はてなキーワード: 無意識とは
元増田です。
情報の真贋を考えるから疲れるのであって、信じるなら信じる、信じないなら信じないという決めうちをしとけば疲れないと思うんだ。
確かにそうできれば、心理的負担は軽くなると思う。
でも、自分にとって「嘘か本当か」「矛盾はないか」は無意識の心の習慣みたいになっているから、簡単に変えるのは難しいかもしれない。
増田にとって「金がかかるかかからないか」を無意識で判断している(だろう)のと同じで。
やはり老害はだまって消えるべきだったなあ。
ありがとう、反応してくれて。
さてこんな文章を見たのです。
[文系が、インターネットの仕組みについて教えてもらった記録 - のんたんのインターネット日記]
酷い。
てへぺろじゃねーよ。
ブコメみたら、あぁ皆さん優しいなぁ〜って。
「知ってる人からみたら当たり前、でも知らない人からしてみたら凄い事なんだぞ★」みたいなのは基本的に戯言だと思っていて、
なぜなら彼女は「知っておくべき立場」ですよね。「インターネットの会社」の中の人なのだから。
あの、申し訳ないのですが、はっきり申しまして「この人が営業に来たら嫌だな」。まずはこの一言に尽きる。
だって、知識がないんでしょう?
普通の人が「頑張って勉強してます」を実直に語るのは素敵な事だと思うのだが、
「インターネットの会社の中の人」なのだ。外から見たら変わらない。シス担だろうとマーケディレクターだろうと、「インターネットの専門知識を持つ人」なのだ。
少なくとも、彼女は企業名をヒモ付したアカウントで、当該の日記を書いている。
そんな訳で、ちょっと話が変わってくるのだ。
まぁ、確かに?企画/アプリレイヤーならインフラ周りとか一切分からなくても良いでしょうよ。
まして営業となると、余計そうでしょうけど。
うん、確かにそうだ。
って事で用意してくださった研修、これの意味を軽く考えていないか。
会社としては、趣味なんかではなく「必要だから」企画したはず。
なのだが、一体いつまでの期間で行われていたかは知らないけれど、
彼女は9月の時点で「えーれこーど」の事が分かってなかったらしい。
いや、この文章が、それをありし過去の事として、段違いに成長した今の自分の目線で語ろうという試みならば痛快だった。
だがどうやら違うのだ。
理解がね、とても遅いのです…
終盤に綴られたこの一言は、当人の自覚以上に余りに色々を語っていると思う。
体系的に書かれているサイトがすごく少ない
そうかもね。
でもさ、本屋で少し立ち読みとかしてみた?一流のテクニカルライターとプロの編集者が高い意識でまとめた作品が、たくさんあるよ。
家にいながら指を10本だけ使う作業によってカバー出来る範囲だけが「勉強」だとは、とても思えないです。
ともすれば、「インターネットに書かれてないことは分かりません!」って無意識に思い込んでるよね。「逆切れ」、ってそういう事だろ。
惜しいなあ、その悔しさをバネにした素晴らしいエピソードも載せて欲しかったな。
大変だ。(笑)
というか、「理解」するまでを「学び」というのでは。理解してない、ならそれを恐らく「学び」とは言わない。
いやはや、恥ずかしくないのか。
周りと比べたら、多分遅れてるよね。同じ選考を通過して、給料で働かせて貰って。
鑑みるに、「勉強したら、分かるんだね」という経験を今までしたことが無いのかも知れない、
「知識は人に教えてもらうもの」と、そう思い込んでませんか。
第一、タイトルからして「文系」などとう言い訳がましい冠を自ら被っている。
職種は、業種は。「文系」
業務領域に対する意識の低さを見事に露呈してるようで、それがとても鼻に付く。
この文章がムカつくところは、そこだろう。
たぶん社内SNSで日報として学びをUPするのはとてもいいコミュニケーションであり、等身大の自分を伝えたほうが上司にとっても有難いだろう。
なぜ、はてブロに書かなければならなかったのか。
「ソーシャルメディア」に載せるというのは360度どこから刺されてもおかしくないリスクがある訳だが、
そこで「専門領域」に関して「素人」となる事に関して、何も気持ち悪さを感じなかったのだろうか。
15回ほど色んな方に説明をしていただいていました
そのうち、10〜13回くらいはうんざりされたんじゃないかな。どうだろう。
翻訳は、村上の作品を組み立てる原理だとさえ言えるかもしれない。
彼の作品は翻訳されているだけでなく、翻訳についてのものだと考えられるのである。
村上的ストーリーにおける至上の愉しみは、とても普通の状況(エレベータに乗っている、スパゲッティを茹でている、シャツをアイロンがけしている、など)が
突然非日常(不思議な電話を受ける、魔法の井戸に落ちる、羊男と会話する、など)へ変貌するのを見ることだ。
言い換えるならそれは、登場人物が存在論的に盤石な立場から完全な異世界へと投げ込まれ、
たどたどしくも二つの世界の間をとりもつことを余儀なくされる瞬間だ。
村上作品の登場人物はある意味でいつも、根底から異なるいくつかの世界のあいだで翻訳をしている。
言い換えれば、彼の全作品は翻訳の作業を劇に仕立てたものなのだ。
村上の車の後部座席に戻ろう。
多くの企業の本社や、巨大な船のかたちをしたラブホテルを通り越していく。
およそ1時間後、風景は急峻な山道になり、私たちは村上の家に到着した。
木の生い茂る丘の上、山と海の間にある、こぎれいだが平凡な外観の二階建てだ。
靴をスリッパに履き替え、村上に連れられて彼のオフィスへと入る。
自らデザインした小部屋であり、『1Q84』のほとんどはここで書かれた。
同時にそこは彼の膨大なレコードコレクションの住処でもある。
(10000枚くらいだろうが、怖くて実際に数えてはいない、と彼は言う)
オフィスの幅広い壁二つは、床から天井までアルバムで覆いつくされている。
山々に向けて突き出している窓の下、部屋の端には巨大なステレオスピーカーが君臨している。
室内のもう一つの棚には村上の人生と作品にまつわる思い出の品々がある。
彼が『海辺のカフカ』で殺人者として想像したジョニー・ウォーカーを描いたマグカップ。
はじめてマラソンを完走したときの、くたくたの彼を写した写真(1991年ニューヨーク市にて、3時間31分27秒)。
壁にはレイモンド・カーヴァーの写真、グレン・グードのポスター、ジャズの巨匠の肖像がいくつか。
村上がもっとも好きなミュージシャン、テノールサキソフォンのスタン・ゲッツの写真もある。
私はレコードをかけてもらえないかと頼んでみた。
『1Q84』の始まりを告げ、その物語のなかで繰り返し鳴り響く曲である。
それは速く、アップビートで、劇的──まるで普通の曲が5つ、ペンキの缶のなかで決闘しているかのようだ。
同時にそれは熱狂し、ねちねちとした、暴力的な『1Q84』の冒険の主題曲として、もっともふさわしい。
村上はその奇妙さを買って「シンフォニエッタ」を選んだという。
「オーケストラの後ろにトランペットが15人いた。変だった。すごく変だった……その奇妙さがこの本によく合う。この物語にこれ以上よく合う音楽は思いつかない」
彼は何度も何度もその曲を聴いて、そして開幕のシーンを書いたという。
「シンフォニエッタを選んだのはまったく人気がない音楽だったからだった。でも本を出版してから、日本では人気が出た。小澤征爾さんに感謝されたよ。彼のレコードがよく売れたからね」
「シンフォニエッタ」が終わると、私は最初に買ったレコードは何か覚えているかと尋ねてみた。
彼は立ち上がり、棚をごそごそと探して、一枚のレコードを手渡してくれた。
「The Many Sides of Gene Pitney」。
カバーを飾るのは、華やかな姿の Pitney。60年代前半のアメリカのクルーナー歌手である。はまだらのアスコットタイに艶のある赤いジャケットを着て、髪型は崩れ落ちる波を凍らせたようにみえる。
村上は13歳の時、このレコードを神戸で買ったという(当初のものは擦り切れたため、何十年か前に買い直している)。
針を下ろすと、流れ出す Pitney の最初のヒット曲「Town Without Pity」。
劇的な、ホルンの即興とともに Piteny の歌声が黙示録的な叫びを歌う。
「若者にはつらいことがある、たくさんある/分かってくれる人がほしい/助けてくれよ/土と石でできたこの星が壊れるまえに」
終わると村上は針を上げ、「バカな歌だ」と言った。
『1Q84』を書いているあいだ、『1984年』を読み直したかと尋ねてみた。
彼は読み直したといい、それは退屈だったという。
(これが悪い評価だとは限らない。野球のどこが好きかと尋ねた際、彼は「退屈だから」と答えた。)
