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はてなキーワード: 実存主義とは

2024-03-13

家の周りに畑があった。生計の足しになってんだか、税金対策趣味レベルなのか、微妙分からんレベルの規模のやつが。

繁華街にほど近い都心部で生まれ育った連中から田舎と言われそうな、トーキョーといえば全部大都会だと思ってるような田舎から全然文明のある方だろと言われそうな東京西部郊外だ。

道路を挟んでウチのマンションの目の前にその畑の直売所があった。ガキの頃よくお遣いで行かされて、毎度オマケを持たされた。おれが通い始めた時はウコンとかよう分からんものを貰ってきて、姉におまけの豪華さでマウントを取られ大変不快な思いをした。曰く、自分が行けばトマトとかもらえるのにお前はウコンなんぞもろてきてどう食うねんと。

それでも通っていくうちにインゲンとか枝豆とか、トマトさえも貰えるようになってきた。ある日目当てのものがなくて手ぶらで帰ろうとしたところ、タダで数種の野菜を袋に詰めて持たされたのを割とよく覚えている。

そんな光景中学になれば無くなってきた。直売所が閉じたからか、おれが自我を持ち反抗期を迎えたからかは忘れた。

今やその手の地域ヌクモリティ的なものも煩わしいなと思う。事あるごとに「昔は素直で優しかったのにねえ」と言う母にイラッとして、人間は変わるもんなんです〜〜〜変化を否定すれば成長をも拒んでしまうんです〜〜〜いつまでも自我がなくて可愛かった子供記憶に縋りついててウザいです〜〜〜と反抗期のおれは心の中でそう思っていた。今でも全然思う。それでもやっぱり他人の親切に素直にあやかっていた時期もあったんだよなとも思う。

お遣いには行かなくなっても畑は以前在る訳で、家の周りの光景として、原風景の一つとして心に刻まれてる。好きからいかはともかく。

中学高校の頃、さっさと家を出たいという気持ちが常に頭の半分以上を支配していた時によく夢を見た。家の庭のフェンスによじ登って、夢特有のフワフワとした跳躍で畑を超えて行く夢だ。

逃げた先に何があったかは覚えてない。何もなかったかもしれない。少なくとも天国ではなかった。でも逃げる事に意味があった。

夢なんて大体理不尽不条理で謎の存在に謎に追っかけ回されるばっかりだし、脳のウンコしかない。示唆的なものがあるとかユングの類は全部まやかしだと思ってる。それでも家の裏の畑ばっかりは固有のモチーフとして何度も何度も出てきた。ウンコでも健康状態を知るのには役に立つのかもしれない。予知夢とかは全部嘘か偶然か思い込みだと思う。

夢に限らず、100mほどの畑沿いの道を歩くのは好きだった。夜中にひっそりと家を抜け出して、音楽聴きながら畑越しに見える団地電波塔送電塔みたいなデカ建造物をボーッと見てるとナイトホークスでも鑑賞してるような気持ちになれた。都会のダイナーには行けないけれど、郊外には郊外なりのものがある。

住宅街には住宅街の良さがあるとか言う人いるけど、おれは人の生活の息づきとかには何の魅力も感じない。人様の生活勝手に思いを馳せて勝手に感動するステーションバーめいた行為をおれは下品とすら思う。だから住宅街の静かな畑の特にまり返った夜中が好きだった。公園も悪くないけど、浮浪者とかおれの同類みたいな陰気ティーンや騒いでる学生風の集団がいたりしておちおち黄昏ぶってられない。

そんな畑もおれが高校卒業する手前辺りで、なんぼかを残しつつ潰されて家の建設が始まった。噂じゃ畑の持ち主はマンションを持ってて不動産収入があるらしい。やっぱり畑は本格的な仕事ではなかったんだろうか。

大学入って暫く経ってから一人暮らしを始めて、都心へよく行くようになった。今までは交通費も覚束なくて両手で数えられる程度しか行けなかった都心に。バイト先もわざわざ遠くの都心を選んだ。人の金で行けるのだから美味しい話だ。駅から駅の間を歩いても途切れる事なく繁華街が続く光景には心踊るものがある。夜中でなくとも歩いてて楽しい。夜中だと尚更楽しい

それでも人のいない静かな場所で過ごすのは変わらず好きだった。聖蹟のゆうひの丘までよく1時間かけて歩いて行った。カップルが多かったりしてちょっと落ち着かないけれど、高台から見下ろす夜景は畑越しに見える景色と通ずるものがあった。終電で行く冬の鵠沼海岸も夏の芋洗い状態が嘘みたいに人がいなくて趣深かった。多摩川もいい。場所さえ選べば人がいなくて、トランペット担いで行って一応ミュートつけて練習してみたりたした。「河原トランペットを吹く青年」を自分がやっている状況に興奮を覚えた。夜釣りと称して魚がいるか分からん場所で竿を振り回したりもした。ボウズのまま迎えた朝陽マジで綺麗だったし、なんか何かを急かされてるような気もした。この頃にはもう家の裏の畑を飛ぶ夢は見なくなっていた。

大学で色々あって最近また実家に戻ってきた。近所の景色マイナーチェンジはありつつ、まあたかだか数年の事なのですぐ目に馴染んだ。

畑の跡地の住宅地は、おれが出ていく前はほとんど更地だったのが割と家の形になっていた。家の骨格越しに電波塔が点滅する景色はなんだかディストピアめいた味があって、これはこれでちょっと好きだった。

施工は日々進んでいって、人気のない家の殻が出来上がって来る頃にはもう遠くの景色は遮られて見えなくなってくる。新しい住宅地の中には公園と称した小さなスペースも出来ていた。空き家に囲まれたそこで夜にタバコ吸いに行くのがなんとなくルーティンになっていた。

カーテンも張られていないガラスから工事用?の照明が付けっぱなしなのか、ほんのりと照らされるもぬけの空の部屋が見える。それを見ているとガラスをブチ割って土足で座り込んでタバコでも吸ってトレインスポッティングを気取ってみたい気分になってくる。廃墟どころか新居だし、そもそもそんな度胸はないので妄想まりだけれど。

