はてなキーワード: 視覚とは
http://anond.hatelabo.jp/20120130150137
元増田です。友人のAさんにおもしろい指摘を受けました。
元増田 「えっ」
友人A 「えっ」
元増田 「えっ」
友人A 「えっ」
なるほど!!!
それでは、問題の画像はあくまでミッキーの着ぐるみを描いたものであることが文脈上明らかであるとして考えてみます。殺害表現でないとすると、名誉声望保持権を主張するのは無理筋に思えます。すると、同一性保持権侵害の線で押してくるのではないでしょうか。
(同一性保持権)
第20条
著作者は、その著作物及びその題号の同一性を保持する権利を有し、その意に反してこれらの変更、切除その他の改変を受けないものとする。
同一性保持権侵害を構成するには、その行為が著作者の『意に反して』いる必要があります。ミッキー(の映画(の原画))の著作者は当然ウォルト・ディズニーだと思いがちですが、実はこの点はずいぶんと争点になっていて、正直なところ「結局誰が著作者なのかよくわからない」んですよね。ウォルト・ディズニーは当然ながら、ウォルトの盟友アブ・アイワークスあるいは二人の共作、はたまた二人の作り上げたディズニー社の団体名義だとする説もあります。
しかし、彼らの意向は明らかです。彼らは口を揃えてこう言ってきました(たぶん)。
『中の人などいない!』
誰が著作者であるにせよ、中の人など決していないんだ、ディズニーランドに行くと笑顔で迎えてくれる彼はあくまでミッキーという生き物であって着ぐるみではないのだ。そういう世界を彼らが作り上げてきたことは明白です。「中の人などいない」ことが、ミッキーマウスという著作物を構成する重要なアイデンティティである。だから絶対に首なんか飛ばない。これが主張として認められれば、ミッキーマウスの着ぐるみの頭を吹っ飛ばすという表現は同一性保持権の侵害となるかもしれません。
でも、どうでしょうね。
まず、視覚的に表される「絵柄」ではない抽象的な要素については著作権が認められないという判例が多くあります。「中の人などいない」はこれに該当する可能性が高そうです。また、着ぐるみを作って売ったならともかく、着ぐるみのイラストを描いてそのイラストの頭を吹っ飛ばしたわけですからね。ミッキーマウスの著作権は既に切れているとすれば無償で着ぐるみを作ったり絵を描いたりすることは問題ないですし、あとぶっちゃけ、彼らが何と言おうと、ディズニーランドにいるミッキーが着ぐるみであることは悲しくも事実なのですから…。
この辺、本職さんの本気の弁論をぜひ聞いてみたいところです。
というわけで、あれは着ぐるみの頭が吹っ飛んだだけだよ!と主張してみるだけで、なんとも馬鹿馬鹿しいメルヘンな問題になることが判明しました。こんなにメルヘンな裁判はそりゃあ是非とも見てみたいわけですが(きっと世界中が大注目するでしょう)、怒りのメールを送ってきたのがディズニー社であるにせよディズニーファンであるにせよ、恐らくはあの画像を「ミッキーの頭を刎ねて殺害している場面」と受け取ってのことだと思います。とりあえず落ち着いていただく&名誉声望保持権侵害の疑いを回避するためには、首が飛ぶ前後の文脈をきちんと公開した上で、「あれは着ぐるみなんだよ」と説明するとおもしろいよいのではないでしょうか。
http://anond.hatelabo.jp/20110908093243を可能な限り段落を再現してエキサイト先生に翻訳して頂きました!
長い間、私は暗箱にいます。
私が箱の外部で聞いた誰かのコメントによれば、劇薬を含んでいる小さなボトルは、この箱に位置します。ボトルは完全に密閉されますが、ハンマーはボトルの近くに配置します。また、彼らは、ハンマーがある時に倒れるだろうと言いました。
いつになるかは「ある時間」です?私は知りません。このまさに瞬間に?あるいは遠い将来?恐らく、それは既に来ました(私はそれに関して考えたくありません)。誰もハンマーに影響することができません。独立事象として、それは、見込みで50%倒れるでしょう。見込みはちょうど50%です。ひょっとしたら、ボトルは壊されるかもしれないしあるいはだろう。自分に関して、死者、あるいは、生きている。
私は言わなければなりません、状況はどれくらい恐ろしいですか。
私は、猛烈な憤慨を持たないようにはすることができません。私の人生(私のための最も重要な問題)は、私から完全に離れており、単純な図、FIFTY PERCENTに単独で依存します!あまりに恐ろしい。
さらに、私は、それは完全に不合理であると思います(そして)。私は、ちょうど50%で見込みを維持する多くの方法で束縛されます。
視覚。箱は、任意の光から完全に保護されます。それは、ボトルと装置を見つけるおよび破壊することから私を回避するためにあります。完全な暗さ。私は完全な暗さにいます。したがって、今、私は、自分のアウトラインさえ見ることができません。恐らく、それは奇妙に思えます。暗さは私に私の体自体の存在について疑問を抱かせます。
聴覚の知覚。恐らく、私が上に言及した理由から、完全な遮音は使用されます。私は、私自身の音声さえ聞くことができません。私はメカニズムを知りません。まず第1に、私は、何も見ることができないとともに、どのようにそれを調査することができますか。したがって、これは恐らく推測だけです、私の鼓膜はこの箱の中の包囲の前に破損されました、あるいは、ある特別の資料は箱の壁に使用されます。
とにかく、光と音の保護であまりによい暗箱では、ちょうど用語が示すように、私の視覚的・聴覚の知覚は死んでいます。
あたかも一層の確認が必要かのように、私を極度に圧迫する巨大な疲労は私のための別の拘束物です。それらは努力から私を回避するために私にある種類の筋弛緩剤を与えたように見えます。私が同じ姿勢から変わることができないとともに、私の触覚はほとんど麻痺しています。
光はありません。音はありません。匂いと味は信頼性が低い。触覚は不調にあります。私は操り人形に似ています。すべての五感は私のコントロールが不足しています。あまりに残酷です。完全な拘束物。それらが睡眠薬を与えていた場合、私は望みます。私は、外傷のない苦悩にいると思います。私の生活(私の存在(自体))は完全に無視されます。そのような屈辱は私の正気を維持します。そのような屈辱だけができます。
自分の生および死をコントロールする権利は完全に奪われます。私はそのような状況を嫌います。私の生活の連続性の中核決定要素は完全に依存します、で、単独で、で、純粋な見込み。誰からでも完全に遠方に、意志があります。私は再びそれを嫌います。私はそれを嫌います!
