はてなキーワード: 短歌とは
風雑 雨布流欲乃 雨雑 雪布流欲波 為部母奈久 寒之安礼婆 堅塩
乎 取都豆之呂比 糟湯酒 宇知須々呂比弖 之叵夫可比 鼻毘之毘之
尓 志可登阿良農 比宜可伎撫而 安礼乎於伎弖 人者安良自等 富己
呂倍騰 寒之安礼婆 麻被 引可賀布利 布可多衣 安里能許等其等
伎曾倍騰毛 寒夜須良乎 和礼欲利母 貧人乃 父母波 飢寒良牟 妻
子等波 乞弖泣良牟 此時者 伊可尓之都々可 汝代者和多流 天地者
比呂之等伊倍杼 安我多米波 狭也奈里奴流 日月波 安可之等伊倍騰
安我多米波 照哉多麻波奴 人皆可 吾耳也之可流 和久良婆尓 比等
々波安流乎 比等奈美尓 安礼母作乎 綿毛奈伎 布可多衣乃 美留乃
其等 和々氣佐我礼流 可々布能尾 肩尓打懸 布勢伊保能 麻宜伊保
乃内尓 直土尓 藁解敷而 父母波 枕乃可多尓 妻子等母波 足乃方
尓 囲居而 憂吟 可麻度柔播 火気布伎多弖受 許之伎尓波 久毛能
須可伎弖 飯炊 事毛和須礼提 奴延鳥乃 能杼与比居尓 伊等乃伎提
短物乎 端伎流等 云之如 楚取 五十戸良我許恵波 寝屋度麻弖 来
立呼比奴 可久婆可里 須部奈伎物能可 世間乃道
世間乎 宇之等夜佐之等 於母倍杼母 飛立可祢都 鳥尓之安良祢婆
風交り 雨降る夜の 雨交り 雪降る夜は すべもなく 寒くしあれば 堅塩を とりつづしろひ 糟湯酒 うちすすろひて しはぶかひ 鼻びしびしに しかとあらぬ ひげ掻き撫でて 我れをおきて 人はあらじと 誇ろへど 寒くしあれば 麻衾 引き被り 布肩衣 ありのことごと 着襲へども 寒き夜すらを 我れよりも 貧しき人の 父母は 飢ゑ凍ゆらむ 妻子どもは 乞ふ乞ふ泣くらむ この時は いかにしつつか 汝が世は渡る 天地は 広しといへど 我がためは 狭くやなりぬる 日月は 明しといへど 我がためは 照りやたまはぬ 人皆か 我のみやしかる わくらばに 人とはあるを 人並に 我れも作るを 綿もなき 布肩衣の 海松のごと わわけさがれる かかふのみ 肩にうち掛け 伏廬の 曲廬の内に 直土に 藁解き敷きて 父母は 枕の方に 妻子どもは 足の方に 囲み居て 憂へさまよひ かまどには 火気吹き立てず 甑には 蜘蛛の巣かきて 飯炊く ことも忘れて ぬえ鳥の のどよひ居るに いとのきて 短き物を 端切ると いへる がごとく しもと取る 里長が声は 寝屋処まで 来立ち呼ばひぬ かくばかり すべなきものか 世間の道
世間を憂しとやさしと思へども飛び立ちかねつ鳥にしあらねば
真面目に答えず、出来る限り嘘と虚構を織り交ぜて答えていきたい。
では、言わなくて結構。
出来たらいいな。
私は超能力者じゃないので、100%正しく判断できる術は持たない。
そしてメディアリテラシーで必要なものはそういうものではない。
長々と語っても興味がないので、端的に答えよう。
そこから『あの人は酸っぱいものが好きなんだ』という「断定」。
……いや、この例えは違うな。
……いや、違うか。
なぜブックマークするかと問われて、栞だから後でまた読み返すためと答えるようなものか。
……これも違うな。
カラアゲにライムをかけるのは、一緒についてきたのがレモンじゃなかったからと言うようなものか。
……私はカラアゲ食わないしな。
旅行写真でも卒業写真でもなんでもいいけど、自分にとっては大事な一瞬をとらえた写真って、知らない人が見たら「なにこれ?」ってなるでしょ。でも撮った本人はその一枚でもあのときのことを思い出せるから、わぁーいいなあってなる。そんなふうに物語そのものではなく物語の痕跡から全体像をを想像して味わうのが詩歌の楽しみ方のひとつだから、詩は本来、書いた本人にしか分からないのが普通なんだよ。
だから詩はあなたにも書けるし、けれどもその詩は他の誰かには全く理解してもらえないかもしれない。あなたにとっては切実な場面でも、「なにこれ?」ってなっちゃう。