つい最近からその住宅街にも一挙に人が棲み着き始めて、夜中に歩いていても家々から放たれる息づきからなんだか圧迫感のようなものを感じる。

件の公園日中はすっかりガキの遊び場になっているのを目にする内、なんとなく足が遠のいた。自分だけの場所地域の(幼い子供を持つ家庭の)共有物となってしまったような気分だ。元々おれの場所などではないのだけど。

それでも時々ベンチにストロング系のロング缶が置いてあったりして、なんとなく捨て主にエンパシーを感じたりする。

平成狸合戦ぽんぽこで描かれたような再開発へのメッセージとはまるで別種だろうし、開発といってもごくごく小規模なものだけど、おれはおれなりのイヤさを感じているのかもしれない。

おれは地域ヌクモリティがさァ!文化資本がさァ!とかそういう話がマジで嫌いだ。ネットでその手の話題が露悪的に語られがちなのもあるけれど、土地がどうあろうが各々の生き方次第だろって思うから。おれは構造主義より実存主義が好きだ。

そうは言っても都会なら都会なりに、田舎なら田舎なりに土地が育む心の特定の部位みたいなのはあるのかもしれんなって思った。

2024-01-26

配信でザ・フラッシュ観るかと思って、ボケてDC勘違いしてdプラに入ってしまった。

バチギレして、せめて独占配信を回収してから解約しようとリストアップを開始した。前々から気になってたフォーン・ブースフリーガイを放り込んで、オビワンとマンロリンの存在を思い出し、あとは何も思いつかない。

ローラー作戦で行こうとしたが、アプリ内の案内やググって出てくるクソサイトよりもfilmarksのソートの方が分かりやすかった。意外なビッグタイトルが独占?(他所でもレンタルはあり)だったりした。オリジナルコンテンツばっかじゃなくてもっと囲ってるもんを差し出せよ。

調べていて唐突バグライフを久々に観たくなった。おれはディズニーアニメあんまハマらんけど、ピクサーちょっと変わった世界観冒険劇が大好きだ。

トイストーリーは3の評価が高いっぽいけど、おれは何だかんだで一作目が好きだ。終始仲間思いでかっこいいウッディも良いけど、妙に人間臭くて小物っぽい彼も味があっていい。

「飛んでるんじゃない、落ちてるだけだ。カッコつけてな」の意趣返しとかマジで最高にかっこいいし、おれが観てきたアニメ映画の中でトップクラスに熱い気がする。

昔はバズがCM観て発狂するくだりを理解出来なくてちょっと怖かった。彼のどこかニヒルというか飄々とした感じはあそこから始まったんだろうか。スペースレジャーとしてのアイデンティティ崩壊から、2の主題に繋がるようなおもちゃとしての存在意義の再発見。これもう実存主義とかの話だろ。1作目でそこまで踏み込んでたっけ。また観て確認したくなってきたな。

2023-11-02

ウェルベックを「終わってる村上春樹」と例えてるのを見て村上春樹ちょっと興味持った。

中学の頃1Q84読んでみたけど、何がなんやらさっぱりだった。スノッブでやたらセックスをするくらいの前印象しかなくて、確かにくらいに思った。途中で読むのやめた。

空豆みたいな名前美人だけど顔がアシメントリー殺し屋セックスしたりなんか線路だか高架だかに靴を脱いでなんかやってるシーンしか覚えてない。

あとあと現文で村上春樹翻訳したって小説も読んだけど、そっちはマジで手榴弾(手投げ弾って表現についてなんか解説を受けたような気がする)が出てくる事しか覚えてない。

この間ドライブ・マイ・カー観て、喪失再生テーマだ、的な受け売りコンパス何となく言わんとしてる事は読み取ったような気分になった。

演劇自分の心の声を聞くことだなんて語ってみるけど、もっと地に足のついた悩みは抑圧してしまっている事にも気がつけない。理屈を超えて悲しむべき時は悲しんで、どうにかこうにか生きていくしかない。的な。チェーホフ劇中劇がかなり内容と密接に絡んでるっぽかったから、ちゃんとそのメタファー直喩か?)を意識しながら観てたらちょっと疲れた

10代の頃読んだスノッブセックスデカダンス小説も今読めばまた違った感想になるかもしれない。

この間人間失格を読んでみた時も、多分中学の時に読んでたら違う感想になってただろうなって思ったし。当時なら「これは自分だ……自分けが本当の意味で彼を理解できる……」って思ってた気がする。今読んだ限りでは総じて自意識肥大したナルシスト自己弁護じゃん。社会性として、エクスキューズとして自罰的な風を装ってるだけで、自分大好き人間じゃん。ケッ、って感じだった。ただ所々人間普遍的な悩みを明確な輪郭で描いたパンチラインがあって、そこは自意識を突っつかれたけど。

でもおれが興味あるのは人間存在不条理とか実存主義みたいなテーマだし、村上春樹よりはカミュとか読んだほうがいいのかもしれない。

2023-09-22

ペニスとは生殖に用いられる器官である。そのように用いられるべき機能を有するものであり、またそのように用いられてきた。ゆえにペニス生殖である事に疑いはなく、これを露出する事は禁じられるべきである。(本質主義

ペニスが如何なる機能を持とうとも、生殖器たるのは生殖が達成され始めてそのように認めれれる。他のペニスがどうあろうとも、生殖に用いられない限りそのペニスとは即ち排泄器に過ぎず、これを露出する事は禁止されるに値しない。(実存主義

2023-08-30

anond:20230830120330

実存主義的な考え方に侵されすぎてるから「手元の貨幣が減る」ことには異常な執着があるのに

手元にない数字上の金が減ることに対する執着が薄すぎる

3000円のうなぎスーパーで買うことはできないのに3000円のガチャは平気で回す

 

ワイや

2023-06-23

おれは自由意志実存主義人生唯一の確かなコンパスだと思っていて、構造主義というのがイマイチ好きではない。

人が生きるという事は事実の追求だけで片付く問題じゃないだろうし、そこを照らすのは論理ではなく何かしらの信仰だと思う。言葉は何でもいい。信念や納得、お気持ちとでも言い換えればいい。

から発するプリミティブな価値なんてものはほんの些細なもので、大半は誰かの、なにかのコピーかもしれない。でも外から刷り込まれた、無自覚規定された価値観とて、一度心に刻まれたのならそれはもうその人を成すその人自身のもんでしょって思う。

