はてなキーワード: 前者とは
海外ニートの人の言う社畜は「旧来の日本企業人」という意味がとても強い。会社のいうことを聞く人間=なんでも社畜というわけではない。そういう意味では彼独自の定義みたいなもんなのであまり気にしないほうがいい。昼飯時は会社にいるのでその手のお仕事外情報交換するならまだ昼飯時のほうが合理的――特に海外ニートの人にとって合理的だということなんだろう。
増田は「飯の時間ぐらい自由にさせてくれ」という気分になるから、ランチミーティングへの参加も社畜じゃねえのかと思うんだろう?
俺個人は「昼飯時と定時後の拘束どっちがマシだ」と聞かれたら前者のほうがマシだと思っちゃうなあ。逆に「飲み会ならまだ逃げようがあるが日本企業でランチミーティングが現実化したら逃げられない」というリスクはあるかも知れないが。
これはレイプがあった、という認識の上での「セカンド」なんだろうけど
奥さんが自分の成功例をペラペラくっちゃべった上での身バレについてなのか
「理系・25歳童貞」を馬鹿にしていた、という上での身バレについてなのかで
かなり同情度が違う。
ブクマコメで温かいお言葉をたくさんいただいてしまった。大変ありがたい。
優しいのは私の周りにいる人達だけじゃなくて、多分世の中には優しい人が大勢いるんだろうと思う。あんまり優しい人が多いものだから、私はちょっと世の中をナメてしまいかねない。そんな生やさしいもんじゃねえぞと言ってくださっても構わない。
色々言っていただいたので、軽く追記しようと思う。
まず、自分について把握していること。
重症軽症という言葉を使ってしまったが、これはいわゆるトランスセクシュアル、トランスジェンダーと呼ばれるもので、前者がいわゆる性同一性障害の中核群、後者は肉体を変えたいとまでは思わないが性別違和があるというものである。ともに性同一性障害として認知されており、私もこの後者の部類であるものと自分では思っている。
とは言え、広く一般のトランスジェンダーに対し「覚悟がない」だとか「肉体の性別で生きていくという選択肢もあるんじゃないの?」などと言う気は全くない。今回ぼやいているのはあくまでも私個人の問題だ。あくまでも私が、私の中にある不安のために、私を宥めてみたり鼓舞してみたりしようとしているだけだ。以降も、そういう文脈と思っていただきたい。
考えていたこと。
前回のエントリで
この辺りの「どっちでもいいよ」感というのが、非常に微妙なところで、批難されるに値するところだろう。
と書いた部分が、どうも人目に止まるものだったようだ。実は、指摘を受けてぎくりとした。
この文章自体は、実のところ何の気なしに書いた。ただどうも色々露呈してしまったらしい。つまり私は、そもそも心のどこかで、「どっちかであるべき」と思ってしまっているのである。
自然の摂理とかその手のものを持ち出すつもりはなく、それは一種の「しめし」の問題だ。
つまりこういうことである。「特殊」な人間がそれを白日の下にさらけ出して生きるなら、それ相応の、格好よく言えば「覚悟」のようなものを示すべきなのではないか、それが大人としての礼節であり責任というものではないのか。そして実際そのくらいでなければ、世の中渡っていけないんじゃないの、という。
以前友人の一人が、私がこのような人間であることを知らないままに率直さをもって、このように言ったことがある。「オナベって、美人じゃないと説得力ないよね」。正直に言うが、私は納得しさえしたのだ。このように思っている人は大勢いるに違いないのだろう、という点において。
私たち(私は性同一性障害というものになにか帰属意識を持っているわけではないが、こう言う)はどう言い繕っても特殊である。特殊な人間は多分、普通よりもいろんなものを持っていなければならない。嫌悪されないだけの人格や、社会から不要と見なされないための能力。軽蔑したがる人につけいられないためには隙(醜さもその一つだ)があってはならず、見当違いな憐憫を浴びないためには生まれ育ちが不幸でない方がよい。あまりにも乱暴な物言いと呆れられるかもしれないけれど、それが実際のところなんじゃないのと思っている。
だから常に毅然としていなければならない。物事をよく弁え、その上で覚悟を持ってこの生き方を選択したのだと言うことができなければならない。不快だと顔をしかめられても、だけど仕方がないじゃないですかと言えるだけの、こちら側から示せるもの。それがつまり「しめし」と言ったことの意味だ。
ちょっと格好をつけ過ぎたので恥ずかしい。繰り返すがこんなこと、他人に押しつけるつもりは毛頭ない。そもそもいつでもこんなことを考えているわけじゃなくて、冒頭にも言ったように、「世の中結構なんとかなっちゃうもんでしょう」くらいのつもりで日々生きている。
