はてなキーワード: 客観性とは
https://twitter.com/jagarikin/status/1137536097112666113
動いてないと教えてもらって動いてないと分かるから頭で理解して動いてないのが分かるけど動いてるように見えるのだから動いてると思っても仕方がない。
錯視錯覚、知覚と認知のエラーって脳ミソは正しいと思ってるわけで誤出力されたわけでないのか、そこに「私」が混ざると、そりゃアクセル踏みながらブレーキ!って言うかもしれない。
殺される前に殺さなと思って親子供を殺されたら殺したやつを殺してやるって思うし、こいつは殺人鬼だ正当な裁きをと願ったりするけど、相手は正当防衛だ、正しいことをしている、お前がオカシイで頭がおかしいわけで、おかしいのは俺なのかお前なのか事実とは何かとか客観的な事実は右から撮るか左から撮るか空撮したのを拡大して見るかで、その客観性は変わるし、むしろカメラの反対側ではみんな談笑しながら虐殺風景を撮影中だとか、目に見える光景と音で聞こえた風景では印象は違うし、お気持ち大事マンだと事実よりは思想信条で世界を判断するわけで、ああ、もうつらい世の中だよね。ところであのGIFピーポー君をよく見てると近づいてくるの気づいてる?あれ不思議だよね。
ベビーカーと人間が座席のある中央部まで来ることは無いから、乗る前に確認と乗ったら中央の方に向かえば全然平気だよ。そもそも元増田が想定してる混雑具合なら移動しようと思えば全然行ける。
嫉妬を読みとったのは、過去の何周回分のもろもろを見てきたことと、元増田の長文の内容から。
たとえば冒頭「他人にあたりたくなると思う」。元増田は炎上を恐れるふりをしてその実、自分の意見が絶対的に正しいと考えて反対意見を「他人(元増田)へ当たり散らすもの」と設定している、一方で自分は反対派であると、まるで自分は客観的に俯瞰できていて冷静に反対しているのだとでも言いたげだ。
その、たった数行下に
また、これも炎上しそうなことではあるが、お母さんたちは日々の子育てや家事に加えて仕事に行かなければならない現状でいっぱいいっぱいなのだろうとは思う。
ただ、そのうえで更に、というのは酷なのだろうとは思うが自分の事情は他人には理解してもらうことは難しい、無理に理解させるのは悪手だとわかってほしい。
お母さんたちがいっぱいいっぱいであるように、子供をもっていないその他の人にもなんらかの事情があるということを分かって欲しいのである。
この3行に込められている意味は、自分の方が本当は大変なのだからベビーカーが遠慮するべきだ、ということだろう。なぜなら、これ全部、鏡に映したら全部元増田に帰ってくる話だからだ。昨今の少子化死すべしなご時世でいうのは気が引けるが、増田と「仕方なく通勤にベビーカーで乗り込んでくるダメな親」の必然と事情は頑張ったってイーブンでしかない。
なのにそれに気づいている様子がなく、自分は客観的に俯瞰できているし他人に理解させるのんは難しいと達観すらしている……と主張しているがすぐ下の文章ではその逆で客観性を失っているのだ。
何故か。この3行に隠れている、私の方が本当は大変だし抱えている事情も大きく子連れより優先的に扱われるべきだ、と思っているからだろう。
論理的に考えれば、満員電車に乗って周りに迷惑をかけるのが趣味でもなけりゃ、あんなでかくて当たると痛くて迷惑で中にいる子供も危ないし白眼視されるしでろくでもないものを、満員電車に好き好んで載せている人間はいないわけで、引き算による必然性の量を算出したら、多くの場合において親子の方が必然性が多いのではと思う。もちろん全てとは言わない。平日朝・下りの京葉線とかはノーマナー子連れがわんさか乗っててウンザリしたりすることがある。みなさん舞浜で下車。あとはベビーカーのせいで満員電車に乗れず親の死に目に会えなかった人などもいると思うし。
正確には、上手くなりたいけど思ったより評価を得られてなかったり、自分よりいいね数やRT数が多い他人と比べたりして、
そのことがモチベの低下など創作の妨げになっているような絵師はTwitterに限らずSNSを極力視界に入れないようにした方が良い。
通知も全部切ろう。漫然とTLを眺めるのも金輪際なしだ。
他者評価を数値化するSNSは劣等感を信じられないスピードへ加速させる。
このいいね数とかRT数とかいうやつらは、数値という揺るぎない事実をもって、二者間の優劣をさも完璧に客観的であるかのように提示するからだ。
強者には無限に承認欲求の麻薬を吸える神システムだが、弱者にとってはただ劣等感を無際限に溜め込ませる悪魔のシステムだ。
本当はいいね数RT数なんて真に受けるな信じるなと言えればいいが、実際にはそうしたくてもできないというのがほとんどだと思う(できる人はとっくにできている)。