人生は、少なくともおれにとっては納得を追い求めて貫き続ける旅だと思う。目的とか考えずにボーッと生きたいと良いというのも、それはそれでそこには納得があるだろうし。前向きなものであれ後ろ向きであれ。

納得も意志もなくただあるようにあるだけのままであれば、それは本質的に石ころと変わりない。それを肯定して悟りの境地に至れるほどおれの心は強くない。

から命はそのための手段というかステージに過ぎないと思う。もちろんそれが無きゃ何も始まらないけど、納得に従ってそこから降りるというのもまた一つ価値ある生き方(死に方だけど)だと思う。

人類全員がそういう考えで生きてる訳じゃないだろうけどおれにとってはそうなのだから他人自殺をしようが、同様におれにとっては何の問題にもならない。

から無理矢理降ろされる道理は無いと思うけどね。

まあ別に人殺そうとするのも良いと思うけど、当然それに抵抗するのも自由だし、現に人殺しへのそれなりのペナルティ多数決的に定められてる。

構造主義的な話としては、自殺尊重されるべき自由意志のようでいて、実は無自覚環境に追い込まれてるって可能性が問題になるのかもしれない。

でもさっきも書いたけど、一度内面化された価値観は過程がどうあれその人のもんだと思う。

了見の狭さ故にラディカルな方へ突っ走る人に対して、「まずは他にも視点を持ってみない?どれを選ぶかはあなたが後で決めれば良いし」みたいなスタンスならまあ分からんでもない。

けど暇を持て余して抽象的な考えを拗らせて死にたがる人ならともかく、もっと目先の切実な苦しみに耐えかねた人に言うのはどうなん?って思うよね。

今のアナタ自分の決意で死のうと決めたと思っているのだろうけど、実はそう思わされてるだけなんです。もうちょっと頑張ろうよ。

なんて疲れ切って余裕なんかないであろう人間に言うのも酷な話じゃないですか。

明るくなるかもしれないし暗いままかもしれない未来のために、頑張る気なんて中々湧きやしませんよ。

湧かないからこそ他人が止めてやる必要がある。酷なのを承知で、それでも生きて欲しいという願いを押し付けてでも止めるのが愛ってもんだ。

自殺を許せない人は概ねそういう事を言うんでしょう。

そういう優しさもあるだろうけど、放っといて死なせとくのも確かな優しさだと思うけどね。

無関心な相手からそう言える、本当に人を愛した事がないサイコパス気取りの拗らせた厨二病野郎妄言だとか言われるのがオチなんだろうけど。

その辺の事もちゃんと踏まえた上でおれは死なせてとけば?って思うけどね。

あと最近ガチャってよく言われてるけど、あれも構造主義的な発想の問題提起なのかな。

人生ネタバレとか、そういう悲観に終止する決定論の方を志向する話はさておいて、その事実にどう取り組んでいくかって点で。

おれも格差再生産とか親ガチャが無いものだとは思わないし、その是正に取り組むべきだって意見にはまあそうでしょうねえ、って思う。

現実はあるようにあるのだから、与えられた環境自分で乗り越えるなり現状に甘んじるなり、好きにするしかないだろとも思う。

それらは別に二者択一でもなくて、目先の今を耐えつつ少しずつ構造と格闘していくというのがベストなんだろうね。

おれはラッキーな事に恵まれ環境で育ったからこそこんな抽象的な事を考える余裕があるんでしょう。つまりポジショントークなんだけど、それを言ったら環境に苦しんでる人の言い分もポジショントークだよねって話になる。

他人事じゃないんだし、ちょっとでも構造抗う暇すら無いわけじゃないでしょ?と言われればごもっとも。

それはそれとしておれの人生はおれのものなので、そんなことはナン ノブ マイ ビジネス(夜に影を探すようなもの)です、って感じ。

社会を良くする事はイイ事なんだろうけど、それがおれに与えてくれる幸福は知れてる。

そんな気の長そうな話よりは自意識拠点におれの人生をやっている方が魅力的。それならそっちにウェイトを置きたいよね。

子供とか作って「まとも」になれば考えも変わるんだろうけど、今んとこその予定もないからおれが死んだあとの事とかどうでもいい。次世代がどうなろうと知った事ではない。

こういう話をすると概ね素朴な相対主義とか冷笑とか厨二みたいな説教かます人間がいるけれど、そこにクリティカルな内容を伴っているのをおれは見たことがない。

今日はそんな事を考えていました。

現実実況チャンネル良いな。めっちゃ実存主義だ。

結局、俺たちは、生きる意味なんか誰も保証してくれない世界で生きてるけど、それでもてめえは、俺たちは、俺たちの魂の声に従って幸せになる権利があるっつってんの。

2023-06-22

高校入試が無いかラク出来ると騙されて一貫校の中学入試を受けた。

おもしろ/鬱屈受験録を期待する人は読まないほうがいいです。おれの内的な整理なんで。

元々進研ゼミか塾かの強制二択で前者を取ったのだけど、家にいてもテキストが視界に入るのが不快でたまらなかった。

いつだか、コレ説明不足だろって感じの算数解説イライラしてた。添えられたイラストナントカ君のつっまんねーギャグが異常に癇に障った。きっかけは些細だけど、募る不快が爆発してテキストをクシャクシャにして投げた所を母に見られた。

で、なんか揉めてヤケになって塾に通うって言ったのを覚えてる。

渋々通ってる内に、なぜか入試を受ける運びになってたような気がする。

6年間のまとまったモラトリアムが手に入るなら、まぁ……って自分に言い聞かせた。PSPモンハンの購入を禁止されたのも我慢した。というか当時は「ダメ」と言われて逆らうって発想が無かった。

そんな感じでマジメというか了見が狭かったんだけど、ある時学校寺島君に誘われて掃除サボるという体験をした。自分人生サボるという選択肢が現れた。

黙ってPSPを買うほどの勇気、というかその発想は未だ浮かばなかったけど、意を決して塾をサボってみた。

バレなかった。10km離れたイオンまでチャリこいでフードコートに居座ってエヴァ読んでた。実はバレてて初犯だから見逃されてたのかもしれない。

そんで調子こいてサボりまくっていたらバレて、嫌なら辞めろと言われた。

冗談じゃない。塾通いでドブに捨てた日々を今更無かった事にしろと?初めは強要されて、今更辞めて良いと言われたってアンタは私の時間を返してくれるのか?

