はてなキーワード: 入院とは
地方都市在住の50歳。妻子あり。東京に単身赴任中だが、コロナが始まってからは東京の借家には月に一度、一週間ほど滞在するだけになった。
中学2年生の時から書き溜めてきた日記帳を東京の借家に持って来ている。20年前の1月に書いたのを最後に更新が途絶えている。死後に読まれたくないが、処分してしまうと自分が自分でなくなってしまうような気がして、ドキュメントスキャナーでPCに取り込むことにした。
部活でいじめを受けていた中学時代。高校は県内トップ校を受検するもボーダーラインに数点足りず、県立高校の二次募集で片道1時間半の中堅高校に通うことになった。学校に馴染めず悶々としていた高1の夏、母親が癌で入院し、その冬にあっけなく逝ってしまう。その頃、今の高校を退学して大検を受けようと考え始め、父親とも激しく対立する日々──。
日記を読むつもりはなく、ただスキャン作業だけを淡々と進めるつもりだったが、どうしても作業の都合上、目に留まったページは読んでしまう。辛い記憶が蘇ってくる。
4冊目の大学ノートをバラそうとしたら、高1の進路指導のプリントが挟まっていた。提出したプリントに担任の先生がひとりひとりに手書きのメッセージを書いて、3学期の終業式の日に返却してくれたものだ。国語と書道を担当する年配の男性教諭である担任のS先生には、退学や大検受検のこともよく相談に乗っていただいたものだ。プリントの余白には、こんなメッセージが書かれていた。
今年度はいろいろ辛い思いをして、本当にたいへんでした。一ぺんに学校以外のことで試練を受けましたネ。それにくじけなかった増田君は、本当に強い、と感心しました。新年度は、又、心機一転がんばってください。この1年、何の役にも立てなかったこと、許してください。K先生(部活の顧問)や必要あれば進路指導部の先生などとよく相談して、最終的には自分自身で決意してください。悔いのないように! 将来を期待しています。
藁半紙のプリントにボールペンで書かれたこのメッセージを見た瞬間、涙が止めどなく溢れてきて、声を立てて泣いてしまった。記憶から抜け落ちていたこの文章が、あの頃の辛かった記憶を呼び戻したのだろうか。あまりにも予想外のことで、自分でもびっくりした。
S先生は翌年度から県内の別の高校に転任され、それ以来お目にかかっていない。ご存命なら、今は80代中頃だろうか。
結局、高校は退学せずに卒業した。大学受験は何度も失敗し、就職してからも苦労が絶えなかったが、今では人並み以上の幸せな生活ができている。当時は自分のことで精いっぱいだったが、今思い返せば、S先生にはずいぶんと支えていただいた。直接お礼を伝える機会はもうない気がするのが、なおさら悲しい。
同居している義父(約90歳)、ドリ○ルとリポ○1~5本を毎晩服用し、眠れないと精神科で訴え、睡眠薬を処方され、睡眠薬をリポ○で飲み、まだ眠れないとお薬手帳を使い分けてクリニックをハシゴすることで睡眠薬大量ゲットし、昨夏それを先述の栄養ドリンクとカクテルして昏倒。
入院時に部屋を義母&夫が義父の部屋を家捜ししたことで上記が発覚。
まずリポ○を家族総出で隠し、日に1本ずつならと義母と夫が渡していた(これがないと健康になれないと義父が言いはるので)のとは別に、毎日コンビニで3本パック買ってそれを一気に飲んでいたそうで、溜め込んだ大量のリポ○の空きビンが義父の部屋から出てきた。もう何とファイトしとるんかわからないという程度の
https://anond.hatelabo.jp/20220327100332
私と、私の両親に限っての話なので皆さんがそう思うかどうかは知りませんが、実際にありましたよ。
もう10年くらい前のことになりますが、きょうだいが仕事で心を病んで実家に帰ってきて、状態良くなったら一人暮らしに戻ってちょっと働いてやっぱダメでまた実家戻って、みたいな生活を延べ3年くらい続けていました。
きょうだい、すごく遠いわけじゃない程度の他県で働いていたので、状態悪くなったら深夜でも親が車ですっ飛んで行って連れ戻してきたりとか、向こうで救急車で運ばれたりとか、まあそんなかんじで色々ありまして。
極論すればもっと本格的に動けない・働けないくらいまでいけば逆によかったのかもですが、本人は頑張って色々やって生きようとしていたし、本人がやりたいなら応援したいし、みたいなノリだった私たち家族も結果的には対応を誤ったんでしょうね。
