はてなキーワード: 創発とは
日本の大学、特に文系の学問に対する風当たりが厳しい昨今、文系の学者達は自分たちの存在意義を示そうと必死だ。大学で行われている文系の研究は、どう役に立つかはともかく、それ自体研究としてちゃんとしたものなんだ!ということは前提となっているし、みんなそう信じている。文系の先生達は決してSTAP細胞のようなデタラメをやっているのではないと。
だが、それは本当か? 証拠はあるのか? 最先端の研究は専門家でさえ評価が難しい。たとえばアインシュタイン。一般・特殊相対性理論を作ったけど、時代の先を行き過ぎていて正当な評価がされなかったそうで、ノーベル賞は他の業績に対して与えられた。文系の研究も基本的には同じで、研究の良し悪しを判断できる人は極少数だ。だから、知らないうちにトンデモない研究がはびこっていて、それに社会的評価が伴っていても、ほとんどの人にはわからない。専門家が厳正に評価してくれていることを信じるしかない。
本題に入ろう。最近、1つの書評論文が東大の言語学研究室発行の紀要に出た。
田中太一「日本語は「主体的」な言語か―『認知言語類型論原理』について―」『東京大学言語学論集』 41 (2019.9) 295-313
https://www.amazon.co.jp/dp/4814001177/ref=cm_sw_r_tw_dp_U_x_6P9YDbPVN9WJ2
著者は、関西外国語大学 短期大学部 英米語学科 准教授の中野研一郎先生。
普通、書評というのは基本的にほめるものだ。批判はあっても最後にちょっとだけ。しかし、この書評は、冷静な筆致でありながら、酷評も酷評、ボロクソ、クソミソ、ケチョンケチョンのフルボッコだ。一個もほめてない。批判が当たっているなら、トンデモ本に違いない。
一番ヤバいのは、この本が博士論文を元にしたものということ! 一応説明しておくと、博士論文とは、最高の学位である「博士」の学位を取るために大学院生が何年もかけて書く長大な論文で、大雑把に言って本1冊以上の分量がある。もちろん、何でもいいからテキトーに書けばいいわけではない(はずだ)。自分のオリジナルで、学術的に価値のあること、つまり、これまで誰も知らなかった知見を新たにもたらして人間の知識を拡大するような研究の成果でなければいけない。どの分野でもそうだ。
そして博士論文の原稿は、3~5人の審査委員が審査する。審査委員は全員、その分野に詳しい大学の教員だ。審査は3回くらいある。まずは博士論文の大枠ができた後、本格的な執筆にゴーサインを出すかを決める一次審査、そして論文が大体書けた後、論文を大学に提出していいかを審査する二次審査、最後に論文が完成し、大学に提出された後、博士の学位を与えるか否かを決める最終審査がある。それぞれ少なくとも1時間はかかる本格的なものだ。ディフェンスと言われる最終審査の口頭試問は、公開で行われる。最後に別室で結果を審議した審査委員が会場に戻ってきて厳かに合格が伝えられると、みんな拍手で心から祝福する。
ミサト:おめでとう!
アスカ:おめでとう!
レイ:おめでとう。
研究者人生のフィナーレではないが、1つのピークである。こうやって研究者の能力にお墨付きを与えるのが大学の存在意義の大きな一部分だ。
要するに、博士号を取るのはとても大変なのだ。日本だと博士号を持っている人は1万人に1人くらいしかいないらしい。日本の大学は入るのは難しいのに出るのは簡単だとよく言われるけど、大学院の博士課程はそうではない。入るのも修士課程ほど楽ではないし、文系では入っても博士号を取れない人の方が多いくらいだ。これだけ大変だから博士号はアカデミアでは評価される。大学教員になるなら、博士じゃないとエントリーすることさえほぼほぼ不可能。『認知言語類型論』の中野先生は、フェイスブックを見たところ、以前は高校の先生だったみたいだけど、博士号をとってから、50歳を過ぎて関西外国語大学の准教授になったようだ。周知の通り、大学の終身雇用教員の座をめぐる争いは非常に激しい。博士号がなかったら就職できなかっただろう。
博士号はどこの大学でとっても価値は同じ、みたいなことを何度か読んだことがあるけど、あれはデマ。真に受けてはいけない。いい大学の博士号ほど高く評価される(Why not?)。中野先生がお持ちの京都大学の博士号は、京大が超一流なのと同様、超一流の博士号だ。50歳を過ぎて大学に就職できたのも不思議ではない。しかも、中野先生の師匠は、日本言語学界の大物中の大物、山梨正明先生だ。『認知言語類型論原理』に山梨先生が解題を寄せているから間違いない。この大先生は、「日本を代表する理論言語学者の一人」([wikipedia:山梨正明])。中野先生が在学していた頃には、日本語用論学会(2008〜2011)や、日本認知言語学会(2009〜2012)の会長を同時に務めもした大物中の大物だ。ちなみに、山梨大先生は2014年度に京大を定年退官して、2015年度からは中野先生より一足早く関西外国語大学で教鞭をとっている。ちょっとややこしい話だが、博士論文の審査が終わる前に京大を定年退官したようで、審査の主査ではないが、審査委員には名を連ねている。https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/handle/2433/199376 博士論文を書くのに何年もかかるから、こういうことはよくある。
さて、超大物お墨付きの博士論文(を元にした本)はどんなもんなんだろうか。書評から拾っていこう。2節は専門的な議論でよくわからないからパス。3節「日本語に存在しないとされるもの」から見ていこう。まず、1節に同書のまとめらしき部分からの引用がある。
「日本語(やまとことば)」を深層とする日本語において、「形容詞 (adjective)」・「主語 (subject)/目的語 (object)」・「態(voice)」・「時制 (tense)」・「格 (case)」・「他動詞 (transitive verb)/自動詞 (intransitive verb)」といった、従来ア・プリオリに前提とされていた統語・文法カテゴリが妥当していないことも論証した。さらに、「膠着」言語の一つである「日本語」においては、その語・語句・節の生成メカニズムは、「音」自体に「意味」を見出す「音象徴 (sound symbolism)」を基盤にしていることを論じた。
