はてなキーワード: ツイートとは
推しの卒業は辛いことは辛いが、推しが決めたことなので、一ファンとしては彼の選択を受け止めて、喪失感とうまく付き合っていくだけだ。
それは同担フォロワーの新垢作成のお知らせだったのだが、それがその卒業した推しのファンアート(FA)を描くための垢であった。
卒業に際して、そのVは卒業後のFAについて配信内で言及していた。
「卒業後、自分のFAは控えてほしい(特に彼が抜けるグループのFAを描くときは)」
私は英語ペラペラ人間ではないので細かいニュアンスは誤っているかもしれないが、少なくとも私はそう解釈した。
態々別垢を作ってFAを描こうとしている者がいるあたり、大まかには合っているものとして話す。
この時、私が思ったのは「彼の意に反して、これからもFAを描くのか?」である。
付き合いの長いフォロワーではあったが、その行いにはじっとりとした怒りのようなものを覚えた。
態々配信内でそれについて言及したということであれば、それは彼にとって大切なお願いの一つだろうと認識していたので。
ファンとしてそれを踏みにじるような真似はするべきではないと。
一方で推しの卒業を受け止めきれない気持ちもわからなくはない。
私自身、Vに沼るきっかけとなった推しが卒業して約1年経つが、受け止めきれたかなと思う今でも月に一度は喪失感をぬぐい切れない日があるし、定期的にTwitterでFAやツイートを検索したりもするし、果てには度々夢の中に出てきて卒業が嘘かと混乱する朝を迎えることがある程度には引きずっている人間だ。
だから、推しが卒業する喪失感への対策で、いくら彼が望まない行為だとしても、自分を守るための一つの方法なのかと思わなくはない。
長くても猶予は3か月ほど。一切の配信もなく、お知らせ一枚で終わってしまう場合もある。
昨日まであった日常は、次の日には非公開という形でなくなってしまう。
幾ら猶予があって身構えていたとしても喪失感は想像の数倍のダメージを与えてくるし、自身の生活が壊れることもあるだろう。
そうならないよう、自分を守るためにもリスナーはそれぞれの方法で喪失感を受け入れていかねばならない。
一方でV側は卒業後について考える必要がある。卒業後はどんなことが起ころうとも卒業した本人には一切コントロールはできない。
それが自身だけでなく、周辺の関係者たちに悪影響が出ることは誰しも望んでいない。
そのために「お願い」という形でファンの行動に制限を掛けることが必要になることもあるだろう。
結局、私はそのフォロワーの別垢をフォローしに行く気にもなれず、かと言ってこんな楽しくはない話を他の誰かにもできず、ただただ推しの卒業に付随したこの問題について未だに折り合いをつけられずに生きている。
さっきツイッターで「誘うより誘われたい人間は数少ない友人となんとなく疎遠になる」という投稿がバズっていた。
私はまさにその人間だったが結局友人と疎遠になって反省しているのでそのことを書く。
高校の時仲良くしていた6人グループがあった。 Aという友人が中心で別々の大学に進学した後も数ヶ月に1回程度は一緒にカラオケやテーマパーク、旅行に行っていた。大学の友達と一緒にいるよりとても楽しくて次の予定が待ち遠しかった。
しかし今思うと提案するのも、日程調整をするのも、プランを考えるのも、予約も全部 Aがやってくれた。
全員が社会人になる前に泊まりがけで旅行に行こうという話になった時、何がしたい?どこ行きたい?と聞く Aに対して私たちは何でもいいよと答えていた。少なくとも私は 自分で考えるプランより Aが考えるプランの方が楽しいし、それが1番確実だと思っていた。
しかし、ついに堪忍袋の尾が切れた Aが「いつも誘うのも私、プランを考えるのも私で、このグループで遊びたいのは私の独りよがりなのかと思って不安だしこのグループと遊ぶのが辛い」と言ってライングループを退会してしまった。
その時は Aに対して申し訳ないと思いつつ、いつも Aが率先してやってくれているから Aはそういう事が好きなんだと思っていたし、得意な人がやればいいのにと思ってしまった。
結局その後は旅行の話も立ち消え、社会人になった私たちはろくに集まることもなくなってしまった。
今でもたまにあのグループで遊びたいなと思うことはあるけど今更何で連絡すれば良いのか分からないし Aを含む誰かが誘ってくれないかなと思っていたら上記のツイートがあまりに図星で辛くなった。
誘わない理由は自分なんかが誘って相手に迷惑だったらどうしようって思うから、でも誘う側の Aだって同じ不安があったんだろう。でも今更誘うのは尚更不安すぎて自分からは誘えない。
今日は注射薬が効きすぎてだるいので勉強はしませんでした...