最終的には実家療養中に吊っちゃったんですが、49日の法事とか色々済んだ頃に、親がポツリと
「今までは寝てる間に物音で起こされたりしたし、静かなら静かで手首でも切ってるんじゃないかと、自分が寝ていても常にどこか休まらなかった」
そんなことを言ってきました。
私としては「よくそんだけ面倒みられるなあ。きょうだいの自分的には、もし自分が面倒みる立場だったら悪いけどとっくに見捨てるか全力で入院させるかしただろうな」という思いで、要するに親が精いっぱいのことをしてきたのはわかるし、きょうだいに対する愛情だってあったことを知っています。
もちろん私にもきょうだいに対する愛情はありました。世間一般的にはけっこう仲の良い部類なきょうだい関係だったと思います。
ただ、心のどこかで、「今は親が元気だからいいけど、親が元気じゃなくなってきた時にきょうだいがこのままだとちょっと辛いよなあ。それまでに元気になってくれればいいけどなあ」と常に思っていました。
「正直に言えば自分もホッとしている部分がある」
と親には答えました。
ただ、それでも生きていて欲しかったと思っています。ていうか、生きていて欲しかったなあという思いと、死んじゃってホッとしたなあという思いは、アンビバレントかもですがけっこう心の中で両立してる感じです。うまく言えませんが。
元増田さんは釣りかどうか知りませんが、当面悲しいと感じてらっしゃらないようなので、そこは私たち家族とは違うでしょうが、それは直接的な迷惑度というかそういうのの積み重ねの結果だと思いますので、変にご自身と旦那様をクズだとか卑下せずにしていただければと思います。
以下余談
「死にたい」と普段から連発している人は本当は死ぬ気がない、とか未だに信じててさも当然のように言うやついるけどな! 本当に死ぬんだよ! なんかキッカケあったら!
願わくは、「死にたい」と普段から連発している人は本当は死ぬ気がない、とか言ったことのあるお前、今すぐ反省しろ。猛省しろ。ついでに何が原因だったのかとかわかったような口をきくお前も今すぐやめろ。原因なんか同居家族でもマジわからんわ! それなのに普段接してないお前らとかがわかるわけねーだろ!バーカバーカ!
その子がずいぶんと心の調子を崩した日があって、今日はちょっと様子がおかしいなと思っていたのです。
それで黙ってベランダに行ったと思ったら、そのまま飛び降りてしまいました。
突然のことで止められませんでした。慌てて落ちた場所に急いで向かいました。
5階から落ちたのですから死んでしまった可能性は高いと思いながら。
頭の中でいろいろなことがよぎったのですが、そのときにもしかしたらこれで楽になれるかもという考えも浮かんでしまいました。
子どもは結果的に一命をとりとめました。もちろん、良かったと思いました。
でも入院とか介護とかこれまで以上に大変になるし困ったという気持ちがなかったかと言われたら嘘になります。
いまは予想どおり大変です。私のほうが死にたいと思うことも少なくありません。
ここにも書いてみる
脳梗塞後遺症の持病持ちの父親が風邪で入院したが、再発防止の常用薬の投与を止められ、
使わないで欲しい栄養剤を使われて肺炎を起こしかけて退院が延期になり
入院して19日目に脳梗塞を再発し、担当医師に脳梗塞の治療はしない決まりになっていると言われ、
とてもとても忙しくてこれまでに辞めようと思った回数は数え切れないけれど、優しくて素敵な人たちに囲まれていたので、ほんの少し寂しいような気がしなくもない…かな。
4月から新しい職場で働くわけですが、私は看護師をしていて、病院から病院に移るだけなので正確には転職ですらないのかもしれません。
入社するまで配属先が分からないためこれまでの経験をあまり活かせず苦労するかもしれないという不安はありますが、それよりも、新しい病院への期待が大きいです。
なぜなら前の職場の労働環境がクソすぎたからです。新しい職場はマシなところでありますように。以下に前職場のクソな点を語っていきます。
まず最も最悪なのが、残業ありきなところ。
4年間在籍していた中で定時に帰れたことなんてほとんどありませんでした。
三次救急に分類される病院でしたので、患者の重症度は比較的高く、検査や手術、緊急入院も多くありました。それは病院の役割として当然です。
だが、圧倒的に人手が足りない!