(『認知言語類型論原理』[以下、中野 2017] p. 308、書評論文[以下、田中 2019]p. 295から禁断の孫引き。以下、同書の引用は全て孫引き)
昔、『日本語に主語はいらない 百年の誤謬を正す』[amazon:日本語に主語はいらない]という本が出て、言語学者に酷評されたことがある。金谷武洋『日本語に主語はいらない』批判記事一覧 - 誰がログ https://dlit.hatenadiary.com/entry/20071216/1197757579
主語がいらないと言っただけでそうなったのに、『認知言語類型論原理』は、ミニマリストの断捨離なんてもんじゃない。主語だけじゃなく、形容詞、態、時制、格、自動詞/他動詞も、いらない、何も、捨ててしまおう~♪と謳っているらしい。全部なしで日本語の文法はどうなっているのかというと、「その語・語句・節の生成メカニズムは、「音」自体に「意味」を見出す「音象徴 (sound symbolism)」を基盤にしている」ということらしい。
これは熊倉千之氏の「音象徴」理論に基づいているそうで、熊倉氏は、
膠着語にかんして、「イメージとイメージを膠でつけるように、ことばができているのです。ですから、具体的なモノとモノをつなげると、言語(コト) としての「抽象」 性が生まれ、新しいことばが作られるのです (熊倉 2011: 18)と述べた上で、日本語の音素はそれぞれ何らかのイメージを持つという観察を根拠に、やまとことばの「音声と意味」には、ソシュールの説に反して、「恣意的」ではなく、密接な繋がりが感じられる」 (熊倉 2011: 30) と主張している。
とのこと。
近代言語学の父、ソシュールの一番有名な恣意性の原理を否定しているが、それ自体はない話ではない。音象徴が当てはまる例として、ポケモンとか怪獣の名前は、音と意味の関係が全く恣意的なわけではない、みたいなことが最近よく言われている。ただ音象徴は基本的にオノマトペ(擬音語・擬態語)や新たに名前を付けるものについての話、しかもあくまで傾向性。言語全体の「語・語句・節の生成メカニズム」になるようなものとして扱われてはいない。しかし、中野説はそういった主流の音象徴研究とは一線を画する。具体的に見てみると、
「あ/a/」は「空間出来の語基」 として、「い/i/・居」 は「様態化の語基」 として、「う /u/・続」 は「プロセス化の語基」 として、 「音象徴」 により語彙を創発させる機能を担っているのである(中野 2017: 247) 。
知らなかったー、日本語ってすごいですね(棒)。たとえば、「合う・会う」は、「あ/a/」+「う /u/」だから、「(出来)動詞」だそうだ。書評子が、
「「出来」が「プロセス化」すると「合う・会う」になるという説明は到底理解できるものではない」(田中 2019: 309)
と言う通りだ。「あい」(愛とか藍)はどうなるんだろう。中野先生によると、音象徴は
「日本語(やまとことば)」の同音異義の語の数の多さと、またオノマトペの豊穣さの、母体にもなっている」 (中野 2017:232)
この主張は、本書の議論を決定的に破綻させるものである。もし「音=意味」という恣意的でない結びつきが存在するならば、同じ音を(同じ順序で)組み合わせれば同じ意味になるはずである。同音異義語の存在が極少数に限られるならともかく、その数が多いのであれば、日本語の全体を「音象徴」に基づいて分析することが不可能であることは自明である。(田中 2019: 310)
確かに。他にも、中野先生は「確かに」・「達する」・「頼みます」・「たった、これだけですか」・「立つ」・「経つ」・「絶つ」・「裁つ」などを例に、
「日本語(やまとことば)」では、音部分が同根であれば、「音象徴」に基づき、その意味・機能も通底している 。 [中略] 「た/ta/」音を語頭とする語は「心的確定(確信)」を基に語彙が生成していることが理解できる。「日本語 やまとことば」の「た/ta/」音は、「音象徴」において「確信」を「意味」とする「音」なのである。 (中野 2017: 255)
と言っているそうだが、「立つ」とか中野先生自身の例でさえ、どこが確信と関係があるのかわからない例もある。この説が無理なのはよく考えてみるまでもない。
そもそも、「音象徴」なんて流行りのタームを中野先生や熊倉氏は使っているが、こういう説は「音義説」[wikipedia:音義説]と言うのがより正確だ。近代以前に唱える人がたまにいたけど、今ではググるとわかる通り素人が唱えているだけのものだ。ちなみに、このような形で同書に大きな影響を与えた熊倉千之氏とは、
1980年「『源氏物語』の語りの時間」でカリフォルニア大学バークレー校にてPh.D.取得。ミシガン大学、サンフランシスコ州立大学などで日本語・日本文学を教える。1988年に帰国後、東京家政学院大学教授、1999年金城学院大学教授。2007年退職。
という人。ウィキペディアでは一応「日本文学者・日本語学者」となってはいるけど、専門はどう見ても文学。言語について言語学界とは関係なく自由に思索・著述をしている人のようだ。そういう独自の言語論を唱える文学や思想の研究者はよくいるけど、普通の言語学者はそういうのはまともに相手にしない。『認知言語類型論原理』もその類の本だったなら、東大で言語学を学ぶ書評子も取り合わなかっただろう。でも、これは京大の言語科学講座で博士号をとるために書かれた論文(が元になった本)なのだ。
他にも同書には、業界震撼の主張が満載みたいだ。是非同書を買って私の代わりに確認してみてほしい。
ちなみに、なんで日本語が英語などと違ってこうなってるかと言うと、中野先生によると、日本語は歴史的に文字を持たなかったからだそうだ。とはいえ、英語だってそうだし、文字で残っている歴史の長さも日本語と同じくらいなんだけど。っていうか、どの言語も昔々は文字がなかっただろ!
ということで、書評の内容は変な言いがかりではないようだ。そもそもこんな空前絶後の激辛書評論文を大学院生が書くこと自体大きなリスクを伴う。(書評子、いろいろ大丈夫か?)無理なイチャモンをつけるためにそんな危険を冒すわけがないし、出版前に東大で止められるだろう。ま、『認知言語類型論原理』は、博士論文の審査から本の出版にいたるまで、誰にも止められなかったみたいだけど!
