はてなキーワード: 推理小説とは
通常は、問い合わせを受けない限り教えない。
教えるって、普通は嫌がられる。ドラマのネタを見てない人に言いふらす人もいるけど
そういうのは本当に嫌がられる。教えるって、嫌がられるって学んだほうがいい
ケーキをプレゼントすることはありうる。母は狭山茶を包装して実家に送っていた。
あまりみないレベルの勘違い野郎だ。プレゼントを恋愛前提の何かだとでも思っているのか?
意中の女性のために選んで包装した小説を、読まないからと言って無下にされたら逆上する男性は存在するだろう。そういう野蛮な人間は間違いなくいる。
テメーの独自世界の常識を掲げて「妄想が強い」「自分に酔ってる」などと相手の境遇を質問することも自説の説明もせずに、一方的に決めつけて押しつける。お前こそがマジの、自分に酔ったワガママ野郎だ。
箱に盗聴器やGPS仕掛けられてる
ただちに証拠になるから警察に突き出したり民事訴訟のときに材料になるだけだろう。
反対も何も実現不可能だろう。民法でも刑法でも憲法で定められた差別禁止に反する法律を決めることはできない。
ラブレターも100均で買えそうなピアスも推理小説も当てはまらない。当てはまるのは時計だけ。
面と向かって赤の他人を常識知らずと罵っているくせに、相手の話はロクに聞いてないのな。
あなたは恥を知るべきだ。
推理小説を子供に読ませることで思考力の育成が期待できます~だとか
そんな言説を見聞きするたびに「エンタメコンテンツから面白い以外の見返りを求めるな!」と今まで思ってきたのだが
「エンタメコンテンツに対し面白い以外の実益を求める人々」に対して、私は今まで見下しの態度をとってきたのではないだろうか
「実益を求め打算的に読むと面白さが損なわれてもったいない」となんとなく思っているわけだが
それは私が勝手にそう思っているだけであって
なにかのブログ記事で読書術みたいなタイトルに釣られてクリックすると、ビジネス本をいかに速読し要約するかみたいな内容で
「はーーー!私が知りたいのはいかに小説の読書体験をより充実させるかなんですけど?」
と思った経験がその見下し態度の原因かもしれない
ここまで書いて自分の中で二つの思いが混ざっていることに気付いた
・「エンタメコンテンツから訓話を得ようとするのはエンタメ性を損なう」と私は思っている
・読書と一口に言っても小説やらビジネス書やらのどれの話かわからなくて面倒なんで言い分けられるといいのになあ
別に4℃とか特定のブランドが悪いというわけじゃないと思うんだよね。
1番の問題は『女性にプレゼントを渡すことの加害性』だと思う。
よく「断ればいい」なんていう人もいるけど、普通に考えて怖いでしょ。「いや、あなたのこと好きじゃないし要らないです…」とか言ったらぶん殴られるかもしれないし。だから気持ち悪いと思いながらも笑顔で受け取るしかない。これは本当にストレスになる。
これは4℃であるから、とかは関係ないと思う。よく贈られる手頃なプレゼントの代名詞だから槍玉に挙げられてるんじゃない?