けれど多分心底には、このような物事の捉え方があるのだと思う。だから前回のエントリで「批難されるに値する」と書いた。
そして、けれど、多分本当のところは、こういう考え方がちょっとおかしいんだということは、自分でも薄々分かっている。前段落で書いたことのうち、まだしも尤もらしいのは「覚悟を持って選択した」あたりくらいのものだ。それ以外はクソみたいな「べき」論だ。
考えてみること。
本当は、「どっちでもいいよ」と言ってしまいたい。どっちでもいいんだけど、どっちかと言ったら男として生きたいと思っていて、どちらを選ぶかは自分の勝手だから勝手にするんだよ、何と引き替えるつもりもなければ何の努力も払うことなしに、当たり前みたいな顔でそうするんだ、と、そういう風に言ってのけられるようになりたい。
私は、そうする権利を持っていないつもりでいる。心のどこかで、それは不当に失ったものだと思ってさえいる。
だけど多分ここに書いたようなことは全部、何もかも、自分の一人相撲でしかないんだろう。規定しているのは自分自身で、だから必要なものがあるとすれば、それは「自分で選んで、自分で決めるんだ」という覚悟だけだろう。それがありさえすればきっと、「どっちでもいいよ」と言い切ることもできるようになるんだと思う。
長々しい愚痴に対してのご静聴、ありがとうございました。
そういえばここに至るまで、私が感じていると主張するところの「性別違和」や「どっちでもいいや」感の実態というものに触れていなかった、と思い出したのだけれど、それはここで問題にしたいことではない気がするのでやっぱり書かない。あまりにも長くなってしまうこともあるし。
性同一性障害の人はネット上にたくさんいて、私よりも心情吐露に優れた人もすぐ見つかるだろうと思うので、そちらをあたって「こんなようなものなのかあ」と読んでいただければ、それでいいかと思う。
あと、月1日以下でもいいからリフレッシュに上の子だけでも1人で公園にでも連れて行って
くたびれさせて夕飯も作るか買うかして、奥さんに余裕を作ってあげてください。
そんな余裕のあるときに、少しずつでも家事を教えてもらって奥さんを助けてあげられると
いいんじゃないでしょうかねぇ。
家事はちょっとした手伝いしかしていません。以前は全部やろうとしていたのですが特に食事は本当に手を出すのが怖いんですよね。がんばって料理を作ったのに、おいしくないからといって怒られ、食べてすらもらえないときのダメージは計りしれないものがあります・・・。洗濯をたたむのなども、たたみ方がわからず、しまう場所がわからず・・・。こういうわけでむしろ家事は手を出さないほうが・・・という気持ちになってしまっているのですが、それでもやはり少しずつでも家事を教えてもらったり協力の姿勢を示すことは大切でやるべきでしょうか?・・・と、これは妻に聞けばいい話なので聞いてみます。(愚痴になってしまいました。。。相手に喜んでもらえなければ意味ないですもんね。トホホ。)
基本的に休日は必ず仕事を休むようにして、子守は全部私が引き受けています。遊んで、お風呂にいれて、寝かしつけて(ねなくて妻に代わってもらってしまうことはあります)。
子持ちの母親の方にひとつ質問があります。「休日に父親が子供を連れて外に遊びに行く」というのは母親にとってどうなんでしょうか?
というのも、ほかのツリーで「子供をつれて外に出る=晴れ舞台」というような話が出ていたからです。私は晴れ舞台とか、対外的においしいとはまったく思いません(無自覚なだけだとまた言われるのでしょうか?)。「いいお父さん」と思う人もいるでしょうが、「子守をやらされてる情けないお父さん」というように見る人もいると思います。どちらかというと前者の見方をするのは女性が多く、後者の見方をするのは男性が多い気がします。私はどちらとも思わず、「自分がしたいからしている。それは妻のためにもなる。他人の目は関係ない。」と思っています。(余談ですが、以前「サザエさん」では子供を連れているお父さんを見て、カツオが「そんななさけないのはいやだ」というようなことを言ったシーンがありました。)
先日子供2人を連れて買い物に行ったりしたので、これに関して妻に聞いてみたら「今日は家でも子供の面倒を見てくれていたからいい」という返答でした。つまり「子供をつれて外に出る=晴れ舞台」的な発想があるということで、軽くショックでした。こんな根本的なところでの認識の相違があるとは思ってませんでした・・・。(今回はもう勉強になってばかりです)