なぜ私は、そのような箱で囲まれなければなりませんか。そのような途方もない箱では、なぜ私は、そのような完全な拘束物を備えた、生命不安および死にいなければなりませんか。
私は孤独です。私は、中身がなく、水平に感じていますか。すすり泣かないようにすることが困難です?番号私の孤独ははるかに深い。私は空間の海でいます。私は一人です。完全に孤独です。孤児として、私はこの無限の暗さに向けられました。私は絶対零度の中で震動しています。
この箱に展望はありません。暗さだけがここにあります。私はボトルとハンマーを感じることができません。私は壁、底および天井をまた感じることができません。それらはそこにあるに違いありません。しかし、私の五感がすべて奪われます。何もないように、私は感じます。それらのものがいくつかの意味を持っている一方。
正直に話して、私は、箱にいるかどうかそれほど分かりません。私は、私の姿が存在すると確信します。私は考えています。私は空想しています。それは証拠である、私の独自性を示すこと、呼ばれる、自我あるいは意識、あるいは心、固体です。しかし、独自性はありますか、本当に箱で囲まれる?それが別のスペースで浮かんでいることはありえますか。私はそのような疑問を除去することができません。
恐らく、私がここでであるものは、宇宙に結局浮かんでいるか、あるいはマリアナ海溝の底に横になっています。あるいは恐らくキラウエア火山の穴から下降して行くこと。
私には、箱(私を囲んで)がどのようにか知る方法がありません。私の感覚はすべて死んでいます。私は、ここに、箱の内部があるかどうか判断することができません。
私は、本当に生きているように、それに加えて、確かではありません。私には、そんな単純なものを確認する方法がありません。恐らく、50%の見込みは私を越えて既に通過しました。恐らく、私は既に死んでいます。私はまだ、恐らく生きています。浅くて、筋弛緩剤を注入された、呼吸する、弱い心臓の鼓動。あるいはそれらのすべての停止(単に去る肉大型丸薬)。
私は私自身の身体をコントロールする任意の能力を奪われます。誰が私の心が重大な活動を継続する身体に存在すると言うことができますか。五感は完全な暗さで毒されました。それらは感覚器として機能することができません。私は、真実を知る見込みがありません。恐らく、どんな推測も一人で作り上げられます。私を包む状況および自分の独自性は恐らくプログラムされた回転プレーのコンポーネントです。
私の存在に関して、私は振る舞いを決定することができません。私は、それを認めることを嫌います。しかし、私は変動の最中です。
私は、誰かが私を見つけることができたらと思います。私は、誰かが箱を開くことができ私がいかがか言うことができた、らと思い、私がどういう人か決めることができました。私の内側にそうするのに十分な力はありません。私ができるのは孤独の中で震動し続けることです。
もし神ならば、私は言うことができるでしょう「そこにさせる、軽い。」私は、それが不可能なことを知っています。しかし、私は、私がそのように言うことができたならばどれくらい素晴らしいだろうか思わざるをえません。
私自身の自由意志!それは、自分を取り巻くすべての変動を固定することができました!
同時に、切望は影を生産します。箱が開かれるなら、私は見つかり観察されましょう。その結果、私の姿は決定されるでしょう。実を言えば、私は決定を心配しているという事実から視線をそらすことができません。
一人で生きているか死んでいるかどうか判断することができませんが、私は死を恐れています。残念ながら、私は死者として決定します。私は受理することができません。まだ、私は感じることができません。私は特定の現象として死を想像することができません。恐らく、そのため、私は死を恐れています。
いいえ、それは私に制限されるべきではありません。高潔なキング。致命的な殺害者。規則的な人々。すべての同じ。恐らく、悪い疾病の年上の人々あるいは患者は、十分に真実の死に近いある想像を持つことができました。しかし、それでも、死の特定の経験を知ることができません。
結局、死は圧倒する重要性を備えた最終仕向地です。時間と意識は絶対的な不可逆性を持っています。死にはさらに変更することができない完全無欠さがあります。それが儀式の通過点あるいは顕著な印象的な出来事でも。
私自身、ここの私の心はそうです、そのときは消えられるだろう、どれ、私がいかがかが決定されます。それらが生ぬるい水(私はその中で温度を感じることができない)から奪う場合、私は、大気に身をさらさないようにはすることができません。
私はそのような不可逆変化を恐れています。それは死の決定に制限されていません。さらに、非常に心配しているので、私は生きていて決定されます。
自分の現在の存在は、無限のポイント上に立っている小さく小さな幻覚に似ています。それほど大きくない。それほど小さくない。それほど長くない。それほど短くない。拡張はありません。収縮はありません。ユニークな単一のポイントで立っていること。それは数学上正確です。私は、自分の同一性に関する混乱があるそのようなポイントでとどまるゴーストのようなものです。
ポイントは同時(ある位置で既存でない)に座標の飛行機ですべての位置で存在します。ある出来事が生じれば、その瞬間においては、それは、すべての地空(あたかも私の招待がバスから降りるかのように、出来事がその中で生じた)中の単一のポイントに私を集中させるでしょう。関係なしで。ポイントと私がものだったとしても。
幻覚(それはそのようなポイントでとどまった)は、等しい程度に対して、実際で霧のように消されているの可能性を持っています。
さて、私はすべての配当通過時間の中で既存です。そして、私はすべての自然を持っています。同時に、私は孤独からそれを受けています、私はすべての自然から離れています。私は、誰かが私を見つけることができることを望みます。同時に、私は非常に心配しています、私はどこにいてそれ、私はその瞬間にいかがでしょうか。
箱の中がすっかり暗くなってしまってから、もう随分と時間が経ちました。
入れられる以前に小耳に挟んだことなのですが、どうやらこの箱の中には猛毒の入った小瓶が置かれているそうです。小瓶は口を溶接されて密閉状態にあるものの、すぐ側には振り上げられたまま固定された金槌が設置されていて、その金槌はとある時間がきた途端に振り下ろされるのだそうです。
そのとある時間なる時がいつを指すのか、私には全くわかりません。いまこの瞬間にもその時が来ているのかもしれないし、あるいはもっと先のことだったり、考えたくないことではありますが、もう過ぎてしまったことだったりするのかもしれません。金槌は誰の影響を受けるでもなく、独立した一つの事象として、完全な確率五十パーセントで振り下ろされることになっているのです。小瓶は割れてしまうのかもしれないし、割れないままかもしれない。私は死んでしまうかもしれないし、生きたままいられるのかもしれない。
激しい憤りを覚えずにはいられません。私の生死という何よりもの重大事項が、私はもとより誰からの手も離れて、唯一、五十パーセントなどという無機質極まりない確率だけに委ねられているなんて。ほとほと酷いにも程があるのではないのでしょうか。
加えて理不尽極まりないことに、この五十パーセントという確率をより厳密なものにするために、箱に入れられた私には様々な枷が与えられたのです。
例えば視覚について。小瓶と装置が見つかっては壊されかねないとのことから、箱には完璧な遮光が施されることになりました。完璧な暗闇。暗黒と呼んでも差し支えのない暗さが用意されたのです。よって私には、少し先の様子はもちろんのこと、私自身の輪郭さえ視認することができません。そこに本当に私の身体があるのかどうか、馬鹿げた話ではありますが、疑いすら持ち得てしまえる暗さなのです。
また聴覚についても、同様の理由からか、自ら発した声さえ聞きとれない程に徹底した遮断が施されています。どのような原理が働いているのかは不明です。そもそもなにも見えないのですから、確認のしようがありません。ですから以下は推測になりますが、もしかしたらここに入れられる前に鼓膜を破られたのかもしれないし、あるいは箱を形成する外壁に特殊な吸音板が使用されているのかもしれません。
兎にも角にも、防音吸音共に優れすぎた暗い箱の中で、私の視覚と聴覚は文字通り死んでしまっているのです。
極めつけとばかりに、全身を支配する身じろぎひとつ取れない虚脱感もまた、私に与えられた枷のひとつでした。暴れないようにとの理由から、箱に入れられる際に何かしらの弛緩剤を投薬されたのでしょう。半ば強制的に同じ姿勢のまま横たわらねばならなくなったので、次第に皮膚感覚が麻痺していきました。
何も見えないし聞こえない。嗅覚も味覚もあてにならない上に、触覚までも機能不全に陥った。つまるところ私は五感を全て支配されてしまった木偶のような有様を晒しているのです。非情極まりない状況です。これほどまでに不自由を徹底するくらいなら睡眠薬を投与してくれたらよかったのにと思わずにはいられません。一つも外傷を与えられないまま生殺しにされている気分なのです。私という生命、存在について、これ以上ないほどに蔑ろにされているという屈辱感が、辛うじて私の精神を狂わせず律してくれているのです。
私は、私の生命を、その生き死にを決定する何よりも重大な決定権があからさまに奪われてしまっていることが憎い。生命の存続を決定づける要素というものが、たった一つ、誰からの意図からも独立した、純粋極まりない確率にだけ寄っているという事実が、憎くて憎くて堪らないのです。
