はてなキーワード: 原爆投下とは
ロシア国民の貧困イメージはヨーロッパの反露プロパガンダでしかないんだよね。
実際にはものすごく豊かに暮らしていて、逆にヨーロッパは移民のスラムばっかで廃退している。
ネットもTVもこんなものの宣伝ばかり見せつけられていたせいでは日本人は夢をなくし衰退してしまった。
それに、リベラル、ポリコレ、フェミニズムなど、、、アメリカの思想は日本民族には到底受け入れられない。
アメリカの製品を買いたいと思う日本人はどれだけいるのだろうか。
家電はすぐ壊れるうえ使いづらい。
車は自動車から戦車にいたるまでゴミ。戦車は数十年前のものから更新できる技術がなく
事故ばっか起こすスペースシャトル。ロシアのソユーズはいまだに無事故。
近代の日本とロシアと何度も戦ったのに、ロシアは韓国のように昔のことで日本を攻撃してこない。
これこそロシア国民が優れた道徳心の持った民族である証拠である。
一度戦っただけで逆恨みしてきたイギリスやオランダとも雲泥の差である。
アメリカのルーズベルトの言っていたことなんてヒトラーと変わらない。
世界が第三次世界大戦の危機に晒され続けているのも日本が親米であることが原因。
あれは原爆投下当時に実際頻出した事象を単純に作品に織り込んだだけであって、事象の理由になにか医学的な裏付けがあっての話ではないのだよ
まあ、そのせいでいたずらにショッキングなだけのめっちゃ謎のシーンになってしまってるんだけども…
一応
という話はある
好きな説をとるとよい
この本に書かれている内容はアメリカ人のために作られた偽りの歴史である。
徹頭徹尾、日本人に対する人種差別的感情と日本人に対する優越感が垣間見える。
アンドルー・ゴードンの主張に基づけば、日本が文明開化しようが近代化しようが
そんなことは結果的には全く無意味で結局は西洋列強の養分になったに過ぎないという。
不平等条約締結はアメリカの良心、日本近代化への貢献(つまり不平等条約が西洋人の横暴を許した結果、国民意識が高まったという逆説的な詭弁)だと言い切り、
ただ、私達日本人はこれが戦勝国アメリカでおける最もポピュラーな思想であるということを知らなければいけない。
そして、アメリカではこのゴードンの主張さえも親日的とされるほど、アメリカ中心的な思想がまかり通っていることも知らなければいけない。
この本の序章には、「西洋諸国から『特異な国』と見られる日本の歴史が、実は世界史とも関連を持っていた」ということをベースにして書いたとされている。
しかしながら、我々日本人は、日本史が世界史と関連していることなどは小学生でも知っている。
この本は一見して、日本史を世界史の中に対等に組み入れ、俯瞰的に論じたグローバル的な歴史書であるように見えるが、
実際は全く異なっている。
ヨーロッパ中心史観に(彼らにとって)イレギュラーな日本を組み入れた上、やはり日本は異端であると信じ込みたいアメリカ人のための本である。
ゴードンの主張で明らかにおかしいのは、日本人の行動が自分達日本人のためにされた行動であるということを理解していない点だ。
すべての行動は日本人が日本人のために、最善を尽くした結果なのだ。
ゴードンはそれらすべてを外圧に屈した日本人が致し方なく行動した結果と判断している。
このような考え方が、ヨーロッパ世界、アメリカ合衆国内に跋扈し、参考にされるようなことが
続くようであれば、
アメリカは日本へ2発の原子力爆弾を投下して、日本は無条件降伏した。
無条件降伏だったので、日本はアメリカの植民地、奴隷にされた。
江戸幕府は鎖国政策を行っていたが、欧米はその間にも技術を発達させ、軍事力も増大させていた。
江戸幕府は当初「公武合体」によって、新しい日本の体制作りを目指した。
公武合体(こうぶがったい)は、幕末(1850年代から1860年代)の日本において、朝廷(公)の伝統的権威と、幕府及び諸藩(武)を結びつけて幕藩体制の再編強化をはかろうとした政策論、政治運動をいう。
しかし、公武合体は失敗に終わり、薩長のテロリストたちがクーデターを起こした。
イギリスに支援された薩長同盟 VS フランスに支援された江戸幕府
英仏の代理戦争が日本国内で展開されて、イギリスのフリーメーソンが勝利した。
明治維新以降、日本は日露戦争に勝利する等、外国と戦争して勝つことができた。
調子に乗ってアメリカにも戦争をしかけたら(真珠湾奇襲攻撃)、逆にボコボコにやられてしまった。(原爆投下で第二次世界大戦敗北)
天皇が「勝つ見込みはありますか?」と尋ねたら、軍部は「短期決戦で勝ってみせます」と応えた。それならOKと戦争を開始した。
軍部は「アメリカから買っていた石油がなくなったので、これ以上戦争を継続できない」と判断した。(そりゃ戦争やってる相手に石油を売る馬鹿はおらんわなw)
松谷誠のように、早期講和を検討した者もいたが、軍部に握りつぶされた。
日本が2年程度で戦争を止めていれば、満州を失うだけで済み、日本の本土まで取られることはなかった。