もう終わりにしよう。書評の批判が当たっているなら、こういうことだ。超大物教員の指導の元、こんな博士論文が書かれ、専門家達が「厳正な」審査をし、超一流の博士号が授与され、それをテコに大学で職を得た人がいる。これがわかったのは、本が出版されたおかげだ。ちなみにこの本、名もない出版社からではなく、京都大学出版会が出している。もちろん、本の出版は著者が勝手にできることではない。本の最後に超大物元指導教員が「解題」を寄せているから、知らなかったはずはない。解題を見てみたところ、基本的にほめていて、特に批判らしい批判はなかった。実はその解題、公開されている博士論文の審査結果の要旨とほとんど同じ。
https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/199376/1/ynink00705.pdf
本論文は、個別言語における認知メカニズムの解明によって言語固有の形式・文法カテゴリが創発する根源的理由の説明を試みた意欲的研究であり、認知言語類型論という新た
そうそう。そういうこと。君はそう思わないんだね、了解した。で、それは間違っていると思うよ、と最初から申し上げているつもり。
強化学習で言えば、環境から返ってきたフィードバックを報酬として自己のモデルを修正する、ということを繰り返せば、解はある範囲に収束する。
環境は複雑だけど、この程度なら人間の認知力で十分対応できる問題。
じゃあなぜ解釈が乖離するのか。それは現代の若者が学習を怠っているから、という認識。
以上、分かり合えないとは思うけど、しつこくガミガミいってごめんね。
経験的にはウニャウニャよくわからんこと言ってる会社は受託やコンサルだと思うんだけど
今まで一番分からなかったのはSpeee(だっけ?)
さっきVISITSって会社をWantedlyで見かけたんだけど
組み込まれる日も近くなっています。同時に、AIは私たちの仕事の多くを自動化し、
人間はより付加価値の高い「創造的な仕事」に時間を使う事になります。
ところが、そのようなAI共存時代に最も重要な「創造性」を定量化する手法は、
私たちは、ideagramという独自の合意形成アルゴリズム(特許取得済)を開発し、
世界で初めて成功しました。この技術を活用すれば、「創造性」だけでなく、
「センス」や「スキル」、「人脈」といった本来価値があるはずにも関わらず
ブロックチェーン技術と組み合わせ、価値移転が可能になります。
現在アナログに集積されている世の中の資産をデジタル化、分散化し、
価値移転可能にすることで、私たちは「社会価値創造の最大化」のための
新たな資産の組み合わせ最適化問題を解き明かすことが可能になり、
同時に、私たちはこれまで不可能だと思われていた「イノベーション創発」という領域を
>弊社のコンサルタントが、導入から運用まで丁寧にサポートいたします。
>Wikipediaが、オンライン上に過去の事実をまとめた「『知識』の共有プラットフォーム」を構築したのに対し、私たちは未来の創造的アイデアを提示する「『知恵』の共有プラットフォーム」を構築します。
>具体的には、DODA内に蓄積された求人、求職者のビッグデータを弊社が解析し、求職者のキャリアの将来可能性を多次元空間でマッピング、人材紹介エージェントの業務の多くをAIで自動化する取組を進めています。
>現在は、その中でもコアになる合意形成アルゴリズムの研究を中心に行っており、今後はこのような世界観を共有できる企業との協業、共同開発も積極的に推進し、世界中のUXのアップデートを共創により実現していきます。
若干わかってきた
AI系目指してる人は、まずその会社が何やってるか読み解くスキルも必要になるのかね
それこそAIで読み取ってくれw
貧乏学生や派遣労働者への負担が大きいから経済的に消費が加速しない原因をまず少しでも取り除くべきではないか
という観点で年金は終わらせるべきではないかという発想をした。
もちろん自分個人の問題として実際にどうやって年金をもらえないで老後生きていくつもりだという話になるんだけど、
今現在年金を受給して生きている人たちには年金という信仰を元に生きているといっても言い過ぎではないと思う。
団塊の世代の中には今も金さん銀さんを目指さんとしている人たちがたくさんいるはずだ。
彼ら彼女らは死ぬまで長生きすることが自分の人生の幸福、終わること、死ぬことに対する幸福だという疑いを微塵も思っていない。
それが起き上がることもままならず、糞尿の始末を人の世話でしてもらい、ようやく気付く。
ああ、これは、楽しくないんだな、と。
誰もがそう思い、そう感じても、口にはできない。
俺は2人の祖母を間近で観察して死ぬときの青ざめた体を見て、表情をみて、話を聞いてみた1つの実体験を元にした結論が、
人間は長生きよりもいかにして幸福に死を選べるのかを考えるのが、
今の年金制度廃止への反発感情は、長生きが全ての幸福であるという洗脳教育が創発させている思想だと断言する。
なぜなら今の国民感情、価値観がそういう風に教育された結果だからだ。
長生きをすることがよい。
生涯現役を目指すのがよい。
そう社会が扇動してきて、だからこそ年金制度は良いという肯定がされ続けた結果、
しかし老人の苦労と今を生きる若者が受けなければいけない苦労と苦悩は決して等価ではないと私は思う。
若者はこの先この国を支える柱となり支え続けなければいけない骨子そのものであり、
これから死にゆく老人たちには決してそれはなしえない偉業である。
支え続けてきた先人、骨子となった老人たちには申し訳ないが、私は見捨てるべきである。
使えなくなった者は捨てるべきである。
国家とは存続すべきものであり、生活を保障するものでもなければ、守るべきものでもない。
若者の幸福を老人の幸福より重要であるということも同時に正とする。
私は死ぬべきであり、
それを選択できるべきでもある。
死ぬことにただただ、不安を産み付け危機感を煽る行為を続けるだけで、
事実現実として目の前に迫る恐怖、死への理解と享受と姿勢を学ばせる機会を老人から一切奪っている。
保護する、補償するという甘い言葉で実質は利権を太らせ続けているだけである。
完全に運営がはてブをコミュニケーションツールにする方向に舵を切ったな。
元々ソーシャルブックマークっていうのは有用なページをレコメンドするためのものだったように思う。コメント機能はついでで、そこで議論するとか本来はあり得なかった。
これから多分、一つのページに複数回ブクマができるようになるぜ。
【追記】
俺10年くらい前にあったソーシャルブックマーク研究会ってやつに参加したことがあってさ。
うろ覚えだけどその時に聞いた発表で、
・ブクマ数を集めているページには、短期間でブクマを集めその後はブクマがつかないページと、長期間かけてブクマを集めるページがある
っていうのがあった。有用かどうかなんてどう定量的に測ったんだなんて突っ込まれてもいたけど、なるほどなぁと。