どうして私はこんな箱の中に入れられなければならなかったのでしょう。こんな馬鹿げた箱の中で、徹底して自由を奪われたまま生死の恐怖に怯えなければならないのでしょう。
こんなに理不尽なことがあっていいのでしょうか。こんなに残酷なことがあっていいのでしょうか。
私はいま、とても孤独です。胸にぽっかり穴が開いたとか、むせび泣いてしまうとか、そんな孤独よりももっと深淵にある、一面の虚空とでも言うべき孤独感にやられてしまっているのです。すごくすごく、ものすごくさびしいのです。独りぼっちのまま、永劫の暗黒に投げ出されてしまったものですから、絶対零度にも等しい肌寒さに打ち震えることしかできないのです。
箱の中からは一切の遠近感が失われています。暗黒だけが広がっていて、どこかにあるはずの小瓶と金槌は当然のごとく、箱の壁も底も天井も全て消えさってしまったかのようです。無論、実際にはそこにあるのでしょう。けれども、ありとあらゆる感覚器が閉ざされ麻痺してしまった私には、当然のようにそこにあるはずの物ども(実際にはそれ自体に何かしらの存在意義が与えられているはずなのに)が、ないも同然になってしまっているのです。
正直に告白しましょう。私にはもう、箱の中に私がいるという前提にさえ自信が持てなくなってきています。確かに私というものは存在している。こうして取り留めもないことを考え、あるいは空想している私の自我ないし意識とか精神などと呼ばれている唯一性は確保されている。けれども、その唯一性が本当に箱の中に閉じ込められているのかどうか。本当はもっと違う、どこか異質な空間を漂っているのではないか。疑念を払拭し切ることができないのです。
もしかしたら、いまこうしてここにある私は、どこか遠く宇宙の果てを漂っているのかもしれませんし、マリアナ海溝の水底に横たわっているのかもしれない。あるいはキラウェア火山の火口からマントルの方向に向かって沈下しているのかもしれません。
私には私自身を覆う箱がどうなっているのか知る術がないし、五感が死んだままではここが箱の中なのかどうか判別がつかないのです。
加えて、いまここにある私が本当に生きているのかどうか。そんなことさえも私には確認する方法が与えられていません。ともすれば私は、二分の一の確率をすでに通り過ぎてしまっているのかもしれないのですから。私はもう死んでしまっているのかもしれませんし、運良く生き残っているかもしれません。弛緩剤を打たれた身体で浅い呼吸と僅かな拍動を続けているのかもしれないし、その全てが停止したままだらんと横たわった肉塊になっているのかもしれません。
私は私自身の肉体を自由にできるだけの力を奪われてしまっているのです。私という思考が生命活動を続ける健全な肉体に宿っているなどと、一体誰が認めてくれるのでしょう。完璧な暗闇に毒された五感は、すでに感覚器としての意義を失くしています。私にはもう本当を確かめるだけの機会さえ与えられていないのです。ありとあらゆる想定は、もしかしたら私自身が作り出した捏造なのかもしれない。私を巡る様々な状況や、そもそもの私という唯一性についても、プログラムされたロールプレイにすぎないのかもしれない。
私という存在について、口惜しいことに、ゆらぎの只中にある私には振る舞い方を決めることができないのです。
叶うことなら、誰かに私を見つけ出してほしいくらいです。私を閉じ込めた狭い箱をこじ開けて、私がどうなっているのかを観測して、私の有り様を決定して欲しい。私にはもうそれだけの力が残されていませんから。身動きも取れないまま、孤独に身を震わせ続けることしかできないのですから。
全能の神であれば、光あれと呟くこともできることでしょう。無茶な願いだと承知のうえですが、そう告げることができたのならどんなによかっただろうと感じずにはいられません。
自身を巡るありとあらゆる不確定なゆらぎを自らの意思で確定できるなんて!
あこがれは、しかし一方で臆病な陰影を生み出すものです。箱が開かれ、私が見つけられて観測され、結果的に私の有り様が決まることについて、嘘偽りなく告白すると、確定されるいまに不安を感じていることから目を逸らすことができなくなるのです。
生きているのか死んでいるのかさえも自分自身では確かめようのない私ではありますが、それでもやっぱり死ぬことは怖いのです。死んでいると決定してしまうことが生理的に恐ろしいのです。どうしても受け付けられない。きっとそれは私がまだ具体的な死という現象を体感することも想像することもできていないからなのでしょう。
いいえ、なにも私に限った話ではないのでしょう。人徳有望な仁君名君であっても、極悪非道な殺戮者であっても、遍く存在する人畜無害な一般人であっても、誰だってそうだろうと思うのです。年老いた人や、病床に伏せる難病患者であるのならば、もしかしたら限りなく近しい想像を働かせることが可能かもしれません。が、それでもやはり具体的な体験については一生不明なままだと思うのです。
結局、死とはゆるがせにできない圧倒的な意味を持つ終着点だと思うのです。時間というもの、あるいは意識というものが絶対的な不可逆性を有しているように、たとえそれが儀礼的な通過点や他に類を見ない印象深いイベントであったとしても、決して覆すことのできない絶対的な事柄に違いないのです。
私は、いまここにある私という思考は、私を巡る様々な有り様が決まった瞬間にここから存在しなくなります。頭までどっぷりと浸かった、熱くも冷たくもない、温度を感じることのできない完璧なぬるま湯を抜かれてしまって、否応なしに外気に触れざるを得なくなってしまうからです。
そんな取り返しの付かない変化が恐ろしい。死んでいると決定づけられるだけに限らないのです。私にはもう、生きていると決まってしまうことさえ不安で不安でたまらないことなのです。
きっといまここにある私は、永遠とも感ぜられる点に留まった小さな小さな幻想のようなものなのでしょう。それ以上広がることもなければ縮まることもない、伸びることもなければ短くなることもない。拡散することも閉塞することもない、数学的に正しい唯一一点に留まったまま自己の同一性を勘違いしてしまった幽霊のような存在なのでしょう。
その点は、座標平面上の至る所に存在し、同時にとある一箇所には存在していないのです。一心同体も同然となった私のことなんて気にも留めないで、ある特定の事象が起こった瞬間に、その事象が起こったありとあらゆる時空間の中のたった一つに、まるでバスから降ろすかのようにして私を収束させるのでしょう。
またそんな点に留まってしまった幻は、実物になる可能性も、霞となって消え去る可能性も平等に有している。
私はいま、どんな時空間にも存在し、ありとあらゆる性質を有していながら、同時にどんな性質からも見放された孤独に苛まされています。誰かに見つけて欲しいと願う一方で、その時一体私がどこにいるのか、どのような姿になっているのかが不安でならないのです。
うまくいかないというよりは、必ずしも賞賛されない理由といったところか。
まず、映像化するのはすばらしいことだという誤解がある。
小説という文字だけで表現された物語を映画のような大迫力の映像メディアにすると、なんだか「進化した」ような気がする。
これが実は違う。映像化は、どちらかといえば退化だ。
なぜ退化かと言えば、人間の想像力を阻害する度合いが大きくなってしまうから。
視覚による情報というのは、たとえどんなにそれが洗練されていったとしても、想像力によって表現される無限の表現と比べたらカスのようなものだ。
もちろん、文字から想起されるものというのも制限は多い。火と書けばそれだけで想像できる範囲は狭まってしまう。
しかし、実際に火の映像を見せられるのと火という文字から火を想像するのは大きな違いがある。
それは、火の映像は映像を作った人間の「火」を映像化したものであり、しかも不完全(完全には想像したものを変換できていない)であり、
火の想像は想像している本人にとって「完璧な」火の表現を完璧に受け取ることが出来るからだ。
しかし、多くの人が映像の洪水に飲み込まれた結果、想像する力が衰えていき、自分の想像力よりも他人の想像したものの不完全な具現化のほうをすばらしいと思い込むようになった。
ハリーポッターの映画が大成功したのは、ファンタジーという異質な世界観であることで想像力を働かせにくいことと、そもそも原作が売れていることの二点があると思う。
しかし、ハリーポッターが児童文学であることを考えれば、想像力を働かせにくいというよりそもそも文章がその点に重点を置いていない可能性が考えられる。
ハリーポッターはストーリーが面白いと言われるので、ストーリーさえしっかりしていれば魔法の表現などはある程度適当でもいいと作者は考えているのかもしれない。
そうすると、原作によってストーリーを熟知したファンが映画によって映像面を補強することが出来るようになったので「二度美味しく」楽しめるようになった。
だから、これほどまでにヒットしたのかもと考えられる。
自分もブログを持ってる一方で、増田を使っているけど、「自分の文章の評価を視覚化」は期待できない。
ちょっとした思いつきで書いた記事が20ブクマ、10トラバされたこともあれば、気合い入れて書いたのがトラバ一つつかなかったこともある。
文章力を向上させたい。まじで。ほんとに。切実に。
文章を上達させるには、もうひたすら書くしかない。
かといって、ひたすらチラシの裏に連々やっても、それはただの自慰行為。
最低限人の目が欲しいわけです。
自分のブログはテーマに沿って書いてるし、思うままガシガシ書くには適さない。
そんなわけでふと思いつきました。匿名ダイアリーいいんじゃね?