なにより実際ある程度の客観性は備えているのが厄介だ。
評価のことはいったん何もかも忘れて、創作することだけに目を向けよう。描くのが楽しいその感情だけを信じろ。
下手なことなんて忘れよう。描く気が起きないんじゃ上達もクソもない。
どうしてもTwitterを見たい人で、極力劣等感を刺激されたくない人は、PC版Chromeに限るが拡張機能を使っていいね数やRT数を非表示にしよう。
Stylebotという拡張機能がオススメだ( https://chrome.google.com/webstore/detail/stylebot/oiaejidbmkiecgbjeifoejpgmdaleoha )。
ボタン一発でほぼなんでも画面から消せる。詳しい使い方は「Stylebot Twitter 非表示」などでググればいくらでも出る。
そうやって自分の無力さを見ないようにすることを恥と思う必要もない。
普通選挙とか男女雇用機会均等法は、フェミニズムが正しいと思う。
ただし、「文科省の証言」によって、「医学部の合格のしやすさ」なる根拠不明の統計を以て、強者に対して配慮しろ、というのは間違っているし、それは学問ではない。
ていうかあの数字って2018年だけのものなんだよ?(ハフポストの謎記事はhttp://rochejacmonmo.hatenablog.com/entry/2018/08/12/021856)
しかも合格しやすさってたぶん、男子の合格者数/学力に対する女子の合格者数/学力で出すんだけど(だから文科省の「男女の学力差はない」という表現が必要だった。男女に学力差があれば、別に1.00を超えるのは当たり前になる。)、これがなあ…どうやってその文科省の人は受験者の学力を調べたんですかねぇ…?それが学問なんですかねぇ…?
「男女に学力差はない」っていう「仮説」は、当然(政治的に)正しいから、提出されるのは当然だと思うよ。でもそれを研究する?どうやって?研究して結果男性の方が論理的・空間把握力が高く、女性の方が情緒的だ、という結果を東大入試に反映させるの?社会的弱者との面接グループワークでも取り入れてみる?
二者間の意思疎通の確認が取れないから、2つの主観どちらにも属さない客観性が必要だと思うんだが…相対的にしか正しさを記述できない、って意味なら同意なんだが。
ともかく、2つ以上あるってのはうーん、ってなる。一つの学問系の中で「棄却」したけど「別の体系では正しいか可能性は残る」なんてされる方もする方もなんだかなぁって感じ。まあここら辺言いすぎると超高重力下での量子力学が~とかの不明性に入りうるから私の頭ではあまりしたくないけど。でも人知で観測できるかわからないってのと、意図的に観測地点をずらして結果が違うけど両方別物で正しいってのは差が激しすぎると思う。
お前は何か勘違いしてるけど、仮説を出すってのが科学の根本的な営みなの。
もちろん誰が見ても間違ってて無意味な仮説なら意味無いし、客観性があって検証済みならそれに越したことはないが。
主観がないと仮説を作ることもできないってのが分かってないでしょ。
質的研究自体への疑問は「あたりまえだから」とかいう理由で却下されるというもはや共産主義的な社会学部
もうこれだめだろ。
流石に読解力がなさ過ぎる。質的研究と量的研究で客観性・科学性が異なるっていう文脈だし、それは社会科学分野では当たり前のことだよ。
だから本当のことを言ってしまえば、本質をわかっていれば表記も表現も自由。
でも物事の本質を確かめるために客観性が求められている以上は、仕方ないともいえる。
これ以上の客観性と、抽象概念についてを考えれば哲学の領域に。
言葉ってそんなもん。
何か書ける時/書けない時って、あくまでわたし個人的にパラメータが壊れてる時だと思った。
次に気分は置いて技能的に、書ける⇔書けない
そして締め切りという客観性や自分のモチベで、書く必要がある⇔書く必要はない
この三つのパラメータにどういう相関関係があるのか文系のわたしにはイマイチ説明ができないが、相互に関係してると思う。
小説、漫画、イラスト…なんでもいいけど、何かしら書いてる人なら「気分的にめっちゃ書きたいけどなんか筆が乗らない日」とか「特に書きたいものはないけどなんとなく筆が乗る日」とか感覚的にあるんじゃないかなって思う。
そしてこのパラメータの噛み合いが悪い時に創作鬱を起こす。ここ数日わたしはそうだった。
あと先述の三つとは別にアイディア面でも「いいアイディアがぽんぽん浮かぶけどうまく形にできない日⇔全然何も浮かばないけどコツコツ単調な作業を進めるとすごく集中できる日」ってあると思う。わたしはある。