「始まりはいつも暗く、雨で、人々が不幸せそうにしている。コルマック・マッカーシーの『The Road』は好きだし、よく書けているけれど、でも退屈だ。暗いし、人間が人間を食べるし……ジョージ・オーウェルの『1984年』は近未来小説だけど、この本は近過去小説だ」
『1Q84』について「我々は同じ年を反対側から見ている。近過去なら退屈じゃない」
「オーウェルと僕はシステムについて同じ感じを受けていると思う」と村上は言う。
「ジョージ・オーウェルは半分ジャーナリストで半分小説家だ。僕は100パーセント小説家だ……メッセージを書くことはない。よい物語を書きたい。自分は政治好きな人間だと思うけれど、政治的メッセージを誰かに向けることはない。」
とはいえ村上はここ数年、彼にしては珍しく、政治的メッセージを大々的に言明している。
2009年、批判のなか彼はイスラエルでエルサレム賞を受賞しに行き、そこでイスラエルとパレスチナについて語った。
この夏、彼はバルセロナでの受賞式典の機会を利用して日本の原子力行政を批判した。
一度目はまったくの被害者としてだったが。
バルセロナの演説について尋ねると、彼はパーセンテージを少し修正した。
「市民として言いたいことはあるし、求められればはっきりと言う。あのときまで原発について明確に反対する人はいなかった。だから自分がやるべきだと思った。自分にはその責任がある」
演説に対する日本の反応は概ね好意的だったという。
人々は津波の恐怖が改革への媒介となってくれることを、彼と同じように、期待していたのだ、と。
「これは日本にとって転機になると、日本人のほとんどが考えていると思う」
「悪夢だけれど、変化のチャンスでもある。1945年以来、僕たちは豊かになるために働いてきた。けれどそれはもう続かない。価値観を変えなければならない。どうやって幸せになるかを考えなければならない。お金でもなく、効率でもなく、それは人格と目的だ。いま言いたいことは1968年から僕がずっと言っていることなんだけれども、システムを変えなければならないということ。今は、僕たちがまた理想主義者になるべきときなんだと思っている」
その理想主義はどんなものか、アメリカ合衆国をモデルケースとして見ているのか、と尋ねた。
「いま、僕たちにはモデルケースがない。モデルケースを作り上げなければならないんだ」
地下鉄サリン事件、阪神大震災、そして今回の津波……現代日本の数々の災害は、驚くほどにまで村上的だ。
地下での暴力的な衝動、深く隠されたトラウマが大量破壊を引き起こすものとして現れ、地上の日常を襲う。
彼は深さのメタファーを多用することで知られる。
登場人物たちはカラの井戸に降りていき、東京の地下トンネルに生きる闇の生き物に出会う。
(彼は別のインタビューで、井戸のイメージをあまりに何度も使って恥ずかしくなったため、8作目以降、できるだけ使わないように心がけたと話している)。
毎日机に向かい、集中力に満たされたトランス状態の中で、村上は村上的キャラクターになる。
それは、自らの無意識の洞窟たる創造性を探検し、見つけたものを忠実に報告する、普通の人物である。
「僕は東京に住んでいる。ニューヨークやロサンジェルスやロンドンやパリのように文明的といっていい世界だ。
魔法じみた状況、魔法じみた物事に出会いたければ、自分の中に深く潜るしかない。だから僕はそうしている。
魔法的リアリズムとも呼ばれるけれども、自分の魂の深みのなかでは、それは単なるリアリズムだ。魔法ではなく。
書くときには、非常に自然で、論理的で、リアリスティックで、合理的に感じる。」
執筆しないとき、自分はどこまでも普通の人だと村上は強調する。
彼の創造性は「ブラックボックス」であり、意識的にアクセスすることはできないという。
彼はシャイであり、メディアにあまり登場したがらない。道端で読者から握手を求められた時にはいつも驚く。
人が話すのを聞くほうが好みだと彼は言う。
実際に、Studs Terkel の日本版のようなものとして彼は知られている。
1995年サリンガス事件があったとき、村上は被害者65人と被疑者らを1年かけてインタビューし、
その結果を分厚い2冊組の本として出版した。
のちにそれは『Underground』として、大幅な簡略化をしたうえで英語に翻訳された。
この会話が終わったとき、村上はランニングに誘ってくれた。(「僕が書くことについて知っていることのほとんどは、毎日のランニングを通して学んだ」と彼は書いている)
身軽で、安定していて、実践的だ。
たがいの走り幅がつかめて1、2分たつと、村上は自分が単に「丘」と呼ぶところに行ってみないかと尋ねてきた。
それは試合の申し込みか警告のように聞こえた。
そんな言い方をした理由はすぐに分かった。
というのもまもなく「丘」を登り始めることになったからだ。
もはや走るというよりは、急な坂にさしかかって足をとられているというほうが近く、
地面が傾いたランニングマシーンのように感じられた。
道の終わりに向けて一足踏み込むと同時に私は村上に向けて「大きい丘でしたね」と言った。
そこで彼は指をさして、先にジグザグ道が続いており、私たちはまだほんのひと曲がり目を終えたにすぎないということを教えてくれた。しばらくして、二人の息が切れ切れになってくると、このジグザグ道には終わりがないのではないかと心配になってきた。
上へ、上へ、上へ。
しかし、やっとのことで、私たちは頂上に着いた。
海ははるか下に見えた。
それは秘められた巨大な水世界、日本とアメリカのあいだの、人が住まない世界だ。
その日見たかぎり、水面は静かだった。
そして私たちは下りを走り始めた。村上は村を通る道に誘ってくれた。
大通りのサーフショップ、漁師の家がならぶ界隈を通り過ぎた(彼はそのあたりの庭に古くからの「漁師神社」があるのを指差して教えてくれた)。
空気は湿っていて塩のにおいがした。
私たちは並んで浜まで走った。
村上がかつて名もない翻訳者だったころセントラルパークでジョギングをともにしたジョン・アーヴィングについて話をした。
セミについても話をした。
何年も土のなかで生き、地表にぽっと出て、わめき、最後の数ヶ月を木の上で過ごすのは、どんなに変だろうかと。
走り終えて家にもどると、私は村上の来客用バスルームで着替えた。階下で彼を待つ間、食堂のエアコンの風を受けて立ち、大きな窓からハーブと低い木のある小さな裏庭を見ていた。
最初それは鳥 – おそらくはその飛び方からして変な毛をしたハチドリのようにみえた。
が、すぐに2羽の鳥がくっついているようにみえだした。
飛ぶというよりはふらついているといった感じで、体の一部がそこかしこから垂れ下がっているようだった。
最終的に、それは大きな黒い蝶だと私は結論づけた。
見たことがないほど変な蝶だった。
浮かびながら、異星の魚のようにひらひらしつづけるその姿に幻惑させられ、
私はそれを既知の何かに分類したくなりかけたが、成功することはなかった。
それはひらひらと、およそ村上と私が走った道を引き返す形で、山から海に向けて飛び去った。
蝶が去ってまもなく、村上は階段を降りてきて、食堂のテーブルに静かに腰を下ろした。
見たこともない奇妙な蝶に遭遇したことを伝えると、彼は自分のボトルから水を飲み、私を見上げて言った。
「日本には色々な蝶がいる。蝶に会うのは変なことじゃない」
『友達が予知夢を見た』そんなスレが2ちゃんねるに立てられてから早半年が経ちました。
あの時の凍てつく寒さは嘘のように、梅雨独特のじっとりとした空気で汗ばむ部屋でこの文章を書いております。
当たり前といえば当たり前の話かもしれません、友人(彼女)は預言者でもなければ予知者でも無かったのですから。
しかしながら、一連の原因は自分にもございます。どうか彼女だけを責めないで欲しい……
話は遡ること2011年3月11日、僕と彼女は震災のど真ん中におり、そして身内は誰一人として帰らぬ人となりました。
天涯孤独となった僕と彼女は県外へ脱出し、二人で新たな生活を始めました。
もう何も失う物はない、僕と彼女はこれから先の人生を二人で築き上げていくつもりでした。
しかしながら、震災から数日経ったある夜、夜中に突然、彼女が驚いた顔で僕に言いました。
最初は震災のトラウマがまだ癒えていない、時間がそれを解決してくれるはずだと思ったのですが数ヶ月経ってもそれは治る事はありませんでした。
医師の話によると、あの時の震災のトラウマによって彼女の精神は無意識に3月11日以前に取り残されてしまったとの事でした。
無理もありあません、身内がいなくなってしまった世界は彼女にとって生きる価値の無い世界だったのです。
その結果が予知夢として彼女を苦しめ続けているのだと、初老の医師は僕に言いました。
そんな中、僕はそんな彼女の苦しみを少しでも救ってあげたかった!