結果的に、天皇と軍部は判断を誤り、早期の損切りができなかった。
松谷 誠(まつたに せい、1903年(明治36年)1月13日 - 1998年(平成10年)10月7日[1])は、大日本帝国陸軍の軍人、陸上自衛官。
天皇の悲劇は、周りにイエスマンしかおらず、適切な判断材料となる反対意見を言う者がいなかったこと。
(天皇一人が悪いのではなく、取り巻きの連中が使えなかった。)
もしも、松谷誠らが天皇に直接提案する機会があれば、完全敗北を避けることもできただろう。
歴史を振り返ると、ワンマンのリーダーが判断ミスすることによって、国が滅ぶ例が多々ある。
日本の近代史を振り返ると、日本の岐路は、「公武合体」にあった。
もしも日本が、天皇と将軍のツートップ体制だったら、どちらか一方が判断ミスをしても、リカバリーできる可能性があった。
しかし、ワンマン体制だと、一人のリーダーが判断ミスすることによって、ドミノ式に全体がミスに巻き込まれる。
公武合体が成功していたら、日本は今とは違う歴史を歩んでいただろう。
負け惜しみで、明治維新を賞賛する向きもあるが、敗戦の結果を見れば、明治維新の天皇制は失敗だったことに気付く。
残念だ。
通常兵器と核兵器の違いはその威力や放射能汚染によるものであり、広島と長崎、更には相次ぐ核実験でその威力を思い知った大国は冷戦から現代に至るまで「核兵器を使ったら最後、報復の連鎖で世界が終わる」という価値観を布教している。
にも関わらず、WW2で日本に核を落としたことについては「戦争を早く終わらせるため」や「米兵の命を守るため」などという正義のもとに正当化されている。
ゲームや映画の世界では往々にして「核兵器の発射を阻止せよ」というシチュエーションが出現するが、その場合、核を使おうとしている勢力は構造上悪役になるわけだ。しかし、前述した通り、どういう訳か現実のWW2で核を使った国、アメリカはなんら断罪されていない。
アメリカの正義のために使われた核が正しい核なら、テロリストや独裁国家の正義によって使われる核も正しい核ということにはならないだろうか。しかし、これはどうもそうはならないらしい。
さて、この違いはどこから産まれるのであろうか。一番重要な点として、WW2の時点で核を使えたのがアメリカだけだったことが挙げられる。つまり、一方的に核兵器を投下することができるから、実際に投下したという訳だ。
それが、ソ連などの新たな敵対国も核武装を始めたから、核の恐怖を宣伝し、どこの国も核を使えないようにして、核兵器=悪という価値観を植え付けたというのが実際のところであろう。
次に、通常兵器と核兵器の違いを認識しているかどうかという違いも挙げられる。広島と長崎以前では、核兵器は単なる「とっても強い新型爆弾」としか認識されていなかったのではないか。それが、実際に投下してみると非人道的な兵器だということが世界に知れ渡ったのである。だから、アメリカやその他の国も以降では核兵器を使えなくなった。
結局、アメリカは一方的に使えた新型爆弾を投下してみただけに過ぎず、大義名分も後付のものに過ぎず、かといって過去の投下を間違いだと認めるわけにもいかず、現在に至るのである。
アメリカは「世界の警察官」を名乗って新たに核武装しようとする国を断罪しようとするならば、まず自分たちの過去の原爆投下を過ちだと認めて、自分たちの国から率先して核の削減に乗り出さなければ、全く正当性を成しえないと、私はここに断言する。
特攻させられる搭乗員にとっても、沖縄で地上戦に巻き込まれた民間人にとっても、フィリピンでとんでもないクソみたいな戦闘をやらせれて共食いまでさせられた兵士にとってもたまった話ではないだろうが、これらは全部上手くいった。
戦争終盤のあらゆる戦闘が本土決戦の可能な限りの遅延を意図していた。そして、上記のような被害の結果、米軍による日本本土上陸作戦を断念させることに成功している。
そして、この結果広島と長崎への原爆投下という最悪の事態を招くことになった。
だがともかく特攻にせよ沖縄戦にせよフィリピン決戦にせよ一定の成果を挙げているのは事実だ。無駄ではなかった。
だが結局のところ、何が無駄かといえば対米開戦そのものが大いなる無駄なのだった。 1941 年において、既に日本は満州事変以来 10 年間中国との戦争を継続していたのであるが、 10 年かけて中国を全く屈服させることができなかった。ようするに日本軍の実力というのはその程度だったという話で、その程度の実力で対米戦をやったこと自体が大いなる無駄だった。
これはつまり、物事をどういう粒度で捉えるかの問題だ。「対米戦なんてどうやったって勝てる訳がないんだからどんな努力も全ては結局は無駄だ」、という姿勢と「それはそうとしてその場において目の前の問題を解決したという点は評価しよう」という姿勢は両立するはずだ(さらに、特攻、沖縄戦、フィリピン戦の残虐さについて批判するを姿勢を並び立たせることもできるだろう)。