また、当時は増え続けるWebページに対してユーザが自発的にタグをつけることで、Googleなどのアルゴリズムとはまた違う検索アルゴリズムが作れるんじゃないかとも期待されていたように思う。
10年前のソーシャルブックマークには、様々な方向性があった。単純に、自分のブックマークをオンラインにすることでどこからでも利用できるようにするだけという方向性もあったし、他者とブックマークを共有することで似た傾向を持つユーザを集めたりタグづけで似た傾向を持つページを集めたりして真に有用なページをレコメンドしようという方向性もあったし、様々なWebページにコメントをつけることで創発的な知性を生み出すことができないか、なんて話もあった。
しかしはてブは、トップに表示されるのは短期間でブクマを集めその後はブクマがつかないページばかりになったし、タグもそんなに重視していないことがわかる。
いや、どっちもそうなるのはわかるよ。長期間かけてブクマを集めるページばかりを優先するとトップページが代わり映えしないものになるし、タグだって個々人が勝手につけたものばかりだからここに意味づけを見出して検索に活用するなんて到底不可能だって話だし。
そして今のはてブは10年前の方向性のどれとも違う、Webページを出しにしたユーザ同士のコミュニケーションを活発化するような方向に進んでいるように思える。
個人的にはそれを残念だと思う気持ちがあるけれど、しかしながら注目されていることが数字でわかることが嬉しかったりもする気持ちもわかるので、この方向で突き進むのもアリだと思っている。
AmazonもgoogleもSNSもとても便利で、もう10年20年前の暮らしには戻れない。
でもこの数年間、ていうか振り返ると10年以上になるかと思うが、
国内のインターネットには落胆しかない。マネタイズと言い始めたころから広告屋が跋扈するようになり、
郵便箱を見ても大事な人からの恋文や手紙は来ず、請求書かどうでもいい広告で溢れてる。
電子メールのフォルダも大事な人からの恋文や手紙は来ず、請求書かスパムで溢れてる。
「LINE乗っとられた~再登録よろしくです!」っていうメールが1日に20通も来る。もちろんyahoo.co.jpを拒否すれば減るのだがとても面倒だ。
キラキラした可能性、集合知、創発、そんなものは全部広告に埋もれた。
「日本のインターネット企業」の大手がやっていることはカードガチャとか絵師使い捨てのエロゲとかパクリ記事で集客とか。
夢もモラルも希望もわくわくもないことばっかりで、そんなところが有名優良企業でござい、とか。
回線利用料とハードディスク価格が下がった結果キュレーションとか名ばかりの大量のゴミ広告集積サイトとか。
はてなは数少ない希望だったんだよね。でもホッテントリも組織的な広告に埋もれるようになったよね。
この現状には虚無感しかない。
重要なのは条件分岐が使われてるかどうかではなくて、創発性があるかどうかです(もし創発という言葉をご存知なければ調べてみて下さい)。
あの「感情エンジン」こそ、ただの水蒸気にマイナスイオンって名前付けて売るようなもんだと思うんですよね。
本当に創発的な何かなら論文なり何なり書いて人工知能業界に激震が走るはずで、ただのパラメータ管理処理が「感情エンジン」なら、RPGの敵キャラAIだってヘイト値溜めたりするので「感情エンジン」って言い張れますよ。
私は好きで関連書読む程度の素人ですが、専門家曰くって話なら、とある人工知能研究で有名な大学の准教授はペッパーを思いっきりバカにしてました。
「ロボット」をメカニクスとAIに分けるなら、あのメカニクス(関節)自体は別に詐欺でも何でも無いと思います。見たままのものですし。
ペッパーの駆動系が賞賛されてるのなら未来のドラえもん(の手足)に繋がり得ますが、頭脳・知性を賞賛するのは違うだろう、という主旨です。
DPZのあの記事は好きだけど、その感想として「未来」「SF」「将来は〜もできそう!」ってコメント付いてるの見てちょっと驚いた。
ほとんどの大人は承知している通り、あれはSiriと同じくどこかのおっさんが考えたセリフを条件分岐で再生してるに過ぎないわけですよね。
その人工無能に、筐体としてのロボットをくっつけて低価格で販売した、って商売自体は新しいけど、巷では明らかにそれ以上の新規性があるかのように評価されてる。
「別に中身がどうだろが、それで癒される人がいるなら良いじゃないか!」って言われればまあ一部その通りで、社会的意義もあるとは思うんだけど、それを「人格」や「感情」と言ったものをエミュレートしてるかのように売るのは景品表示法違反とならんのかな(実際そう信じてそうなブコメがちらほら)。
現に「マイナスイオン」家電だって、偽薬効果で癒される人もいるだろうけど、科学的根拠があるかのように売ったから取り締まられたわけで。
それに、あの製品開発の延長線上にはドラえもんもマルチもいない、という事も共通認識として持っておきたい。
俺はマジメな人工知能研究には期待してるし、いつか創発的な会話をする人工知能が生まれて欲しいけど、だからこそああいう商品に金が集まったり、そのせいで人工知能が一過性の流行になるのはイヤだ。
あの記事書いた小野法師丸さん含め、ほとんどの人は「よく出来たファービー」ぐらいにしか思ってないと思うけど、一部の反応を見て少し心配になった。
自己創発という言葉がある。一種の高度なシステムだ。wikipediaには「局所的な複数の相互作用が複雑に組織化することで、個別の要素の振る舞いからは予測できないようなシステムが構成される。 」とある。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%89%B5%E7%99%BA
うむ高度である。高度で重要だってんで専門の研究機関が数多くあったりする。しかし高度といっても場当たり的創発には明白な限界がある。長期視点で創発を積み重ねること、つまり進化が求められるケースも多いのだ。そういったことを扱うのが「進化システム論」という学問領域である。
翻って私たち個人の日常生活ひいては人生において根本的に重要な要素を1つあげるとすればそれは集中力である。
人間として生まれたからにはまずその集中力がなんであるかを明確に会得せねばならない。分かりやすい例をあげよう。ハイスコアを叩き出したいテレビゲームがここにある。
画面に「注意する」ことは必要不可欠であるが、スコアを「気にする」ことは果たして必要なんだろうか?否!必要ない。
「気にする」とは余計な思考を含意し「何かを気にして別の大切な何かを気にできてない」ことをも含意する。かように様々なタイプの集中があるので集中力と一口に言っても多種多様なことが分かるだろう。
電王戦タッグマッチにおける脳波測定マシーンの滑稽さもここにある。集中力を単純に脳波で量として捉えても殆ど実態は見えてこない。「何にどう」集中しているかに達人的集中のギミックがあるのであるから。
ここまで言われると集中のための第一歩が「気にする」と「注意する」の峻別であることは容易に経験からイメージできるのではないだろうか?