今更、そう言ってしまうと言い訳になってしまうかもしれません。
後は皆さんのご存知の通りだと思います。
まとめサイトを通じてどんどんとネット上に拡散し『私も同じ予知夢を見た!』という者さえ現れました。
結果として、皆様に多大なるご心配とご迷惑をかけてしまった事につきましてはお詫び申し上げます。
しかしながら、未だ彼女の予知夢に終わりは無く、彼女が救われるのは皮肉にも
本当に地震が起こってしまい予知夢が的中した時ではないかとさえ最近では感じております。
今回の一連の流れによって皆様にご心配とご迷惑をおかけ致しました。本当に申し訳ございません。
『おや……地震か?』
私は女を捨てられない。
今日捨てたいと思って、また明日捨てずにおこうと思う、それの繰り返しだ
それは恐らく、セックスを道具にすることへの罪悪感と、
それでも、その道具を磨いて幸せになろうとしている自分との間で
揺れ動くからなのかもしれない。
(自分が愛されたい人以外の)性の対象になりたくないと思いながら
むなしさとばかばかしさを覚えている。
だけど、そこから降りることも出来ない…
どうしようもない葛藤を抱えながら、
激しく入り乱れているのかもしれない。
結論付ける。
最後に、象徴的な一説を紹介して
終わりとしたい。
「なんでさぁ女ばっかり化粧しておしゃれして、かわいくいなきゃいけないのか、
私分かっちゃった。結局さぁ子供を作るためなんだよね。
男から子種をもらうために、気を惹くために
五体満足で健康で居なきゃならない」
先に結論から書くと、グローバル化のことは、「外資系社員ではなくて、中小企業のオヤジに聞け」ということ。
外資系の人は、大企業の人間に聞くよりはマシだろうけれど、かなりのポジショントークにならざるを得ない。
日本が好きで、日本のことを思い、本当にヤバいという焦りの気持ちを、叩かれるのを覚悟で率直に伝えてくれたのだとしたら
私はむしろ感謝すべきなのかもしれない。それでもあえて苦言を呈したい。
論点が盛大にずれている。というかこれポジショントークだよ。
彼は正しく現実を観て、正しいことを言ってるとは思うけれど、意識的にか無意識的にか、自分のポジションの価値を上げるよう誘導する表現をしている。
グローバル化についてはドラッカーがまだ邦訳されてない論文でこういうことを言っている。適当に要約するとこんな感じ。
まるでグローバル化そのものに価値があって、それに適応することが自分の価値を高めるかのようなことをまくし立てる愚か者のことだ。
グローバル化と呼ばれる流れで変わるのは、単に競合が国内にとどまらなくなるということだけだ。
どれだけ価値を生み出せるか、どれだけ高い生産性を保つか、という今まで私がしてきた問こそが重要であるという事実は変わらない。
新しい競合と比べて、より高い価値を提供できるか、それだけが問題なのだ。
英語や最新のテクノロジーをみにつけても価値を提供できない奴は結局職を失うことになる。
グローバルという言葉に踊らされ、目新しいことをそのものに価値があると信じて意味のない努力をするのではなく、
今まで通り、目の前の客に少しでも価値のある仕事を提供するに自分をどう磨いていくかを考えろ。
繰り返す。グローバル化や最新テクノロジーそのものは技術の変化にすぎず、イノベーションではない。
イノベーションとは現在のサービスの価値を高め、新たな顧客を生み出す変化のことであり、それこそが重要なのだ。
考えなしに新しいテクノロジに乗り出せば成果が得られると思うやつは、考えなしに多角化して失敗した一世代前のエグゼクティブから何も学んでいない。
言ってることは上のtogetterと同じだ。でも印象が違ってくるのではないか?
どちらの説を取るにせよ価値のない仕事をしている、競合と比べて費用対効果が悪いバックオフィスは切られる。この結果は変わらない。
結果が同じならそれでいいじゃないか、という人もいるかも知れないが、そういう考えだと、外資系の人だけが潤うだけだ。
ドラッカーは上の人のように、グローバル化に乗り遅れなければ助かる、というようなミスリードはしていない。
英語なんぞを頑張るよりは、世界に誇れる仕事をして、新しい価値を生み出すことを考えろ。
何でもアメリカルールに揃えようとするな、それよりは自分らしいやり方で独自の価値で勝負しろ、と言っている。
上記記事は、失礼ながら形だけ見たら植民地化された国で、まっさきに奴隷監視役を請け負って中間支配でおいしい目を見ようとする類の人と変わらないように思う。
彼は善意でこういうことを書いてくれたと思うからこそ、この手の微妙な話は伝え方に気を使って欲しい。ちゃんと真実を、誤解のないように伝えて欲しいと思う。
ぶっちゃけ、彼の言いかただと日本やばいですよと煽った挙句に、問題は解決しないどころかよりドツボにはめる結果になりそうだ。
そして彼のような人だけが儲かる結果になる。そういう結果になった時、自分の言った発言に責任が取れるのだろうか。
せっかく外資系で、日本の中に閉じこもってる人より世界の現実を見てるんだったら、
いかにして日本はアメリカ流に屈せずに自立自存の道を歩めるかまでちゃんと「自分の頭で考えて」それを伝えて欲しい。そういう議論ができるのが外資系のいいところとちゃうの?
