はてなキーワード: 短歌とは
「小説」は、文学のうち「散文で書かれた虚構の物語」のものを指します。
「散文」の対義語は「韻文」です。詩のように同じ響きの言葉を繰り返したり、短歌や俳句みたいに決まった形があるものを、韻文と呼びます。逆に言えば、散文はそういった決まりのない、いわゆる普通の文章を指すことになります。
散文で書かれた文学としては、他にも随筆や評論などがありますが、それらと違って小説は、基本的に虚構が書かれています(「事実をもとにした小説」とかもありますけど…)。
その小説の中で、娯楽性よりも芸術性を重視した作品を「純文学」と呼びます。一般に、石原慎太郎や村上春樹、村上龍などは、純文学の作家とされています。
純文学と対になるのは「大衆文学」であり、芸術性よりも娯楽性を重視した作品となっています。たとえば、東野圭吾や伊坂幸太郎、湊かなえなどは大衆文学の作家ということになります。
「芸術」「娯楽」という言葉もなかなか曖昧で、明確な線引きはできないものですから、「何となく雰囲気でそうなっている」くらいに思ってください。ちなみに、「芥川賞」は純文学の賞、「直木賞」は大衆文学の賞となります。
以上から分かるように、「ライトノベル以外の小説」を示す意図で「小説」「文学」「純文学」といった呼称を使うのは誤りです。「ライトノベル以外の小説」を指す言葉としては、あくまで便宜的なものですが「一般小説」「一般文芸」などがあります。
さて「ライトノベル」の話になりますが、ライトノベルが「娯楽性を重視した小説」であることは間違いありません。つまり分類としては大衆文学に含まれることになるでしょう。
ひと昔前は、ライトノベルを定義するにあたって「イラストが付いている少年少女向けの小説」としておけば、ひとまず間違いはありませんでした(実はイラストのないライトノベルもけっこう出ているんですけどね)。
しかし、近年のライトノベルは積極的にその範囲を広げ、さまざまなジャンルを取り込んでいます。ライトノベル出身の作家が一般文芸で活躍することも増えてきました。
ライトノベルと一般文芸の中間を狙った、いわゆる「ライト文芸」のレーベルも多数創刊されています。それらの対象年齢は20代〜40代あたりで、とても「少年少女」とは言えません。
イラストについても、いまでは幅広い作品に付くようになり、それをライトノベルだけの特徴とみなす風潮も薄れつつあります。そもそも「挿絵付きの小説」自体は、古くから当たり前に存在するわけですから、イラストの有無だけで区別しようというのがナンセンスなのかもしれませんね。
そういったわけで、いま「ライトノベル」と「ライトノベル以外」の垣根は急速に消失しつつあり、同時に明確な「違い」も無くなってきています。
「イラストが付いている少年少女向けの小説」から、「イラストが付いている」と「少年少女向けの」を抜けば、あとは「小説」しか残らない道理です。
夫婦でやってみて1時間半くらいは遊べた。他の人の作例とかも見られたらいいなと思って書いてみます。
無理矢理ひねり出した単語をどうにかつじつま合わせながら三十一文字繋げてみるとなんだか変なものができてて面白い、的な趣旨の遊びです。
生産物を玩味したり、そこから小話を作ってみたりと発展させるもよし、縛りを設けてやり込みモードにするもよし。
縛りは助詞の"の"だけでなく単語の中にも"の"を増やすチャレンジとか助詞の"の"を目いっぱい詰め込んでみるチャレンジ、更にその場合文節の区切りは、5音の句では2/3(○の○○の)または3/2(○○の○の)、7音の句では3/2/2(○○の○の○の)、2/3/2(○の○○の○の)または2/2/3音(○の○の○○の)のパターンがあるからこれを全部使う、あるいは一つだけ選んで揃えるなどをやってみた。他にも思いついたレギュレーションあったらぜひ教えてください。
一音の単語リスト作ったり、はじめ口語ベースで考えてて思い浮かばなかったけど短歌の中にあるとこれも一音でいけるじゃんって単語でリストがぞろぞろ伸びてったり、そこから縁語を拾い出したり、いろいろわやわやと遊んでたら結構時間経っていました。
なにしろスクラブルに絶対付き合ってくれない夫にしては珍しく言葉ゲーに乗ってきてくれたので、とても嬉しかったのでした。(書いてたらこの遊びが楽しさかったの、大分浮かれてたせいではないかという疑念が頭をもたげてきました。誰か面白いって言って)
<こんなんできました。>
物の怪の/戦く篠の/もとのもの/この先の田の/稲の穂のノゲ
野の川の/瀬の村の辺の/栗の実の/内の木の芽の/虫の黄の目の
201users
一行目だけ実話。ブコメでも言われているが、何がウケたのか自分でもわからない。
139users
実話ではない。いや、本当に由来しないし実話なのか?