自分の思うこととか考えたこと、そんな文章を一日一回くらい匿名で垂れ流す。
ぶっちゃけ基本はチラシの裏と変わりませんが、自分の文章の評価を視覚化できるのがいい。
いや、思考の垂れ流しに普通そんなもんつかないけど、たまについたことがあったらその文章には「なにかある」となるわけで。
そんな感じで誰かに評価される万分の一の可能性に期待しつつ、もっさもっさ悪文日記を書く、という使い方を今日からしてみようかと思うんだけど。
いいかな?いいよね?
※ブログに書いたんだけど、誰も辿りつかないと思うので、ここに転載
この記事は、目標が達成のために毎日もがき苦しんでいる自分に向けて書いたものだ。あなたが同じように目標達成に苦しんでいるなら、いくらか役にたつかもしれない。
この記事(新政府の初代内閣総理大臣は建築家!?──坂口恭平)を読んで思った。
突き抜けている人の共通項は「オレのやるべきことはこれだ!」と良い意味で盲進し、そして盲信し続けられる人だ。
上の記事で紹介されている坂口恭平さんは、ホームレスの住まい(つまり段ボールハウス)の写真集を出し、現在は「新政府」の総理である。新政府は坂口さん自身が自分で勝手に作ったものだ。間違いなくヘンな人であり、突き抜けてる。
坂口氏は言う。
でもホームレスたちは自分で材料を集め、最適なサイズを見極め、住まいを作り上げていく。(中略) そんな姿にものすごく興奮したんですよ
ホームレスの住まいに興奮するという感性はもちろん素晴らしいが、そこから「オレはホームレスの住まいを撮りまくるんだ」という行動に結びつき、結果として「写真集を出す」にいたるまでその行動が持続するのがすごい。普通なら、「ホームレスの住まいはすごい!」と思っても、「写真集を出す」という結果に結実しない。
つまり、「目標達成できない人」に共通して足りないのは以下の2点ということになる。
この2つの中で特に難しいのは後者ではないだろうか。何かを始めることは比較的簡単だ。「よし、毎日英語を勉強しよう」「週に3回ウォーキングをしよう」と。しかし、それが続かないのが人間というものだ。
有名な自己啓発書にこんなことが書いてあった。
この命題は、論理的には当たり前のことを言っているだけだ。が、妙に心に響く言葉である。それは、多くの人にとって、持続することがいかに難しいかを物語っているからだろう。
「3日坊主」というくらいで、続けることは本当に難しい。「毎日○○をやる!」と決めて、それが半年間でも続いたことがいったいいくつあるだろう。半年でも続いたら成功としたとき、その成功率はいったいどれだけになるだろう。「ウォーキングをする」「10分英語のニュースを聞く」という、原理的には誰にでもできる簡単な行動であっても、それすら続かない。
私も多くの人と同様に「継続性のない」人間に分類される。粘り強さの無さが目標達成の上で最も大きい障害のひとつだ。この障害がいかに大きいかを自覚して以来、何かを継続している人に「継続するために最も大切なことは何か?」と聞くようにしている。
その答えは千差万別だが、整理すると、以下の2点に集約できる。
まずビジョンだ。継続している人は、それをスタートしたときに、(無意識的にせよ)以下のことが明確にイメージできていることがほとんどのようだ。
ゴール、メリット、日々の活動は継続できない人も意識しているだろう。だが、本当の意味で「ビジョン化」できているだろうか?ビジョンというのはビジュアルという言葉からわかるとおり視覚からきている言葉だ。であるからには実際の映像としてイメージアップできていなければならない。
「東大合格!」と紙に書いて貼るのはいいが、自分が東大に合格したところが映像化されていなければならない。どこでどのような勉強を誰とどのくらいしているか、というイメージが視覚化されていなければならない。
※これはデザイン思考の日本の第一人者である奥出直人教授から学んだことだ。デザイン思考でも、ビジョンを構築する際に、言葉ではなくモノとしてイメージされていなければならないという。
そして、継続できない人の多くがそもそも意識していないのは3番目(マイルストーンの存在)ではないだろうか?TOEIC900点というゴールに対して、700点、800点というサブゴールをいつ達成するかということを明確化しておくのは継続するためにとても大切なことだ。
そして、実はサブゴールを立てることこそが、上記の2(続けることのインセンティブが継続的に存在すること)に直結するのだ。
このことは、どうも心の性質と関係があるようだ。人間は、「達成した!」という感覚そのものが大きなインセンティブになる生き物らしい。
「この製品をデファクトスタンダードにする」という目標を立てるのはいいが、その目標に対する目の前の目標を立てることが継続の秘訣というわけだ。「プロトタイプを完成させる」「○○さんに高評価をもらうまで洗練させる」「1社に採用してもらう」「年末までに○○万円会社の口座にある」といったサブゴールを立てておこう。そしてサブゴールが達成されるごとに自分を褒めよう。いや、褒めることすら不要かもしれない。人間にとって「達成」そのものが実に大きなご褒美なのだから。
とはいえ、である。サブゴールを立てることは、いわば「テクニック」だ。そのテクニックで継続
に成功したとしても、ゴールがあなたの幸せにつながってはじめてその継続は意味を持つ。
良いゴールを立てるにはどうしたらよいか、これはまた別の記事で考えてみたい。
アスペの人はすごくニッチなところで力を発揮できることもありますね、
独善的で、他人の感情に無関心というか、共感性がまるで無かったりする反面で、
地図や図形・数式やグラフを視覚的・直観的に把握・思考できたりするので、
科学や芸術系で活躍している人にはアスペっぽい人が多い気がします
ただ環境の変化が異常に苦手で、些細なことでパニックになったりすることがあり、
(自分は二律背反的な情報が与えられると頭がフリーズして止まってしまいます)
彼がどんなタイプのアスペ(案山子?ブリキ男?ライオン?)で、
どんな能力を持っていて、何ができて何が出来ないのかを何なのかをよく知れば、
魔法など使わなくとも二人の願いが叶うかもしれません?