これって日本を知らないアメリカ人が自分たちの作法が絶対的に優れてるという前提で語ってることを、日本人側として素直に受け入れちゃってるような気がしてならない。
上の記事の人にはすみません。言いがかりみたいな記事を書いてしましました。完全に憂さ晴らしです本当にありがとうございました。
私が勤めてるSI企業ってのは、この人の何倍も腐ったアメリカマンセーなコンサルタントさんがですねうわなにw
なんだかんだ偉そうに言ってるシステム屋より、実際に海外と勝負して売れる価値を作ってる彼らのほうが偉いし、ずっとよく物事を考えてる。
…というタイトルの記事の本当の目的は「○○は××」という前提を無意識に読み手にすり込ませる事。
この種の記事に対して本当に上げるべき声は「別に○○は××じゃねえだろ」と、記事の根幹を突き崩す事。
昨日もやもやして眠れなかったけど考え抜いて分かった
私たち人間が日々誰かをdisり、disられ忘れ去られた過去の淘汰され弱者の存在の上に幸せがある
「一番の仕返しは幸せになること」という言葉は自分の中だけでそう思うならともかく
他人にそれを言った時点で
「いままでいじめられた分、強くなったべ。俺たちに感謝しなさい」という言葉と同質の
自分の今まで他人に行ってきた過去の仕打ちを棚に上げておきながら、他人にモラルを求める
恥を知らない言葉だと気づいた
あの人がクラスでいじめられていなければ、ターゲットは私だったかもしれない
あの人がパラハラを受ける的になっていなければ、ターゲットは私だったかもしれない
あの人が殴られていなければ、ターゲットは私だったかもしれない
そうやって過去に誰かが代わりに犠牲になってくれたからこそ、幸せは壊されなかった
過去そして現在の弱者の犠牲の積み重ねの上に私たちの幸せは成り立っている
己の恥を知りつつそれでも「一番の仕返しは幸せになること」と言うのと
ただRTされた言葉が何となく良さげだから何も考えず、今まで他人に行ってきた過去の仕打ちを棚に上げて
「一番の仕返しは幸せになること」と笑顔で言うのではまったく違うし、言われる側にもそれは見透かされるだろう
無意識に他人にモラルを押し付けて優越感を感じたくてそう言ってる人と、励ましたいけど自分の頭で考えた言葉が無くて
自分はこんなにタブを開いているが読んでいるのだろうか、全て読む必要があるのだろうか、したいことはなんだったんだろうか。
はてブやツイッターを見ながらタブでどんどん開いていき、読むのがめんどくさくなったらブクマをはる。なんのための情報集めだったんだろうか。
有益な情報がたくさん見つけられて、興奮する瞬間もある。
『有益な情報』、特に『ライフハック』と呼ばれるものは”方法論”で、”こうすればうまくいく”とか”これはよんどくべき、やっておくべき”だとか。
そんなこんなで、情報を集めたあと、実際に自分の行動を選択する瞬間がやってくる。
現実に活かす時だ。この時を待っていた。
有益な情報の中から『選択』をする。全てをやる時間はないし、それぞれの情報には齟齬が生じる。そこで取捨選択が必要になってくる。
このときに無意識なうちに心がけてしまうのが、『一番公平で』、『一番万人に通用しそうな』、正しく一番『合理的な』方法や情報はどれであるか。
ここで変なのが、はなっから『自分』が存在しないということである。合理的というのはいかに自分を消すかということであり、万人に通用するような一般則をみいだすかである。自分という文脈を完全に無視している。ある意味自分を否定することから始まる。
もう一つおかしなことがある。選んでいる自分自身は『合理的』・『無私的』かもしれないが、その情報は論理の飛躍があるかもしれないし、誰かの主観が凝り固まったものかもしれない。
ここで言いたいのが、論理の飛躍や、主観の凝り固まりが情報の質を著しく損なうものであるかといえばそうでもない。
むしろ、強烈に面白いと思われる物、人、情報は往々にしてなんらかの論理の飛躍、論理では説明できないなにかを内包している。
面白いというのは価値である。絶対である。面白さ=品質である。
しかし、面白い情報を集めることに意味があるのだろうか。それらを厳選して、凝縮して、合理的に、無私的に。
集めている段階から自分を殺しているのだから、自分の血にも肉にもならないし、なったとしても魅力的ではない。つまり面白くない。
情報の質はそれぞれ高いかもしれないが、それが脈絡なく量となって降りかかって来る頃には無価値となる。
結局人が求めているのは成長と共感である。自分自身の成長を感じる、か、自分自身と照らし合わせる、の2択である。
その情報が嘘かホントか、合理的か非合理的か、が問題になる情報は少ないし、そもそもインターネットという媒体にはそぐわない。
嘘でもいい。自分にフィードバックがあれば。自分にフィードバックを求めるためには、インターネットの中に自分を置かなければならない。虚構の固まりの中に。
発しなければ、返ってこない。今受け取っているものはその他大勢に発せられた無価値なものである。孤独を催させ、自分を否定するだけのものである。
ライフログとしてのインターネット。情報を体験に変えるものと信じて。
いつも何気なく、インターネットを見ていたブラウザ、Internet Explorer。Safari。どれもただブラウズ=閲覧という意味を越えている。
もともとそうなのかもしれない。自分自身が入っていかなければならないのかもしれない。インターネット探検家として。
インターネット探検家。私自身、いつもそうありたいと思っています。
そして今、卒業して新たな人生を踏み出すあなた方にもそうあってほしい。
ありがとうございました。
スティーブ・ジョブズの影響だろうか。
こちら http://blog.tatsuru.com/2012/01/09_1228.php とか
最近2~3そういった話を見たと感じ、検索したのだけど、1つしか見つからなかった。
まったくもって、ピンとこないというか、感動しない。
むしろ煙たく、なに手を差し伸べているの。という気すらしてくる。
まるで同情するなら金をくれ!の心境だ。
でも言っていることは、まあ正しいだろうし、お気遣いありしゃしゃしゃー。
という感じなのである。
でも、読んだ後の、もやっとした感じする。
なぜか考えてみている。
たぶんモヤモヤ感は
ドヤ顔で「君がつらいのは分かっている。君はもうダメなのだから気にせず行こうよ。」
いやそれ以外に全然違う要素があるだろ。
オタクコンテンツは主人公が駄目男だけど(君望も主人公は当時男ユーザーにすらヘタレと叩かれまくった駄目人間なのに、
男向けでも非オタク向けコンテンツだと主人公(男)のスペックが高いものが多いけどね。
これが出た当時ネットでは男にだけやたら大絶賛されてた理由が分かる気がするわ。
立ち読みして見当違いな事ばかり書いてるなーとしか思わなかった記憶がある(内容はすっかり忘れたので具体的な事は聞くな)けど
男からしたら納得出来るんだな。
「成功は、他力によるものこそ羨ましい!」という女の心性をひとまず心にとどめておいてください。
(エビちゃんシアターの)話は方便であって、エビちゃんの可愛さとシチュエーション別着回しがあり、イケメンに求愛されつつ、本命と結ばれれば良い。
求愛役となる「間男」にこそイケメンは配置される。そして誠実で優しいが言葉しかよこさない男より、間男(イケメンで金持ちでティファニーをプレゼントしてくれる)のほうが重要、という間男のテーゼが繰り返される。
意識的と言うよりは、作り手と読者の願望そのものが、幾度もコピーされるのである。
しかし、話がどうでもいいからには、むき出しの構造と身も蓋もない本質が現れる。
何の本質か?エビちゃんに自己投影したい女の、ファンタジーの好みである。
本田透は、女が忌み嫌うオタクのアニメやゲームの多くが、女好みのドラマと全く同じであることを見抜いている。
たとえばパソコンゲーム「君が望む永遠」は韓流ドラマ「天国の階段」。
やってることは同じだろ!恋愛!交通事故!記憶喪失!三角関係!嫉妬!妹!
ただ、オタクコンテンツと女が女のために無意識で作ってしまうコンテンツの間には、たった一点、違いがある。
古来、ドラマというものは苦労人の方に感情移入するように作られてきた。シンデレラを思えばいい。
それが女性誌型のドラマだと、「苦労知らず」の方が一人勝ちするのである。
それは本来はドラマにはならない。「冬のソナタ」野本ネタとも言われる日本の漫画「キャンディキャンディ」になぞらえれば、
いじめっ子の金持ち娘イライザが美人で性格もよくもちろん金持ちで男全員にモテモテ!みたいな話なのである。
それが、女の人生ファンタジー。何だろうこれ、妄想というのさえ疲れてきたが・・・。これが女がオタクを近親憎悪する理由なのだろうか。
エビちゃんが演じさせられることの、あり得なさがやたらにリアルなのである。背後にいる女たちの夢の在り得なさ、そのもののようで。
エビちゃんの演じさせられるOLは、手持ちの服と旬のアイテムをいかに効果的に組み合わせ自己プレゼンするか。そしてお話能力と関係調整能力だけ、
すなわちほとんど見た目とその個人の愛される質だけにたよった仕事であるとしか読めないようにできている。
エビちゃんが演じるOLの内実がどう描かれているのかをよく見ると、作り手が彼女に託したい夢の自画像のようなものが見えてきて、胸が苦しくなってくる。
それは、男女雇用機会均等法が決して果たさなかった約束であり、これからも果たすことがないと定款ないし絶望している女たちの夢のようである。
要するに、韓流ドラマっていうのは今で言うと豚向けアニメってことだな。
女は男がブヒィィ言うはるかに前から韓流ドラマでブヒブヒしてたわけだ。