もうひとつ驚きだったのは「子供を連れて外に行った後、帰ってきたときに『大変だった』という感想だとちょっと嬉しい」という事です。あんまり何も問題なく父親にやられてしまうと自分の立場がない、という理由らしいです。極端にいえば「自分は授乳するだけか」という気持ちになるそうです。さすがにこれは「こんなこと言ってごめんね」という感じで教えてくれました。さらにこれは別の時に聞いた「自分が好きで育児に参加してるんだったら、大変だとか、疲れたとか言うな」という話と矛盾していて・・・本当に女心(母親心?)というのは複雑なんだなと・・・。
実際上の問題として、私は男でも女でもない。
男として振る舞っている時間と、女として振る舞っている時間、両方ともにあるということだ。7:3か8:2で男の方が多いだろうか。
最近ニュースにもなったいわゆる半陰陽ではない。生物学的には、完全に女性である。
「周りは合わせてくれてるだけだろ」とか「文章が完全に女」とか、そういう話はとりあえずおいておかせてほしい。
前者については、一部はそうかもしれないが別の一部はそうではないと断言できる、としかネット上では言えないし、
後者についてはよく自覚している。読むに耐えないほどの分かりにくさでないことを祈っている。
自分が異常であるという自覚は長いことなかった。「性同一性障害」という言葉自体は昔から知っていたが、それが自分に関係のあることかもしれないと初めて思ったのは15歳になる頃だ。病院に行ったのは高2。一年ほど通って、染色体検査を受ける段階までの治療を受けた。だが、それから間もなく、ぱたっと通院をやめてしまった。理由は単純で、
「ここから先は、将来のホルモン注射や手術に向けての治療になります。
あなたはどうしたいですか? 性別再判定手術(性転換)を受けたいですか? 男の体になりたいですか?」(意訳)
と言われたからだ。当時私はその質問に答えられなかった。今なら答えられる。
「肉体を変えたいとは思っていません。それはどちらでもいい。
ただ、女として生きていくことを望んでもいません」
さて、親元を離れて大学に通うようになり、私はそこで男として暮らすようになった。特に深い動機があったわけではない。ただ単に、社会に出る前に一度くらい、「まとも」に生活したい、と思っただけだ。
そのまま、今年で四年目を迎える。
大学生活は楽しい。色んな勉強をして、色んな人と遊んだ。だいぶ賢くなったと思うし、今はもう昔ほど自分のことで暗い気持ちになったりはしない。今の生活においては、私は「普通」でいられるのだ。しばらく前には彼女もでき、将来を視野に入れたお付き合いを続けている。「病人」であると人に話したこともあるが、差別も侮辱も受けたことはない。「男性」としての生活は、全く円満で快適で、率直に言えばいま私は幸福だ。
ただ、将来のことを考えると、果たしてどうしたものか、困ってしまう。
修士進学はごく普通の進路としてあったので、今のところはいい。だが、将来はやはり広い世間に出て働かなければならない。働き口があればの話ではあるが。
そのとき私は、男になれるのだろうか、女になるべきなのだろうか?
多分どちらにもなれると思う。
そして多分、女になった方がいいんだろうとも思う。
どちらでありたいかと言えば、このまま男でいたい。ただそれは今が幸福だからで、将来世間様から「病人」「異常者」として扱われるようになったとき、こんなはずじゃなかったとか言って後悔するんじゃないかとも思う。また、性転換手術を受ける気もあんまりないのが問題だ。別に女性器はついていてもあまり関心がないし、治療を受けると副作用で腎臓やらあちこちを悪くすると聞くから、それがちょっと嫌だ。健康に長生きしたい。そう思っている自分には、男として(つまりは性同一性障害者として)生きていくに足る覚悟がないのではないか、と思う。
だが一方で、やり直しの効きづらい人生、女性として生きれば、それを後悔することにもなるんじゃないかとも思う。そう思う理由は色々あるが、一番端的に言えるものとしては、かつて女であった頃には幸福ではなかったからだ。女として振る舞うこと自体は、多分問題なくできるだろう。その程度の演技力は、誰でも持ち合わせているものだ。
この辺りの「どっちでもいいよ」感というのが、非常に微妙なところで、批難されるに値するところだろう。
単純に言えば、私は「重症」ではない。性同一性障害というものにも、重かったり軽かったり色々あるそうで、軽い人達は案外そこら中で声をひそめて生活しているんだと思う。私もそういう風にしていくべきなんだろうか。それは不可能ではない。異常でもなければ社会的苦難を背負うわけでもない。ただ幸福ではないだろう、と今のところ思う、というだけだ。
あと一年ほどで、最低限腹を括らなければならない。
いまのところ男でも女でもなく、肉体を男に変えるだけの覚悟もなく、かといって女として生きていくのも嫌だとぼやいている、それが私の現状である。
