はてなキーワード: 不可能とは
頭悪すぎだろ。
13.5%をどう判断するかだが、相対的に高くはないが看過できないというのがお前の挙げたリンク先の見解。読むこともできないのか。
一般的に、再犯を繰り返すことが多いと認められる他の犯罪として、薬物犯や窃盗犯が主に挙げられる。これらの犯罪より再犯率が高いわけではないとしても、性犯罪は、被害者の心身に回復困難な被害を生じさせるといった点において他の犯罪と性質の異なるものであり、その点において再犯率13.9%は看過できる数値ではないと考えられる。
3回以上性犯罪やってて最終が小児わいせつ型だった13人の内訳が大人か小児かを見てるだけの調査で、やってる奴見てるんだから当然だろ。
https://hakusyo1.moj.go.jp/jp/62/nfm/n62_2_6_4_4_2.html
https://hakusyo1.moj.go.jp/jp/62/nfm/images/full/h6-4-4-03.jpg
なお,性犯罪再犯(刑法犯)の再犯率が最も高いのは,小児わいせつ型であり,その再犯の内容を性犯罪者類型に当てはめてみると,9人のうち8人の再犯が小児わいせつ型に該当した。
小児わいせつ型の受刑者の再犯が刑法犯は6.6%の9人。うち8人が小児わいせつ型。
やる奴(8人)はやる。ただし、全体は136+17=153人。すなわち矯正不可能な異常な人間が5%くらいの割合でいるということ。その5%側のサンプル見てるのがお前が挙げた子ども家庭庁の例だボケ。
ざっくり大まかに分けて二種類ある。
B:暇空(水原)の親の個人情報。実家の住所や両親の名前(公には非公開)など。
Aの個人情報は奴と裁判で争っている相手(Colabo関係+20人前後?)には、秘匿申請でもしない限り基本的には相手にも通知される。
よって、現在の水原の個人情報(増田に晒されたものとは別のヤツ)は、基本的には係争相手しか知らない情報…の筈。
Bの個人情報については、弁護士であれば弁護士権限を使って登記を取得するなどして
暇空本人の個人情報から紐付ける形で調査可能らしいが、勿論範囲は限定されているので(裁判とは関係無い第三者が弁護士を使って調査する事は不可能)
尚、当然ながらA・B共に不特定多数への公開は個人情報保護方により禁止されている類の情報である事は念の為留意しておく。
A・Bの個人情報はを知っている人間は限られている…筈なのだが、何故かA及びBの個人情報が度々Xや5chに晒されているのが本当に不思議。
また、A・Bの情報をご存知であるという態度の人間もXには少なくない。
少なくともAの個人情報は、裁判での係争相手である堀口英利さんなどを通じて、暇空アンチ活動集団(通称カルピス軍団)に周知されている事は
リークにより判明しているのだが、まだAの個人情報を争っている当事者が晒すのであれば(道義的にはともかく)動機としては理解が可能である。
例えば堀口英利さん(の秘書を名乗る人物)が5chのアンチスレで情報を知っているアピールをして脚光を浴びていたが、その行為で裁判が不利になろうがそれはそれで自己責任の範疇である。
しかしながら、よりプライベートなBの個人情報まで何故か所謂アンチ集団にも周知されているらしく、この事実が本当に恐ろしい。
張本人があまり被害者アピールしないから分かりづらいんだろうけど、住所知ってる上に良くない感情を持っている人間が不特定多数いるという事実は、一般人からしたら非常に恐ろしいよ。
自分だったら夜も寝られないと思う。新橋九段さんの◯した方が早いという発言にも説得力が出てきちゃって裁判不利になっちゃうよ。
Bの情報まで一体どこの誰から漏れたのか…まさか裁判で争っている相手…例えば裁判で関わっている弁護士や当事者本人から流出したのか…
とても考えにくい事だが、何故かリベラル系の人物・団体と争うとこの様な事態が発生してしまうのが、本当に不思議で恐ろしい話である。
それは嘘だった:ゴールデングローブ賞受賞映画に出演したと主張したコロンビア人は拒否された
ジェラルディン・フェルナンデスは、制作中に 25,000 フレームを描いたと主張しました。しかし、エル・ニーニョ・イ・ラ・ガルサのクレジットには彼の名前は載っていない。