だったら他人が他人の詩歌をどう評価できるんだっていうと、みんなまず物語以外の部分をかみしめてるみたい。言葉って意味だけじゃなくて音や文字もあって、たとえば漢字がいっぱい並んでたら理屈抜きで「うわ、めんどくさ!」ってなったりするし、ミラバケッソとかヒノノニトンとか意味関係なく音として気持ちよくて頭に残っちゃうことって結構あると思うの(卑怯なCM多いでしょ)。写真でも、単純にきれいなものが写ってたら誰がいつどこで撮ったか以前に「わーきれい!」ってなるでしょ、文字だってうつくしい言葉がきれいに並んでたらそう思えるかもしれない。写真だとモチーフが左右対称に並んで写ってたらそれだけで気持ちいいように、定型句でも575の音数に合ってたらそれだけで気持ちいいとか。この辺が、作品それ自体の内側へと入り込んでいく楽しみ方の例。
逆に作品の外側に目を向けると楽しいこともある。写真なら、たとえば撮った人や撮った場所に注目してみるとか。普通の写真でも、自分の知ってる人、好きな人が撮った写真だって聞いたらそれだけで「どんな気持ちで撮ったんだろう」って想像したくなってこない? あとさ、ライオンが大口あけてる写真とかだと「この人どうやって撮ったんだよ、撮った直後に殺されたりしてないだろうな」とか想像して怖くなったりもしそうでしょ? 他にも、京都タワーを手で支えてるような構図だったりしたら「ピサの斜塔かよww 京都タワーじゃかっこつかないでしょうがwww」なんて元ネタと比べて楽しむとか、それ自体では補えない情報量が実はそこかしこに見つかったりするものなの。
そうやって自分で必要な情報量を探していく、補っていくっていう探偵じみたプロセスも詩歌の楽しみだと思うし、これって実は小説でも他の芸術分野でもおんなじだよね。さらに言うと、いろんな作品(詩歌や小説に限らず)を見ていくと、自分を泣かせる笑わせるために必要な情報量ってじつはそれほど多くない、このツボさえ抑えてれば自分は大体泣けるっていうポイントが抽出できたりする。物語全体じゃなくって特定の要素があれば人間は勝手に想像できちゃうし、人からもらうより自分で作った方が味付けも変えられておいしいのは料理と一緒。でもそうやってツボを探していくと、面白いことに、その自分だけのツボって実は他の人も泣かせてしまったりする。自分のためだけに作ったものが何故か他の誰かまで撃ち抜いてしまったりする。
究極的に個人的なものは、実は最大限に普遍的でもあるんだ。その普遍性だけを切り取って残そうとする挑戦が、詩歌を作る苦しみであり楽しみなのだと、わたしは思う。
あとは渡邊十絲子の『今を生きるための現代詩』って新書がすげーオススメなので一読されたし。自分も詩歌詳しくないけど、わからないなりに楽しくなるよ!
すてきな紹介記事→ http://d.hatena.ne.jp/mmpolo/20130531/1369926781
自分の文章読み返したら「ツボ」の例を泣ける笑えるに限定しすぎたのが失敗だった。「泣ける」が分かりやすい例だっただけで“面白い”のツボって千差万別だからね。
でも自分なりのツボはすべての書き手が持ってるだろうし、それを分かってくれる人も必ずいるんだよ、なぜか。・・・いや、よき受け手と出会えるかどうか、そもそも作り手がそのツボを自分の表現で押さえることができるかどうかは別として。
青木淳悟でも木下古栗でも岡田利規や小笠原鳥類や橘上でも誰でもいいんだけど、たとえ共感を得やすいツボに反感を持ってたとしても、その人には別のツボがあるし、人間の表現である限り普遍性を完全に排することもできない・・・とわたしは思う。
だってすべての表現はコミュニケーションだから。読者としての自分自身とすらコミュニケーションしない表現なんて、ヘンリー・ダーガーでも無理なんじゃない?
わーいやったー! ありがとうございます、せっかくなのでその先の本もいちおう置いときますね!