女のほうがはるかに欲望に忠実で、それを早くから、しかも現実の人間を使ってドラマに仕立てあげてたわけだ。恐るべし。
で、オタクどもはそれの後追いにすぎない。
オタクって、偉そうなこと言ってるけど、想像力や執念においてそんじょそこらのブヒ女にはるかに劣る。まだまだ常識に囚われてる奴が多いってことがわかるね。
ついつい「これはやり過ぎなんじゃないか?」とかブレーキが掛かっちゃうんだろうね。
エロ方向だけは際限なく好奇心旺盛だけれど、もっと本質的な所で欲を持てない。弱い弱い。
もっとシャルとか牧瀬紅莉栖みたいなキャラをどんどん創り上げて、エロ方向よりもっとえげつない所で欲望を満たしていけばいいのに。
15年以上前の話、小学校低学年だった頃、クラスの女子にイジメられていた。キモい、ウザい、死ねとイジメられていた。
暴力的なイジメはなかった。常に精神的な言葉や態度に依るイジメだった。
今思えば、肉体的な暴力的なイジメだったら、反撃できたと思う。言葉によるイジメには反撃出来なかった。『女の子に暴力を奮ってはいけない』という道徳律に縛られていた。
女子に対する言葉による反撃は何の意味もなかった。一対多では端から勝ち目がなかった。
学校ではずっとイジメられていた。小中とずっと、女子にイジメられていたから、いつの間にか自分は『そういう立場に置かれている存在』だと思い込んでしまった。
本当は思い込まなくてもよかった。塾では普通に皆と、和気藹々と会話できていた。でも、学校の場の空気が自分をイジメられっ子の立場に押し込んでいた。
イジメられ続けたまま、小中学生時代が終わった。小6の時に自殺しようと思ったけど、出来なかった。今思えば此処で終わらせておけば楽だった。
結局、誰も助けてくれなかった。教師は事なかれ主義から、明らかに俺のことを見て見ぬふりをしていた。親はイジメられている俺を不甲斐ないと怒鳴るような人間だった。母親は『男なのにそんなだと馬鹿にされるよ』が口癖だった。
高校に入り、ネットなどを見始め、身近にある友人関係や家庭は破綻していたので、身近でない、遠方にある社会的な話題に触れることが多くなった。
思えばコレが間違いだった。ただ、自分にはどうしようもなかったと思う。身近な人間が誰も助けてくれなかったし、悪意を向けてくるのみだったから。政治社会的な話題を用いて、自分を慰撫するしか無かった。つまり、たとえば悲惨な家庭環境にある人間が、「虐待は悪」という社会的メッセージを読んで、救われるという流れだ。その頃の自分は、無意識に「女子からのイジメ」を慰撫できる社会的メッセージを探していたのだと思う。
ネットで、自分と同じ立場の人間が居ないか、イジメの話題で調べるようになった。結果として、吸引されるように、喪板などを見始めた。
『そういう立場に置かれている存在』の女性からのイジメ経験談が書きこまれていて、似たような人がいることを知って、多少救われた気がする。
『そういう立場に置かれている存在』に名前が付けられていたことを知った。『非モテ』だった。
そのうち、「はてな」も見るようになった。「はてな」で知ったことは、ミソジニーなどの単語や、ジェンダー論や非モテ論で、男性は強者であり、社会的に自省するべきと規定される存在だと言うことだった。
これには、イラついた。
だが、自分と同じような立場にある『そういう立場に置かれている存在』を名指しして、「政治的に正しい人達」がその内面を断罪していた。女性に対する恨みなんて無かった。ただイジメから来る惨めさから、後退しているだけなのに、散弾銃でミソジニー、悪、などと指摘してくる正義の人達が居た。全くの他人に対する指摘だとはわかってるけど、散弾銃の弾が自分にも当たってて痛かった。
どこか自分が悪い気がしてきた。でも自分は悪く無いと思っていた。自分はどう考えても強者ではなかった。イジメられていた弱者だった。でも自分の内面が断罪されているように思えた。本当は誰かに慰撫して欲しかった。身近な人間でなくても、単なる社会的メッセージでもよかった。誰もしてくれなかった。『キモイ奴は一人で死ねば』だとか『男性は強者で自省すべき』だとかそんな言葉しか無かった。
はっきり言って、『弱者』『少数派』と認定されて社会的に慰撫して貰える『社会的弱者』が羨ましかった。自分はマイノリティにすらなれない、イレギュラーだった。
このような話題や、議論を見ている内に、悪性サイクルに取り込まれた。
こんなことはもうやめる。馬鹿だった。
自分はただ、イジメられている時に、助けて欲しかっただけだった。
身近な人間は誰も助けてくれなかった。遠方から発せられる、社会的なメッセージは、男性は強者であり悪いと断罪していた。
非モテだとか、弱者男性だとか、ジェンダー論だとか、本当は、全てどうでもよかった。
そもそも『モテ』や『非モテ』には一切の興味がなかったし、恋愛はどうでもよかった。自分は草食系どころか霞食系だった。社会構造などもどうでもよかった。ジェンダーもどうでもよかった。政治思想的に男性を断罪する人達が指摘する『内面』は、自分には一切関係のないものだった。他人が勝手に内面にありもしないものを見出して来たから、もしかしたから自分にもあるのかもしれないと思い込んでしまっただけだった。女性に対する恨みなんて存在しなかった。身近な人間が誰も助けてくれなかったから、政治思想に何か縋れるものがあるのかもしれないと思い込んでしまった。自分は馬鹿だった。
女子からのイジメによって発生した惨めさが、子供の頃に解消されず、いつしか政治思想的な話題に吸引されて、悪性サイクルに取り込まれていたに過ぎなかった。
本当にばかみたいな話だ。
こんなことは、2011年ですべて終わりにする。
女性ファッション誌に、「体型の悩み別!似合う靴選び特集」みたいな記事があって、
スニーカーやローヒール靴などの「ボーイッシュかわいい」「ナチュラルかわいい」種類の靴は、
脚が太いことについては、自業自得デブ女の場合もあるけど、多くはヒザの骨格に依存する。
上半身がガリガリでも脚だけ太いのは必ずこのタイプ。脚の骨格が太いから肉を減らしても太く見えて不恰好。
ローヒールの靴はその不恰好さを丸出しにする。
逆に、脚の欠点をカバーできるのが女性らしいパンプスと、女性らしいきれいめシルエットのロングブーツ。
ヒールが脚全体を長く見せ、パンプスやロングブーツは足首がどこにあるかをあいまいに見せてくれる。
そしてボトムは女性的なシルエットのフレアスカートが鉄板。すその広がりと脚のギャップが脚を細く錯覚させる。
全身丸々としたデブだったら何着たってごまかしにならないけど、下半身だけ先天的に残念なタイプは、
「女らしいボトムと靴」を装備することで結構誤魔化せる。
でも男の「ボーイッシュorナチュラルな女の子が好き」が、その誤魔化しを打ち砕くんだなあ。
男が大好きなストレートヘアやショートヘアは、「顔がでかい」という欠点を全く誤魔化せなくなる髪型。
ロングにして大きなロットで巻いたり、内巻きのボブなんかにすると顔デカは結構ごまかせるのだけど。
ナチュラルメイクが好きなのも、ブスが後天的に美人偽装する努力を打ち破る。
そうして男は無意識のうちにブス虐待、短足虐待、太脚虐待、顔デカ虐待を行っているわけですけども、
当然女も逆の虐待を行っているわけで、それはなんだろうと考えたとき「スーツ」と「短髪」だ!と気が付いた。
スーツは身長が平均以上無いと驚くほど似合わない。よって、スーツフェチ宣言=チビ男虐待。
短髪は顔のデカさを際立たせるし、雰囲気イケメンの雰囲気部分を剥ぎ取る攻撃性がある。よって、短髪フェチ宣言=顔デカ男、雰囲気イケメン虐待。
結局異性の好みって先天的要素にばかり偏っている気がする。
リマインドしようにも、これを書いた人(=自分)の学力だと読めない本だったから無理。無理ゲーだった。
第一章
1
意味論的に透明なシステムと結びついた心の概念および計算機モデルを意味する。
この主義の限界を
2
チューリングの形式化が持っている特徴
(1)物理的組織によってではなく、記号操作の形式的特性によるメカニズムの集合全体を包括
(2)そのメカニズムがいかにすれば十分に明確化された問題すべてに取り組むことができるか示している
(3)万能チューリングマシンを定義する方法を示している
⇒ 素材は重要ではなく、形式的特性が能力を原理的に保証している
フォン・ノイマンがコンピュータを設計し、1960s、ジョン・マッカーシーがLISP(プログラム言語)を開発。
⇒ 研究開発が可能に
A・ニューウェルとH・サイモンが物理記号システムという概念を提出
⇒理論的に自覚化・明確化される
3
・物理記号システム
①適切に操作可能なトークンに対して任意に意味を割り当てることができるシステムであり、
②正確にプログラミングすればこの割り当てられた意味論的内容と細かい点においても一致した仕方で行動すると信じられるようなシステム
by 1976 ニューウェル & サイモン
・強い物理記号システムの仮説
SPSS strong-physical-symbol-system
「標準的な記号アトムのフォン・ノイマン型の操作を行っている仮想機械は、一般的な知的行為を実現するための直接的かつ十分な手段を持っている」
①仮想機械
そのプログラムに我々が命令を与える機械を模倣させるような「機械」
・記号を割り当てる
・変数を束縛する
・記号列の複写、読みとり、修正
等々
③標準的な記号アトム
④一般的な知的行為を実現するための直接的で必要かつ十分な手段
そうした機械は、それを支えている特定のアーキテクチュア(その基盤になっている他の現実的もしくは仮想的機械から)まったく独立に真に知的でありうるのであり、逆に言えば他のアーキテクチュアや機械をシュミレートすることなく真に知的でありうる