テレビゲームの事例でも「画面には注意すべきだがスコアは注意しないほうが良い」と両方「注意」を使って捉えるからどうしようもない矛盾が生まれてしまう。
ちゃんと2つの概念を区別し「画面には注意するがスコアは気にしないほうが良い」と精密に捉えて初めて成長の道が切り開かれる。
これは人間特有のウェットな話ではなく純粋にロジカルな話なので当然色んなシステムに適用できて進化システムもその例外ではない。
例えば会社が本来の目的を忘れて腐った企業体質のまま古い事業を続けている。これが「気にする」にあたる。一般にシステムをとにかくどんな形でもいいから進化させちゃえと安直に考えるならばその実現はたやすい。
しかし高度な進化つまりシステムの根幹にある枠組み自体を進化させるには「気にしない」ことの高度な実践がたいてい決定的に重要になってくる。簡単に言うと全体の情報をきちっと注意し続けるということだ。
このように私たちは私たち個人と私たちを含む社会集団を類比することで新たな側面を発見し打開策を見いだしていくわけだ。他人のフリして我が儘治せということわざもある。
人は自分が思っているほど自分のことを理解していない。それは高度情報社会の闇でもある。気になる情報が多すぎて自己への注意がおろそかになっている。
これが原因で世の中には無用で無駄な争いが爆発的に増えているわけで、そこで提案されたのがジョージ・ハリスンの窓、略してジョハリの窓である。
自分探しという言葉は一部の人間の感情を逆なでするそうだが、注意の復権という意味では自分探しという言語表現こそまさに適切と言えよう。
やあ。分かるやつには分かると思うが、俺だ。ネット見てると一見真面目でマトモな空間にも2ch的な低俗で野卑た対立煽りがぎょうさんひしめいていて現実から乖離した事実認識が続々と形成されているのが観察できる。
さらに問題なのはその事態を2chと同等の低俗さだと気付いて「いねえ」人が結構というか殆どだということなんだな。いま何が起きているのか、世の中や人の心の仕組みはどうなっているか、その実際の姿が見えているか、
それとも見えて「いねえ」か、その違いは凄まじく大きい。真実を洞察できる慧眼が求められている時代。冬の時代。いま、言葉の究極的な意味で「実際的」な人間が貴重。
さて。
記憶術の話なのだが、そもそも世の中のテクニック本の類は二重にワンパターン化されてしまっていると思っている。1つ目は受け手すなわち読者の問題で勝手にパクリ認定したりそうでなくともあの方法の改変か
といった形でしか物事を理解できない人間が多いこと。理解は単なる既存のフレームワークへの当てはめとする創発のカケラもない受動的な認知モデルはとっくに古くなっているのに。2つ目は書き手の問題で読者と同じくワンパターンにしか
考えられないから世の中の本はしょせんパクリだらけと「ガチで」思っているから自分もそういうパクリ本の量産に加担せんとて書くという輩である。
つまりはワンパターンじゃないミュータントもかなり混入しているのに関わらず二重のワンパターン化の力が強力過ぎて業界全体が完全なるワンパターンのマンネリの泥沼に陥っているかのように大半の人が錯覚してしまうのである。
で。
具体例を言ったところで上記のワンパターン脳には効き目が無いので具体例をあえて挙げないのが俺の習性なのだが、ここではあえて具体例を挙げる。
そうだなイメージが苦手な人もいるだろうからこうしよう。方眼紙タイプの小さなメモ帳を携帯し、そこに罫線にそってテキトーな図形を描き、その内部のマスに記憶したい事項を入れていくってのはどうだ?
ここまで聞いてなんだ「場所法」か等と思った記憶術マニアだとか別に新しくないじゃんと思った一般人だとかはこのエントリを読んでも意味がないことを保証する。
あえてこの方法について突っ込んだ説明はしない。どこが新しいのか、どこが強力なのか、など。何か新しさを感じた人だけやってみたらいい。
で。
なんでこんな話をわざわざしているかというと、新しさってそもそも思い込みを外して見れるってことなんだよな。とくにネット漬けの人。記憶術そのものはどうでもよろしい。
と言ってもネット漬けの人を俺が治せるとは思わないし、せいぜい出来るのはネットから距離がとれている人を呼びかけてネット漬けの人について何か働きかけるキッカケを与えるくらいだな。
そのくらい彼らは思い込みで支配されているしこの世界もまた思い込みで埋め尽くされてしまっているんだ。すごい音楽や絵画ってすごいのは伝わるけど何故すごいかは伝わらないんだよな。
何故が分かると言葉による思い込みが働いて新しさが欠如する。元電気グルーヴの砂原良徳もそういうコンセプトで「take off and landing」を制作したんだ。
ニュースを見て実際の有り様、つまり<実態>だな、それを確認することなく鵜呑みにするのは危険だろう?だがその罠を回避しようとしようとするフリはしつつも結局<実態>から逃げてるんだよな。
そんな時代だからこそ、自分の足で歩いて自分の目で見たことだけ信じている人間の脳のつくりはまるで異次元だよ。たとえば、大前研一氏はそういうタイプの人間だよな。
いちおう、一つだけ確認。
世の中、何事にも例外はある。
事実と意見を分けて書くトレーニングはそれなりにやってきたつもりで、これまで書いた文章で全称記号をつけてまで断定した記述はしてないはず。
日本最大最強企業であるトヨタなんかは、組織の大きさにも関わらずイノベーションを継続する能力を維持できているように見える(内情は知らないけどね)。
これは同意見でトヨタは凄いと思うよ。ただ、(内情は知らないけどね。)も同立場で、トヨタ人材は画一的なトヨタ人材なんじゃないかと邪推している。
つまり、認識の歪みは承知だが、「QC活動万歳!」「下請けは明日からコスト50%減で作ってね」といったイメージ。
大野耐一の生産性向上運動、サプライヤー企業との共同開発研究も大きく、そこらへんのホワイトカラーの貢献度で言えば小さいものだと思うけれども。
紹介された「art of innovation」であるが、どうもIDEOというシリコンバレー企業の話らしい。
創発型のプロセスであれば、ワールドカフェ手法であるとか色々知ってはいるが、それが凡人からイノベーションを起こせるというプロセスならば大歓迎。
個人的には凡人からイノベーションは生まれ得ない、むしろブレーキと思っているが。
内なる組織改革か、外なる自己追求か。その閾値はこのカギ括弧にあると思うのだが、「東大の」はまあ明確だ。
それでは、「優秀で」は?「意識の高い」は?