本来は被害を受けた当事者への共感を伴った義憤によって分母を大きくする事で加害側への責任のサイズを正当にしそこに個人に納まらない社会においての蔑視的観念の影響が認められるなら啓発としての批判的働きも含めというような概念で本当は消費できない存在をそのように扱うことへの糾弾的皮肉的意味合いを持った言葉なのに今では性的な消費という言葉を拡大解釈させて女性という概念への被害を叫ぶ事で属する自身をも直接的被害者としてカウントさせ正当化させるための単なる利己的なツールと化してもきているようで辟易する
加害者に責任や制裁を求めるのも当事者である被害を受けた女性によりも集塊した個々の怒りに対して望むような傾向が見られるし主観の域を出ない個人的感想の主語を"女性"とすり替え同調を誘う事での自己正当化また溜飲を下げるための手段や非難のための免罪符としても使い勝手良く氾濫してしまって意味性としてはむしろ正当性が削がれていっているように思うしそこに危うさも覚える
その言葉は多くを包含する女性という概念の下で主観的なものに左右される消費への定義を振るうものであるのに消費という単語が持つ即物的な客観性を含んだ印象のためにさもそこに共通する絶対的な基準が存在するかのような錯覚を起こさせ個々に主観を反映させたそれを自身の正当性の担保としたならそこに齟齬や違和は当然生まれるし実際見ていると女性間でさえ性的価値観の差や意識差においてその寛容さ奔放さを自身との相違でもって本来は違って当然で双方が尊重し合うべきものであるあくまで相対的なものでしかないそれを性の消費へ加担しおもねるものだというような非難へ繋げていて(エマワトソンのトップレス写真問題が分かりやすい)それは女性が選択できる性的自由度の幅を狭めるようなもので全体主義的というかほんとどうなってんのというきもちになる
それは加害者としてファンタジーと現実の区別がつかない人間だけでなくその性的対象にも原因を求める痴漢の自衛論的な発想でそんなものでも"被害を受ける女性性"を盾にすれば正当性を伴ったあまりに大きすぎる分母の代弁者として振る舞えるそんな客観的正当性を欠くような類の安易な乱用が許されるガバガバな現状はともすればそのまま安易に女性性が消費できるものだと定義認識されかねずそれはいわゆる二次元のキャラクターなんかに対して更に顕著で代弁し得る被害者がいない分自身がその対象を受け入れられない不快に感じたそれを消費されているとして被害を主張し嫌悪不快感の赴くまま狭く特殊な世界の性的な意図や人によってはポジティブな性的さと捉える類のまた場合によってはそんな意図自体端から無いようなものにまでその責任を取らせるため拳を振り上げ本来は絵や漫画に限らず性的なまたは偏った視点による都合のいい理想像としてそのために用意されたもの次いでそれらへの一方的な性的な視点と現実の女性は全くの別物で前者に後者を反映させる事はあってもその逆は原則的に無いとすべきところをむしろ進んで混同を招くかのようにそこに消費できる女性性が存在しているまたその性的な偏った視点が消費され得る現実の女性性を含むものとするそれこそ現実に生きる女性への冒涜でそれは特殊嗜好やそこへ向けた性的娯楽表現で社会における女性男性を定義するような性的玩具に女性性を認め性的な消費だと言うような話でその辺の誰かが言ったおっぱいエロいって発言が胸を象徴としての性的な興味の個人的な発露なのかフェティシズムとしての限定的な性的嗜好によるものなのか対象のポジティブな性的魅力の客観的優位性を語るものなのかそれとも女性を性的な消費物としてしか捉えていない事での無意識の発言かなんて場合によっては当人にも分からないのに性的さや性的な魅力へ惹かれるそれ自体を消費だとするそれは傲慢以外何なんだという話でものの区別がつかないのかと思う
私はそれこそそんな身勝手に"女性が消費される"なんて言葉が使い回されるそれに"女性という概念が利用され消費されている"という気持ちになる(皮肉)
いや実際性的なものに限らずそんな類の感情にまで体よく使えるそれこそ消費という言葉の現状へ思う事でもある
言葉自体を使う事被害を訴える事共感や怒りそれ自体や社会の在り様を問う事疑問を持つ事嫌悪感や不快感その苛立ちをどうにかしたいという気持ち許容しかねる性的価値観や被害者がいなくても"女の子"とされるものの後ろにいる人間への非難めいた感情やその影響への懸念やそれを示す事それが問題なんでも悪いわけでもなくそれが本当に正当性のあるものかそのマイナス感情は自分に帰結するものではないかその対象が個人的なものかまた属するグループの特徴か社会に反映され得るもの社会を反映したものかを考える必要を欠かせたまま通用させてしまいかねないその責任感の無さからの軽率さでお手軽にやってしまえるそこが言葉の持つ重さに対してあまりにもに思えるしそれが招く扱う内容や巻き込むものの影響のサイズを考えればそんな程度に扱えるものではないはずなのにと考えてしまう