4
このような主張(標準的なLISPのアトムのごちゃごちゃした操作が、知能や思考の本質を構成しうるという見解)が、ニューウェルとサイモンのものだとできる動かぬ証拠は、彼ら自身の実践。
彼らの仕事の特徴(例:BACON)
・規則あるいはヒューリスティックス(発見的手法)の直列的(経験則を用いたも多少は運が左右する⇔体系的)適用に依存している
・そうしたヒューリステイックスの大部分が、かなり高いレベルで意識的に内省可能
・選ばれた課題領域を扱う
BACON:一連のデータから科学的法則を帰納する(ケプラーの第三法則、オームの法則)
・BACONが取り組んだデータをフォーマット化下のは、人間の労苦
・BACONは十分に構造化された課題にしか取り組めない。
ケプラーの第三法則は見つけられても、ペトリシャーレのカビとバクテリアの関係からペニシリンを発見する事はできない
・BACONが展開する知識とヒューリスティックスは、人間のプロトコルや実験記録に大いに頼り、われわれが自分自身の思考について内省する思考のレベルからかなり直接的にコード化されたもの
⇒この種の思考は原初的で瞬間的なプロセスの上に後から被せられたもの。理解するということを具体的な例で説明する事には役に立たないであろう
サイモン等は、人間の思考のすべてがただ一つの種類の計算アーキテクチュアに依存すると信じている。
しかし、筆者は違う考えを持つ。サイモンとラングレイの仕事では、洞察のひらめきといったタイプの認識を表現できない。
心は、多くの仮想的アーキテクチュアからなる複雑なシステムであると考える
知的課題や、感覚運動的な課題のような、なめらかに無意識的に行われるものは無視されている
5
古典的システムは記号アトムの使用に頼り、コネクショニズムはこれを避ける。
古典主義者:意味論的に透明なシステムの構築に対して、方法論的にコミットしている人々
STS semanttically transparent system
「システムの振る舞いについての記号的な(概念レベルでの)意味論的記述と、システムの形式的な計算活動の内的に表現された対象についての投影可能な意味論的解釈との間にきちんとした写像関係の記述が可能な場合にのみ、そのシステムは意味論的に透明であるといえる」
きわめて大ざっぱにいえば、あるシステムかSTSと見なされるのは、そのアルゴリズムの記述(レベル2)における計算の対象が、概念的レベルの用語で表現されたその課題の分析の記述(レベル1)と同型である場合である。
(レベル1:計算理論:(高い抽象レベルにおいて)どのような関数が計算されるかについての考え
レベル2:表現とアルゴリズム:それを計算する(具体的な)方法
レベル3:インプリメンテーション:現実の機械において計算がいかにして肉体あるいはシリコンなどで実現されるか)
(1)古典的理論は――コネクショニズムはそうではないが――統語論と意味論を組み合わせた記号システムを仮定している
(2)もし何らかの種類の構造化された表現が利用可能であれば、それらの表現についての計算操作を、その構造に鋭敏に反応するかのような形で規定できる。
もしそのような構造が存在していなければ、(すなわち、どんな記号表現も存在していなければ、)計算操作を規定することはできない
◎要するに、古典的システムは、統語論的に構造化された記号的表現を仮定し、そうした表現の構造によって、それに適用される計算操作を規定するものである
第二章
1
ドレイファス:古典的認知主義の問題は、人間の常識的な知識を表象として再現し表現しようとする形式主義の妥当性
サール:形式的なものと志向的なものとの間に、あるいは統語論と意味論との間にギャップが認められる
この二つの種類の懸念について検討する。
2
「あなたの持っているのはそんなにいいボールじゃないわ。それを私にちょうだい。そしたら私、このキャンディーをあなたにあげるわ」
この言葉を理解するために、ミンスキーちとパペートは膨大な概念のリストをあげる。
ウィノブラードのSHRDLUでは不十分。
・フレームは、常識がうまく対処している偶発的出来事のすべてをカバーしているとは思えない(バースデーケーキに立つ黒いローソクに、フレームは対処できるか?)
・フレームからフレームへの移行を促す規則(メタフレーム?)をいつ適用すべきか、システムはどうやって知るのだろう?
ドレイファス:互いに関連しあった特徴や可能性のすべてを、文脈に依存しない事実や規則によって形式的に把握するという課題には際限がないのではないか
3
・ドレイファスの二つの主張
(1)身体問題
「このシャンプーが目に入らないようにご注意ください。もし入った場合は、ぬるま湯でよく洗ってください」
コンピュータは、身体、欲求、感情、共通言語や社会習慣も持たない。だからコンピュータは、この文章が何を洗うように言っているのか理解できない
(2)コード化
人間は自分たちを取り巻く状況がどんなものかを絶えず感じ取ることができる。
このノウハウは、何らかの知識表現言語によって、一種の知識として表現できるものなのだろうか?
AIプログラム(=言語)が知識を表現する仕方が、現実の課題に対して根本的に不適合だと懸念する。
4
「強いAI仮説」を、サールは批判する
強いAI仮説:適切にプログラムされたコンピュータは、文字通り認知的な状態をとり、その際プログラムは人間の認知を説明するものとなる
Schank and Abelson 1977の、「ストーリーを理解するという志向的活動をシミュレートしているかに見える特別なプログラム」に対して、「中国語の部屋」を使うことで批判する。
サール:形式的に区別される要素に対する計算操作を行っているだけでは、どんなコンピュータも〈理解する〉ことはできない。したがって、そのような計算操作を規定するプログラムが、心の固有の性質について何かを示すこともあり得ない。
具体例:英語話者が英語を理解することと、中国語の部屋の操作者が中国語を「理解すること」の比較
「人間は何も理解していなくても形式的な原理に従うことができる」
以下、サールの誤りについて論じる
5
サールに対する仮想反論「脳シュミレーター説」
脳シュミレータ説:あるりプログラムが中国語を理解する実際の中国人の形式的な構造をモデル化したと仮定すると、そのときそのプログラムは間違いなく真の中国語の理解を構成したことになる
↑(サールの再反論)
(1)脳の形式的な性質は志向性を構成しない(三章にて説明)
(2)脳の形式的な性質が志向性を構成しないのは、ある種の素材だけが思考を支えることができるからである
↑(アナロジー)
光合成:光合成の形式的な記述を手に入れても、素材が違えば光合成は再現できない
では、思考をもたらすような脳の物理的性質とは?
:外因的および内因的な刺戟に対して脳に大規模な変動が引き起こされること
↑(コメント)
『中国語の部屋』が大規模な構造的変動を必要としないシステムなら、中国語の部屋による反論は無効
6
微視的機能主義
機能主義は、心的状態の本質を、
入力、内的状態の変換、出力からなるプロフィールと同一視した。
(適切なプロフィールを持つシステムはどんなものであれ、その規模や性質や構成要素にかかわれなく、当の心的状態を実現するであろう)
↑(批判)
(中国国家脳のような)心的状態を実現する見込みがないようなシステムも、「入力、内的状態の変換、出力」のプロフィールを持つシステムへと組織することは可能であるよように思われる。
こうした極端な寛大さは、機能主義の立場を掘り崩してしまいそう
・問題は、「入力、内的状態の変換、出力」の系列をどこに位置づけるか
×大まかなレベルに位置づけ
⇒感覚質の欠如、極端な寛大さ
△ライカンの「小人機能主義」
○微視的機能主義
・機能主義の批判はゲシュタルト盲に陥っているのでは Lycan 1981
:機能的な構成要素があまりにも大きい、極度に小さい、それらしくない等であるために、そうしたものからなるシステムに志向性を帰属させるという考えに抵抗するということ
(ライカン「小人機能主義」
:機能的な下位システムは、それがエージェントのために何をしているかということによって同定される)
微視的機能主義
内容や目的に関連づけからはかけ離れた用語で
記述しようとするもの
・諸関係が得られたとき、システムには大規模で柔軟な構造的変動が引き起こされ、またそれによってさまざまな創発敵的性質が得られるようになる
第三章
1
2
「民間心理学」
:自分や他人が、信じたり、希望したり、恐れたり、欲求したりしているということについての日常の理解
民間心理学は、行為・運動を説明するときに、信念や欲求という表現を用いる
「民間心理学は、人間の行動に先立つ内的原因についての素朴で原初的な科学」
3
(1)民間心理学は、偏狭な、特定の人々に限定されたような理解しか与えない。
民間心理学は、子供や狂人や外国人を前にすると、まごついてしまう
(2)民間心理学は停滞したまま、なにも生み出さず、長い間ほとんど変化も進化も発展もしていないところが他の諸科学と異なる
(3)民間心理学は、これまでのところ科学の主要部分にうまく統合されていくような徴候をまったく示していない。残念なことに民間心理学は自然を神経生理学的ないみで妥当な要素にまで分割することには関心がないようである
最近の分析哲学
:頭の状態に関する科学理論というゲームと、民間心理学というゲームを比較することが、そもそも不適当なのではないか
4
Daredevil believes that Electra is dead.