うん、いや、君の気持ちなんて犬の糞よりどうでもいいから
「大部分」の根拠を聞かせてくれって。
気持ちじゃなくて根拠をどうぞ。データ。
日本語読めないの?
「普通の男は中一には欲情しない」が偽だなんてこと、統計を持ち出すまでもなく(というかこのテーマで信頼性のある統計は無理だと思うが)明らかだと思うなあ。
中一って何???
俺は
男の性欲は、いわばスイッチ
というのに対して
「まともな根拠があってのことなら述べよ」
「それが出来ないなら主語を身の丈まで縮小せよ」
つっただけ。
そしたら根拠の代わりに
「大部分の男はそうなんだよ!」
「お前は女だ!」
とかいう
すげーめんどくさいけど
「男の大部分が理性薄弱な動物だという根拠を述べよ」
と重ねて問うた。
何言われてるかぐらい理解してから返事を書いてくれよな。
だってさあ、「俺はこいつに欲情したことがある」っていうのは証明可能だけど「俺はこいつには欲情しない」っていうのは悪魔の証明でしょう。
まるで好みのタイプでない筈の女性に劣情を催した経験ってない?そこから類推すると、あきらかに射程外の筈の年齢であっても欲情しないと断言することはできないと思うんだけど、どうかな?ああ、あんた女だったか。
話を逸らしてゴチャゴチャわけわかんねえこといわなくていいからあ、
お前の発言である
>「私を含め男のなかの一部には理性の薄弱な動物がいます」だろ、正しくは。
>勝手に全男をお前の同類にしないでくれ。
一部は、とかじゃなくて大部分がそうだからだろ。
の根拠、データを示してくれ。
なっ!
これに答えるほうが簡単だろーよーどう考えても。
例えお前が中卒だとしても
こんな簡単な問いを3回も繰り返されればいい加減まともに答えられるよな。
聞かれたことだけキリキリ答えてくれ。1行ですむだろ。
たーーのーーーむーーーーよーーーー、な!w
http://anond.hatelabo.jp/20110707195830
初音ミクLAライブを受けた感想の多くは、初音ミク現象や初音ミクの海外進出などについて触れるのが主眼であり、ライブ自体への言及は意外と少ない。その中でも以下のエントリーはライブそのものに焦点を当て、その演出や音楽、聴衆の反応を報告している。既に日本からの参加者による様々なリポートが出ているが、外国人が見たミクノポリスを外国人向けにどう紹介しているかを知るという意味でも興味深いものである。
urlは以下の通り。
http://blog.animeinstrumentality.net/2011/07/anime-expo-2011-detox-and-brief-thoughts/
アニメ・エキスポ2011に関する私の第一報で言及したように、今年のミクノポリス・コンサートほど私を大混乱に陥れたイベントはなかった。ミクノポリス・コンサートは私の通常の経験領域を遥かに超えたものであり、そこから出てきた私の脳裏には回答よりも疑問の方がたくさんあった。まず、歌声合成を売り物にした演出の構想そのものが既に危険に満ちている。たとえ選曲が拙くなかったとしても、技術的な問題によってコンサート自体が台無しになるか、あるいは馬鹿げた振り付けによって、どんなボーカロイドのコンサートも決して完全にはなり得ないのではないか?
こうした質問に回答するうえで最も適切な人間とはいえない私は、おそらく聴衆の反応という意見に従った方がいいのだろう。私が見た限り、聴衆は完全に夢中になっていた。全体の意見はおそらく熱狂的な「イエス!」だろう。私が最初にいた見晴らしのいい張り出し席からは、聴衆が心から公演に参加し、そうすることによって彼ら自身の刻印をボーカロイド現象全体に刻み付けているのを見ることができた。コンサートの間、彼らはケミカルライトを爆発的なロックの時は熱狂的に、もっと優雅な曲の時はゆるやかに、あるいはミクや彼女の仲間たちが登場した時にはリズムなど気にもかけず興奮して動かしていた。
で、私は? どういうわけか私はヴァーチャル・ディーヴァという観念を完全に受け入れるための心理的ハードルを突破できなかった。他の多くのコンサートが有しているある種の感情一体化と同じものがミクノポリス・コンサートになかったのが問題の一部にある。と言うのはつまり、私が思うにこのコンサートに人々が参加し楽しんだ理由は一つだけではないのだ。
そこにいた人々はテクノロジーを目撃したのか? ミクと仲間たちが投影スクリーンを通じて生命を得るのを見るのは、一種のどえらい光学的な楽しみとして間違いなく極めてスリリングだった。聴衆に一息つくほんの僅かな余裕しか残さずに一つの曲から次へと素早く遷移したのは、目もくらむような効果をもたらした。ボーカロイド・キャラは、時に特定のキャラに対応した色の光の塊から実体化することで、興奮を高めた。例えばピンク色の光が巡音ルカのステージ登場の先触れとなったように。キャラの髪の毛や衣服が、彼らがステージで踊るたびにどれほど見事に揺れていたかに言及することなしに、技術面での議論を終えることはできない。中でも衣服は、懇願するような「炉心融解」の際にリンが身に着けていた黒と白のドレスや、「moon」でのミクの優雅な服装を含め、極めて魅力的だった。彼女らの服と髪はどれもキャラの動きと一緒に跳ね、揺らぎ、羽ばたき、その見栄え全てをまるで生きているかのように仕立てていた。もしテクノロジーの展示が目的なら、ミクノポリスは確かにこれらの高い期待に答えることで成功したと言えるだろう。
人々は単にミクと仲間たちを見に来たのか? それはおそらく最も説明力に乏しい説だろう。ミク自身は、その上にファンたちが彼らの(Kylaranが書いたヴァーチャル・ディーヴァから引用するなら)「歌や動画という形式の小さな物語を書き込み、それが回りまわって単なるキャラを超えた生命を彼女にもたらす」ための一片の白紙に過ぎない。ミクと友人たちが、いかに彼らの人格の多くをクラウドソーシングと数百ものその解釈から効果的に得ているかを見れば、何人かのファンは単に彼らの最も好きなボーカロイド・キャラに属するある特定の性質を見せる特定の歌を聴くために参加していることも充分にあり得るだろう。
だが私にとっては、焦点はもっぱら音楽にあった。つまり私がミクノポリスで主に注目したのは、たまたま情報伝達手段としてボーカロイドを使った作曲家たちのショーケースとしての音楽祭という側面だった。そしてこれまた、いかに多数の調べるべき曲があったことか! ミクノポリス・コンサートは23の楽曲[ママ]を含んでおり(文末にセットリストあり)、例えば古典的なryo(supercell)の歌「ワールドイズマイン」から、不明瞭な英語で歌われたwowakaの「ワールズエンド・ダンスホール」のような最近の曲まであった。ボーカロイドが人間を上回っている切れ味という点から、例えば「裏表ラバーズ」やcosMo(暴走P)の「初音ミクの消失」といった、どちらの歌も呼び物となっているミクが歌詞を速射砲のように歌う部分があり、どの人間にとっても明瞭に発音するには速すぎるため単なる人間には歌うことができないような曲の演奏を見るのも、一層興味深い。
しかしボーカロイドがステージ中央に陣取り注目を集めている一方、ミクと仲間たちを囲む人的要素の方が遥かに興味深いことに私は気づいた。コンサートの前に聴衆はダンスロイドによる型通りの演目を見たのだが、ボーカロイド現象が単にボーカロイド曲に合わせて踊るのが好きなだけのファングループを発生させたという事実に私は魅了された。彼女らが音楽に同期して動くやり方は、リズムとメロディーの視覚的側面をもたらし、歌を単なる聴覚上のものにとどまらずより多くのレベル全体にかかわるものとして表現している点で、実に楽しかった。彼女たちがコンサートの残り時間においてステージ近くにいなかったのは残念だった。人間のダンサーとミクが並んで演じる場面を見たかったのに。