ジェラルディン・フェルナンデスというバランキージャ出身の女性が、最優秀アニメ映画賞を受賞した作品『エル・ニーニョ・イ・ラ・ガルサ』のイラストチームの一員だったと主張したため、コロンビアは数日間ゴールデングローブ賞受賞を祝った。
これはソーシャルネットワーク上で喜びを呼び起こし、これに加えて、いくつかのメディアがフェルナンデス氏の証言を求め、フェルナンデス氏は映画に登場する25,000フレーム(視聴覚映像の合計時間の約30分に相当)を描いたと主張した。
同様に、ジェラルディン・フェルナンデスさんも自身のソーシャルネットワークにビデオを公開し、その中で、これらの絵を描くためにリモートで作業し、その過程で映画監督の宮崎駿に会ったことを主張し続けた。この業界では史上最高の製品です。
「30歳になった自分が、まさかスタジオジブリで制作を担当することになり、最新作だけでなく宮崎駿監督の引退作にも出演することになるとは思ってもみませんでした。信じられないです。 」とフェルナンデスはビデオで述べた。
これらの発言を踏まえ、一部のイラストレーターはフェルナンデスさんの証言の矛盾を強調した。彼女は2万5000フレーム撮影したと主張しており、一部の人にとっては不可能なことだったが、バランキージャの女性は遠隔で撮影したと主張しているという事実に拍車をかけた。
コロンビア人の彼女は映画のクレジットに登場しておらず、IMDBやアニメスタッフデータベースの専門サイトにも彼女の名前が掲載されていなかったため、数人の国際的なイラストレーターはこれが詐欺であると断言し、メキシコ人のジュリエッタ・コラスは最も憤慨した人物の一人であった。これ 。
コラスはフェルナンデスに、このような重要な作品に参加することを夢見ているラテン系イラストレーター全員に害を及ぼすものであると主張し、自分のバージョンを修正するよう求めた。その上、
「この女性は、エルニーニョ・イ・ラ・ガルサに取り組んでいたと語っています。彼女はコロンビアで自ら映画の2万5000コマを描き、宮崎監督も彼女の名前を知っていたと語った。彼女はいつも自分のことをイラストレーターだと呼んでいます。彼は絵を一枚も見せません。ボールは嘘をつくべきだ」とメキシコ人選手はジェラルディン・フェルナンデスの出版物に反応した。
これに加えて、フェルナンデスのポートフォリオにいくつかの盗作があることを強調した他のイラストレーターからの批判もあり、それが彼女を悪人であり、この職業の信用を傷つけていると非難した理由です。
彼らはソーシャルネットワーク上で、バランキージャの女性に対し、彼女に対する申し立てに対する返答を求めた。しかし、ジェラルディン・フェルナンデスさんは声を上げていないが、彼女が嘘をついていると非難した一部の人々は、コロンビア人選手が彼らをブロックしたと述べている。
「繰り返しますが、彼女はこの映画の 25,000 フレームを個人的に「イラスト化」したと(彼女の言葉で)言いました。それは 35 分です。コロンビアで海賊プランナーをしている女性は、フリーランスのリモート仕事として、ジブリ映画の 35 分間のアニメーションを制作したと主張しています。ちなみに彼女は私をブロックしました」とジュリエッタ・コラスさんはXアカウント(旧Twitter)に書いた。
フェルナンデスの沈黙により、ソーシャルネットワーク上では、バランキージャの女性は間違っており、他の場所で働いていたと主張するさまざまなミームが作られ、状況をからかうために過去の宮崎作品を利用した。
コロンビアではフェルナンデスの発言を信頼し、彼女が日本のスタジオの制作に参加したことを祝福する人もいたが、『エルニーニョ・イ・ラ・ガルサ』はアカデミー賞の最優秀アニメーション映画賞の最有力候補としての地位を確立し続けており、この賞を受賞するのは3 月 24 日に 開催。
法哲学の議論を参照して「愛らしいから」=「他とは区別される特定の属性を持っているから寄付する」という考えが正義にもとることは肯定しつつ,寄付するべきではないという考えを批判してみる.
