おっぱぶでの経験から、自分の期待とおっぱいの関係について記しておこう。
おっぱぶに行こうとするときは、男性なら大抵おっぱいに関心があり、期待で胸を膨らませているだろう。人によっては息子も。
そうしておっぱぶに行く。指名あるいはフリーで入り女の子が登場する。この瞬間に、この後の40分のやる気のなさが決まったり金返せと言いたくなる場合もあるが、そうした不運を除くと、更に一段階胸や息子が膨らんでいるだろう。
その後女の子との会話でますます高まる期待を感じつつ、いよいよおっぱいが目の前に現れる。明るい空間であろうが、暗がりのサービスタイムであろうがこれは必ずだ。
おっぱいは自分が待ち望んでいた対象物だ。おっぱぶで8千円払おうと思えるのはその空間や酒や女性とのコミュニケーションに価値を感じるからではない。そこでしか経験できないもの、つまり揉めるおっぱいの視界への出現に価値を感じるからである。(もっとも社会からおっぱいには価値があると思わされているのがその理由かもしれない)
そのため、客観的には、対象物を見た瞬間素晴らしい感情になることが予想できる。満足度をy軸においたグラフで、そこまで順調に一次関数的に右肩上がりを続けてきた半直線が、指数関数的に一気に傾きが大きくなり垂直線に近づくかのように。それが8千円の目的だと外野からは思えるからだ。そして本人がある程度客観性を備えているなら、本人もそう思うだろう。
ところがそうはいかないのだ。おっばいを実際に見る。すると、そこで例の半直線の傾きはゼロになってしまう。目的は実は見ることだけなのだ。その後、こんなはずじゃないと、再び満足しようと、おっぱいに手を伸ばし揉んだところでもうあの頃の期待の大きさは戻らない。理不尽で悲しい。
なぜこんなことを書いたかというと、今、懲りずにおっぱいに過剰な期待を持ってしまったことが分かったからだ。
思うに射精も同じだろう。この現象に、結婚は墓場だと言われている現状も併せて鑑みると、男性の性欲は理不尽をもたらしがちだと思う。
貧乏人と金持ちの違い 貧乏人:風俗、オナニーで満足。 金持ち:剛力彩芽みたいな美女と何でもOK。 結論:妥協ではなく努力をしよう。