入り口としては『今を~』がすばらしいけれど、もしそれで現代詩自体に興味がわいたら新書館から刊行されてる『現代詩の鑑賞101』がとってもいいです。やさしい解説つきで101篇も読めばだれか一人くらいは推し詩人も見つかりそうでしょう? つまんないのはどんどん飛ばそう。
歴史の流れが知りたければ野村喜和夫の『現代詩作マニュアル』がなかなか手っ取り早いけど、ごめんなさい、なんかスノッブくさくて個人的にはちょっと・・・。
もっと深く勉強したい人は現代詩手帖の特集版『戦後60年“詩と批評”総展望』などをどうぞ。谷川俊太郎が「やっぱ売れ専をバカにしないで売れる詩をちゃんと作んなきゃダメだろ、ジャック・プレヴェール見習えよおまえら」とか言っててわろた。
ちなみにわたしの推しは入沢康夫と渋沢孝輔です。入沢翁、ツイッターはじめててびっくりした。俳句や短歌の話は、ごめんなさいぜんぜん分かりません。だれかオススメおしえて。
やっぱりわかった気になるのはよくないと思う
ダウンタウンの浜田が夜の7時からやってる番組で俳句のコーナーが人気らしくたまに見たりしている
短すぎて分からない
伝わらない
短い言葉から連想して自分の頭のなかでその情景を作り出すようだ
短歌は文字数で言えば俳句よりも長いので情報量は多いのだろうけど
やっぱりわからない
詩はその二つに比べるなら文字数が増えることが多いので
詩もきっと自分の中で想像したり言葉のリズムや言葉遊びを楽しんだりするのだろう
自分は想像することが嫌いなのかと言えばそんなこともないと思う
自分だったらあの場面はこうするとか
新しい登場人物を考えたりとか
こういうバックグラウンドがあったりとか
ここで一つ思いついたのが
情報量の差だ
先に言っておくと、擁護でも批判でもありません。ずっと昔から考えてきたことが、まとまりそうな気がしたので書いています。
両親は創価大学で出会って結婚した。二人とも朝晩の勤行を欠かさず、会合にも積極的に参加している。聖教新聞と大白蓮華を取っていて、隅から隅まで読む。
私は正式に抜けたわけではないが、勤行はしない。会合の案内のラインが来ればそれなりに対応するが、行くことはない。公明党には入れるときもあれば入れないときもある。仏壇に手をあわせることが年に2、3回はあるが、自分からすることはない。しかし、御本尊を破れと言われたらかなりためらうだろう。お地蔵様を壊せないのと同じだ。
勤行をしない私、会合に行かない私に、両親はとくになにも言わない。選挙の時だけお願いねと言われる。ありがたい、と思っている。
小学生くらいまでは会合にもそれなりに出ていたし、朝晩に三唱くらいはしていた。中学生のころ、御書の説教臭さがいやになったり、ネットの書き込みを見たりして、だんだんと会合に足を向けなくなった。反抗期を利用して三便もしなくなった。今では、抜けた理由を聞かれたら、「方針が合わないので」「公明党と意見が違うので」と言うだろう。
そういう私だ。
頭がパーンとか、そういうたぐいの書き込みを見ると腹がたつ。強引で失礼な勧誘に合ったと聞いたら、申し訳なくて胸がふさぐ。友人が何気なく言い放った「私宗教ぜんぶ嫌いだから!」という言葉に傷つく。両親のことを愛している。学会がなければ私は生まれなかったと思う。新年勤行会のばんざい三唱はクソ食らえだ。「知ってる?誰それさん創価だって」と言われて苦笑いする。同じ創価二世の友達とため息をつく。池田先生がなにをしてくれたって言うんだよ。会合に参加しているのはいい人たちばっかりだ。いったいいつまで、こういう板挟みに苦しまなければならないのだろう。
東日本大震災のとき、その夜、「宮城沖で数百と推定される遺体発見」というニュースを見て、怖くて眠れなくなった。どうしたらいいのかわからなかった。津波の映像がなんども頭をよぎった。数百人、数え切れない量の人が海で死んだ。その一人一人に人生があった、その恐ろしさに震えた。その人たちを悼みたい、その人たちが死んだことを悲しみたいと思った時、布団の中で丸まって「南無妙法蓮華経」と何度も唱えた。それしか悼む方法がなかった。そしてそういう自分にショックを受けた。私は死者を悼む方法をこれしか知らないのだ。信仰心はなくても、方法だけが自分の中に残っている。
いいとこどりをするんだ、と決めた。信仰心はなくてもいい。都合のいいところだけ使えばいい。オリジナルの祈りの言葉、オリジナルの生きることへの姿勢が見つかるまで、意味なんてなくても唱えていい。熱心な信者だった祖母を、これ以外の方法で弔うことができただろうか。両親が死ぬ時、友人葬以外でやりたくない。でも、公明党に投票しなくったっていい。義理なんて感じなくていい。両親を愛していい。でも信仰を拒否していい。勤行はしない。
わたしはもうすぐ大学を卒業して、親元を出る。大丈夫だと思う。
同じようにしている人に大丈夫だよって言ってもらいたくて書いた。早く大丈夫になって、同じようにしたいと思ってる人たちに、大丈夫だよって言いたい。
でも大丈夫じゃないかもしれない。10年後くらいに信者に戻ってるかもしれない。いやだな。大丈夫だって言ってください。
あとこれだけ言いたかったんですけど、池田大作、短歌下手すぎじゃないですか?誰も何も言わないの?
それだけです。