まず,正義は「等しきものを等しく扱う」ことが本質だとしばしば定義される.
かわいそうなポメラニアンと,かわいそうな黒い大型犬はどちらも「かわいそうな犬」という属性で等しく,両者に対して異なる扱いをすることは正義にもとる行為にあたる.
他方,慈悲,あるいは愛は,「等しきものを等しく扱わない」.
個体の属性ではなく,今まさに存在する「この個体」を救うことに関心があるからだ.
「かわいそうな犬」だからではなく,「この」かわいそうなポメラニアンだからこそ人は憐憫を垂れる.
法哲学者の井上達夫の言葉を借りれば,「愛の本質である個体性への関心と配慮が正義の普遍主義的要請と対立する」(井上達夫. (1986). 共生の作法: 会話としての正義. 創文社. 117.).←たしか近年新版がでている.
では我々は,正義にもとるということを理由に,特定の属性を持つ人々のために自発的に寄附を行うべきではないのだろうか.
何が「等しい」のかを民主的手続きに基づいて決定し,一応の正義を認めることができる主体である民主主義国家による再分配に我々の持つ金銭というリソースは委ねられるべきなのだろうか.
そうではない.
なぜならば,民主主義国家によって達成される正義は手続的正義にすぎないからである.
「正しい手続きを踏んだから,かわいそうなポメラニアンを救済することにし,黒い大型犬は放置することにした」.
これは本当に正義だろうか.
何が正義なのか,何が「等しい」のか,やはりその実体に踏み込んで考える必要がある.
この実質的正義と寄附を考える上で注目すべきが,この十年で存在感を増している「効果的利他主義」である.
昨今のオープンAIのアルトマン解任騒動で目にしたことがある諸兄もいるかもしれない.
効果的利他主義とは,簡単に言ってしまえば「社会全体にとって最も費用対効果の高い良いことをすべき」という考え方である.
ここでの費用には,金銭だけではなく,自分の時間・労働も入る.
かわいそうだから,というある種偶然に基づいて他者のためのリソース投下をするのではなく,コスパという等しい基準を置いてあらゆる利他的活動を比較評価し,最もコスパが良いものに投資する.
この比較には,「リソース投下に対する社会的インパクトを定量化できる」のが大前提になっている.
社会科学の素養がある人間ならばすぐに気がつくように,あらゆるものを同じ基準で定量化することは不可能である.
例えば,生命という多くの人が合意するであろう基準に関しても,単に生きていれば良いのか,健康寿命なのか,QOLによって測り方が変わる.
定量化の前提は,効果的利他主義の限界の一つとして指摘できるだろう.
効果的利他主義において,個体性への関心はどのように扱われているだろうか.
便益を最大化することにこだわることは,特定の目標との個人的な結びつきを否定することになる.例えば,「家族ががんでなくなったからがんの撲滅に情熱を注ぐ」という行動は否定されるべきなのかという批判に対しては,次のように反論している.
たまたまの理由だけで一部の人々のニーズを優先していることになり,もっと効果的に手を差し伸べられる人々に対して不公平である,と.(ウィリアム, M.. (千葉敏生訳). (2018). 「効果的な利他主義」宣言! : 慈善活動への科学的アプローチ. みすず書房. 42-43.)
そろそろ疲れてきてしまったのでまとめよう.
特定の属性を持つという偶然を理由として寄附をすることは正義にもとる一方で,民主主義国家を通した再配分には手続き的正義に留まるという限界がある.
実質的正義を追求するには,効果的利他主義のような一定の基準を持った上で,最終的には自分なりの正義を追求して寄附を行うべきなんじゃないだろうか.
なお,筆者自身は効果的利他主義者ではなく,単におもしろい考えの一つとして注目しているに過ぎないという点を申し添えておく.