サンプル数が少ないけど、俺の周りの人間の話。次の2タイプに分類できる男が多い。
・まじめかつ誠実で、しっかり考えて生きているけど、出会いに恵まれない環境で暮らしている男。
・いわゆる「チャラい」雰囲気をもっていて、すぐ女の前に出てきて、平気で複数の女と付き合うような男。
俺が問題にしたいのは、どっちが性格的に良いか悪いか、ではない。
女から見て、どっちの人間が魅力があるのか、ということだ。
どうも女にとって、若いうちは後者が、年をとってくると前者が魅力的な人間として扱われているような気がしてならない。
そうすると、次のような悲惨なシナリオが浮かびあがってくる。
ある程度年をとると散々チャラ男と遊んだ女が寄ってくるようになるが、
選球眼を鍛えてないために、その真面目な性格をぶち壊しにするような、ろくでもない人間を選んでしまう。
対して、後者の人間は、若いころ散々遊んで選球眼を鍛える一方で、年をとるにつれて真面目になっていく。
だから、結婚を考えるような時期になっても、じっくりと相手を選ぶ余裕があり、幸せになれる相手を見つけられる。
これでは若いうちはチャラチャラやっている方が得なんじゃないかと思えてしまう。
「誠実な男が好きな若い女もいるさ」「出会いが無いのはお前が悪い」「少数サンプルで一般を語るな」とか言われそうだけど、
やっと出会って、初めて誠実に愛した人に、「マジメでおもしろくない」と言われてフラれたばかりなんだ。吐かせてくれ。
前者はたとえ仲睦まじくても例えば片方が事故とか病気でセックスができなくなったら
すぐ関係が終わりそう。つながりがセックスありきっていうか。
なんだかんだ、はてなブックマークが
記事一つ一つに「小さい2ch」を作っているようなものになっているのは
最早否定しきれない事実であるように思う
こういうこというと「えー私はただあとで自分が見るためにコメントつけてるだけだけどなぁ」とか言う人が絶対出てくるけど、そのコメント自体がそもそも本当にそうなのか疑わしい。後から「えー私はただあとで自分が見るために(ry」ってコメントを見るか?なんのために?
もうおまえら正直に言ってみ
ほとんどの奴が、単に「エントリへのコメントツール」として使ってるだろ。ブクマとか、全然見返して無いだろ?
逆にコメントつけないページほど、本来のブックマークの使い方をしているとみた。
「ウェブ上で役立つ○○」とかそういうページって、やたらブックマークされてるわりに、コメントすげーすくないんだよ。
そういうときはああ、ほんとうに「ブックマーク」してんだなって感じる。
しかし煽ったようなエントリにブクマつけてブクマしたほとんど皆がコメント(コメントしていなくても「これはひどい」「死ねばいいのに」「悪徳○○」とかいうのをずらーって並べてほとんどコメントみたいなことになってるやつとかもいる)してるの見るとお前らなんだかなぁと思うよ
単なるプチ2chじゃん。
それも、レスすんなら普通にコメント欄でレスしたりすりゃいいのに(コメント欄がないから、ってのはいい訳だろう。コメント欄があるページでも同様の事が起こってるんだから)なんでそれをしないのか。言い返されるのが怖いから以外にお前ら理由ある?説得力ある理由いえる?言えないだろ。なんのかんのいってもそこなんだろ?別に責めてるわけじゃないから怖がらずに認めりゃいい。
そういうチキンな奴ばかりなのに、チキンのくせに……いや。チキンだからこそか?やたらブクマコメントは偉そうなのな。
んな偉そうな事言うなら降りてきていってみろっての。
ブクマコメントと、コメント欄のコメントって差がさしてないようで、でかい差があるよ。なんのかんのいっても、前者にいちいちレスつけるのは思った以上に面倒くさいし。数多いし。どうしても「直接いいのめしてる」感がないし。つかチキンたちはその辺分かってるからこそ、コメント欄じゃなくてわざわざ100字制限のあるブクマコメント使うんだろうけどな。ブクマコメントに仮に直接コメントできる機能がついたとしたら、今までよりコメントが控えめ(勢いも、数も)になると思うぜw
コメント欄なら色んな意味で対等にやれるんだからチキンじゃないっていうんならそっちでやってみろよ。ま、どうせできないんだろうけど。
お前ら、自分たちでときどき自分を省みて、情けなくならないの?疑問。
こういう事言うと、なぜか「匿名ダイアリーでいわれても」とか意味不明な事を言う奴がいる。
論理的につながりがないだろ。匿名で言うのは卑怯っていう価値観自体どうなんだって感じがするが、それより何より匿名の卑怯さについての話はこの話題とまたまったく別の卑怯さの話であって、全然関係がない。それでぶつけて相殺した気になってるような頭の悪さ。どうよ。チキンな上にそれ。
