原爆は例え話なので「規模の違い」とか「具体的な損害の多寡」を直接比較することに意味はない。
「猫に小判だ」と言われて「いや俺猫じゃねーし人間だし」という反論がどれだけナンセンスかはわかるだろう。そちらのほうが「詭弁」である。
いいかい、共通する性質を持つがほかの条件は違うようなことがらを二つ以上並べて、その共通する性質をわかりやすく摘示してみせるのが例え話だ。
この場合の共通する性質とは「結果は手段を正当化しない」ということで、条件の違いは規模や場面だ。対比のためにわざと原爆投下という極端に条件の違う例を引き合いに出している。
例えば(例え話ばかりで恐縮だが)同じ足し算であれば100+100でも100万+100万でも性質は変わらない。つまり規模は関係ない。
じゃあ君のために噛み砕いてエッセンスだけを書くからちょっと冷静に読んでよ。
A.正しい結果は出たものの、その手段は正しいとは言えなかった
このふたつの違いがわかるかな?
Aは結果と手段をそれぞれ別々に評価し、妥当性を吟味している。
一方、Bは手段単体では評価をせず、結果ゆえに正、としている。
今、Bという主張をそこらじゅうで見る。現にこうなったじゃん、だからあれでよかったんだよ、と。メディアまでが(インタビュイーの口を借りるというやり方で)この主張をしている。
たしかにこういう結果になった。バニラは対応を改めたし、世間には障害者の生きづらさをあらためて広く知らしめることにもなった。いい結果を残せたと思う。
しかし結果は結果として、それとは別に、あのやりかたはよかったの? 社会通念に照らしたとき、市民運動のデモンストレーション手法として許容範囲だったの? 航空機の客としてOK? NG?
繰り返すが、出た結果の良し悪しと、選んだ手段の良し悪しは、個別に評価すべきである。
悪者を捕まえられるからといっておとり捜査はしちゃダメよ、とか、違法に入手した証拠は裁判では採用しないよ、とかと、まあちょっと違うが、同じ理屈である。
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