例として、私が今までもらったプレゼント一覧
・ピアス(100均に売ってそうなヤツ):いやそもそも耳に穴空いてないし
何故なら、もう過去にやっているし、現在もやっているし、これからもやるからである。だから予告というのは正しくない。
漫画の感想をみんなで言い合う時間というものが、学生時代より、無性に嫌いだった。私自身参加していたのだけれども。
SFとか推理小説とか、解釈が必要な作品を突き合わせて読むのはわかるのだが、
しょせん漫画に対して、みんなで面白かったねー、などと言い合う行為、ハッキリ申し上げて馬鹿そのものである。と考えている。
ちなみに私はすごく漫画を沢山読むのでそこは安心して欲しい。多分あなた達より相当読みこんでいる。
漫画は好きだが、漫画の感想を呟き合ってキャッキャとハシャぐ空間が嫌いなだけだ。
本題に戻ります。
犯行とか大げさに言ったが、具体的に何をしたのかという話。
『もう何年も前から、複数の感想アカウントを作って、色んなコミュニティに潜伏した』
以上。
「あのキャラが良かった」とか、「あの話が感動した」とか、そういう感想を文体を変えて、呟きまくっている。
それだけのことを私はひたすら続けている。
『あーあ、お前達は馬鹿だな』と。あなた達の一員になりながら、あなた達を嘲笑っている。
結構フォロワーがいてリツイートされるアカウントもあれば、まあそこそこのアカウントも、ほとんどフォロワーがいないようなアカウントもある。
別にそれでいい。今盛り上がっているような漫画の、ほぼ全ジャンルに私のアカウントは忍び込めた。
あなた達が感想を共有してみんな盛り上がっている!と思った時、その一員に、私のような人間が混じっていると思って欲しい。
我ながら、何かが嫌いだという負のエネルギーというのはこんなに継続するものだなあ、と感動するくらいだ。
嫌いな人間だらけの空間が、私のストレスを解消する空間に変換できたのも大きい。
私はちゃんと作品を読んで、感想を呟く人種を嘲るためだけに、感想ツイートを行う。
これだけで、あんなにウザかった空間がすごくキラキラして見えるようになった。
感想村のダムに、悪意という毒を撒いてやっている。一滴、二滴。でも確実にあなた達に私の悪意は経口摂取される。
ああ。匿名って素晴らしい。ありがとうみんな!私のストレス解消のために頑張ってくれて!
という感じの釣りをクリスマスにやろうと思ってたんだが、あまりに虚しいからやめた。
上の話は全部嘘です。
まだ先の話だが親が定年したら母にはiPadを、父にはSwitchを贈ろうと思っている。2人とも同い年なので同じ年に定年になるはずだ。
母は自分で楽しみを見つけるタイプなので50を過ぎてから2.5次元の舞台にハマったり女子向けソシャゲで遊んでたり趣味が多い。ソシャゲや動画を思い切り楽しんで欲しいので大きな画面のiPadを贈りたい。
父は若い頃こそゲームをしたり映画を観たり推理小説を読んだりしていたが今では休日は日がな一日テレビを観ている。映画もたまには嗜んでいるようだが、以前は難解なミステリやサスペンスを好んでいたのに今はなぜかJKが観るような少女漫画原作のイケメンラブコメ映画をよく観ているらしい。そして観たテレビや映画に「たいして面白くねえ」と不満を漏らしイライラしている。どうやら難しいことを考えるのが苦手になってしまったようで小説も読んでいない。ゲームも新しいものについていけずPS1のもので止まっている。最近はそのPS1も埃を被っている。もう動かないのかもしれない。
もともと内弁慶気質だった父がテレビとイケメンラブコメ漬けになってからモラハラや家族に対する配慮のなさが加速した。父と母の口論はしょっちゅう(だいたい父が癇癪を起こす)だし自分ももう長い間父とまともに会話をしていない。趣味や好きなことを持っていない人間は他人を攻撃することでしか面白さを感じられなくなるということを聞いたことがあるがまさにそんな感じだと思った。
そんなことをぼんやり考えている中、映画版の「光のお父さん」を観た。ブログ版やドラマ版をすでに観ていたのでエンタメに特化した光のお父さんだなぁ、という感想を抱いたが面白かった。
自分も幼い頃から父の影響でFFやDQを遊んでいた。今の父からは考えられないが自分がまだ字が読めない頃はスーファミのコントローラーだけ持たせてもらい、父が横でテキストを音読しながらゲームをしていた。今でいうフルボイス実況みたいなものだ。フルボイス実況全部父。
そんな思い出があるから今の父に失望しつつも「光のお父さん」のようにまた一緒にゲームをしたいという気持ちもある。自分はオンラインゲームは苦手だしきっと父もハマらないであろうから、父が定年したらSwitchとDQ11Sを贈りたい。DQ11は原点回帰というか昔のドラクエが好きな人にほど刺さる作品だと思う。父が定年する頃にはまた次世代機が出ているかもしれないが、ひと昔前のゲーム機が父には似合っていると思う。
またいつか父と冒険できる日が来るといいのだが。
基本的にアニメは一人で楽しんでたまに気の合う友達とああだこうだと言い合うのが俺のスタンスだ
てか皆そうだと思うが
個人的に考察サイトなんてものは絶対に見ないし見るとすれば放送が終了したあとでそんな考えもあったのねって感じで楽しむ
正直そんな楽しみにしてはなかったが新規ストーリーということが分かり驚いた
この辺りで糞アフィ共が飽食するために新規ストーリー新規ストーリーとところ構わず叫びひぐらしの名前は広まった
まあそれはいい視聴者が増えることはお金が集まることでありそれは次に繋がることだから
タイムラインで記事のタイトルくらいは確認していたが中身は(ネタバレが怖くて)絶対に見ないようにしていた
それがそれがだここにきてひぐらしに新しい説が広がりこいつが黒幕なんじゃないかと再び糞アフィ共が飽食するようになった
タイトルに入れられたらこっちはどう頑張っても回避できねえだろうが!!