大体、増田で言わなければどこで言えってんだ?はてダか?わざわざこの記事のためにダイアリー設置しろっていうのか?アホらしすぎだろ。大体ダイアリーでも匿名だ。「いや、同じ匿名でも、記事の連続性が…」ってこの記事こっきりならどの道それも意味ないから。ダイアリー持ってるやつばっかじゃねーんだよ。
大体匿名だろうが記事の中身の評価は変わらんはずだ。変わるとしたらお前はそれ、「偉い人の記事だったらなんとなくいいこといってそうにみえるー」ってアホな思考回路になっちゃってるだけだ。「みのさんがいったから納豆はダイエットにきくにちがいないわ」と同じレベル。
しかしお前らのチキンぶり、卑怯ぶりは、そう言う問題じゃない。コメント欄があるのにはてブを使っている(コメントツールとして)、という行為そのものがチキンであり卑怯であるといっているのだから。
はい。じゃ、今から猛省してくださいね。はてブの善良な皆さん。
(ってこれにもまたコメントツール代わりにしたはてブがつくんだろうな。それで得意げに俺を倒した気になって悦に浸るんだろう?その行為自体が、このエントリの正当性を高めているともわからずに……w)
http://anond.hatelabo.jp/20091011164125
これを読んで、思ったことをつらつらと。
まず、池田先生のネットに対する姿勢がよく表れている、この記事を引用させていただく。
ひろゆきは「賠償金を取る方法はない」と高をくくっているようだが、バブルの処理のときは、同様に開き直る不動産業者を警察は「競売妨害」などの罪で大量に投獄した。要は「あいつは悪い奴だ」というコンセンサスができるかどうかが問題で、そういう「国策」があれば犯罪は(よしあしはともかく)いくらでもつくれるのだ。ライブドアやWinnyには擁護論が高まったが、2ちゃんねるが閉鎖されても同情する人はほとんどいないだろう。
前にも書いたように、排泄物を見れば健康状態がわかるという意味では、2ちゃんねるにもいくらかの意味はあるかもしれません。異様な匿名志向の強さは、「表」の生活で彼らが強く抑圧されて「本音」を押し殺していることを示しています。ふだんはおとなしくて礼儀正しい日本人の「裏」の顔が、実はこんなにおどろおどろしいというのは、まぁ他では知ることのできない貴重な情報でしょう。
端的に言わせていただく。池田先生は、下品である。
刑事犯でもない人間を犯罪者がごとく扱い、呼び捨てにする。亀井大臣を、「亀」などといった明らかに侮蔑をこめた呼称で呼び、「あいつはヤクザとつるんでいる」などと公の場で言う(仮に事実だとしても、確たる証拠もないのに言うのはちと問題。ちなみに私だって亀井大臣の政策は大反対だし、正直早々に辞めてほしいとは思っている。その上で言っている)。公の場で人をクズ呼ばわりする。twitterで罵倒してきた人間をわざわざ晒し、わざわざ「こいつをブロックしてやった」と宣言する。2chを排泄物に例えるなど、あまり上品とは言えない例を平気で出す(「便所の落書き」というのは自嘲ネタであって、外部の者がそれを踏まえて揶揄するにしては、いささか下品すぎる)。
2chの経験もまったくない人のために少し基礎的すぎることから話すけれども、2chのヘビーユーザーはIEやFirefoxといったwebブラウザで閲覧・書き込みをすることはめったになく、Jane Doe Style(余談だがJane Doeとは「山田花子」的なありふれた名前、つまり事実上の「名無しの権兵衛」を指す。2chの名無し文化を象徴しているセンスのあるソフト名である)などといった「専用ブラウザ」を用いている。これが非常に便利で、自分が好かない言葉を表示させないようにしたり、気に食わない人間のIDを指定してその日の彼(彼女)の発言をすべて抹殺することができる。これを「あぼ~ん」というのだが、世の中にはいちいち「てめぇなんてあぼんしてやったからwwww」とばかりに対象のレスが消えた状態を相手に見せつけてくる趣味の悪い輩がいる。
これと、池田先生の「twitterブロック宣言」(参照1)(参照2)(参照3)(参照4)は同じなのだ。いわゆるネット弁慶のねらーとやっていることは大して変わらない。私は池田先生のそういった幼稚なところが一人の人間として大嫌いなのだ。本質的には池田先生と彼の発言をいちいち取り上げて「ネットいじめ」に近いことをしている連中は、同じ穴の狢なのである。
ここで、「名無し」と実名でやってる学者を対等に語るなという批判はもちろんある。さきほど挙げたブログにも、コメント欄にこんな氏の発言がある。