私自身について言えば、
優秀:「話してみると、優秀なのが伝わってくる」「天才型」「期待している」とかいう評判は聞く。平均から見たら優秀な思考能力だと思うよ。
ところが、外に出るとなると、なにか武器が足りない気がする。
意識の高い:インサイドアウトな状態ということだろうか。これまたよくわからない。
ちなみに、採用担当が「こいつは優秀だ」と思うやつ、オレは優秀でないと思うことが多いんだけど、どうなのかなあ。
強いて、絶対的な優秀という意味では、トラックレコードというのだろうか、
テニサー副部長といった肩書き、全国大会という実績、会計士という説明可能な資格こういったわかりやすい指標がホンモノの優秀なのかも。
Evidence for a Collective Intelligence Factor in the Performance of Human Groups
http://www.sciencemag.org/content/330/6004/686.abstract
Psychologists have repeatedly shown that a single statistical factor—often called “general intelligence”—emerges from the correlations among people’s performance on a wide variety of cognitive tasks. But no one has systematically examined whether a similar kind of “collective intelligence” exists for groups of people. In two studies with 699 people, working in groups of two to five, we find converging evidence of a general collective intelligence factor that explains a group’s performance on a wide variety of tasks. This “c factor” is not strongly correlated with the average or maximum individual intelligence of group members but is correlated with the average social sensitivity of group members, the equality in distribution of conversational turn-taking, and the proportion of females in the group.
【適当訳(要つっこみ)】
しばしば「一般的知性」と呼ばれるものの創発が,広範な認知タスクにおける人々のパフォーマンスと相関関係にあると,心理学者たちは繰り返し示してきた.しかし,グループに存在する「集団的知性」と呼ばれるものについて,システマティックに調査したものはいない.699人が2~5人のグループに分かれてタスクを行った二つの実験から,我々はグループのパフォーマンスを説明する一般的な集団的知性の因子の証拠となるものを見つけた.この「c因子」は,グループメンバーの知性の平均や最大とは強い相関はなく,グループメンバーのsocial sensitivity,会話におけるターンテイキングの分布の平等さ,そしてグループ内の女性の割合と相関関係があった.
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http://anond.hatelabo.jp/20100603200325
http://anond.hatelabo.jp/20100604004052
http://anond.hatelabo.jp/20100610084458
http://anond.hatelabo.jp/20100611083455
http://anond.hatelabo.jp/20100615082939
夜が僕の部屋にやってきた
部屋は暗くてマックブックが僕を照らしている。the tuss『Rushup I Bank 12 』が流れている。外は群青色。
僕の耳元でギーガーが囁き出す。僕は狂っているフリをしている。
NO NO NO. 僕は狂っているフリをしているフリをしている。
「セクシャルな意味の言葉を教えてくれよ」って声が聞こえる気がする。腹が減っている。ジャングルから何かが抜け出して僕にまとわりついている。俺の言葉きこえるか?あーあーあー。
夕方から夜への変化は高速だ。青が黒になっていく。バイバイ。
ジャングルジムみたいな都市を這い回るbitとそれにまつわる僕たちの幻想。社会という幻想。言葉を打ち出せば新しい幻想を君の頭が君の頭自信に幻想を見せる。タイプ→bit化→イーサネット→表示→視覚がキャッチ→脳内変換→幻覚
真っ暗な部屋が好きだ。肉体に意味がなくなるみたいに。感覚を研ぎ澄ませ。生活の雑音を音楽に置き換えてセックスをしろ。オセロの決着みたいに本能で意識を埋めろ。
群青は今や黒に限りなく近い。自動筆記をする亡霊を作る機械仕掛けのbotの群れ。
お前の意識はお前のものかって、Gigerが室内冷蔵庫の唸りを隅のほうで齧りながら言っている。君はたぶんズールー族の洗練を受ける必要があるぜギーガー。
言葉は何度もパイプされて行き着く果てで奇形の言葉が夢をもたらす。2ホップで邪悪な存在に触れることだってできる。キマった目の映像をリアルタイムで放映していた綺麗な女の子。いくつもの視線は決して孤独を埋めない。
気づかないうちに青色は消えた。灰色だ。都市の光を反射して黒であることできない空だ。あらゆるルートを探索するうちに幻想は消えてしまった。012345678909876543210
SFみたいに俺の記憶を全部レーザービームでずっと向こうに打ち放ってくれよって、鳥が鳴いてる泣いてる。ずっと先のあの向こうに行きたいんだって。そうしたらこの都市を燃やしてくれよ。
パチンコの台に機械を仕込んで店長とグルになって儲けた金を大型草食動物を殺した肉食動物みたいに分け前を食い散らかしていると、向こうから見たこともないような綺麗な羽を持った鳥がやってきて、その鳥を金で買った。その鳥はアイドルになって沢山の視線を集めたいって言っていた。
孤独な鳥は鳴いていたけれど、僕たちは尻尾を振って怯えたままそれを眺めていました。決して唱えてはならない秘密の呪文を唱えると缶詰から亡霊が這い出てきて僕に本当のことを教えてくれたけれど。夢から醒めて鳥のヴァギナに色とりどりのポスカを差し込むうちに忘れてしまった。
遠く遠くで真っ赤な隕石が通り過ぎている。ポスカを抜き取ってそれを描写しようとすると鳥は嫌がっていたし、向精神薬がなくなればカフカは落ち込んでひたすら押韻のチートコード集を集めていた。
箱男達が工場で夢の製造に従事していて、箱男の王の中身はベンガル虎だって噂がある。ベンガルトラに喰われかけている箱男の中身かもしれない。座席を回転するSUSHIバーでポスカを突き刺したまま鳥は「そこで夢はつくられているの」と言った。
「宇宙に行きたいなら今そこに座っているそこがそうさ」と相対的に近づく箱男が言って、彼女は泣いた。素数の順に爆発する地雷を踏んで15色と共に炸裂して消えて、僕はバーを出た。うつむいたまま。
undoして箱男にバールのようなものを投げつけて彼女を連れ出した。漏斗から昔の記憶が流れ出したのはヤクザがヤクザ映画の花形俳優に挨拶した話だ。
ジャングルから抜け出した野生の箱男は薄暗い目で人工ではない夢をみていた。ゾウオヲアタエルコトバマザリアッテクレ。踊りは無意識を掻き立て無規則のなかから創発性の地獄が運動を始めてベンガルトラは亡霊を求め始めた。ピンク色の乗用サイがテールランプで1万km遠くの仲間たちに危険を伝える。
夜が歌い始める。僕たちは踊り出す。ティム・バーナーズ=リーは笑い出す。感情が全身から溢れ出して路上に数多の星が雨みたいに空から落ちてくる。「ただの黒い石だったみたい」と彼女はほほ笑んだ。ズールー族達は合成麻薬を注射してak-47を振り回す。01234567899999999...