あてがわれることを人権侵害だから不可能と言うのであれば、性的格差補正税みたいな税金で女から金銭的に税を取り弱者男性に分配すべきである
それも不可能と言うなら税金を取ることがそもそも人権侵害だからやめるべき
真っ当な主張しかしてない
自己所有の電動キックボードを特定小型原付のナンバープレートも付けて乗っている。
なるべく法規走行を心がけているが、遵法するには何かと辛いので実情を書き残しておく。
いわゆる6km/hしか出せない状態(特例特定小型原付)になれば歩道を走れる!が売りなんだけど、走れるのは「自転車通行可」の歩道だけなんだよね。みんな知ってた? 近所で「自転車通行可」の歩道ってどれくらいあるか意識したことある?
正解を言うと、「自転車通行可」になってるのは広くて自転車用と歩行者用で線が引かれてるような歩道だけ。まずそんな歩道が少ない上に、自転車に混ざって車道寄りを走る必要がある。そこで6km/hってクソ遅くて使いものにならないよ。早歩きより遅いよ。なんなら押し歩きしたほうが早い。
そんなわけで6km/hモードは実運用上全く意味がないので、法律上走れるのは車道だけにしたほうがよかったんじゃないかと思ってる。この「歩道を走れる」が誤解を呼んでLUUPとかが暴走してるんじゃねぇの。走れる歩道ねぇよ。
これは自転車もなんだけど、通行帯に書いてある右左折直進の指示には「従ってはいけない」ことになっている。そして、基本的に一番左の通行帯を走らなければならない。この結果生じるのが、「左折専用車線を直進して渡る」だね。
理屈はわかるけどまぁ危ないし、多分周りの自動車はそういうルールだってこと知らないよね。法規走行してるのにめっちゃ煽られる。そして左折専用の信号があるともっとややこしいね。俺たちはどこで信号待ちすれば生きて帰れるの?交差点で左折専用通行帯と直進通行帯の間に分離帯があったらどうするの?分離帯じゃなくてゼブラゾーンだったらどっちなの?俺はいまだに正解を知らない。
これ、「左折専用には従わなければならない」ってして、一つ右の車線にいたほうが安全じゃないのかなぁ? 自転車乗りの先輩方はどう思ってんだろ。
これも自転車と共有かな。路駐多すぎてマジひどいね。車の人たちは一番左の車線は路駐専用だと思ってるフシがあるね。俺等はその車線を通らなきゃいけないんですよね。追い抜くにも速度出ないから危ないね。水色の自転車専用通行帯なんてまるっと収まって駐車されてることがしばしばでキレそう。
まぁトラックとか商用車は現状しょうがねぇかなって気がしますね。せっかちな国民性と、駐車場を整備しないし駐車場代も出さないのが悪い。コンビニ前の高級車の路駐はお前なんなの?
パーキングメーターがちゃんとあるところもしょうがないよな。あれはそういう制度なので。パーキングメーターもっと作りまくったほうがいいよ。
でも交差点前後で停まってるタクシーは路駐とか以前にシンプルに停車禁止で違反だろ。取り締まれよ。信号の先でタクシーが停まってると、信号明けで発進する車の様子見ながら抜かなきゃいけなくなるからあれが一番やっかい。なんで見逃されてんの?