59users
実話。
33users
実話。向上が図れる。
30users
実話。台車を押しにくそうにしている人はいた。説明部分でモスの食べ方を狙ったが上手くいかなかった。
26users
23users
実話。前からうっすらと疑問だったが服屋を出た途端忘れるので問題が表面化しなかった。
21users
ご存知の通り実話。
17users
実話ではない。退職してない。
16users
実話。ただ、1位取れる事はそんなに無い。
実話ベースの話の方が盛り上がる。創作のセンスがないのだろう。ただ実話ベースの日記を書くには体験が必要だ。体験していきたい。
真面目に答えず、出来る限り嘘と虚構を織り交ぜて答えていきたい。
その界隈で精通している人たちですら、ライトノベルの定義にブレがあるしね。
ただ、それでも言えることがあるならば、表面的な表現や手法について批判することに意味はないということくらいだ。
昔の長編小説をそのままの文章と構成で、スマホ(フォ)のような別の媒体で読むとしたら、内容の良さに関わらず大分きついだろう。
だから、「小説」と「ライトノベル」は同じ読み物だけれども、厳密には違うのさ。
ライトノベルの「ライト」が何を指しているかにもよるが、売り手が狙っている主な層は、様々な文学に慣れ親しんだ層ではないのだろう。
であるなら、そこで紡がれるのは活字への抵抗感を考慮した「ライト」なものになるのは自然の流れではないだろうか。
表現や手法の最適化とは、媒体やマーケティングによっても変わる。
もちろん例外はあるのだろうけれど、イレギュラーは反論材料としては弱いしな。
読者層が様々なのは分かるが、子供向け番組を観る「大きなお友達」みたいなもので。
彼らがウケることをやることもある、けれどそれは副次的なものであって、メインターゲットは別なわけだな。
賞をとったものの中にはきつい出来のものが多々あり、理解に苦しんだ時期もあったが今はそう思い込むことにしている。
媒体を考慮した表面的な手法、文体などはそもそも評価の対象ではないので、批判の対象にならないというのが私の答えだ。
私が書いた、「死んだ日本で生きる私」だ。
ゾンビが蔓延って社会が全く機能しなくなった日本で一人暮らしをしている青年が、毎日をよりよく生きようとする日常モノとなっている。
似ている設定で「地球最後の男」があるが、あちらと比較してブラック・コメディ寄りな作風と、ブログみたいなノリで書かれる主人公の心情と独白がウリだ。
「富岡製糸場が世界遺産に認定された記念に、あなたの短歌をシルクスカーフに印刷しませんか」
といういわゆる勧誘で、親は富岡製糸場の職員だと思って話を聞いてたらしい。
ところが話を聞いていくと特別なイラストを添えた特別なシルクスカーフだからということで、1枚10万近い費用がかかるという。
当然、最初は断ったが世界遺産だからと強引に勧誘され根負けして契約。後から冷静になって年金暮らしのために支払いは難しいとキャンセルの電話を入れたが制作に入ってるからキャンセルは出来ないと言われたらしい。
このことが発覚したのは年が明けてから。今まで一度も金の事を相談してきたことのない親から今月少しだけ助けて欲しいと言われ理由を聞いたらこういうことだった。
富岡製糸場に電話して内容を確認したところ職員に上記のようなことを言われ、なぜ費用が10万もかかるのか尋ねたら「特別なイラストを描く芸術作品だから」「製糸場内で展示するのにかかる費用も含まれてる」とのことだった。
http://www.tomioka-silk.jp/hp/event/index.html
沢山のイラストレーターも参加するといってるが、一見うちの親のスカーフが展示されてるイベントなのか何なのか分からない。
参加するイラストレーターたち
http://www.matsunom.com/?p=1027
http://mitsuichikako.com/news/1129/
http://saya-iro.blogspot.jp/2016/03/blog-post.html
http://shikachan.blog45.fc2.com/blog-entry-574.html
http://kyonosuke-takayasu.com/?p=812
http://blog.atelier-de-nanairo.com/?eid=215
http://blog.clipside.net/?eid=264
