集金システムは年々強化されてきている。
全サラリーマンの平均年収が400万円前後である一方で、都市部なら家賃含む生活費、地方部なら車の維持コストなどがベースとして重くのしかかる。子供を作れば一層の負担が追加される。出生に対し、経済的に大きなアドバンテージを与えられることもない。
若者が子供を持たない理由として一番挙げられているのは、経済的不安である。これは統計的事実として存在しており、逆にいえばこの不安が解消されることがある程度出生率の改善に寄与するだろうことは推察されうるわけだが、そうした抜本的な変革は未だ行われない。それは社会全体として出生をサポートする気がないし、高齢者の延命や生活環境の方が大事であるという強烈なメッセージ以外の何物でもない。
この事実は、出生をしたくてたまらないが大して金のない若者にとっては悲惨な現実である。しかし、反出生主義者にとっては、自らの望む結末を実現する上でこの上ない支援である。国家が自分たちの思想(から望まれる結末)をバックアップしてくれるなんて、滅多にありえないことである。
まだ産まれてきていない人のことより、もう産まれた人の権利を優先するというのはある程度理解できる。また、すでに産まれてしまったのポジショントークとしても、自分が老人になったときに優先されるのだ(実際はどうなるか全くわからないが)から、比較的取りやすいポジションだと思われる。別に子供など産まなければいいのだから......
そうして、出生数は減少し、反出生主義者の望む結末が得られる。
5. おわりに
反出生主義者は、そのことを表明するたびに、様々な誹謗中傷を受け取ることとなる。
ときには単なる逆張りとして、ときには嫉妬の表現として、嘲笑の下に処理されることも多い。
しかし、時代の流れとしては、反出生主義者の望む結末へと漸近しつつある。
そんな中で、反出生主義者らが取るべき行動とは、この方向性を後押しすることである。女性の権利擁護につとめ、性的マイノリティの人々の自由を願い、高齢者の方々が充実された余生を過ごせるよう陰ながら見守ることが求められている。その先に、必ずや人口の致命的な減少という結末が訪れると信じて、日々の無味乾燥とした生き地獄を生き抜いてほしい。(別に生きることを推奨しているわけではないので、自由にすればいいが)
稼いでる女(と言っても年収400~500万円くらい)くらいからすると男のほうが稼ぎやすい世の中で、なんで私より稼げてないの?能力的に劣っているんでしょ?
という気持ちがどうしても出てきてしまう訳なんですよ。私の500万円とお前の500万円は違うだろ?と
はてぶのちょっとしたキャリアウーマンとか、そんな気持ち少なからずあるでしょ?
そう、これは男に対して年収マウンティングを異性に対して無意識に取っている行動の結果であり、
もし男女の収入格差がなくなれば、そのような年収マウンティングではなく、ただ年収が低いだけの人とみなされることになり、そこに内面を推し量るスキが生まれるはずである。
年収が自分より低いに対して、数字以上の意味が存在するのである。もちろん、年収が高いと能力も高いことは否定できないが、年収と能力は比例しないことは分かっているはずである。
そして何より、人間的魅力ともだ。そこを伺わせる隙間すら年収という一面的な味方で潰されてしまうのである。
フェミですらない性嫌悪ミサンドリストツイフェミの矛盾に突っ込んでいる暇があるなら、ちゃんとフェミニストの活動している人を応援すればいいのに。
稼いでる女(と言っても年収400~500万円くらい)くらいからすると男のほうが稼ぎやすい世の中で、なんで私より稼げてないの?能力的に劣っているんでしょ?
という気持ちがどうしても出てきてしまう訳なんですよ。私の500万円とお前の500万円は違うだろ?と
はてぶのちょっとしたキャリアウーマンとか、そんな気持ち少なからずあるでしょ?
そう、これは男に対して年収マウンティングを異性に対して無意識に取っている行動の結果であり、
もし男女の収入格差がなくなれば、そのような年収マウンティングではなく、ただ年収が低いだけの人とみなされることになり、そこに内面を推し量るスキが生まれるはずである。
年収が自分より低いに対して、数字以上の意味が存在するのである。もちろん、年収が高いと能力も高いことは否定できないが、年収と能力は比例しないことは分かっているはずである。
そして何より、人間的魅力ともだ。そこを伺わせる隙間すら年収という一面的な味方で潰されてしまうのである。
フェミですらない性嫌悪ミサンドリストツイフェミの矛盾に突っ込んでいる暇があるなら、ちゃんとフェミニストの活動している人を応援すればいいのに。