二人乗りするアホ、逆走するアホ、歩道を爆走するアホ、6km/hモードにしてなくてもゆっくり走れば歩道走れると思ってるアホ、そもそも自転車通行可じゃないのに走ってるアホ。こんなのただの犯罪者量産サービスだろ。法規走行できないのに貸すな。っていうかこんな連中のために法規走行してる俺まで規制強化されるのはかなわんね。LUUPは潰すべき。
どうでもいいけどLUUPの原付ナンバープレートが必ず曲がってるのは何故なのか、誰か調べてほしい。
自転車も負けず劣らずアホだらけ。逆走するアホ、歩道を走るアホ。珍しく車道を走ってると思っても、後方確認しないわ、信号無視して渡っていくわ、なぜか横断歩道を通っていくわ、予測不可能なことをしすぎ。停止線でちゃんと止まる自転車見たことねえわ。
自転車にしてもLUUPにしても、免許制度を設けたほうがいいとすら思っている。違反とか以前に交通法規知らない人が公道走ってるのは危なすぎるよ。
違法モペットやら違法電アシはもう話にならんわ。はよ取り締まってくれ。
よかったことも書いておくよ。
特定小型原付の法規走行は、車道では基本的に自転車と同じ動きをするんだよ。「自転車通行可」に従うのとかもそうだね。ここ数年の自転車用の道路整備の恩恵を受けられているのでとても助かっている。自転車通行マークがない道なんて想像したくもない。東京はあれのおかげで車道の逆走はあんまりないんじゃないかな。二段階右折や直進もマークされててわかりやすいね。
20km/hの一定速っていうのは結構余裕があって、普通の車が40km/hとか60km/hだとするとその2分の1、3分の1のスピードで移動しているわけで、その分状況判断をゆっくりできるので危険予知がとても楽ちん。あと、車の流れに乗れるわけないのでせかせかすることもない。流れに乗らなきゃで速度超過してるのアホかと思う。自家用車も速度キャップ制にしたほうがいいんじゃない?
https://anond.hatelabo.jp/20231127194936 の続き
150時間が経過した。LVは110を超え、なんか適当に剣ブンブン振り回してても割とどうにかなる感じになってきた
武器は初期武器の短刀で戦っていたのがフレイルや弓を兼用するようになり、あと何種類か振り回してみて、
隙がない軽量武器より隙が大きい大型武器のほうが相手をピヨらせられる分だけ有利だったり、
盾でガードするより両手持ちでスピード処理するほうがバフの効果時間とか含め有利だったり、
そうなったらそうなったで、
なんか初期選択でめんどくさいほうからスタートしちゃったのかな感がすごい
モンハンの協力プレイって面白そうだなーと思ってモンハン買ったあと一人で練習して
100時間ぐらいずっと双剣を使った後に「双剣は協力プレイだと嫌われるよ」と言われたときぐらいの遠回り感がある
というかルーンなくしてもなんとも思わなくなってきた
これは戦闘での敗死より落下死によるところが大きい
というのもエルデンリング開始して10時間か20時間ぐらい経過したあたりでアナログスティックがドリフト状態となり、
ドリフト、噂には聞いてたがここで食らうかーと思いつつ、その後100時間以上ずっとドリフトしっぱなしで遊んでいるためで
敗死して祝福(セーブポイント)から復活した直後にコントローラー操作し忘れて落下死亡はしょっちゅうである(崖のすぐ近くにある祝福は多い)
このドリフト、ずっと状態が同じなら癖を覚えるなり買い換えるなりもするのだが、
症状は酷くなったり収まったりを繰り返し全く慣れない
ホーム画面からドリフトしまくってゲーム開始すら不可能な時もあれば一切動かず平穏を保つ時もあり、
ゲーム内だと、その場でちょっと左を向く程度で止まるときもあれば、
前進しようとしてもガクガクと震えて全く直進できずダッシュが必要な場面で歩かされて轢死するときもある
先週は狭い足場を辿って降りてく王城の地下で2時間ぐらいドリフト足場踏み外し落下死を繰り返していた
とまあ、そのぐらい死に続けているとルーンはほぼ頭から抜け落ちていくし、
ルーンを気にしなくなると死ぬペナルティがなくなるということで、死ぬことも気にならなくなる
ドリフトも途中は流石にコントローラー買い換えようかなと思っていたのが、しばらくすると
「むしろ150時間を経過してそろそろ飽きがきそうなゲームプレイにランダム性を加味することで飽きが来なくなってるのではないか」と思えてくる
このあたり、死を歪めて生と死の境目が曖昧になり、死が溢れかえっているエルデンリングの世界観にプレイを通して近づき、
そして死を超えて生への脈動を感じはじめていると言えそうで、
アナログドリフトというコントローラーの物理性を通してゲーム世界を体感しているのだなと
そんな感じでダラダラ遊んでる