http://obika-kazumi.com/?p=440
http://masayakato.seesaa.net/article/434351611.html
http://himenohayami.com/news/?p=1565
http://blog.goo.ne.jp/hitohito1103/e/3eb224948b145d71a9a71cf328a9a44d
http://hideto-yamamura.jimdo.com
http://kikikukuchichi.blogspot.jp
うちの親は趣味で短歌を詠んでるだけの一般人。富岡市どころか群馬県とも縁もゆかりも無い。
長年、田舎で慎ましく生きて来て、デパートでブランド物すら買った事のない親が、何故10万もするスカーフを電話で買わされなければいけないのか。
ユーチューブ見てたら、そういう感じのこと言ってた。
で、
「自分をダメだと思ってる奴ってそんな商品売れないからって思ってるだろ。だから童貞なんじゃねーの?」
って言う話で。
童貞の奴って、頭良すぎるとかならかまわないけど、話が通じない奴とか、自分語りが多い奴とか変な奴が多すぎるって話だった。
これ見て、なるほど、恋愛推しの人達の考え方ってこういうもんかって納得した。
自分を売り込むのだから、自分で自分を否定してる人は恋愛できないよってのはその通りだと思う。
でもさ、そもそも自分を否定することが非合理だっていう感覚が俺には分からない。
もちろん、人間ってセックスするようにできているから、当然自分を否定しないのが『自然』なんだろうけど。
理性で生きてる奴って、自分の卑小さってのをどうしても感じるんじゃないかなあ。
この宇宙の中では価値がねーよとか、そういう中二的な想像もあるだろうし。発達障害とか精神病、身体障害とかが遺伝するからというキモチの奴もいるだろう。
俺は自分が完全に頭切れてると思ってるから、子供は作っちゃいけないと思うし。他人に迷惑かける前に死んだほうがいいと思っている。
そもそもの自然状態では、よっぽど苦しくなってうつ状態にならなきゃ自殺なんてしないんだろうけど、言葉を手に入れてしまったりして、そういうことに気づいたら、引き返せないじゃん。
なんとうか。理性で行き過ぎてると自分みたいに恋愛できないんだと思う。
一方で、恋愛できてる人ってのは、典型的には、ドキュンってイメージ。
ドキュンとか、なんで生きてるんだよって端から見れば感じるんだけど。当の本人達はそういうこと感じていない。
頭が悪いのかなってイメージなんだけどさ。実際そうなんだろう。動物に近い。
それで、そういうのに女も弱い。すると、そういうドキュンノリで恋愛市場が確立されていく。
こういうのって、厳しいんだよね。
昔の、短歌のやりとりだの、村の風習だので恋愛してるんなら、理性的な自己嫌悪強い奴でも恋愛できると思うんだけど。
ドキュンみたいな理性が働かない状況での恋愛をやれってのは、理性的な奴は拒否っちゃうと思うんだよ。
だってさ。言葉を手に入れられない変わりに女を抱けるぞって言われても絶対拒否するでしょ。
満足した豚より、飢えたソクラテスでいたい。って感じ?
この選択を迫られた結果、飢えたソクラテスを選んでるのが今の童貞なんじゃないのかな。
そもそも、誰に対して自分を売るんだろう。自分が好きになった人ってことだけど。
そういうドキュン市場で女にアタックするようなので動いてる女って、好きにならないだろ。普通。
こういう女性を愛せる自信、マッタク無い。
(でも、書いてて思ったけど、女性もある程度自分を売れるタイムリミットあるから、
わけわかんなくても周りに合わせてリア充ノリしてるってのも多いんだろうね。FBのきらきら女子とかその典型みたいだし)
最近では、そういう愛するとか気持ち悪いから、愛無しで恋愛しろっていう恋愛工学とかもあるみたいだけど。
そういう意味で、見た目をドキュンよりにしなきゃ普通の生活もうまくいかないから男女ともやるんだろうけど。
そういう風に生きていたら、ますます自分が嫌いになる。いやだな、いやだなって気持ちが強くなる。
こういうのやるくらいなら、二次元のほうがマシじゃん。
もちろん、イケメンなら最初のドキュンノリに染まってない小中高時点でいい女抱いたり付き合ったりしまくって、それでいいんだろうけど。
女が恋愛だ結婚だで与えてくれるらしい幸せとかって、リア充ノリすぎねーか?