2ちゃんねるに対する評価は、そこに書かれる可能性のある(名前の知られた)人とそうでない人とでは、まったく違うと思います。事実無根の悪口を書かれる不快感は、そういう経験のない人にはわからない。他人に対する想像力もない人が「お前はわかってない」などと説教するのはやめてほしいものです。
なるほどなるほど、正論、と私は思う。
そもそも何故匿名が叩かれるのかといえば、攻撃の一方向性にあるのだと私は考えている。反論する場所を与えられていないのは、苦痛だ。言われっぱなしはつらい。学校や職場における1対多数のいじめが何故いけないのかというのも、ここにある。殴り返す相手もいないまま、自分だけボロボロになっていく。これは卑怯だ。事実私も、はてブのホッテントリに池田先生の自転車云々の発言が載っていたのを見て、ドン引きした。これはひどいよなと思った。これ以上アクセス数を伸ばすことに加担するのはよくないと思ったので、ブコメは読んだものの私は登録しなかった(したらますます上に上がるから)。
話が散漫になってきたので、改めて私が一人の人間として池田先生を好かない理由を述べる。
それは、下品で甘ったれた世間知らずの幼稚なオヤジだからである。ひとつじゃない?言語化するとそうかもね。でも「こういう人間」だというのに形容詞がいくつも必要だっただけだ。ていうかまぁ、ぶっちゃけるとタイトルは切れ味がいい方がいいじゃん。
匿名の集団による叩きは卑怯である。じゃあ実名は正義か。そんなわけないだろう。
池田先生の発言は公ですべきものとはとてもじゃないが言えない。2chの煽りに「お前、じゃあそれ俺と面と向かっても言えるんだな?」と返している人をたまに見かけるが、それに対し「ああ、言えるさ」と平然と答える人間は私は軽蔑する。反撃される覚悟を以てして言ってるからいいのだ。そんなわけないだろう。路上で一方的に殴っていようが殴り合っていようがおまわりさんが見かけたら怒られるに決まってる。一方通行の煽りは、卑怯だ。でも双方向ならいいかっていうと、それは違うでしょ。
そして、暴露してしまうと、実は池田先生は正々堂々としているかというと、そうでもないのである。
何故なら罵倒してきた人間をクズ呼ばわりして、公衆の面前に晒しておいて、そこで「あぼん」をしたからである。「あぼん」された側は以降池田先生に反論ができない。クズ呼ばわりされた弁解もできない。一方通行の罵倒で終了である。本来、ブロックにせよあぼんにせよ黙って各自が勝手にするのがスマートというか、マナーだとは思う。捨て台詞吐いてフタを閉めてるようじゃ、2chの卑怯者とやらとなんら変わらない。
私は以前からそれを池田先生に対し実名アカウント等で直接本人に何度も言ってきた。無論、反応はない。先生は多忙なのだからそれに対しては文句は言わない。一人の人間としてそれはどうかと思ったから、一人の人間として抗議というか忠言というか、そういうのをしたまでだ。学者先生とか、そういう肩書の問題じゃあない。メディア論を語る人として、ネットの言論を引っ張っていくアルファブロガーとして、そういったレベルぐらいはちゃんとしようよ、ということだ。私から言わせれば先生、あなたの罵詈雑言こそがネットのノイズなんだよ。そういうことなんですよ。
というわけで実名でも匿名でもネット空間を活用してる一小市民の私が、池田先生に対する反感を代弁してみた。多分、いわゆるネットイナゴ的な動機で騒いでいる人だって多いだろう。ただ、私のように「てめぇだって卑怯じゃねぇか」と思った上で抗議している人間が存在することも池田先生は分かってほしい。
ちなみに今回は、増田が「匿名」でしたので、私も「匿名」でトラバを送らせていただいております。繰り返すけど実名でも抗議はしてますけどね。
そこそこの反響があったので、追記。ブコメで「なげぇよ」といったのがあったので、上の論点もまとめとく。
・一方通行で殴るのは卑怯
・だから匿名は卑怯
・でも実名でも罵倒しておいてその後にブロックしたら双方向性がないよね
別に私自身匿名でも実名でもそんなにお上品ではないんですけどね。実況板で「見えたっ!」とか言ってるアホですしね。でもまぁ、事実無根の中傷とか、本当の意味で下劣なことは好かないんですよね。本当に何度も繰り返しちゃうけど、S/N比が高まることを望むなら、イナゴが沸かないような言葉回しを覚えることも必要だと思うんですね。池田先生の著書は一般向けに面白く書かれているものもあるし、アゴラといった活動も応援しています。だからこそ「ネット上での私語は、居酒屋でオヤジとやってる時の私語ほどフリーダムであってはならない」ということを自覚してほしい。聞いてる人の数が問題なんですよと言えばいいのかな。
正直に相手にしてくれないことが悔しいと書け
嫌う必要がない。嫉妬では?