フォロワー数2万のTwitterアカウントを買って、blueにも登録しましたが、ツイート一回あたりのインプレッションはフォロワー0人のアカウントと変わりませんでした。
何か有益なコンテンツを作ってチヤホヤされたいのですが、私の発言は地味なので誰かに注目されることはありません。
Youtubeで発信しようとも考えているのですが、私の性格だと途中で馬鹿らしくなって辞めてしまうような気がするのです。
というのも私が過去に自然言語処理のブログを書いていた時はそれなりのアクセスを獲得しましたが、一部の人から「ネット上にゴミを増やすな」などと言われているような被害妄想に陥って辞めてしまったのです。
「Youtuberになりたい」という欲求は、夢に出てきたことさえあります。しかし、本当に高品質のコンテンツを作るために意識的な努力をしなければやっても無意味です。
コンテンツの質について自信が持てるようになるためには、それだけの時間・金をかける必要があると思います。
アテンションの獲得のために熾烈な競争をしている社会で、私ごときが発信する物事には何の価値も見出されないでしょう。
それともアクセス数やサブスクライバ数など気にせず、自己満足の世界で発信し続ければ良いでしょうか。
おそらく、私は身近に家族や友人がいることにもっと感謝するべきでしょう。大切な人がいるなら、インターネット上の関係やちやほやされることなど、どうでもいいことのはずです。
漫画アニメオタクでしかないから人と関わる時の引き出しがオタク会話しかない
薄らとオタクを恥じらう気持ちがあって、オタク会話しかできないならいっそオタクであることを恥じない、オタクだけど悪いか?というスタンスで生きようとしたが無理だった それができるほどメンタル強者じゃなかった
俺のTwitterのホームに流れてくるツイート群には、どんな恥ずかしい人格や性癖でも肯定して、それをお互いに受け入れようとする風潮があるように感じている それを曲解して自分を出してもいい、出した上で認めない奴は非難されて然るべきと思い込んだ
自分を肯定するのは悪いことじゃないけど、それを周りに押し付けるのは違うという前提まで汲み取ることが俺にはできなかった
オタクを肯定できないのは視野が狭い!器が小さい!というのはあくまで肯定する側のスタンスであって、肯定される側がそれをやると盲目なオタク肯定の化け物になってしまい、ヤバいオタクほど偉いみたいな価値観になる 必ずしも悪いことじゃないが普通に生きる分にはその価値観だと大分生きづらい
自分のオタクを受け入れない奴は全員敵!みたいな極端な考え方だとあまりに敵が増えすぎる 身内で励まし合うだけならそれでいいし、表に出さず上手く時と場合を選べるならそれでいい
俺はやらかした オタクを所構わず全開にして自分の意見を押し付けた結果誰も幸せにならなかったと思う
俺の中にオタクしかなかったから、オタクの価値観を絶対肯定しないといけないし受け入れない奴は敵という間違った考えを持ってしまった
この増田にASDだけが発達障害だと思うなよ的トラバがちょいちょいあるのに具体例が上がってないからでしゃばってADHD(注意欠陥優勢)語りするね。
まず最大の違いとして、ADHDの発達障害当事者は黙示のルールをだいたいは察知できる。ADHDはとにかく情報が大好きで情報でパズルすることがもっと大好きなので、”明示のルールの上では違反だけど、情報を繋ぎ合わせて考えると違反してもしょうがないところがある“黙示ならいくらでも飲む。パチンコがどうして三店方式を採用してるのか分かるし、学校にスマホを持ってきている友達を見ても「お母さんが車で送り迎えしてるから」みたいな事情を把握できれば放っておく。そもそも不良だったとしても怒りを抱けないので放っておく。これはASDとの大きな違い。
ADHDは相手の感情をなんとなく察知したり、頭が良いほうなら定型発達みたいに話すこともできる。そのうえで他人との接触をどうでもいいと思っている関係上ほとんど反発しないので、感情面においては、いわゆる発達障害特有の焦燥は生じにくい。ここでは話が逸れるので扱わないが、基本的にADHDの”つらさ“は身体面に集中している。
ADHDは自分の意志や感情を抱くことがなにより苦手なので、それを逆手にとって穏やかに振る舞うことができる。ADHDは喋るのもとろいのであんまりとげとげしいことは言わない。ADHDはぼんやり生きているので発言はいつも的を外しているし、言いたいことの7割くらいはそれを口に出す前に他のことに興味が移動するから、”“言いにくいことをついスパッと言ってしまって気まずい空気になる”“みたいなイベントはADHDにはめったに起こらない。
とにかくADHDが最も苦手としているのは、周囲に馴染むことではなく、情報に付随する情動やライブ感みたいなものを持続させること。ADHDはマホちゃんのスカートを見て「似合ってない」「ダサい」みたいなことを思えない。ああ、知らない形のスカートだ。初めて見たな。それだけ。