短歌の返答とかは昔すぎるとしても、宗教的なノリとか、連理の枝とか、ある程度ノリとしては文学的だったように思う。
でさ。現在女が与えるらしい恋愛の幸せとかって、ノリがリア充すぎる。
そういうリア充ノリ的な幸せを楽しめる男ってどれくらいいるんだろう。
男の感じる楽しさとかって、どっちかっつーと、アーキテクチャー的な。キモオタが電車撮ったり、ゲームの攻略したりみたいなノリじゃん。8割がたの男の楽しみってそうじゃねーかな。
だけど、ドキュンみたいな頭足りない奴はそういう楽しみできないから、リアル充ノリでOKなのは分かる。
イケメンはスクールカーストとかイケメン枠として女が流れてくるから、リア充ノリ楽しめなくても女抱けるから、別にリア充ノリは女が勝手に脳内補完するんだろう。
でも、8割方の普通の男は、リア充ノリクッソつまらないと思うんだけど。
http://anond.hatelabo.jp/20151208114043
いつも思うけど短歌とか俳句ってわざわざ区切らない意味ってあるの?
読みにくくて仕方がない。
延着の 経血の知らせ いきをのぶ 2どとと会わぬと 心にきめけり
って間にスペースいれるだけじゃん。なんで?
「問十二、夜空の青を微分せよ。街の明りは無視してもよい」という短歌がある。
どうやら天文学的には夜空を微分することは常識で星が強調され、見えない星も見えるようになるらしい。
それを知ってから、僕はこの歌が好きになった。
天文学に興味があるに違いない。
そして、問題文形式であることから、この歌は誰かから誰かに投げかけられたものである。
では誰に?
それは、友達以上恋人未満な男女では無かろうか。
受験勉強でスランプに陥る男、志望する天文学の判定が良くなかったのだろう。
志望する学部が揺るぎ始める。
そして、それを心配する女。
どうにか立ち直って欲しい。でも直接言うのは照れくさいし恥ずかしい。
そこである種フォーマット化した問題文の形式でメールを送ることで
照れ隠しをしたのでは、無かろうか。
(毎日、受験勉強お疲れ様です。たまには、息抜きに夜空でも見上げてみませんか?
模試の結果や周りの意見(街の明りのようなノイズ)が気になるかもしれませんが
自分の夢について、深く考え見つめて欲しいです。)
この歌には、そういった青春がこめられている気がする。
ところで「夜空、青い」といえば
「夜なのに 僕が見るのは あおいそら」を思い出す。
教師として赴任して女学生を二人食ったリア充の権化の与謝野鉄幹。
訳 グダグダ言ってないで私を口説け!そして抱け!この草食系が!
今読み返しても、こんなに肉食系の詩は現代でも他にないかと思う。
かくして、肉食系男子であった鉄幹は、自分よりはるか超肉食系にして、歌人としての才能も数段上の晶子に食われた。
これが、膣に一晩いれたバナナを食うという変態プレイで有名な与謝野夫婦である。
鉄幹、Mに目覚めたのだろうか?
晶子にとっては、出産などちょっとデカい糞みたいなもんであった。
鉄幹「(最近俺、主導権握りっぱなしだから、いじわるしてやろう)」
鉄幹「はっはー!パリは素晴らしいよ!君もいつかおいでよ!(子育てでそれどころじゃないだろうけど!)」
晶子「来たわ!」
鉄幹「え、子供(この時既に7人も。しかも7人目は生まれたばかり)は?」
晶子「預けた!」
鉄幹「おぅ」
~帰国後
晶子の執筆ペース当時最速。
年に二冊評論書を書き、個人詩集14冊、生涯で5万首の短歌を残す。
晶子はライオンのような心、鋼の肉体。
近代最強の女。
個人的なことだが、自分は俳句を作るのをちょっとした趣味にしてた
新聞とかに俳句を投稿して、自分の作品が載るのが嬉しかったのだ
だが今はしてない
どうしてかと言うと、大分前に、自分で傑作だ!と思った作品が一つ出来た
自分としてはなかなかの出来なので、すぐには投稿せず、ちょっと一人で眺めていて、一人でニヤニヤしていたのだ
気持ち悪いと思うかもしれないが、とにかくその句を独占して眺めるのがとにかく楽しかったのだ
そんなおり、ある有名の方の句集が出たというので、いつものようにそれをを買って読んでたら、思わず目が止まった
まったく同じではないが、一部の語が同じで使い方も同じ、非常に良く似ていたのである