ステージ上にいた人間の演奏家たちもまた素晴らしかった。ミクはエレキギター、ベース、パーカッション、キーボード、及び弦楽器の奏者たちを紹介するために時間を割いた。特にエレキギターはソロ演奏を通じてかなり目立っており、コンサートのボーカル部分からは失われていた名人芸の要素をもたらしていた。彼のリフは「StargazeR」の間奏において活力を高めるハイオクとなり、彼が見せるテクに私はずっと夢中になった。だが何より私が印象を受けたのは弦楽器とキーボードの編入だった。特に彼らが締めの「ハジメテノオト」で表現した驚くほど崇高なメロディーは、ボーカロイドの過去を作り上げてきた感情をもたらしながら、一方でその希望と楽観に満ちたやさしい音によって未来への道案内も務めていた。
そもそもこれほど多くのファンをノキア・シアターに連れてくるのに、唯一の尊大な理由があったとは思えない。テクノロジーの融合、キャラ/人格、そして丸見えになった音楽、さらにはその全ての体験が極めて刺激的だった。ボーカロイド技術はまだ音楽業界を支配するには程遠いし、そして現時点でのその化身は、まだ音楽の心臓部に横たわっている本物の人間ならではのある種感情的表現に取って代わる能力を持たない。これら全てを踏まえると、ボーカロイドはこれまでも、そして今のところなお、単に物珍しい存在にとどまっている。だが私は変化の地鳴りを感じている。予め歌声を調整された歌手の蔓延は、我々がヴァーチャル・アイドル界に後数歩まで迫っていることを意味しているのだろう。変化の風が人間の歌手を完全に吹き払ってしまうのか、誰にも分からないが、現時点で私はまだ人間の歌手が負ける方に賭ける準備はできていない。少なくとも今のところは。
1. Project Diva desu
2. ワールドイズマイン
3. えれくとりっく・えんじぇぅ
4. 恋スルVOC@LOID
6. ぽっぴっぽー
8. 裏表ラバーズ
9. パズル
11. 1/6
13. 初音ミクの消失
14. 右肩の蝶
15. 炉心融解
16. Just Be Friends
17. ワールズエンド・ダンスホール
18. from Y to Y
19. サイハテ
21. SPiCa
22. 愛言葉
24. ハジメテノオト
http://anond.hatelabo.jp/20110707195830
初音ミクLAライブ、外国人感想その2「再生の約束」フリーダム訳
http://anond.hatelabo.jp/20110708223459
初音ミクLAライブ、外国人感想その3「ミクノポリスのボカレタリアートたちよ、団結せよ!」
http://anond.hatelabo.jp/20110709211718
初音ミクLAライブ、外国人感想その4「仮想の歌姫:初音ミクの人気と未来の音色」
http://anond.hatelabo.jp/20110710234300
初音ミクLAライブ、外国人感想その5「オレはAXには行ってないけど、まあとにかく……」
http://anond.hatelabo.jp/20110711212701
初音ミクLAライブ、外国人感想その6「ミクノポリス:7月のクリスマスと世界征服」
http://anond.hatelabo.jp/20110712205546
初音ミクLAライブ、外国人感想その7「AX11:ミクノポリスの印象」
http://anond.hatelabo.jp/20110713211501
初音ミクLAライブ、外国人感想その9「アニメ・エキスポ:初音ミク」
http://anond.hatelabo.jp/20110715222900
初音ミクLAライブ、外国人感想その10「アニメ・エキスポ2011(抄訳)」
http://anond.hatelabo.jp/20110716194029
初音ミクLAライブ、外国人感想その11「世界は彼女のもの:初音ミクはいかにして全てを変えたのか」
http://anond.hatelabo.jp/20110717201147
初音ミクLAライブ、外国人感想その12「アニメ・エキスポ2011でのボーカロイド体験」
http://anond.hatelabo.jp/20110719031316
初音ミクLAライブ、外国人感想その13「ミク:日本のヴァーチャル・アイドルとメディア・プラットフォーム」
文法、長文読解、英作文、語彙力、リスニング、様々な勉強法がはてぶで議論されブックマークされてきた。正直な所、Fラン大学生の僕は理解力があんまりない。英語学習の意欲はあるのだが、文法書の難解な文体、意味不明な文字列にしか見えない単語群を憶えるのは苦痛でしかたなかった。大学受験御用達の文法書Forestなんかとてもこれを自分の血と肉にして、利用するなんて僕には到底難しいと感じていた。それでも学習意欲はあるので参考書を読んで問題を解いていくわけだけど読んでも読んでも解いても解いても上昇していかいない英語力。そして覚えられない単語、英語なんて世界中の誰もが簡単に使っているのになんでこんなに難しいの?ずっと感じていた。はてぶで定期的に英語学習関連のエントリーがブックマークされるようにエントリーの内容を本当に実践して成功している人は少ないのだと思う。文法書をまともに理解出来ない人間がある程度出来るようになったので、理解力のない人間でもこの方法は有効だと思う。
言語学の教授をしている方と話す機会があって、その時に教えてくれたことだ。どの言語もリスニングが出来れば文法、長文読解、作文以外の語学力は身についていることになる。というか、文字がない民族も存在するのに言語が存在するんだから、当たり前のことだけど、リスニングを語学学習の中心にするかしないかで効率が大きく変わると思う。ただし、効率のためには文法も必要。重要視する必要はそこまでない。ただ、英語学習を挫折した人間はわかると思うけど、そのへんの本屋でリスニングの本を買ってきて問題集と一緒に解いていても、何言っているかさっぱり分からないし、これで正解だろって思ったら、全然間違っていて、いくら聞き直しても、まるで正解のように聞こえないという経験はあると思う。それを正解に聞こえるまでに聞き続ける努力家はマジで尊敬します。リスニング力がたいしてないのに間違えまくると落ち込んでモチベーションが下がるだけです。あと、リスニングCDは詰め込んでも74分しかないので絶対量が足りない。
映画とか海外ドラマとか洋楽とかの英語を聞いていても、伸びない。洋楽好きが全員英語出来るかって言ったら、出来てないでしょ?音が言語としてじゃなくて、ノイズとして処理されているから、語学学習になっていない。海外ドラマをスクリプト付きで見るのも勉強になるとか良く聞くけど、口語であることが多いので、TOEICなどの語学力のテストにgonnaとかwannaとかそういうのが出てこないので試験対策にはならない。あと、慣用句や文化的な文脈をいちいち辞書で調べる時間が多すぎるし、高度な文脈過ぎて理解出来ないこともある。まるで使えない。結局、意味もわからない洋楽聴いているのと同じになる。ノイズとして処理されるものを聴き続けるのは意味がない。インフォーマルな表現だってことが頭に入っていないと英作文にも影響が出るかもしれない。すげー危険。
ノイズとして処理されることを避けるためにはスクリプト付きのものを聴いてノイズを言語として認識する作業が重要。ただ、洋画は難しすぎるし、洋楽もダメだし、おまけに試験対策にもちっともならない。かといって、その辺の参考書のリスニングはユーモアの欠片もない退屈なもの。僕のオススメはスクリプト付きのアメリカの文化を紹介するVOA Special Englishを読みながら聴きまくること。VOAについてはwikiを見てくれ。端的に言ってしまえばアメリカ洗脳装置だ。非ネイティブにアメリカ文化を理解させる放送のためそれ相応の配慮がされている、更にVOAの平易なヴァージョンのVOA Special Englishは1500語しか使わない上に、一つ一つの単語の発音も綺麗で、スピード遅い。そのためノイズとして排除されず言葉として認識しやすい。コンテンツの内容は様々なアメリカ文化についてで、知的好奇心がくすぐられる。アメリカの勉強にもなった。