Mary hopes that Fermat's last theorem is true.
のthat以下を、心的状態の内容と言う。
心的状態が考えられる傾向
:われわれの心理学的状態が、本質的に、周囲の世界がどのような状態にあるのかということによって決まるのではなく、
われわれにとってどのように見えているかによって決まる
↓(言い換え)
我々の意識や無意識に何らかの形で影響を与えられないものはどんなものであれ、
本質的に我々の心的状態の正確な限定に関わることはあり得ない
⇒我々の心的状態が現に持っているような内容を持つものは、われわれ自身のあり方ゆえであって、
知られていないかもしれないような周囲世界の事実とは関わりがない……☆
・双生地球……☆に対して疑いを投げかける
双生地球で、「海に水がある」と発話される。
地球A:海にH2Oがある
地球B:海にXYZがある
この違い以外は同質だとする。
すると、
地球上の発話と双生地球の発話は、それぞれH2OがあるかXYZがあるかによってその真偽が決まる
(たとえば、地球Aの海にH2Oがなくて代わりにXYZがあるとしたら、地球Aでの発話は偽になる)
⇒
もし意味が真理条件を確定するのだとすれば、
自然種に関する表現(水、金、空気など)を含む陳述の意味は、
単に主体の限定的に規定可能な状態に言及するだけでは十分に説明できない……☆に反して
二つの選択肢
(1)心理学的な内的要素(地球の話し手と双生地球の話し手に共通)と、
世界関与的な外的要因(仮定上、二つの地球を越えて不変ではない(H2OとXYZ))の両方によって内容が決まるとする、意味と信念に関する合成説
(2)そういったケース(地球と双生地球のケース)は
〈心的状態の純粋に内的でまったく心理学的な要素(☆のこと)〉という観念にさえも疑いを抱かせるものであると考えることもできるだろう
プティ と マクダウェル
「頭の中にあるものが、心の状態と因果関係を持っていることは疑いがない。
しかし、
〈頭の中〉にあるものが心の状態に対して構成的関係にあると考え必要があるのだろうか?」
筆者
:あらゆる内容が根本的に世界に関与している(選択肢(2))ということが判明したとしても、
そのこと自体は必ずしも〈認知科学は心の理解に深く(ことによると構成的にではないかもしれないが)関わる研究である〉という主張を覆すものではない
その主張に対する仮想反論と、それに対する再反論をHornsbyは行った。
仮想反論
:「「行動傾向(心性はこれに随伴して生じるとされる)が二者の間で異なるためには、
内的構成に違いがなければならない。」
という考えを保持すべきである」とするならば、
心的内容は限定的に規定されねばならない(自然種を指示しない)
(「「行動傾向(心性はこれに随伴して生じるとされる)が二者の間で異なるためには、
内的構成に違いがなければならない。」
という考えを保持すべきである」までが、プティとマグダウェルの、「頭の中にあるものが、心の状態と因果関係を持っていることは疑いがない」に対応する。)
仮想反論の詳細
:仮定①:
二人の動作主の心的状態は、彼らの行動傾向に何らかの違いがある場合にのみ異なる
(そこに赤いボールがある、と信じなければ、ボールを投げようとは思わない)
仮定②:
行動が異なる(すなわち、行動が異なる)ためには、内的な物理的状態に何らかの違いかなければならない
結論:それゆえ、心的状態に対応する内的な物理的状態に何らかの違いがなければ、心的状態が異なるということはありえない
「(民間心理学的な心的状態を帰属させることは、限定的内容のみに関わることであるという)結論は、深刻な疑義にさらされることになる。
限定的内容といっても、それを妥当な概念として了解できるかは明らかではない」
なぜなら、
「民間心理学的な内容を(物理的状態に?)帰属させることは、身体的な動きを規定するような頭の状態についての独我論的な研究から引き出すことができるような切り口とは
まったく違った切り口で現実を切り取ることであるように思われる。
その具体的理由として、
ボールをひろうことは、「そこにボールがあると私は知っている」という心的状態と関連するが、そのときの細かな指の動きはそのような心的状態と関連するものではない。
5
筆者
:広域的内容を伴うによ伴わないにせよ、
頭の中で起こっていることに関することに関する科学的カテゴリーや分類に
きちんと還元されるなどということは
とてもあり得ないように思われる。
・民間心理学は、科学的心理学と同じゲームを行ってはいないかもしれない
→
世界を記述しない信念であり、なおかつ
ある人が同じ考えを抱いているといえるような別のケースに投影可能な述語が(科学的記述の上には)存在しないことも可能
6
民間心理学の道具立て(信念と欲求という概念によって、命題的態度を帰属せさるという道具立て)を用いて、心的状態を二者が互いに帰属させあうという日常の慣習(傍点)の目的は?
:
他人の頭の内的状態を追跡しようと試みることによって、
その人の身体の動きを予測し説明するための手段
民間心理学の主要な目的
:
世界の中で活動している仲間たちの行動を、(傍点開始)我々が(傍点終わり)理解できるようにすること
(予測したい対象であり主体である)われわれの仲間たちの四つの特徴
①世界に対する感受性、すなわち感覚や生得的な原書的概念の道具立てをわれわれと共有している
②世界をわれわれと共有している
③彼らは我々自身のもっとも根本的な関心と必要の大部分を共有している
④彼らの思考の有用性は、
(我々自身の思考と同様に、)
彼らが世界の実際の有様をたどっていることと関わっており、
彼らの思考作用が、世界の実際の有様に十分適応していると我々が(進化論的な理由から)考えるような目的と関わっている
この特徴があるので、
「~したい」という欲求さえ同じであれば、
・民間心理学は、脳の状態の違い(that かなり目の粗い、行動上の違いとしては現れてこないような)に対しては、敏感に対応しないように設計されている
・民間心理学は、個人の間の差異を覆い隠し、
さらには種の間の差異さえも覆い隠してしまう(長所であっても短所ではない)
7
筆者の見解
:私の見解では、われわれが信念を帰属させるのは、
行動の全体に一種の解釈の網をかぶせることによってである。
……関連する行動を可能にするものとしての、
根底にある物理的あるいは計算論的な構造がどのようなものであれ、
そうした構造における自然な区分に、網の結び目(すなわち信念と、欲求の特定の帰属)が
対応している必要はない。
――
ということは、Davidson(全体論者)に対するFordorの批判は、筆者の意見にも当てはまるのではないか?