典型的コンコルド効果ってやつだったな。

なんてアンビバレンスな感情に苛まれて泣きながら「通わぜでぐだざい」って頭を下げた。

後日学校で○○塾サボったって本当?と複数人から訊かれた。金輪際母に大事情報を伝えるのはやめとこって決めた。

まあそんな感じだったけど一応第一志望に受かって、晴れてまとまった6年間を手にした。

合格後になって実は土曜も授業があると知らされた。そんなとてつもない重大情報は真っ先に言えよカスコイツらの味噌汁農薬でも混ぜて殺してやろうかな、って本気で思った。

かなりマジで悩んだけど、まあ今更……という事で入学を決めた。

親の意向とは違って上昇志向なんて1ミリも無かったんで、勉強に励む気も毛頭なかった。

初めての定期テストでは当たり前に100点が取れる色刷りのやつに代わって、70とか40とか書かれたザラついたテスト用紙が返ってきた。

塾じゃん。学校テストじゃないじゃんって思ったよね。

学校テストで平均を割るなんて考えられない体験だった。まあ後の惨状に比べれば全然可愛いもんだったけど。

どこかにあったプライドがやや傷つきはしたけど、そこで悔しさをバネに、なんて気持ちサラサラ湧かなかった。

目的を忘れちゃいけないからね。ダラけるために小学生時代放課後を捨てたんだから。ってことでさほどは気にはしなかった。

こんな塾の続きをするために入学したんじゃないんだよおれはって事で、もう勉強は丸投げしようと決めた。授業中は寝るかゲームか買い与えられたばかりのスマホをいじるかだった。

唯一ちゃんと授業受けてた中一1学期に聞いたクリプトコッカスネオフォルマンスとか、バージェス動物群のピカイア、オパビニアアノマロカリスみたいな単語だけ今でもよく覚えてる。

合格発表の時おれが「これでもう勉強しなくて済む!」って言ってた時にはヘラヘラしてた癖して、いざ入ってみれば成績にグチグチ言う両親を適当にいなしながら、モラトリアムに浸った。

考え事してる内に、自分なりに実存主義相対主義に辿り着いたりもした。サルトルとかニーチェとかハイデガー大学入って齧った時、コイツおれじゃんってマジでびっくりしたよね。

道徳の授業で教わるような規範はもうおれにとって意味を持たなかったし、晴れて購入を許可されたゲーム没収されても黙って新しいのをもう一機買うのに罪悪感は微塵もなかった。

歳相応に、というか同年代よりも遥かに時間をかけてアイデンティティかにも悩んでみた。

こういうのは拗らせた10代の一過性の悩み、で片付けていいもんじゃないと今でも確信してる。厨二とかいわれるような心をすっかり忘れてしまったら人間お終いだと思う。

まあそんなんで順当に成績はカスだったけど、教室空気を吸ってるだけでも無自覚に上昇志向というか、学歴厨じみた思考が植え付けられてくるんだよね。

進学校が持つ一番の機能はこれなんじゃないかって思う。

高校にもなれば受験話題が増えて、おれもそれに合わせていった。

こんなに勉強嫌いでも大学受験をする事だけは疑わないんだから恐ろしいもんだね。高卒人生落伍者ってかなり本気で思ってた。

最初勉強ちゃんとやってれば楽しいはずだなんて自分に言い聞かせてみたけど、やっぱり苦痛だった。だから変に楽しもうと工夫なんかしようとしないで、入試の通過手段と割り切っていこうって決めた。

これはそのまま、賃金労働自己実現だとかやりがいなんか求めず生活の糧と割り切って、軸足趣味において生きようという人生方針へとスライドしていく。その「割り切り」は後の人生の後悔にも少し繋がってくるんだけど。

そんな感じでやっていって入試に臨んで、まあぼちぼちの結果といった所に落ち着いた。

終わってみれば後出しで後悔も湧いてくるものだけど、進路に関しする始まりは「ダラけたい」だったんだから小学生の頃の自分への義理はそれなりに果たせたと思う。

大学入ってから世界史とかロクに聞いてなかったからその辺文脈理解必要な話にはやっぱり苦労したけど、一人で考え事してた時の内容は宗教学哲学レポートを書く時大変に活きてる。

教授から直々にメールで褒められた時はちょっとしかった。大学勉強楽しい時もある。大抵ダルいけど。

放っとけばボーっとしてるかたまに好きな事に手を出すだけ、根が遊び人ボンクラから環境下駄を履かされて助かってきた部分はあるんだろうなって思う。

でもアッパードル王道を目指す生き方を非常に中途半端内面化してしまって、好きにも「べき」にも振り切れないハンパなディレッタント崩れになってしまったよね。

思うままに生きた人生は暗澹たるものだったかもしれないし、もっと肩肘張らずに生きていられたかもしれない。考える意味のない可能性をつい思っちゃうね。

振り切れた生き方をする勇気なんて平凡な人間にはなかなかないし、そのバランス課題なんだと思う。

たらればを言えばもっと「好き」に振り切れる期間が欲しかたかもしれない。

高校上がってから嫌々ながらも主体的勉強を始めたと言ったけど、本当はもっとからハンパな「べき」が心にあったんだよね。

6年のモラトリアム期間だって、何をするにも「こんな過ごし方でいいのか」って水を差してきた。

なんというか幼い白黒思考の潔癖状態の段階で、バランスなんか考えられない状態で相反する価値を抱えてしまって、それでどっちつかずになってしまった感じだな。

中庸って言葉にすればありきたりだけど、そこに実感や納得を乗せられたのはせめてもの学びか。

勉強から逃げて(そもそも最初から立ち向かおうする気なんかなかったんだけど)自意識を煮詰めた時間だけは無駄じゃなかったって、そこだけは確信を持って言える。

でも出口のないナイーブな悩みなんか適当な所で蓋をして、どこかで思考停止して目の前の生活をやってく生き方はある種の賢いものなんだろうなとも思う。

まあ人生なんて結果論しか語れないだろうし。電源ボタンはあっても、セーブ機能リセットボタンはないのだし。

正解なんかないんだから納得できるかどうかが全てなんだろうけど、今のところちょっと自信はない。

せめて今ある、これから人生は愛せるようにいたいもんだね。

2023-06-21

最近ネット見てると、よく「コイツは非論理的合理的思考お気持ち野郎だ」とか、そんな求められてもいないであろう説教かます人間を多々見る。

それは裏返せばオレはそういう奴らとは違ってロジカル人間なんだぜという自負を掲げているのではないか邪推してしまうけれど。

感情を一切排して論理的に言ったら人間に生きる意味価値もない。

読書をし、運動に励み、賃金労働や金稼ぎに繋がるスキルを身に着け、家庭を持つ。感情を一切無視して論理だけで言えば、それは不快を避け快楽を最大化するという「お気持ちベースの全くもって無駄な行いということになる。