もちろん、有名な方が私の句をパクったわけではない
そもそも、作った時期だって違うだろうし、有名な方が私の俳句を知る機会なぞまずない
https://ja.wikipedia.org/wiki/正岡子規
俳句の前途より
日本の和歌・俳句の如きは、一首の字音僅(わずか)に二、三十に過ぎざれば、(中略)その数に限りあるを知るべきなり。語を換へて之(これ)をいはば、和歌(重に短歌をいふ)・俳句は早晩その限りに達して、最早この上に一首の新しきものだに作り得べからざるに至るべしと
子規は、この後、明治で俳句は出尽くし終わるみたいなことを言ってる
私が俳句を作るのをやめたのは、この子規の話を急に思い出してしまったからだった
私が傑作と思って作った例の俳句は、どこかへ投稿すればきっと、パクリと言われるに違いない
そのことをどんな抗弁しても、きっと酷く中傷されるだろう
でもそれが嫌で、俳句を辞めたわけではない
私の中で、俳句と言う芸術が、もう限界なのではないかと思った瞬間、ふっとあれほどあった情熱が冷めてしまった
消えてしまった
アマチュアの私は、簡単に逃げられるが、プロの方はどうなんだろうなと時々思う
まだ新しいものを生み出せるとロマンティックに信じているのか、それとも惰性か
佐野研二郎さんはどう思っているのだろうか
話を聞いてみたいものだ
地元の俳句サークルか何かの推薦句一句が載らなかった、掲載を拒否されたと報じられた。
俳句を知らない人が見ても、たぶん良い句とはお世辞にも言えないだろう。
そんな句を一句だけの枠に掲載したら、嫌でも公民館の月報に党派色が出てしまう。
なぜそんな凡作を、一句のみ掲載の枠へその自称サークルが推薦したのか。
「梅雨空に『九条変えよ』の女性デモ」だったら、果たして同サークルの人々は推薦したのか。
俳句を巡る界隈に存在していることはどうやら間違いないらしい。
東京新聞:終戦記念日対談 金子兜太×いとうせいこう:特集・連載(TOKYO Web)
金子兜太先生はサークルがオルグ用の団体である可能性を考えもなさらずに
週刊俳句も、過去記事をちょくちょく読ませてもらっているが、その記事の中から。
週刊俳句 Haiku Weekly: 金原まさ子さん103歳お誕生会
別に金原氏は左派でも何でもない。問題は、聞き手の週刊俳句の中の人々の一部。
「原発、動かさせない、戦争に向かわせないためには、すこしでも、勝てそうなほうへ入れる、となりますか。」
「戦争を起こすぞ、どこそこへ攻め入るぞ」という事を、誰か言っているだろうか。誰も言ってやしない。
原発をどうするという話はこちら日本の政権が行う話だから、それを考えて投票するのはまだ解る。
だが、戦争に向かわせないというのは話が違う。今現在の日本周辺の事情を見て、
日本の側が他国に戦争を起こすか、また日本が中国などの他国から戦争を仕掛けられるか、
まともな知識と判断力を持つ人間なら、どちらがあり得ると思うだろうか。
日本だけでどうにかなる話と、日本だけではどうにもならぬ話を並列で書くことが理解できない。
俳句に関して知見あるはずの人々の中に、国際関係のニュースすらまともに判断できず
日本悪玉論に固執し続けてる人がまだいるのは嘆かわしい限り。
だが何より痛々しいのは、右派的な事柄を発言する俳人が見当たらないということ。
これが短歌なら「正論」に連載を持つ福島泰樹氏がいらっしゃるのだが、
自分が知らんだけで実はちゃんといるのだろうか?
もしもその名前が漢字1字の子が結婚する時に名字が漢字1字の物に変わったら、名字1字+名前1字になってバランスが悪い。
そういえばこれのせいで私の小学校の時の担任の先生はからかわれていました。「フルネームが僕の下の名前より短いじゃ〜ん」てな感じで。
読みが2字の名字+読みが2字の名前も同様で、フルネームで読んでみるとなんだか歯切れが悪い。
俳句や短歌が5音と7音で構成されているように、不思議と5音や7音の言葉は歯切れのよい物が多い。字余りの6音や8音もそこそこ。
名字+名前の音数をどんな名字と組み合わせてもも5音から8音の間に収めようと思うと、日本の名字は2音〜5音のものが大多数なので3音の名前をつけるのがベターなんでしょう。