温めた牛乳にパンを浸しながら乳牛を捌く彼らと量子コンピュータと交換で新しい踊りの教則ビデオを手に入れた僕たちは、借入を超えてレイクで現金を3億円引き出して真っ黄色の85年型のデロリアンインドサイを買ってBTFした。僕たち現在の僕たち自身を書き換えるために。
BTFに失敗した僕たちは記号の世界に移動してしまった。'機能'をいじくり回して本能と妄想を書き換えた。現在に戻ると無限マズロー状態。死と性・秩序だった無秩序が保存が破壊を食って内蔵がキーボードに切り替わっていた。
箱男たちの中身と箱は裏返って剥き出しの彼らとベンガルトラと箱男達の比率は逆転して植えたトラとトラの共食いと皇帝と臣民の比率が逆転して、むしろ逆に臣民が皇帝っぽくなってすらいたし、ピカピカ光る非同期の夢を同期させようとする電池を食う機械にしゃべりかけるとやつは答えた。
「踊ってくれよ」と言われて僕たちは新型のダンスを踊り始めた。
踊りのマクロが何度もとプレーヤーピアノ達と連動して奪うことと奪われることが等価になって実在しないヒーロー達が現れて偶像に規則と予定調和を与えた。物語の時だ。
ヒーロー達が生み出したベイジアンネットワークを貪るパックマンみたいにお話の快楽を貪る彼女が超常現象的な動きでスピーカーの振動と同じ周波数で爆裂する音楽を発する。まとめあげられた集団はリズムの原則に奪われて暴動みたいに時速2kmの速度で遠心形状で彼女に巻き込まれていく。
月に反射した腐った陽光がベンツに載ったカミュをバターみたいに溶かしてる。笑えない冗談で笑うコメディアンの悲しみがギアの悲しみを包み込んで目隠しされたノード形状の同調する協力者を通してP2P的に愛を送っている。波状に飛び散ったハッシュが変形して別の夢になる。
衛星軌道上でジョージ・ワシントン級のブラシが振られて百万色のインクが降り落ちてアクション・ペインティングで灰色の建物はサイケデリックに変色してる。
マグニチュード6000の地割れから羊が大量発生した。鉄格子に守られた僕たちは数えて眠ることのできない羊に食べられた。
放物の賜物がいくつも刺さった養殖のアサヒスーパードライが波のように揺れて聞いたことのない言葉を喋っている。
朝が避けることのできない恋や運命みたいな感じで夜を引きずり込んでいる。
二つの約束が浮き上がって実体のない情報生命体みたいに自らをbitに変換して飛んでいった。
終わったことを始まりが喋っている。あなたは夢をみていたのですと夢が喋っている。
箱男達が工場で夢の製造に従事していて、箱男の王の中身はベンガル虎だって噂がある。ベンガルトラに喰われかけている箱男の中身かもしれない。座席を回転するSUSHIバーでポスカを突き刺したまま鳥は「そこで夢はつくられているの」と言った。
「宇宙に行きたいなら今そこに座っているそこがそうさ」と相対的に近づく箱男が言って、彼女は泣いた。素数の順に爆発する地雷を踏んで15色と共に炸裂して消えて、僕はバーを出た。うつむいたまま。
undoして箱男にバールのようなものを投げつけて彼女を連れ出した。漏斗から昔の記憶が流れ出したのはヤクザがヤクザ映画の花形俳優に挨拶した話だ。
ジャングルから抜け出した野生の箱男は薄暗い目で人工ではない夢をみていた。ゾウオヲアタエルコトバマザリアッテクレ。踊りは無意識を掻き立て無規則のなかから創発性の地獄が運動を始めてベンガルトラは亡霊を求め始めた。ピンク色の乗用サイがテールランプで1万km遠くの仲間たちに危険を伝える。
夜が歌い始める。僕たちは踊り出す。ティム・バーナーズ=リーは笑い出す。感情が全身から溢れ出して路上に数多の星が雨みたいに空から落ちてくる。「ただの黒い石だったみたい」と彼女はほほ笑んだ。ズールー族達は合成麻薬を注射してak-47を振り回す。01234567899999999...