生命生存にも価値なんてない。

ハサミはモノを切るという使命を帯びて作り出されるが、生物にそういった意味はない。自我を持ち動き回るという点を除いてその辺の石ころと何も変わらない。

サルトルだかの実存主義ウェーバー資本主義精神みたいな、前世からされてる話。

論理は常に目的(≒感情)に対する手段しかないと思う。

感情論と善悪区別しろみたいな事言う人いるけど、論理という道具を使って既存のそれを顧みる事はあっても、詰めていけば快不快多数決だろって思うけどね。

人をブチ殺して回りたいというのは社会的にあまり良しとされないお気持ち。それが良しとされないのはどこからかポップした善悪規範、まして論理でもなく「殺されたくない」というまた別のお気持ち

そのお気持ち多数決をまとめてちょっと論理で整えてやったもの善悪と呼ぶのではないかと思う。

まあこの程度の話、お気持ち非難するインターネット聡明な皆さんがまさか通っていないはずはないと思うけれど、ではお気持ちを捨てた生き方とはどのようなものでいらっしゃるので?って思う。

とても論理的でいらっしゃる皆さんも恐らく寝食に労力を割き労働に励んでいるのだろうけれど、なぜそんな無駄な真似を?

わざわざ自殺する道理もないけれど、わざわざ生きる道理もないよね。

おれは感情で生きてるから当然やってるけど。

人間からお気持ちを捨てたら石ころと変わらない。

でなければ合理性論理を極めて、「無」を受け入れて、涅槃の境地を目指すような生き方しかないと思うんだけど、そんな人を見かけた事はない。

今日はそんな事を考えてました。

2023-06-05

オレは論理的合理的からお気持ち」なんかに振り回されないぜ。

みたいな感じの人って最近ネット結構いる気がする。

じゃあ当然ニヒリストなんですよね?って思う。

不快を避け快楽を得るための経済的に充実した生活を求めて金稼ぎのスキルを磨くだなんて、そんな「お気持ちベース無駄な事はしませんよね?って。

死ぬ理由もないけど、生きる理由もないですよね?そこからどうやって「お気持ち」抜きで合理的生き方をするんですか?

意味を問うのを止め、欲の炎を吹き消して悟りでも開いたら確かに合理的と言えなくもないかもしれない。

でもそんなんしてないっしょ。

社会資本主義経済という舞台があるのは事実だけど、そこにコミットすべきだというのは規範の話。

であるからといって一義的に「そうあるべき」という話にはならない。

社会を維持するのは大人義務?なんで維持しなきゃならんの?「論理」だけで正当化するのは難しい。

個々の生存幸福追求の場を守るため?なんで幸福なんか追求すんの?

生物生存して種の保存をしていくものから?優秀な子孫を残すべき?

かに今までそうしてきたけど、これからもそうしていく「べき」という意見正当性はどこから湧いた?

規範が無からポップする事はないし、理詰めで言えば存在しないものをあると言い張るなら、それは「論理的」な人が大嫌いな宗教ですよねって。

私は宗教全然良いと思うけどね。

全ての規範の土台は快不快であって、土台が無ければ論理を積み上げていく事は出来ない。

論理的「だけ」で言ったら人間なんかいてもいなくてもどっちだっていいんで。

殴ったって盗んだって殺したって、不快蔓延するという点を除けば何の問題もない。

ニヒリズムというと脊髄反射で厨二かよと思う人もいるけれど、自然科学が台頭して宗教が相対化されて以来、誰だって最低限心にニヒリズムの影くらいはあると思う。

自覚的であれ無自覚であれニヒリズムを土台(?)にして、そこから刹那主義実存主義消極的ニヒリズム、あるいは宗教人権思想生命尊厳だって立派で有益宗教ですよね)への回帰なんかを選び取ってる。

お気持ち」に従ってね。

私は大い感情論者だし、生きるとは自分の納得を追い求める事だと信じて疑わない。

そのための近道をする道具として論理を使う事はあっても、どこまでいってもそれは道具で感情に先んじるものではないと思う。

人は理屈カレーを好きになるのではなくまず先に好き嫌いがあって、そこから遡及的に論理的分析が始まる。

カレーとはかくある理由で美味しく、あなたが嫌いなのはそれを理解していないからだ。

「本物」を食べれば分かる、とか山岡士郎みてーな事言う奴がホラ食え、ウマいだろ?と強要したらどれほどグロテスクか。

結局は感情論だよね、という話に対する極端な反論として「感情論がイイなら人殺しをしたいって感情もオマエは受け入れるんだよな?」

みたいな話はありがちだけど、それもまた論理規範道徳と言うよりは快不快の均衡の話だよねって思う。

殺したいと殺されたくないは等しく無意味で対等なので、まあ多数決的に殺されたくないが優先される。

大抵の人は殺したいより殺されたくないに天秤が傾くんで。

まあ私は別に殺したくても、実行したっていいと思うけどね。突っぱねられて終わりなんで。

その考えは尊重するけど、そこから出力された刃が自分に向けられたら当然抵抗する。

他者の考えを尊重する事と、それが自分領域に入ってきた時に突っぱねる事は全く矛盾しないんで。対等であるが故の衝突。

アフリカで何万人が死んでますって情報を聞いてもほーんとしか思わんけど、目の前で人が死ぬ所みたら素朴にイヤな気持ちにはなるだろうと思う。

そこには単純な損得勘定で片付けられない道徳規範について何かのヒントがあるかもしれないけど、何であれ突き詰めれば快不快問題収束する。

自然科学的な事実でなく規範を論じるなら、快不快からは逃れられない。

イヤ利他的な行いをする人間だっているだろ、人間不快だけで動いてない、という反論もあるかもしれない。

主体的他者奉仕するにしたって、その行いが自身の中で快楽を生む、あるいは少しのコストを払ってより大きな快楽を得られるからそうしてるんじゃないって思う。

それは別に偽善でもなんでもないけど、自身快楽を求めるために働きかける先が自分他人かの違いでしかないんじゃない。

規範について、例えば今は結果の平等より機会の平等の方が強めに支持されてる。

じゃあその機会の平等実践として、等しく分け与えるべきか?持たざるものにより多くを再分配すべきか?