<Fordor>
意識の全体論というのは、
「命題的態度の同一性――特に志向的内容――が、その認知的連関の全体によって決定される」
という考え方。
これに、Fordorは懐疑的。
(命題pの認知的連関というのは、主体がpの意味論的評価、すなわちその真偽の決定に関係するすべての命題のこと)
われわれは、信念や志向的状態を共有している。が、そのとき、すべての命題(認知的連関)を共有しているとは思えない。
信念は、その内容をそれぞれ別に持つ。
:信念がその状態を獲得するのは、脳の状態が逐一、世界と因果関係を結ぶことによってである。
「ある生物が『牛』という概念を持とうと持つまいと、その生物は『馬』という概念を持ちうる」
</Fordor>
筆者
:Fordorの間違い
全体論は、もしそうであれば、人間の心の理解が芋蔓式に進んでくれるのにという、いわば願望。
Fordorが軽蔑したものの通りに進んでくれるかは別問題。
Fordor:バラバラになったブロックを一つの全体に組み合わせるやり方が、全員同じになるはずがない。
筆者:一つのブロックの組み合わせ全体を理解するために、各人が別々のやり方でバラバラにしている
全体論という言葉の使い方が違うから、Fordorの批判は筆者には当てはまらない(という、批判をかわすための節)
7
一章3節での、チャーチランドによる民間心理学批判に、今では応答できる。
(3)に対して、
民間心理学の関心事は、他の主体の顕著の行動パターンだけを可能な限り効率的に分離することである。神経科学とつながることを目的とはしていない
(1)に対して、
民間心理学の道具としての適用範囲は、仲間。狂人の理解は、そもそも目標としていない
(2)に対して、
なので、その中核部分が時間的および地理的な次元を越えて相対的に恒常的であり続けてきたことは驚くべきことではない。
整理。
民間心理学には、きちんとした定義がある。
これまで「民間心理学」として使われてきた言葉の、新たな用語法:「素朴心理学」、「メンタリズム的な理解」
8
因果関係と、構成的関係の区別
構成的関係
:
研究の主題と何らかの形で密接に結びついているということ
因果的に関係
:
因果的に関係している様々な要素は、それほど密接に思考と結びついているわけではないので、
それらの要素を差し引いてもそれによって思考という観念そのものが存続しえなくなる
ということはない。
(チェス盤がなくなっても、チェスの続きは打てる。石を駒に見立てたり、口頭で)
9
・消去主義的唯物論:民間心理学が、心に関する科学に対して歪んだ影響を及ぼすのではないか。民間人は自分自身の心を知らないと、消去主義的唯物論は思っている
↑
(構成的関係)
↓
心
科学と心とを結びつける構成的関係。その得難さが二つのスタンスの対立を生んでいる。が、どちらの立場も同じく、認知という地形に同じ隆起とくぼみを見ている。
では、構成的関係とは何か。
構成的関係←→因果関係
構成的関係:研究の主題(この場合は心)と、何らかの形で概念上密接に結びついていること
因果的関係:因果的に関係している様々な要素は、それほど密接に思考と結びついているわけではないので、それらの要素を差し引いても、それによって思考という観念そのものが存続しえなくなるというひとはない
(駒はなくてもチェスは打てる)
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スラックティビズム(英: slacktivism)は、「怠け者(slacker)」と「社会運動(activism)」とを掛け合わせた合成語である。努力や負担を負わずに、社会運動めいたことをする行為を指す。
この用語は、社会に意味のある影響を与えていないのに、社会にとって良い活動をしたつもりになる自己満足的行為について、軽蔑を込めて使われている。こうしたスラックティビスト(スラックティビズムにあたる行為をする人)たちの行為は、多くの場合、個人の努力や負担を必要としない。
勝間さんの「まじめの罠」よりこのキーワード1つのほうがインパクトもあるしわかりやすいな。
「まじめの罠」は今年の買って後悔した本ベスト3。勝間さんどうしちゃったんやろうなぁ・・・。
これ、大人向けの本なんですか。
「まじめの罠」というキーフレーズの下、世の中のさまざまな失敗例が語られます。ですが、その「まじめ」が定義されていません。
最初にユダヤ人を大量に処刑したアイヒマンの例が出てきます。アイヒマンはまじめだから残虐な行為を行った、と著者は思いたいようです。ですが、違います。ミルグラムの本を著者は紹介していますが、ミルグラムは誰もが簡単に他人に「服従」することを心理学の実験で示しました。アイヒマンがまじめだったとしても、それが原因ではありません。二つのことが同時に起こったり、一つのものの中にあっりしても、一方が原因で一方が結果とは言えません。「まじめの罠」という著者の結論は著者が紹介したミルグラムの実験結果と矛盾します。読まずに想像で判断したのか。ネットの安直な解説を真に受けたのか。読んだけど理解できなかったのか。とにかく、自分で紹介した本の中身を理解していません。これはかなり恥ずかしいと思います。
クリステンセンの『イノベーションのジレンマ』も「まじめの罠」の例に紹介されています。クリステンセンの主張はまじめにやると失敗する、ではありません。長くなるので詳細は省きますが、その産業に属する企業群を支配する経済的な力学が働き、まじめに努力したとしても、やがて新興のベンチャーに負けてしまうというのがクリステンセンの考えです。まじめに努力しなかったらもっと早く負けてしまうのは言うまでもありません。ラーメン店の競争が激しい中、自分の味を求め新規開業する。これはまじめですか。いいえ、「わがまま」です。自分の好きなことをして儲けたい。そんなに世の中は甘くありません。意図的か無意識か、「まじめ」の定義が変わります。このやり方ならどんなものでも「まじめ」と言えてしまいます。
著者は「まじめの罠」というキーフレーズで、あれも説明できるよ、これも説明できるよ、と言いたいのですが、現実は著者の考えるほど単純ではありません。テレビの水戸黄門のファンは多いと思います。代官と越後屋は徹底して悪い人、搾取される百姓や町人は徹底して良い人。単純だから良いのです。仕事で疲れて帰ってきて、複雑な心理ドラマを観たいと思いますか。この本は普段活字を読まない人には読みやすいと思います。論理が単純だからです。ですが、現実の世界は水戸黄門とは異なります。単純で分かりやすいことと、正確であるということが一致することは稀です。だからこそ、物事を複雑なまま捉えて分析しないといけないのです。でなければ、どんな難しい理論もたとえ話で説明できてしまいます。著者に望むことは引用する文献をしっかり読むこと。著者にオリジナリティがなかったとしても、忙しくて専門書を読む時間がない人のために、原著を原語で(経営学や心理学の本は誤訳が非常に多い)精読して、読者に噛み砕いて説明してくれるなら価値はあると思います。逆に、いい加減な理解で読者に間違った知識を与えてしまうなら、読者は修正に時間が掛かります。その意味でこの本は星一つにせざるを得ません。買うお金、読む時間、間違いを修正する更に長い時間。大変な出費です。
この本には「私(著者)を嫌う人」の紹介とその批判がありますが、その定義も著者に都合の良い、やたら感情的で、論理性に欠如するような議論をする人たちに描かれています。自分が論破しやすい「私を嫌う人」像を作り、それを批判し、結果として自分の正当性を主張する。読者はその定義がそもそも正しいかを自分で検証してほしいと思います。
この本でたった一つ良かった点。自分の間違いを認めるのに躊躇してはいけないということ。人間は自分の間違いを認めたくありません。とくに高いお金を出した場合は価値があると思いたいものです。今までの投資が無駄になりますから。ですが、例えば今まで毒を薬だと信じて高いお金を出して買って飲んでいた人たちも、毒だと知ったらすぐに飲むのを止めるでしょう。正しいことを知ろうと思っても、間違ったことを覚えるなら、毒と変わりません。
増田はきっと親と仲の良い人や夫婦仲の良い既婚者とはなんとなく基本的な感覚が合わなくて、結局友人として付き合いが続かなくなる事が多いんじゃないかな。
「友人はそういうのが大勢いる」ってのは意識的にしろ無意識的にしろ、自分が選別した結果なのでは。
でも多分、多くの人はこんな感じで自分と考えや感覚が似た人を選別して付き合ってるんだろうね。
なるべく自分の居心地が良くなるように。
つい先日まで一緒に働いていた人が詐欺師だった。見抜けなかった自分への自戒も込めて、特徴を書いておく。
後輩たちが忘年会に行くのを見た。
うらやましい。
自分の代は既に同期の中で仲良しグループが出来上がっていて、そうしたグループ内だけで忘年会をやることになっている。
先輩の部屋の前にスキー板が立てかけてあった。
うらやましい。
忘年会に行きたければ同期を誘えばいいし、スキーに行きたかったら、スキー板とか一連の道具を買うなりレンタルなりして、スキーに行けばいい。金ならボーナスも出て500万以上の貯金がある。
できるのに、やろうとせず、そしてなぜうらやましがるのか?
いや、違う。
「忘年会を楽しめる」「スキーを楽しめる」その体力や感性がうらやましいんだ。
正直、忘年会に誘われても酒が飲めないから酒臭いのが嫌だから行きたくない。
スキーに誘われても寒い上に、滑れないし、疲れるだけだから、行きたくない。
でも、自分にとっては苦痛以外の何物でもないこれらを、彼らは楽しそうにこなしているのだ。
実社会でより求められる、もしくは、実社会により適応できるのは、私と彼らどちらだろうか?
当然彼らである。
淘汰圧は、彼らではなく私を排除する。