なんやアニメを本当に純粋に楽しむには完全にネット断ちしろってか!!
あのさあ!お金が欲しくてさ飽食するのはいいよ!でもさあ純粋に楽しんでるやつの邪魔すんなよカス共!!
こういう奴らのサイトにアクセスしてるバカ共がいるのにも驚きだが
アクセスしてる奴らはさあ楽しい?推理小説で表紙に最初からこいつが犯人ですって書かれてんだぞ
そんなもん破り捨てるだろ
アフィサイトはどこにでも横行しててそいつらなくしましょうっていうのはできないだろう
でもさあアクセスするのやめなよ
推理小説系が好きなら、パーネル・ホールの「スタンリー・ヘイスティングス」シリーズなんかどう。
「探偵」とは名ばかりの、時給で働く保険屋の下請け調査員(ただのさえない中年)が本物の事件に巻き込まれてグダグダしながらなんか頑張る話。翻訳だけでも14作目まで出てる。まずはとりあえず「探偵になりたい」からどうぞ。
…まともに取りあう気はなかった。人殺しがしたいので手伝ってくれ、などという依頼は聞いたことがない。中年の会社重役がいきなり事務所にあらわれ、麻薬密売をめぐるトラブルに巻き込まれ命を狙われている、と訴えるのだが、わたしはことわった。探偵とは名ばかりで、わたしは事故専門の調査員なのだ。この男が殺されたのを知ったのは翌朝だった。人間には、できることとできないことがある。わたしにはできないことかもしれないが、探偵のまねごとをやってみる気になりだした…。なにごとにも控えめな探偵の危ない活躍を描く新シリーズ第1弾。
【萌子さん……】
・元彼くらい情熱的で運命的な恋愛じゃないと結婚できないと思っている?
・もしくは両親のような初恋同士の恋愛じゃないと真の愛じゃないと思っている?
・だとしたら、たった2ヶ月でたった17人の男性の中からそんな恋愛が出来る可能性はほぼ無い。
・選べない、という気持ちは分かる。分かるが……。なぜ参加したのだろう?売名して元彼と復縁したかった?
・2ヶ月間スケジュールをあけ、最後の3人にいたっては家族まで出演した男性陣や、スタッフ、資金、時間の投入をして番組を作った製作陣の期待を裏切る結果となったことについて、一言欲しかった。
・犯人は誰だろう?と楽しみに読んでいた推理小説が夢オチだったかのような終わり方。
・途中までは、意思の強い、先進的な女性像でよかったのだが……。
・思うに、価値観を受容するということがずっと出来ていない。特に藤井さんみたいな生き方は甘さとも言えるが、悪ではない。そういった部分について「私には合わないんだけど、そういう生き方なんだ」ではなく、質問責めで自分の価値観に合わせようとしてしまう。萌子さん的価値観が立派なのも事実だし、番組上、反論しては落とされるのが分かっているので誰も指摘していなかった。この辺を崩せればもっと良かったのになと思う。
・萌子さんよりどこかの部分で上に立てる人物である黄さんと杉田さんが残されたのは納得できる。
・ずっと逆ハーレムというより男子校に赴任した女教師のようで、自己啓発セミナーのようでもあり、見ていて息苦しかった。
推理小説に関して、「後期クイーン的問題」とかいう問題がある。
ざっくり言ったら、推理小説が「完璧な論理的推理」をひたすら求めていくと、結局そんなものありえなくなるんじゃない? って話だ。
起点になるのはエラリー・クイーンって作家の、初期の何作かに限定したすごく狭い話だった。
でも話の発端を作った法月綸太郎と笠井潔って二人の作家が煽りまくったせいで、推理小説の前提が崩壊するのでは? 根本的な問題なのでは? って話にもなった。
でも推理小説は一応続いてる。結果的には、「後期クイーン的問題」は(法月・笠井をうまく無視しながら)推理小説の可能性を広げる原動力の一つになった。
きちんと知りたい場合は、諸岡卓真『現代本格ミステリの研究』が視野の広さも議論の説得力もピカイチだと思う。この問題について真面目に考えたかったら必読。
一方、きちんとしてない言及の一つに、「第一の問題」と「第二の問題」っていう問題の分類がある。
