個人的なことだが、自分は俳句を作るのをちょっとした趣味にしてた
新聞とかに俳句を投稿して、自分の作品が載るのが嬉しかったのだ
だが今はしてない
どうしてかと言うと、大分前に、自分で傑作だ!と思った作品が一つ出来た
自分としてはなかなかの出来なので、すぐには投稿せず、ちょっと一人で眺めていて、一人でニヤニヤしていたのだ
気持ち悪いと思うかもしれないが、とにかくその句を独占して眺めるのがとにかく楽しかったのだ
そんなおり、ある有名の方の句集が出たというので、いつものようにそれをを買って読んでたら、思わず目が止まった
まったく同じではないが、一部の語が同じで使い方も同じ、非常に良く似ていたのである
もちろん、有名な方が私の句をパクったわけではない
そもそも、作った時期だって違うだろうし、有名な方が私の俳句を知る機会なぞまずない
https://ja.wikipedia.org/wiki/正岡子規
俳句の前途より
日本の和歌・俳句の如きは、一首の字音僅(わずか)に二、三十に過ぎざれば、(中略)その数に限りあるを知るべきなり。語を換へて之(これ)をいはば、和歌(重に短歌をいふ)・俳句は早晩その限りに達して、最早この上に一首の新しきものだに作り得べからざるに至るべしと
子規は、この後、明治で俳句は出尽くし終わるみたいなことを言ってる
私が俳句を作るのをやめたのは、この子規の話を急に思い出してしまったからだった
私が傑作と思って作った例の俳句は、どこかへ投稿すればきっと、パクリと言われるに違いない
そのことをどんな抗弁しても、きっと酷く中傷されるだろう
でもそれが嫌で、俳句を辞めたわけではない
私の中で、俳句と言う芸術が、もう限界なのではないかと思った瞬間、ふっとあれほどあった情熱が冷めてしまった
消えてしまった
アマチュアの私は、簡単に逃げられるが、プロの方はどうなんだろうなと時々思う
まだ新しいものを生み出せるとロマンティックに信じているのか、それとも惰性か
佐野研二郎さんはどう思っているのだろうか
話を聞いてみたいものだ
基本的に、あらゆる芸術分野が成熟しきっているんで、 これからはパクリパクられという問題も問題とは見なされなくなるんだろうな。 これからは、人が違いを認識できない隙間を埋...