http://d.hatena.ne.jp/magician-of-posthuman/20090107/1231288998でid:ululunがボコボコにされている件で、id:pbhが絡んで撃沈してた。
この人、暴言を吐くdisり芸人というイメージを持っていたけど、本質的にid:AntiSepticだな。つhttp://anond.hatelabo.jp/20090106070647
無学な馬鹿が「本で得た知識」を否定すると、逆に「本で得た知識」の有効性が高まる。熱心に読書した上で「本で得た知識」を批判している論者から観ると、こいつらは足手纏いだ。 - はっはっは
<本の観察に怠惰で無学な皆さんが挑戦されている「本で得た知識」を批判すること>と<本の観察に熱心に取り組んだ上で「本で得た知識」を批判すること>とを、混同して貰いたくはない。後者の卓越された批判者から観れば、前者は足手纏いです。
<本の観察に怠惰で無学な皆さんが挑戦されている「本で得た知識」を批判すること>を繰り返していくと、学術的に何の価値もないゴミのような記事がウェブ上に溢れてしまいます。その結果、「情報氾濫」という馴染みのある言説で、インターネットの学術的な言説空間が批判されてしまうでしょう。すると、どうなるか。「結局本から得られる情報や知識の方が確からしいじゃないか」という意見を後押しすることになってしまいます。
これはパラドクスです。無学な皆さんが「本で得た知識」を批判すると、逆に「本で得た知識」の有効性を高めてしまうのですから。そしてこのパラドクスは、<本の観察に熱心に取り組んだ上で「本で得た知識」を批判すること>に挑戦している論者からすれば、邪魔ですね。
なるほど。たしかに。
システム論をメディア論に応用するなんてのは斬新でかなり読み応えがあった。
たしかにシステム論では、データというメディアと情報という形式を、情報というメディアと知識という形式をそれぞれ異化するから、
だがそうなると、学システムは盲点を前提にして作動していく事になる。なぜなら観察者は、データから情報をフィルタリングする過程、
情報から知識をフィルタリングする課程で、大量のデータや情報を見落とすから。
となると、疑問が生じる。パラドクスだな。つまり、なんで真・非真のコードで作動していく学システムが、
しかしこの学システムのパラドクスは、学システム自らで脱パラドクス化されてしまう。
つまり、学的コミュニケーションについての学的コミュニケーションという構成要素を新たに創発させる事で、
しかしそれゆえにこそ学システムは不確定性にぶつかって行くんだな。
だから近代の学システムは、盲目的に作動していく機能システムのひとつってわけね。
ヘーゲルの一体のものをパラドクスとして考えるシステム論ならではの発想。
ま、機能分化した近代社会だと、一体のものは分裂してるってのが通説でして、理性は多面的なの。
んで、今回学システムから疎外されてんのが、id:ululunやid:pbhってわけね。
id:ululunもid:pbhも、自分から首突っ込んでおいて相手が振り向いたらダンマリか。カッコワル
某大学の6年生なんだが、今更ながら『勉強することができる奴、これ最強』ということに気付いた。
勉強ができる、ということは、自分の能力を状況に応じてカスタマイズしていくことができる、ということだ。
高校までの勉強は基礎教養であること以上に、勉強する力を身につけることに意味がある。数学が出来て将来何の役に立つんですか?という中二の問いには、数学は君の生活を支えている大切な学問だ、という答えよりも、数学が出来るようになる過程で勉強の仕方を身につけることが必要なんだ、という答えの方が適切だろう。前者は理科系の素養を持つ中二にしか響かないが、後者はより一般的な答えとなりうるからである。
『勉強をするスキル』がこの過程で身に付いていれば、向き不向きはあるにしてもほとんどどんな職業にも就くことが出来るだろう。また、環境の変化にも強くなれる。環境が変化してもそれに応じて必要なことを勉強すればいいだけの話なのだから。しかし『勉強をするスキル』が身に付いていなかったら?単調労働等の誰にでも出来る仕事しか出来ないだろうし、環境の変化に対応することも難しいだろう。
そしてこのスキルは、若いうちから身につけるのが一番お得であり効率もいい。というより多分、若いうちに習慣づけておかないとどうしようもない。小中高の宿題を9割以上踏み倒した奴が大学生になって、たとえ単位や留年がかかっていてもいきなりレポートをしっかり提出できるようになるわけがないのだ(体験談)。
この文章を高校生までの若年層が読むかどうかは分からないが、もし読んでいたらどうか心に留めておいてほしい。
『勉強することができる奴、これ最強』
しかし勉強の出来不出来で人を分類する方法ってよく考えついたなー、と思う。社会の役割分担としての適材適所がかなりの程度自発的に(創発的に?)行われるからだ。教育の大切さというのは一人の人間を育てるための大切さだけでなく、社会全体を上手く回すための大切さでもあるのだ。
あとこんなこと書いたけど、勉強の出来不出来で決まるのはあくまで社会の中での自分の立ち位置であり、幸せな人生をおくれるかどうかはまた別問題だよ。だからもしかしたら本当に大切なのは、『勉強をするスキル』よりも『どんな勉強をするのか、またはしないのか』を見極めることかもしれんね。
=end
http://anond.hatelabo.jp/20080805111614
ビビった。
ビジネスショー2008 7/16-18 3日間合計 10,750人@3500人
いくらなんでもビジネスショウで来場者数1万人は嘘だろ!とおもった。
桁間違いだろとおもった。
・・・と、思ったのだがどうやら、本当のようだ。
http://bs.noma.or.jp/step/step.html
開催年度 | 期間 | 出展社 | 来場者 | テーマ |
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2008年 | 3日 | 不明 | 10,750人 | 時代が求めるマネジメントの新創造 |
2007年 | 3日 | 134社 | 31,110人 | u-ビジネスの創発 |
2006年 | 3日 | 251社 | 64,700人 | 見える!未来戦略 |
2005年 | 3日 | 279社 | 170,700人 | 見える!未来戦略 |
2004年 | 4日 | 276社 | 243,000人 | ビジネスルネッサンス??新しい価値創造の実現 |
2003年 | 4日 | 375社 | 366,200人 | ビジネスソリューション??経営未来力の発信 |
2002年 | 4日 | 494社 | 360,200人 | ブロードバンド時代に飛躍するビジネスと社会 |
2001年 | 4日 | 600社 | 390,900人 | 21世紀 ― ITが創るビジネスと生活 |
2000年 | 4日 | 628社 | 400,600人 | IT革命が拓くビジネスの未来 |
100社ぐらい出展してて日3200人とか1ブースあたり30人ぐらいの集客。
つまりほとんどブースが自分で呼んだお客さんしかきてない。
ほんの数年前まで来場者数3、40万人なのに・・・。
130社でてて来場社数3万人・・・。
こりゃ・・・もうだめだろ。
ずっと5月にやってたイベントを7月にやりだしたからか??
来場者数3万人って、ビジネスショウ50年まえの来場者数よりすくない!!
来場者数1万人って、出展者数が12社だったときの9000人とほぼ同等。
どんだけ集客に失敗してるんだ!!?
主催者かなんかがかわったのだろうか?
・・・。
商工会・・・。
うちの近く(都内)の商工会は脱退者数がすごい&新規加入がなくて、
確か半数を割ると行政の補助がでなくなるとかで割りそうだってんで必死こいてたけど・・・。
商工会の時代がひとつ終わったのだろうか。
あと、エスカレーターの話題。
ビックサイト以上の酷使をされているエスカレーターとしては東京駅の中央線のところとかあるぞ。たぶん。
距離的にも長いし。