後者は甘え、世の中弱肉強食であるべき」なんだから努力で補え、なんてのはネトウヨありがちな言い草だと思う。

さりとて前者が「正答」だと決めたらその時点で宗教になってしまう。

元より答えなんてないんだから合理的に考えて」、なんてカッコつけない方が良いと思う。

私はこっちだと思います、こうこうこういう論理的理由もありますが、根っこの部分の判断としては私の心がそう囁くからです。

って言った方が誠実だと思う。

論理的に正答が導かれるのなら、道程は違えどちゃんと学べば全員が同じ結論に辿り着くはず。

でもそうはならないはず。

こういう話をすると文章読めない人が素朴な相対主義だ!拗らせ冷笑野郎だ!死ね!ってお門違いな説教をされるんですけど。

私自身はこの話を通じて所詮は「お気持ち」だよねとは言うが、それがダメだなんて一言も言ってない。

しろそれに自覚的である事が誠実なんじゃない?的な放言をしてるんで。悪しからず。

もっと言えば冷笑的だったら何?って話で、何の建設的な批判にもなってないんですよね。

その指摘自体冷笑に終始するだけですよねって。

2023-06-01

星野源「恋」ってまるで歌詞意味が分からなかったけど、今日突如「意味なんかないさ暮らしがあるだけ」の意味理解した。

めっちゃ実存主義だ。

歌ってシャワーとか浴びながらいきなり理解できることがままあって面白い

でも指の混ざりとか頬の香りとかは未だに全く分からない。

2023-05-06

オナニーマスター黒沢読んだ。びっくりするくらい惡の華だった。

あい思春期自意識視野の狭さを煮詰めたジュブナイルが大好き。

でもああいう話ってどれもこれも、結局人との関わり合いが人生リアリティだよねって所に着地してちょっとまらない。

人生の根源的な悩みを忘却して、奥底に追いやってたまるか、なんて実存主義的な価値観に傾倒したっていいじゃないと思う。

その点桐島、部活やめるってよは私の琴線をベシベシとスラッピングしてきた。

映画が大好き。でもきっとプロになんかなれない。

それでも自己満足でいい、という言ったら開き直りのような生き方を「憧れと繋がっている瞬間を感じる」という素敵な言葉で語っていたから。

2023-03-23

『エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス』を観た。

セカイ系ハジケバトルだな、と思った。他の運命を辿った自分たちの皺寄せを食らってるってくだりでは、まどマギでもそんな感じの運命収束してどうのみたいな話があったのを思い出した。

冒頭の前置きは鬱屈とした生活を見せるのに必要なんだろうけど、ちょっと冗長に感じた。

国税庁でのシークエンスマトリックスオフィスのそれみたいな緊張感があって良かった。敵の現れ方もなんかエージェントスミスみたいだし。

ペーパーカットは痛みがリアルに分かりすぎてついつい目を背けてしまった。

ブッ飛んだ事を色々試す辺りはおちゃらけに徹してる感があって面白かった。この辺もマトリックスの"I know kung-fu."を思い出した。意識しているんだろうか。この擦られた陳腐な例えはあんまり使いたくないけど、ボーボボのハジケバトルそのものだった。

別世界自分を呼び出すのはジョジョD4Cみたいでもあってちょっとかっこよかった。あり得たかもしれない運命を呼び出す、というアクショントリガーがヘンな事をする、すなわち日常から一歩踏み出すというものになっているのはなんか良かった。

手がソーセージになった世界線のくだりでの2001年〜のシーンはちょっと笑った。ディルドは長すぎでは。

Part.2以降ではおちゃらけから少し離れてシリアス色が強くなった。暗黒ベーグルがどうのの話辺りはほぼ置いてけぼりだったが、「結局意味なんてないんだから、全部終わりにしちゃえばいい」みたいな台詞からニヒリズム実存主義の話が好きなのでそういう文脈で捉えておいた。

冒頭で出たトロフィー?は何かプラグっぽいなとは思ってたけど、最悪の形で伏線回収がされた。局部モザイクとかもあったが、結構話がシリアスになっていたので反応に困った。

落とし所としては愛による解決という事で、無碍にしていた旦那の「おふざけ」の目玉シールを貼っ付けて、くだらなさを優しさに転じさせたって感じだろうか。愛だねえって思った。

生命誕生しなかった世界線の辺りからはほぼ理解していなかったが、娘と腹を割って話し合ってハッピーエンドになりセカイ系だあ……と思った。

胃もたれするヘビーさを耐える気力があれば、もう一度じっくり観てちゃん理解したい。

愛と決断大事にしたいと思った。

2023-03-13

anond:20230311224417

こういった自己の在り方みたいな悩みって、やっぱり宗教上の理由があるのかな。

キリスト教みたいな一神教下では、神が定めた物だけが真理であるという考え方だから

自己というものは神が決めるもの自分自身が悩むものではないというのを聞いたことがある。

その後、ヘーゲル哲学のように物事はいろんな面があるとか、サルトル実存主義とか、哲学上で西洋知識人たちが、

答えは出てないにせよ、現代人がかかえる悩みみたいなものは全部考え尽くされてる感があるから教育って大事だね。

ちなみに鬱状態というのは脳が物理的に炎症してると言われているから、何かしらケアしないと取り返しがつかなくなるから気をつけて。

2023-02-21

モノの良し悪しが本当に分からない

味覚、音楽映画ファッション、その他諸々。

絵画なんかは文脈依存も強いから単に教養に欠ける部分もあるんでしょうけど。

定量化できないもの評価が非常に苦手。「適切な評価」をつけるのではなくて、そもそも評価のものをするのが。

からと言って、定量化できる部分だけを見て、マック世界一売れてるから世界一美味しい、とかは思いませんが。

「適切な評価」は、「これが世間的には良しとされるんだろうな」というのが過去経験から何となく察しがつくのですが、自分自身の思う「良し悪し」は全く浮かんでこない。

もちろん「好き嫌い」はあります

しかし、例えば食事なら気分による所が大きい。唐揚げの口の日に望みのものを食べてざっくり90点の満足度だなと思っても、別の日には全く同じものを食べて70点だったりもする。この数字も、他の料理満足度とざっくり順番に並べ、相対的整合性から適当に弾き出したきわめてアバウトなものです。