こういうのを読むとなんだかなぁ、と思う。一方向性と双方向性について書いて、「前者は卑怯だ、でも後者でも品はよくないよね、しかも池田先生って前者を否定してる割には実は双方向性がないよね」と説いてみたわけなんだが、私の書き方が悪かったのかしら。「みんながみんなノリで騒いでるわけじゃないんだよ」ということを知ってほしかったから書いたまでであって、タイトルが示す通りこれは価値の問題です。結局、正誤は問えん。嫉妬なのかなぁと一応まじめにしばし考えたけれど、そういう感情はないな。
池田信夫の場合は最初から、自分が傲慢に振舞うことを恐れていない。
だから考えながら読む必要があまり無い。言葉の裏を読む労を閲覧者に強いていない分、やさしいよ。
だから読者が多いんだと思うよ。
人と仲が悪くなることを恐れて書くブログって、すげーつまんないから。
これは同意かな。mixiで昔はすっげーはっちゃけた日記書いてた人がいたんだけど、知名度あがったら「ライブやります☆」みたいな宣伝日記とか「ファンの皆さんに感謝です♪」とかなんの面白みもない言葉しか書けなくなった人がいて、あれは残念だった。池田先生もキレがあるから池田先生なのかもしれない。でも、やっぱり、さきに述べたようなことは少しは改善してほしいな。
匿名側は、三振したら別人を装って直後に打席に立つことが出来てしまい、ホームランを打ったときだけ、その記録(例えば、はてブなど)が残せてしまう。やっぱり、アンフェアだよ。
そうね、これも同意。双方向性に欠けるだけじゃなく、発言の蓄積がない者が急に正論めいたことを言ってもな、というのはある。属人的な考えだけど、否定はできないな。
90%だけど中止するというのは、別におかしいとは思わない。
という感じかな。前者だけについて言ったつもり。
後者に関してはマスコミが報道しないって言ってるけど、じゃぁ、どうしてみんな小沢ダムのことを知っているの?WBSはじめいくつかのマスコミが報道してるからでしょ?と。
あとは、みんなで、小沢ダムは中止すべきと声高に言えば、マスコミも追従するだろうし。そうでなければ、淡々と続くでしょうと。
何が無駄かは価値観によるし、選挙でそれを争ってるわけだから、別に麻生自民も鳩山民主も両方馬鹿でもなく悪意もなかったとしても、前者の予算の一部が後者に否定されることはありうるでしょう。
適切に共通化されるというのが、幻想というか、正しい表現ではなくて、何が適切?というのがあるから。
速度に対して最適化するのか、メモリーにたいして最適化するのか、費用に対して最適化するのか、期間に対して最適化するのか?
なので、適切に共通化 という単語が成立しにくい。ある条件下ではAという共通化が最適でも、違う条件下ではBという共通化が最適だったりする。
そんで、プロジェクト1年目の受注では条件Aだったが、翌年の追加案件ではBだった。みたいなことが起こりえる。他にも色々。
そんで、重要なのは、この辺というのは、人によって解釈が違うし、主義もあるし、宗派もあるってこと。
規律だ設計だ、ルールだを持ち出しても良いけど、現実問題として、人を理由とした摩擦や問題は起きるという事。
そういう事例に対して、設計は正しいのにみんながルールを守らないから、とか言い出してもしょうがなくて、
リーダーに求められるのはプロジェクトを成功させることであって、モジュールを共通化させることではない。という事。
よって、目的達成のために、最適な手段をとる。という意味では、共通化という命題は、技術的にはすばらしいが政治的にすばらしくないことがあるので、
趣味ではなく業務としてのプログラムでは、優先課題ではない。という事。
で、結局、どうするかと言われれば、今いるメンバーで、出来る範囲で、次のプロジェクトが来ても、問題ない程度で設計するって話しになる。
ぶっちゃけたところ、共通化の話題は、結構、オブジェクト指向だ、やれなんだで、宗教論争になりがちで、理想を追い求めガチだから、ほどほどにしろ、って口をすっぱくしていわないと、
共通化のための共通化になって、全体を阻害することがあるから、マネージングする側としては要注意だと。
イヤ本当に、正直、理想を追い求めた、高度すぎる抽象化はいらん。結局、ながくプロジェクトを続けられるコツは、次がどうなるか何てわからないんだから、共通化は『ほどほど』にしておく。ってところに落ち着く。
で、技術的に高度なところだけは、信頼できる人にやって貰うか、自分でヤルって話しに落ち着く。そこ以外は、なんつーか、もう、ほんと、手工業だからねぇ、この業界。って話し。
なんというか、適当な設計だなぁって言われることもあるだろうけど、そういう風に、各個人毎に機能を割り振って、最低限の所だけ押さえるのも設計と思うわけですよ。