看護業界はどこも人手不足なのでしょうが、小さい子供を持つママさんナースに残業や夜勤を迫って結果的に大量に退職させたり、無駄とも思える時間外の委員会やら会議やら勉強会を頻繁に行ったり、時間外申請を看護師長の裁量で却下したり。貴重な働き手に残ってもらおうという努力などはなく、辞めたいなら辞めれば?とでも言うかのような傲慢な態度。そりゃ皆やめてくわ。残っていたら皺寄せがくるから早く逃げるのが吉。病院なんてたくさんあるんだしね。
そんなんで人手不足が深刻化していくし残っているのも殆どが1-3年目みたいな感じになる。なのに断らない救急(笑)を一丁前に掲げちゃって、人はいなくてもベッドに空きがあるからと入れちゃうんだよね。そんで時間外に清潔ケアをやるようなことになるってわけ。圧倒的キャパオーバー。そんなの明らかなのに改善しようとしない。スタッフの犠牲のもとに成り立ってる、それって成り立ってるっていうのか?破綻してるだろ。
断らない救急は基本的にクソなんだよ。私も看護師として働き出す前は医療ドラマとかドキュメンタリーの影響を受けちゃってカッコイーとか思ってたんだけどさ。断らない病院ってのは他病院から出禁になった患者とかも来るわけね。スタッフへの暴言暴力。セクハラ。病院のルールを無視。治療への非協力的な態度。こんなやつ治療する価値ないやろって奴が大勢来るわけ。ただでさえ業務過多なのに治療する意思のない奴ら、我々に害を及ぼす奴らの相手なんかしてらんないんだよな。クソ共の相手をするのに手間取られて本当に看護が必要な人のところに行けないのは悔しいよ。さっさと退院させてくれよ。スタッフを守るためにもさ。
尻を撫でられたり陰洗してるときに「先っぽが気持ちいい…」とかキモいこと言ってきたりする奴もいるよ。警察に突き出したいが?上に訴えても特に何も対処してくれないのでスルーするしかないのマジでクソ。職場も患者も地獄に落ちろ。
私は1カ所しか経験ないからよく知らないけど、これってどの病院もそうなのか?だとしたら看護師なんて辞めた方がいいね。尊い仕事?白衣の天使?馬鹿馬鹿しい。死ね!!!!!
なお入院させる金はない
俺が母親を攻撃する悪の集団(妄想性の精神病を患っている)と密通しているとしてパワハラを受けている感じ。
息子だから密通(?)しても一日くらいたてば許して(?)もらってパワハラが止むけど、その頻度が3日に1回とかになってきて、なんか限界が近い気がする。この間パワハラされ許された?とき涙被害者思考が止まらんくて、これがメンタル崩壊ってやつかあと、メンタル崩壊してるのにどこかで冷静に判断してて草だった
私はとある大学の修士課程に所属していた。もうすでに過去形なのはつい先ほど修了証書を授与し、卒業したからだ。
思えば私の6年間はうぬぼれの塊であった。高校ではそこそこ勉強のできる部類であったと自分で勝手に勘違いしていたが、大学に入って同じ学科の仲間を見たとき、高校の成績なんて
そこからは課題を自分の頭で考えることをいつの間にか諦めていた。大学まではおおよそ2時間ほどかかるが、不真面目な生活態度を貫いている私には苦痛でしかなく大学における人との交流はほぼゼロとなった。
それでも家にはお金がないため留年なんてのは論外である。とりあえず卒業できる程度には単位を取るためにそこそこ頑張った。
ところで私の所属している学科は理系であり、半数以上は院へと進学する。例に漏れず私も院に進むことにした。正直就活するのも面倒だったし、本当に先のことを何も考えたくなかった。この癖はいまだに治ってない。
しかし、この研究室配属が私に、いまでも思い出すだけで無意識のうちに奥歯を嚙み締めてしまう苦い経験になる。先に言っておくがすべて私の研究に対する甘すぎる意識がその原因ではあるが......