個人的にはそれが気に入らないものを非難排除する印籠または虎の威を借る狐的使われ方だとしてかわいさややわらかさみたいなものを弱さだと前提として定義してその上で"弱い女性"を理想化している事での消費という捉え方での使われ方が無意識に男性性への優位的価値基準に基づく無責任さを見るようで本当に恣意的で独善的できらいだし理想像の偏重さへの抗議の意としてそれが言われる事もあってでもそれは他を貶めて相対的に優位さを確保するやり方でその度そんな事に問答無用で総意として私が女性という性で巻き込まれまた使い方如何でその責任まで勝手に負わされることになるその不当で理不尽なガバガバさがほんとうにほんとうにきらい
そしてきらいだけどそれは個人の意見でそれに異を唱え打ち捨てたいと思う人もいるように本来性別のようにグループにおける総意とは"個人的に""私は"の集約であって集約されるという過程を飛ばして個人が主観で代弁できるようなものじゃなくするべきでもなくまた次いでその中に見られるあくまで問題解決への手段である問題提起とその周知を自尊心を満たすための個人の目的としてとやってそのためにと短絡的に対象を大きくとり優生学的に貶し相対的また絶対的優越に浸りそれを自己肯定感へ繋げ反芻するその姿は痴漢や他の性的被害に対して女性への蔑視的思想でもって心無い人間によって見られるようなそれでもあり持ち出す内容やその是非倫理性は違っていてもそれ以前に同じ事をしているというその影響は個人でなく"女性"の代弁としてやるには確実にあってそうしてしまう事で女性の言葉"としての説得力が失われていき実際そういう観念でもって本当に総意の力が必要とされている場でもその説得力の有無をこちらへ突き付けるような人間が少なからずいるその事も恐ろしいしその必要な人のための必要な場のためにも代弁者とするなら個人的な部分をこえたところでの危機意識は持つべきものだと思う
個人として何を思うのもどんな価値観を持つのもそれを発表するのも基本自由ではあるけど少なくとも女性というだけでなく大きな枠で多くを巻き込む事になる上で代表として語るならその自覚はあるのかそれがどこから来たものかそこに客観性が含まれるか主観とは区別できているか自論であるなら自身でそうだと理解しているかそれを示せているかのひとつくらい考えて使うべきだと思う
本当にひとつでも十分なのにと思う
というような事を消費という言葉を見る度思って胸焼けを起こすので文字に起こした
提言とかでさえない
おっぱぶでの経験から、自分の期待とおっぱいの関係について記しておこう。
おっぱぶに行こうとするときは、男性なら大抵おっぱいに関心があり、期待で胸を膨らませているだろう。人によっては息子も。
そうしておっぱぶに行く。指名あるいはフリーで入り女の子が登場する。この瞬間に、この後の40分のやる気のなさが決まったり金返せと言いたくなる場合もあるが、そうした不運を除くと、更に一段階胸や息子が膨らんでいるだろう。
その後女の子との会話でますます高まる期待を感じつつ、いよいよおっぱいが目の前に現れる。明るい空間であろうが、暗がりのサービスタイムであろうがこれは必ずだ。
おっぱいは自分が待ち望んでいた対象物だ。おっぱぶで8千円払おうと思えるのはその空間や酒や女性とのコミュニケーションに価値を感じるからではない。そこでしか経験できないもの、つまり揉めるおっぱいの視界への出現に価値を感じるからである。(もっとも社会からおっぱいには価値があると思わされているのがその理由かもしれない)
そのため、客観的には、対象物を見た瞬間素晴らしい感情になることが予想できる。満足度をy軸においたグラフで、そこまで順調に一次関数的に右肩上がりを続けてきた半直線が、指数関数的に一気に傾きが大きくなり垂直線に近づくかのように。それが8千円の目的だと外野からは思えるからだ。そして本人がある程度客観性を備えているなら、本人もそう思うだろう。
ところがそうはいかないのだ。おっばいを実際に見る。すると、そこで例の半直線の傾きはゼロになってしまう。目的は実は見ることだけなのだ。その後、こんなはずじゃないと、再び満足しようと、おっぱいに手を伸ばし揉んだところでもうあの頃の期待の大きさは戻らない。理不尽で悲しい。
なぜこんなことを書いたかというと、今、懲りずにおっぱいに過剰な期待を持ってしまったことが分かったからだ。
思うに射精も同じだろう。この現象に、結婚は墓場だと言われている現状も併せて鑑みると、男性の性欲は理不尽をもたらしがちだと思う。