一人でやってるなら、共通化しちゃっても良いことも、複数人でやってると分けた方がよいこともある。その辺のさじ加減が設計。ほんと、人依存。
一ヶ所深く、あとは広く浅く。
自分の場合だと本、サッカー、アニメならかなり深いところまで行ってると思う。
もちろん、もっと深い人なんて腐るほどいるからもっと掘り続けないといけない。
まったく大変だよ。みんな同じだけど。特に最近はDVDを借りる義務感が生じてきた。「俺はDVDを借りなきゃいけない!」みたいな。だいたい二日に一回借りに行く。下手すると一日に二回行く。一種の強迫症だと思ってる。それもこれも全部GEOのせいだ。
とにかく、どこか深いところがないといけない。
かと言って、深いだけじゃ駄目なんだ。だから浅く広くもなくちゃいけないんだよ。
俺はアニメしか見ませんなんてのはあんまり信用できないし、本しか読みませんなんてのも信用できない。
アニメに限った話だけでもその中でいろいろなジャンルがあって、
誰かが~はガチって言ったところでアニメ10本見てる奴が言うのと100本見てる奴が言うのじゃ雲泥の差がある。
(前者がおもしろい場合もあるだろうけど)普通は後者を信用する。
これが映画、TV、文学、ラノベ、漫画、ゲームと広がったら言わずもがなだ。
相対的にしか判断できない。何がおもしろいなんかなんて。だから各ジャンルでの基礎は身につけておくべきだ。浅く広く。
バランスというか多様性が大事。攻撃サッカーなんて響きはかっこいいけど好きじゃない。俺は5-4勝つチームよりも3-0で勝つチームを応援したい。(どっちの試合がおもしろいかは話が別だけどね。それに0-0でもおもしろい試合だってある。あと、攻撃サッカーを標榜してるチームが必ずしも守備をないがしろにしてるわけでもない)
話がそれた。
結局のところ、(例えば)ヤクルトスワローズが好きでヴィンランド・サガが好きで夏目漱石が好きでアマチュア無線が趣味でテニサー入っててでも練習してなくて飲み会しかしてなくてねんどろいど集めててコンビニでバイトしてる奴がバランスとれてると思う。
理解 さんくす。
それって100万円(税率の上昇分)多く取るけど10万円多く(控除による税金の減額の上昇分)返すから、恩恵が大きいみたいなもので、結局(累進課税じゃない場合と比べて)90万多く取られてるので、
累進課税本体の方が、所得控除に対する累進課税の影響分より、影響が大きいので、結果としては、高所得者ほど税額控除の影響は薄いと思うのだけど?全ての税金額から見ると。
それに、ということは。高額納税者にとっては増税って事なのかな?。累進課税もいっしょにやめてくれないと、高額所得者は増税な気がする。
もともと、控除が税額じゃなくて、所得にかかっているのは、累進課税による給与上昇カーブの急激な減少を防いである程度は給与が上がるようにする仕組みだよねぇ?
あと、年金も所得に含まれるのかもしれないし、違うのかもしれないけど。どっちにしても、前者なら年金層がさらに貰うって事だし、後者だと払ってなかった人も年金相当貰えるって事で、
やっぱり、なんか、長年のツケの精算じゃないけど、一度制度が歪みそうだね。
『給付付き税額控除』って、一律 給付(たとえば10万円) なのか、給付(5万円)と税額控除(33万円)の併用なのか、わかりにくい。数字は適当。
前者だとすると、単純に、税額控除の廃止と、控除による税額減額相当の給付を一律給付で良いと思うが、なぜ、『給付付き税額控除』という単語が選ばれたのかがわからない。
控除だと、課税前に減額だが、給付だと課税後に減額なので意味が全然違うのだが・・・。
控除による税金の減額相当を額を、一律給付にして、高額所得者は税額は上がるけど、給付で相殺して納税額は同じって事?
収入0の人から給付金額と同額までの人の給付金額は、給与と給付金を足した額が同じ額になるという政策なんだろうけど・・・累進課税もあって結構数式めんどくさくないか?
結局、数式で表すとどういう課税方式なの?
詳細がよく分からんけど、肉体労働いわゆるガテン系なのか、タバコ吸ってるんじゃないの?
ちなみに商売いわゆるコックさんなど本職は男性の方が多いと言うことを考えれば、男性が味覚に疎いというわけではないかと。
あとは、塩を使わない料理を目指すより、塩をかえて、減塩したら?
たぶん、だんなさんは、まぁさましゅとかが好きなんじゃない? 同じ重さでも、塩辛さというか、塩の味って違うよ?
ガツッと塩くさい塩の代表格が『まぁさましゅ』 逆に 塩感がほとんど無い塩が『雪塩』
どういうロジックにせよ、結果的に大勢が「痛い目」を見たか「いい目」を見たかでしか結論は出せないだろう。
個人的には前者で終わりそうな気がするけど。