就活することが億劫な私が入ろうって思う研究室なんてのはコアタイムもないようなゆるーいところであった。事前情報では。しかし、情報収集を怠っていた私は、実はその研究室に5年ほど前から来た新しい教授がいることを知らなかった。
言うてもなんとかなるやろと高を括った私は配属後の最初のミーティングで絶望した。
学部生時代にいかに不真面目であっても、自分なりに勉強はしてきたつもりだった。しかし、研究室の先輩たちの発表する研究内容がまるで意味が分からなかった。最初は宇宙言葉だと思った。本気で。
それは私の同期も同じだったようで、ミーティングの後、それぞれの研究テーマを決めなければならないがどれも意味不明すぎておなじに見えたため、私は、教授の説明によるとまったく新しい試みの研究らしいテーマを選択した。これが第一の失敗だった。
理系の院生、研究活動には明確な答えは存在しない問題に取り組まなければならないというのは、まあまあ知られている話だと思うが、私のテーマはその手法も手探り、教授もよくわかんないけどなんかやってみて、といった態度で私はまるでやる気が湧かなかった。自分が
なにをしているのか意味不明なまま、結局学部4年生を卒業した。
そこから修士1年生となり、テーマを変更することになった。正確には学部生時代のテーマはあまりにも先が見えないため、テーマを変えたいなーと思ってはいたが、教授と相談するのも面倒、研究もしたくない、そんなことを考えながらバイトをする日々だった。我ながら
なぜ院に進んだのか昔の自分をぶん殴ってでも止めたほうがよかった。
そんな感じで結局大学にはほぼいかず、研究もしない日々が続き、世間ではコロナが大流行し始めた。そして私も感染した。ついでに胃腸炎になって入院もした。研究室の方々には大きな迷惑をかけた。大学にはなおさら行かなくなった。この時すでに、2年生になろうといったところだった。
書くのがめんどくなったので大幅に端折るが、最終的に私は修論を挟んで教授と犬猿の仲になった......というのが周りから見た私と教授の関係性らしい。いやでもね、力関係を考えてよ、いち学生と教授が戦いになるわけないでしょ、僕はいつもぼこぼこにされてましたよ。
修論かかなきゃ→実験してないからデータがない→でもとりあえず何か書かないと卒業させてもらえない→でもそもそも書くことがないのになにを書く?→でも書かないと卒業できない→....
と思考がループして、躁鬱状態を繰り返しタバコとコーヒーを常に加えてないと不安で頭がおかしくなりそうだった。てかおかしくなってた。
修士なんか所詮2年しかないんだからさっさと教授に泣き寝入りしてなんとかしてもらったほうがいいです。自分がクズであることを自覚した私は怒られることが怖い自分に嫌気がさしていたがなんとか口を開き事情を説明した。
君はいつも報告が遅いんだよ、と小言を言われたが研究してない学生を助けてくれる教授ほど心の広い人はいない。これは皮肉ではない。
各話のタイトルページでときどき佐倉さんがお色気ポーズ(制服のまま)みたいな格好してラーメンの丼持ってるカットがあるんだよね。
で、22~23巻くらいから明らかに女の子の写真元にして顔だけ佐倉さんのアイコラみたいになってるカットがいくつかあるんだけどこの娘の足が無駄にエロいのね。
本編中でも佐倉さんの顔つきとか体つきとか無駄にエロくてすごく好きなんだけど(話的にはエロ皆無なんだよ?それが無駄にエロいの。たとえば「拉麺 草枕」の阿倍さんが入院したときにベッド脇の机に花瓶置くんだけど、そのときの腰付きがエロいのよ!話に関係ないのに!ケツ突き出してるわけでもないのに!)、この写真の娘はまた別の方向にエロいのよ!
足の短さが同じ娘のような気がするんだけど、これって全部おなじモデルなのかな?