「第一の問題」はさっき言ったような、完璧な推理って無理なんじゃない? って話。「第二の問題」は、(完璧な推理なんかないんだから)そもそもただの人間の探偵に謎解きとかする資格あるのって話……らしい。
でもこれ、法月・笠井の二人は前者の話しかしてない。第一と第二なんて分類もしてない。誰が言い始めたか、出所がよくわからない。
自分が知る限り、「第一」「第二」の一番古い言及がWikipedia日本語版の「後期クイーン的問題」だ。
これを書いてる時点の最新のバージョンを貼っておく(https://ja.wikipedia.org/w/index.php?oldid=77682984)。
2009年10月27日に「Corwin」というアカウントが「後期クイーン問題」の項目を作成した(https://ja.wikipedia.org/w/index.php?oldid=28693991)。
この時点ですでに、後期クイーン的問題が「二つの問題の総称」であり、「第一の問題」と「第二の問題」があるというふうに書かれている。
(ちなみに諸岡卓真の本は2007年度の博士論文を2010年3月に本にしたものだからWikipediaには触れていない)
でもよく見ると、「第一の問題」は今でいう第二の問題(倫理的な話)、「第二の問題」が今でいう第一の問題(解決の不可能性)だ。
これが入れ替わったのは11月4日(https://ja.wikipedia.org/w/index.php?diff=28825317)。
だから「第一」と「第二」の順番(もしくは「第一」と「第二」)に根拠はなくて、Corwinが適当に付けてただけとも考えられる。
もちろん、そうでない可能性もある。11月2日にはCorwinが項目名を、俗によく使われる「後期クイーン問題」から専門的な「後期クイーン的問題」に変えている(https://ja.wikipedia.org/w/index.php?diff=28790012)。これと同様に、根拠になる文献を改めて読んで、「第一」と「第二」を入れ替えたとも考えられるわけだ。
そうは言っても、個人的な心証では「第一」「第二」っていうのは書いた人の勝手な考えだろうと思ってる。
ちなみに「Corwin」は日本語版Wikpedia黎明期の2003年から編集に参加して、推理小説とSFを中心に現在も活動しているベテラン。
めちゃくちゃなことを書いて怒られたような経歴はないみたい(「後期クイーン問題」も、「第一」「第二」以外はそんなに変なことは書いてない)だが、立ち上げた項目には内容が薄いのとか、出典が少ないのとかが多い。
一応、「第二の問題」がいつの間にか湧いてきたのは相応の理由があると思う。
後期のエラリー・クイーンが書いた『十日間の不思議』『九尾の狐』とかの作品で、名探偵は推理そのものというより自分の存在について悩む。それはもう悩む。
そして、この時期の作品は初期に比べて「完璧な論理的推理」という点ではゆるいというのが一般的な評価になっている。
だからこの作品群では、笠井潔たちが考えたような、「完璧な論理的推理」を求めると究極的には無理が出てくる、っていう問題よりも、
推理に失敗して、倫理的な立場に悩む名探偵のほうが読者の印象に残るはずだ。
発端になった法月の作品だってそうだ。「初期クイーン論」が出たのは1995年だけど、1990年の『頼子のために』と1992年の『ふたたび赤い悪夢』では、精神的に追いつめられる名探偵の姿を描いている。
だから、法月の文章の以前から、作家や読者からすれば「完璧な推理の不可能性」よりも「自分の立場に悩む名探偵」というのが後期クイーンのテーマ、っていうふうに理解されていて、「初期クイーン論」以降も、現在も、塗り替わりきらずに続いてる、っていうのが実情なんだと思う。
だからいつの間にか「後期クイーン問題」っていうタームにもふわっとそっちの意味がくっついていった結果、「第一」「第二」っていう区分が誕生したんじゃないだろうか。