主な理由ににソ連への牽制と実証実験が挙げられるだろうがこれだけでないように思う
私個人が思うにトルーマンがソ連を引き摺り出して米ソの対立基軸を決定的にさせること
ソ連の対日参戦が決まっていたためこれと協力して日本本土を労力をあまり使わず降伏させること
原爆投下、ソ連対日参戦により早期の無条件降伏を引き出し日本本土、日本勢力圏へのソ連の侵入を最低限に抑えること
これによって日本の戦後運営をアメリカ主導で確実に行うことまた日本を西側陣営に確実に引き込むことなどを画策したのではないかと思う
備考
原爆投下がソ連にどんな影響を与えたかってのが分かりづらいんだよな
時期的に原爆投下に誘発されてのソ連対日参戦だとは思うんだけどね
ソ連の対日参戦を誘発させて日本との切り離しを図るってのは理解できる
他の点ではそのような思惑があったのも確かな気がするまあ正式な資料漁ったりしてみないと分かんないからねー
共産主義封じ込め政策であるトルーマン・ドクトリンが原爆投下から二年後の1947年にだされてることから
これはあくまでトルーマンが個人的にもってた考えだろうし明確な思想としてあったかも分かんないだからこうだよって示すのは無理そう、そう言う意味で微妙ってこと
原爆投下の日の慰霊式典で反アベデモをしてた人たちって何がしたかったんだろう。
「式典参加者やら一般国民からどう思われようがしったことか。俺たちゃ安倍叩いて内輪でワイワイできりゃそれでいいんだよ」ってのだったらシンプルだ。「死ね自己中」で済む。
でもこれで国民を反安倍へと駆り立てることができると信じたうえで、本気で政権打倒を説得しようという意図の下に行われたんだったら、この人たちの想像力の貧困さにゾッとする。
こういう場でそんなことすれば人からどう見られるのか、全然想像がついてないんだぜ?
どんなに正論だと思ってても、法的にはセーフでも、こんなところで主張すれば反感買うだろうなって思うだろ、普通。
わけわかんねえよ。
アメリカの原爆投下により、国際法違法な非戦闘民の大量虐殺が行われた事実、 そして勝者が敗者を嬲る私的裁判が行われたことは事実だ。
しかし事実に囚われすぎてアメリカや他の戦勝国を非難することは阿呆でしかない。
過程がどうあれ批判すべきは当時の我が国の弱さという大罪で、それを他国にすり替えるのはお門違いと言っていい。
これは韓国と中国にも言えることだ。 故に戦時中の虐殺や強制労働や慰安婦なんてあるに決まってるだろ。戦争なんだから。
戦争を終えて最も大切なことは、やがては事実を事実として学べる環境を整えることだ。 ナチスヒトラーのように当時の思想や暴挙をなかったと闇に葬るのではなく、
例えば政治家としての資質、行動に移る経緯を学び反省してことこそ犠牲者が報われる道ではないのか。
原爆は例え話なので「規模の違い」とか「具体的な損害の多寡」を直接比較することに意味はない。
「猫に小判だ」と言われて「いや俺猫じゃねーし人間だし」という反論がどれだけナンセンスかはわかるだろう。そちらのほうが「詭弁」である。
いいかい、共通する性質を持つがほかの条件は違うようなことがらを二つ以上並べて、その共通する性質をわかりやすく摘示してみせるのが例え話だ。
この場合の共通する性質とは「結果は手段を正当化しない」ということで、条件の違いは規模や場面だ。対比のためにわざと原爆投下という極端に条件の違う例を引き合いに出している。
例えば(例え話ばかりで恐縮だが)同じ足し算であれば100+100でも100万+100万でも性質は変わらない。つまり規模は関係ない。
じゃあ君のために噛み砕いてエッセンスだけを書くからちょっと冷静に読んでよ。
A.正しい結果は出たものの、その手段は正しいとは言えなかった
このふたつの違いがわかるかな?
Aは結果と手段をそれぞれ別々に評価し、妥当性を吟味している。
一方、Bは手段単体では評価をせず、結果ゆえに正、としている。
今、Bという主張をそこらじゅうで見る。現にこうなったじゃん、だからあれでよかったんだよ、と。メディアまでが(インタビュイーの口を借りるというやり方で)この主張をしている。
たしかにこういう結果になった。バニラは対応を改めたし、世間には障害者の生きづらさをあらためて広く知らしめることにもなった。いい結果を残せたと思う。
しかし結果は結果として、それとは別に、あのやりかたはよかったの? 社会通念に照らしたとき、市民運動のデモンストレーション手法として許容範囲だったの? 航空機の客としてOK? NG?
繰り返すが、出た結果の良し悪しと、選んだ手段の良し悪しは、個別に評価すべきである。
悪者を捕まえられるからといっておとり捜査はしちゃダメよ、とか、違法に入手した証拠は裁判では採用しないよ、とかと、まあちょっと違うが、同じ理屈である。
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