料理としての完成度も、何を以て良しとするかは「人による」としか言いようがない。人間なんて個体差はあれほぼ同じ構造なので、ある程度の普遍的感覚というものはあるのでしょうけれど。

例えば映画なら、この映画面白い面白いが、☆がいくつかと言われると困る。「普通面白さ」なら3つで、「手放しに全てを褒められる面白さ」なら5つなんでしょうけど、そうはっきりする事なんてそうそうない。そのグラデーション境界を引くのはあまりにも難しい。

ましてや「良し悪し」となれば、恐らくは個人の「好き嫌いから離れ、普遍的視点に立たなければならない。

1点刻みの100点満点で評価するとか絶対に無理です。5段階でも怪しい。悪い、普通、良いの三段階でも、大半が普通に入ってしまいそう。

その辺の人を捕まえてその場で描かせた漫画と週刊連載されてる漫画を比べたら、流石に優劣はつけても良いだろうとは思いますしかし「なぜ優れていのか」を突き詰めていくと、結局「好き嫌い」に収束してしまうのではないかと。この例での「好き嫌い」にはかなり普遍性がある(ほとんどの人が恐らく後者評価する)でしょうけど、そう極端な比較ばかりではありませんし。

感性を磨くという事についても疑問があります

ファッションに興味を持ってから、今まで変なのと思っていた服や靴をかっこいいなと思うようになった事なんかはあります

しかしそれはネットでよく言われる「情報を食べている」状態なのではないかと自問した時、違うとはっきりは言い切れない気がします。

実家が割と余裕のある方だったので、色々なものに触れる機会は与えられてきました。それが「適切な評価」を下すのに役立ってはいるのかもしれませんが、「私の評価」の基準にはなっていない気がする。

自分自身があまりに「良し悪し」が分からないもので、世の中の人間もそこまで分かってないんじゃないかと勘繰ってしまます

やれこの映画は名作だの、この料理は不味いだの、点数をつけてはいものの、ざっくりの印象を10単位でつけて、詳細の加点減点部分を表すそれっぽい1点単位数字を合わせているだけなのではないかと。

他者の顔色を伺わず、プリミティブな感性と積み上げてきた経験だけで瞬時に「あ、この料理は87点だな」なんて浮かぶ人がいるとは信じがたい。いるのかもしれませんけど。

イデアなんて言葉がありますが、物事本質的な良し悪しなどなく、(例えば服なら耐久性や透湿性、手入れの手間といった明確な評価軸であらわせないような)あらゆる評価は突き詰めると「個人的な好き嫌い」に収束するのではないかと思っています。「社会的な選好」もまた個人のそれの最大公約数的なものに過ぎないとも。あるいは、誰かしらの好き嫌いがその人の立場によって権威づけられたか

批判批評においても、対象の細部について検討はされるものの、その細部を何を以て良しとするかは価値判断がついてまわり、つまる所は好き嫌い問題になるのではないかと思います

どれだけそれらしい理由を並べて普遍性正当性を強調しても、根底個人好き嫌いしかない。

しか遡及的に見出された理屈であれ、それを言葉にして他者の「好き嫌い」を知り、時に理解し歩み寄る事は大事なのかもしれませんね。

追記

この世で本質的存在する絶対不変の軸なるものはないんじゃないかと思ってはいますが、個人好き嫌いが積み重なって形成されたある程度普遍的評価軸の存在否定していませんし、対外的には尊重しますよ。

究極的には全てに意味がなければ物差しもない、ハイ終わり。というニヒリズムではなく、無意味を認めた上でそこから価値を積み上げていく実存主義的なスタンスという事です。冷笑と言われ少々カチンと来たので、念のため。

追記

定量化できないもの数字にしたり相対評価したりするのは難しい

(以下全ての「評価対象」は定量化できないものを指す)

評価対象について知識を積み重ねて吟味することは、他者のモノの見方、感じ方を知り、時に自分の中に取り入れる事で捉え方が重層的になるかもしれない

一方で、「情報を食べる」と言われるように、良し悪しを考えるという事が他人評価軸に合わせる、他者の顔色を伺うような事にもなってしまわないか(それが全面的ダメだとは一言も言っていない)

評価対象にまつわる知識を積み重ねても、結局良し悪しを決める軸は好き嫌い帰結しないか

・「世の中一般で好かれる≒良いもの」でもない、「私が好きなもの」でもない、「私が良いと判断するもの」なるものは、何を以てして決まるのか

まとめると私が思っているのはおおよそこんな所です。

それに対して、初めから好き嫌いとはまた異なる「良し悪し」なるもの存在する事を前提として、それが分からないのは理解が足りないからだ。という反応が多かったので、あまり噛み合っていないのではないかと思いましたね。

その「良し悪し」が人々の好き嫌いが集まって作られたものを指すのなら、それは好き嫌いと同じとは言えませんが、全くの別物とも言い難い。さらに、では結局良し悪しとは「情報を食べる」事に過ぎないのではないか、という話に繋がる。