http://www.manythings.org/voa/words.htm
これを聴きながらスクリプトを読み、そして音読して、脳に言葉として認識させる。出来るだけ、発音と文節を真似て音読すること。文法書の日本語が理解出来ない人は発音記号読んでも発狂するだけだと思うので絶対にしないこと。とにかく聴きながら読み、発音を真似て音読するを繰り返すのを毎日一時間程度やっていると、スクリプトを読まずリスニングだけでも文章が頭に流れるようになる。第一段階はこれでOK。後は飽きないように、スクリプトを読まないでリスニングをする、一文だけ読んでそれがどういう意味だったかスクリプトを読んで確認する、もしくは一文だけディクテーション、シャドーイングなど、リスニングの勉強法を試してみたりしていた。重要なのは自分が理解出来るスクリプトのリスニングをすること、スクリプトは平易かつフォーマルなものに限る。これに適しているのが、参考書のリスニングなんだけど、これはつまらなすぎる。条件に適していて、雑学講座的で面白いVOA Special Englishが僕の結論になった。条件に当て嵌まるものがあれば他のものでも大丈夫だと思う。
次に単語だけど、はてぶの英語学習関連のエントリーでおなじみの神ソフトP-Study System を使ったけど、VOA Special Englishで聴いた単語を音読するだけでも、相当覚えられたと思う。
http://readingmonkey.blog45.fc2.com/blog-entry-494.html
聴いて15秒待つと効果的なんだろうけど、聴いて音読するだけでも、単語は相当覚えられると思う。音声を聴いて音読するのは本当に効果的。あとは意味不明なアルファベットの羅列に対する疑問は、語源系の参考書を読むといいと思う。意味不明なものに意味を与えてくれるので丸暗記よりは覚え易くなる。re en proとか接頭辞の意味を覚えてるだけでも全然違う。更に英英辞書の説明と組み合わせると覚えられるんじゃないだろうか。英語なんてパーツの組み合わせにしか過ぎないと気づく。意味のわからないアルファベットの羅列で覚えていたときは苦痛で仕方なかったが、これでかなり楽になった。
実感としてはVOA Special Englishで1500語程度覚えただけでもかなりの英語力がついたように感じる。NYTimesの記事も辞書があれば読めるし、Wikipediaの興味のある項目も同様だった。また、VOA Special Englishを中心に勉強し出して一ヶ月でTOEICのスコアが500点になっていた。以前は250点だった。満点990点で四択なので、サイコロ振って選択肢を決めても変わらない点数という惨澹たる結果だったので、正直、驚いた。一ヶ月でここまで変わるか?
大体勉強を始めて三ヶ月くらいでSpecial Englishじゃない無印のVOAを聴くようになる。単語も難しなるし、発音も速いけど、聴き取れないレベルじゃない。映像付きならCNNなどのニュースもなんとなくわかるようになってた。そして、祈るようにVOAを聴きスクリプトを読む出て来た単語を覚えるの作業をしていた。たまにスクリプト付きで配信しているTEDやBBCに浮気するが、半年過ぎたくらいで、VOAもあらかた理解出来るようになり、聴いている洋楽も見ている洋画も意識を向けなくても言葉として理解出来るようになっていた。勉強時間は一日一時間か調子の良い時で二時間くらいだった。この時にTOEIC受けたら695点だった。TOEIC用の勉強は一切していない。これはちょっとTOEIC用の勉強をしたら800点越えられるなーって思って、問題集を購入して点数が低かった文法パートを重点的に勉強して、問題集を解いて練習したら、845点になっていた。勉強を始めてから一年間経っていないです。
今は英作文が全く書けないので、それに向けての勉強法を模索しているところ。
で、文法なんだけど、文法書の分厚さと難解な文章が理解出来ない人間として唯一理解出来たのが大西泰斗氏の文法書だった。例えば現在進行形、分詞構文、動名詞、現在分詞、ingがつくものを躍動感の一言で済ませていて、頭の悪い僕でも理解出来た。彼の著書には復習するための問題集がついてないことが多いので、問題集だけ買って、復習用に解いてみたりしていた。英文を読んだり聴くだけならこれ以上余計なことは覚えないでいい。理解出来ない表現があったときに彼の著書を読めば解決することも多い。分かり易くて本当に助かる。もちろん彼の教え方に批判があることは知っているけど、理解力がない人間には本当に助かる。一般人には細部まで必要ないです。ただ、TOEICが695点の時だったので、それ以上高得点を取るのはゴリ押しで暗記するか、理解するのがしんどい参考書を見るしかないかもしれない。僕はゴリ押し暗記でした。それでも大西氏の表現にはゴリ押しで覚える際も助けてくれたと思う。それぐらい良書ですよ。彼の著書は。でも、全体の勉強量としては文法は一割もないと思う。文法は必須だけど、Forestとか長い時間見ていても英語は出来ないぜ?
人気エントリーになっていて驚きです。反応を読んで、誤解されやすいとこは直しています。例えばCNNがわかるのは嘘だと思うという指摘がありましたが、あくまで視覚情報込みでなんとなくです。英語力なくてもネイティブと会話出来るのと一緒です。視覚情報は大きいです。
人気のブックマークコメントに「一通り目を通してブクマはするけど、実際に勉強することはまずないっ!」と書かれていた。 はてぶで英語学習関連のエントリーをしたはいいけど、勉強しないで、ブックマークして満足しちゃう人は多いと思う。それを防ぐために僕がとった方法も書きました。どうやってやる気を起こすかということです。http://anond.hatelabo.jp/20110709032734
条件に当て嵌まっているNHKラジオもいいと思います。ようやくNHKも九月からサイマル放送が始まるみたいなので、利便性が高まるでしょうね。書き損ねていましたが、アナウンサーなどの職業はボイストレーニングをしているので、間違った発音を覚えないという意味でも有効だと思います。また、過去に大西泰斗氏もNHKで教えていますし、僕が購入した文法書「ハートで感じる英文法」もNHK出版でした。よく指摘されることですが、NHK出版の本は安価で高品質です。同じ大西氏の著作でも前者は950円、研究者から出版されている「ネイティブスピーカーの英文法絶対基礎力」は1500円でした。内容的には重なる部分も多く、信者以外はNHK出版の方で十分だと思います。
ラジオだけじゃなくてWebでも配信しているんですね・・・知らなかった。「ニュースで英会話」http://cgi2.nhk.or.jp/e-news/index.cgi
洋画や海外ドラマで勉強する人を否定するわけではないです。ただ、それだと挫折する人が多いということです。「俺の時代は、何回も同じビデオを繰り返し見て英語覚えた」「吹き替え、日本語字幕、輸入版の三本で勉強したわー」こういうことはインターネット普及以前に英語覚えたおっさんから、耳ダコになるくらい聴いているでしょう。これが出来る人は努力家だと思いますが、ほとんどの人は挫折すると思います。リスニングに慣れていない耳で、苦痛を感じつつも洋画で使われる高度な文脈の慣用句、文化的背景、そういったものを繰り返し見て行く度に調べ、頭に入れていったのでしょう。僕も一度、試してみましたが三度目で飽きました(笑)これは根性論に近いと思います。理不尽な根性論で運動させられた体育会系はわかるかもしれませんが、根性論でも上達はするので、耐えられた人は上達するでしょう。僕の友人にもジブリ作品の英語吹き替えを何十回も見て勉強している人がいましたが、確かに上達していました。しかし、二時間の作品で30日見て60時間です。これをテレビを見る時間を削って毎日?・・・ちなみに友人は各種ジブリ作品をローテーション組んで飽きないように見てました。一応、これも上達する手段としてはセリフをシャドーイングないし、停止ボタンを押してスクリプトを音読をする、または丸暗記するという手段を取らないといけないでしょう。くどいようですが、ノイズを言語として判断出来るようになるのは幼児だけなので、ただ、聴いているだけ眺めているだけでは効果は見込めません。それがなんであるかをしっかりと脳に認識させなければいけないということです。