しかし、全ては好き嫌いに過ぎないという態度では美という概念をいささか否定するようで、矛盾するようですがそれもまたどうなのかなとも思ったりします。

2023-02-20

何を読むでもなくニヒリズムから実存主義信仰スライドしたきっかけを思い出した

「キミ、すーぐ死にたい死にたい言うけどどうせ死ぬ気ないよね?今回こそは本気で死ぬゾ、って何十回思ってるワケ?」という非常に素朴な自己批判だった

逃げ道として死ぬ事を考えるのはその場の気晴らしにはなるけど、いつまでもそれを続けて騙し騙ししょーもない生き方をするより、どうせ死なないならせいぜいマシに生きる方法を考えた方が良いなって

2023-02-13

何を為すべきか、何が善いのか、なぜ善いのかを合理的論理的に突き詰めようとすると、剥き続けた玉ねぎみたく何も残らない。人間がなぜ幸福に生きたいのか、なぜ皆が幸福であるべきかなんて、価値中立的立場からは答えが得られない。ニヒリズムやね。

絶対的な足場を得るには、人権思想なり宗教なり実存主義なりへの信仰思考停止必要になる。

2023-02-09

anond:20230208202950

EXID(イーエックスアイディー、朝: 이엑스아이디)は、韓国ガールグループである2012年デビューグループ名は「EXCEED IN DREAMING (夢を越える)」から来ている。 前事務所との契約満了に伴い2019年以来休止状態となっていたが、2022年10周年記念シングル"X"をリリースグループ活動継続を示した。日本での活動2022年ファイナルツアーをもって終了したとしている。

エキシディ(Exidy)は、1974年から少なくとも1986年(Chillerがリリースされた年)のビデオゲームの初期に存在した、 アーケードゲーム大手企業ひとつである

Exchangeable image file format(エクスチェンジャブル・イメージファイルフォーマット)は、富士フイルムが開発し、当時の日本電子工業振興協会 (JEIDA)で規格化された、写真用のメタデータを含む画像ファイルフォーマットデジタルカメラ画像の保存に使われる。略称Exifで「エグジフ」(もしくは「イグジフ」)。

エクシーガ(EXIGA)は、SUBARU(旧・富士重工業)が製造販売していた7人乗り乗用車である生産レガシィインプレッサ同様、同社矢島工場所在地群馬県太田市庄屋町)。

エキシージExige)は、イギリス自動車メーカーであるロータスカーズ2000年から製造するスポーツカーである

Exim(いくしむ)はPhilip Hazelによって開発が始まったメール転送エージェント (MTA) の一種である

Eximindsは、モスクワ出身アレキサンダー・ジュコフ(Alexander Zhukov)と、ドミトリー・モンジコフ(Dmitry Momzikov)による音楽ユニット世界レコードレーベルで曲を使用される、トランスミュージック界の売れっ子プロデューサーである

message@ware exire(メッセージ@ウェア・エクシーレ)は、NEC製のNTTドコモのDoPa無線機一体型携帯情報端末(PDA)である

実存主義(じつぞんしゅぎ、英: existentialism、仏: existentialisme)とは、人民実存哲学の中心におく思想立場、或いは本質存在(essentia)に対する現実存在(existentia)の優位を説く思想である存在主義とも。

exist†traceイグジストトレイス)は、日本バンド

2003年6月に結成された、シーンでは珍しい全員女性ヴィジュアル系バンド

2023-02-05

超内気なガキだったか10代の頃にニヒリズム実存主義宗教の意義について散々考えた。そこそこの年の人間が「生きる意味とは……」みたいな事言ってんの見ると、え?その歳で!?って思う。

逆に人間関係や恋愛については疎かだったから、自分が良い歳になってナイーブ過ぎる事言いだしたら、え?その歳で!?って思われるんだろうな。

でも現時点でも、ネットで「誠実さなんて無駄!男は暴力的であるべき!それが本能なんだ!」みたいなナイーブさの裏返しで露悪的発想に走る人らを見てるとえぇ……とは思う。

2022-12-29

一般的宗教への理解ってどんなもん

アホな信者が祭壇に向かって居る訳も無い神様を崇めてるどうしようもないカモ集団とかマジで思っているのですかね。(まあ悪質なカルトだとあながちそうではないとも言い切れない気もするが)

実存不安を抱いた事とか無いのですかね。あんまりいか……

でも宗教ってヤバソーくらいの認識の人は多いんでしょうね。

ネットの人が絶大の信頼を置く法律とか科学とかの客観的っぽい概念だって所詮人が勝手に考えたもので(本質的存在したものを「見出した」という考えもあるかもしれないが、面倒なので置いておく)、なぜこれが良い?なぜこれは悪い?その理由は?なぜなぜを繰り返したらどこかで必ず価値判断問題にぶち当たるし、そもそも自然科学に至っては価値判断問題についてはノータッチだろう。

人はなぜ生きるのか。そんなものはない。ハサミは紙を切るために、電卓計算をするために存在するが、人は別に目的を持って存在する訳ではない。生き物はその辺の石コロと変わらずただただ不条理存在する。何の意味価値もない。しかしそれだとあまりに生きるのが空虚になる。不安で仕方ない。

そこで神様は人が何故生きているか教えてくれる。何故なら神様は全知全能だから。全知全能について論理的に何かしらの矛盾がありそうであったとして、それは人間側が理解できないだけで、人間概念を超えた所で全知全能は成立し得る(かもしれない)。

絶対的価値を得ようとしたらどこかで必ず思考停止しないといけないし、絶対的な足場があって初めてその上に色々なものを積み上げていける。

その思考停止信仰と言い換えても良いと思う。人権思想信仰するのか、宗教信仰するのか、自由意志信仰するのか、実存主義を信仰するのか。

社会文化によってどれが主流として選び取られるかは違うけども、大切なのは信仰で、その中身が何であろうが実のところ大して変わらない気もしますけどね。

余談ですけど人生なんて遺伝とか環境とか生まれで全部決まっちゃってさァ!みたいな決定論じみた事言うけど神への信仰とかは特にない、ただただ自分無意味運命操り人形だと思ってる人ってマジで何をモチベーションに生きてるんですかね。

2022-11-09

結婚とか子育てとか、それをしないと劣ってるとか

人間を平均化して誰もが当てはまるような特徴を並べ立てて型にはめようとする本質主義って非民主的だよなあ

そんなことやるより

自分がどう生きるべきかっていう実存主義スタンスを取ったほうが

明らかに個人幸福に貢献するよな?

 

なんでみんなこんな明朗なことに気づかないのか

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