洋楽に関しては、日本語の歌詞を思い浮かべてください。詩的表現と一般生活で使われる表現が大きく違うことがわかりますよね?例えば、ブルーハーツのリンダリンダでは「ドブネズミみたいに美しくなりたい写真には写らない美しさがあるから」というフレーズがありますが、これを解釈すると、写真には写らない、つまり物質的世界ではなく精神的世界を重んじられ、ドブネズミは汚いものだが、歌詞上だと価値観がひっくり返っている。この曲の発表時はバブルの時代であり、消費による自己表現、自己実現が強く肯定された時代だった。消費に参加出来ない貧乏人は自己表現、自己実現が出来ないわけで、そういった人達を救う意味でもあり、物質主義者を批判しているかもしれないと解釈出来る・・・日本語が出来た上で高度な文脈を理解しないと歌詞が意味することはわからない。というか、日本語が出来ても解釈出来る人が少ないのに慣れてもいない洋楽の歌詞を理解出来るかと言ったら難しいと思う。誤謬する可能性の方が高いだろう。ただ、誤謬しても楽しいもんは楽しい。でも勉強にはならない。歌詞の意味を理解せずに不思議な文章で済ましちゃう人はいいけど、歌詞ってそういうもんじゃないでしょ?歌詞を読むというのは文章を読んでいるようで、文章を読む能力とは別の能力で解読しているのです。そりゃ、単語を覚えられたり、発音も多少の参考になるかもしれないけど、効率悪くね?って話です。
キャラクターの名前考えてるんだけど、カタカナより漢字の方が有利だよね。
名前って、単なる識別記号としての機能以外に、そのキャラのイメージ作りにも役立ってる。
名前を見れば、そいつが主人公ヒロインクラスなのか、味方なのか敵なのか、またはその性格や能力まで大体分かることが少なくない。
だから、なるべく名前にイメージを付加してキャラ立てを強化したいと思ってる。
漢字なら読み以外に漢字そのものがイメージを持つので、そのイメージを活用できる。
ゲームやラノベだと名前の字が視覚情報として常に使われるので、このイメージは割りと有効だと考えられる。
カタカナでもラストネーム(?)は自由にイメージを付加できるが、普通ゲームやラノベ中に常時表示されたりせず、弱い。
ただ漢字名前にも弱点があって、世界観がファンタジーだと使えないんだよなぁ
全く使えないワケじゃないけど、基本的に苦しい。
ふとインターネットをやっていたら、以下のような記事を見かけました。
当たり判定ゼロ モテるSTG女子力を磨くための4つの心得「東方を知らない女をアピールせよ」等
どうやらモテる女子力を磨くための4つの心得「オムライスを食べられない女をアピールせよ」等というネタ記事を改変してつくられたものみたいですね。シューターならゲラゲラ笑ってしまいそうな内容です。
ところでダライアスシリーズのなかでも特に『ダライアス外伝』は、たくさんの女性プレイヤーを全国各地で見かけたシューティングゲームでした。現在ゲーセンで稼動中の『ダライアスバーストAC』にも女性のプレイヤーが確認されており、ときにはカップルでキャッキャウフフと遊んでいる光景も見かけます。弾幕や美少女キャラクターの目立つゲームよりは女性でも手を出しやすいのかもしれません。
ばかなこといってんじゃないよ。
ゲーセン行って『ダライアスバーストAC』。今、シューティングゲームで女子力を発揮するならこれしかありません。これであなたの女子力は最大96倍まで上昇するはずです。
【1暗さを味方につけろ!】
ダライアスバーストACは、大型筐体のなかで遊ぶシューティングゲーム。宇宙空間が舞台ということもあってか、筐体内は全体的に暗めです。暗いって、いいと思いませんか?ショットバーや居酒屋の照明と同じで。しかも時々、画面の照り返しや赤い警告ランプが、あなたの横顔を神秘的に彩るのです。ボス戦前の警告音の最中に、ちょっとだけ男性のほうを振り向いちゃうのも効果的かもしれません。
【2狭い筐体を生かせ!】
ダライアスバーストACの筐体は、コックピットをイメージしたのか、それとも音響効果や視覚効果を重視したのか、やや狭めです。実際、「筐体の天井に頭をぶつけないでください」という警告が書かれているほどです。奥さん!この狭さは地の利ですよ!筐体への出入りの時や全身を使った激しい弾除けの時、それとなくボディタッチしても、「狭いからしようがないよね」という大義名分が立つというものです。もたれかかったりしたら、さすがにあざとすぎるでしょうけど。でも、ちょっと触れたときに「あっごめんなさいっ」って言うぐらいなら、いいんじゃないでしょうか。
ちなみにシューティングゲーム愛好家の男子のなかには恋愛にうぶな人も結構いるので、あまり激しくやっちゃう&誰彼かまわずにやっちゃうと、勘違い君が出現するかもしれません。ご利用は計画的に!
【3一緒に強敵と戦って「吊り橋効果」をゲット!】
よく、恋愛の本に乗っている「吊り橋効果」。ドキドキするような局面を共有すればうまくいく、というあれです。
さて、このゲームにはハラハラドキドキするような場面が目白押しです。大きなクジラとの戦いや、ハリセンボンのホーミングレーザーから逃げ回る際には、ほっといても心拍数があがります。協同プレイで吊り橋効果をゲットしましょう。ただし、
【4優越感を煽って主導権を握れ!】
「吊り橋効果は欲しいけど、私そんな強敵と戦えない」「バーストカウンター?なにそれ?」と言う女子もいるかもしれません。案ずることはありません。むしろ逆に考えましょう。ここは優越感を譲って、実をとりましょう。むしろ、へたくそさをアピールするぐらいが良いかもしれません。
草食系男子とか色々言われてるけど、たいていのシューターは、「お姫様を守るオレ」をやりたがっていますから、実を取るなら、あなたはネクストあたりを選んでプラプラしてましょう。そうしたほうが「協同プレイに貢献しているオレ」を満喫していただけるというものです。間違ってもボスに超接近して張り付き瞬殺をキメたり、バーストカウンター96倍を総なめしたりしてはいけません!ドン引きはされないとしても、それじゃあ男子の優越感をくすぐれません。
【5漁場はインターネットでチェック】
さて、いくら意気込んでゲーセンに出かけても誰もいなければ女子力を発揮することも出来ません。ですが、タイトーの公式ページに行けば、どのゲーセンのダライアス筐体にどれだけ人が集まっているのかを知ることができます。具体的にはクロニクルモードのランキングで上位30位ぐらいの店舗には、たくさんのプレイヤーがいると思って間違えないでしょう。
これらのtipsを意識すれば、さあ、今日から『ダライアスバーストAC』はあなたの漁場です。小魚をいっぱい引き連れる“姫”を目指すのも良し、大物を見繕って一本釣りを仕掛けるも良し。どちらにせよ狭い筐体とボイスソニックはあなたの味方です。もちろん、シューティングゲームとしても遊びやすくて奥が深い作品ですから、女子の嗜みとして悪いモンじゃあありません。そうと決まったら、大物釣りを目指して全国の漁場へゴー!であります。
※もちろんネタですが、実際、『ダライアスバーストAC』は二人以上で同時に遊べるちょっとしたアミューズメントとして、お勧めです。