定型発達やほかの発達傾向のみんなが生のまま摂取できる情報を、ADHDはそのまま手に入れることができない。ADHDが知覚したものはすべて脳みそを通って漂白され、俯瞰的な情報としてだけ記憶に残る。なのでADHDは自我が希薄で、強い感情を抱くのがあんまり得意ではなく、いつもヘラヘラして見える。
ゆえに”黙示のルールの察知“こそできるものの、ASD増田と同じように「浮いた見た目の奴は笑いものにして馬鹿にしていい」ルールには従えない。ADHDには人を嘲る方法が分からないし、それを娯楽とできないので従うメリットがない。なのでこの辺は表面上同じ感じになる。
これによって軋轢が生じにくいのは、ADHDがあまりにもぼんやりしているせいで、こういうときに意固地になるような真面目ちゃんではなく、打っても響かないうすのろとして認識されるからである。
大元の増田の一番の違和感はここだった。とげとげして気が使えなくて思ったことをズバズバ言っちゃうのは”発達“の悪癖ではなく、とげとげして気が使えなくて思ったことをズバズバ言っちゃう定型発達の未熟さである。ADHDは他者に干渉しないので、萎びた観葉植物くらいどうでもいい穏やかでのっそり動く謎の生き物でしかない。
まともな人生を送りたい場合は障壁になることもあるが、素の性格に関わらず偏屈者ではなくまぬけとして認識されやすいのはADHDの大きな強みでもあるので、とにかくここが気になった。
ADHDはマホちゃんにあのスカートが似合わないことにも、周りのみんなが「いっしょになって嗤え」と要請していることにも気づかないが、情報の追加には敏感なので他の子がまずしないような服装であることには気づく。
ADHDは頭の中でとりとめもない情報同士を接続させることに人生のほとんどを費やしているので、”誰も履いていないようなフリフリのスカート“はファッションアイテムではなく”はじめて見る物体“であり、他の情報と接続されるのを待っている新しい情報である。すてきな新しい情報。マホちゃんに似合うかどうかは分からないしどうでもいい。そんなことより既知の情報とスカートを繋げるべく「プリキュアがあんなスカートを履いていたな」とか「ああいう鳥がいた気がするな。なんて鳥だったかな?図書室で図鑑が見たいな」みたいなことを考えはじめ、ADHDの知覚範囲からマホちゃんはいなくなる。
なのでマホちゃんに声もかけないし、マホちゃんがお友達にべったりな性質の子でない限り、高校生になる頃にはマホちゃんとは疎遠になる。
ADHDは来るもの拒まず去るもの追わずなので環境によっては知り合いを多く得られるが、人間関係を維持できないので竹馬の友はいない。
ADHDは人の話を最後までうんうんと聞き、口答えせず、ゆっくりと動き、細かいことを気にしないので、中高年や高齢者の相手をするのが得意である。なのでパートのおばさんから無視されることはあんまりない。
ただ、ADHDの動作は何もかもがとろくさく、仕事中にどうでもいい物事に気を取られるので怒られることは多いかもしれない。
ADHDは美術部には入ると思う。ADHDは自分以外の人間たちもみな、たくさんの情報を頭に流し込まれると幸せになると思い込んでいるので、自分の頭の中に入っている情報をいろんな形で出力して見せびらかすのが大好きである。というかそれ以外にまともなコミニュケーションが取れないので、ADHDにとっては、文章をしたためたり絵を描いたりすることは定型発達における世間話や歓談に相当する。
ADHDは先生のことを好きにならない。ADHDにとって全ての人間は情報の塊であり、有用な情報がたくさん詰まっている先生のことは心から慕うだろうが、それは人間への好意ではなく、使いやすい辞書とか見やすいwikiとかに対する信頼と同じ感情である。ADHDは強い感情を安定させることが苦手なので、恋愛感情が発生するまでテンションを上げ続けることができない。
ADHDは具体的でないアポを全て忘れるので、社交辞令で飲み会に誘われたことをそもそも覚えていない。ADHDは人間とのコミュニケーションを情報として知覚できないので、具体的なアポであってもたまに忘れる。
ADHDは交友関係を維持する努力ができないので、大人になったADHDのスマホにマホちゃんの連絡先が入っている可能性は限りなく低い。ADHDにとって他者との繋がりは最も価値の低い情報なので、スマホを新調するさい電話帳の引き継ぎを忘れるかめんどくさくて移さないに決まっている。もし奇跡的に連絡先が入っていても連絡する理由が分からないので、マホちゃんに電話する代わりにTwitterで久しぶりにたずねた地元のラーメン屋にかんするツイートをする。
ADHDに友達はいない。好きな人もいない。ADHDは悲しくない。ADHDの感情はいつでも「眠い」一択である。いろんな情報が絶えず頭に流れ込んでさえいれば幸せなので、ADHDは人間を欲しがらない。
まぁでもADHDはADHDなので職場で気にかけてくれるパートのおばちゃんは存在しているはずである。同世代の知人はいない。
ADHDはADHDの特性それ自体も情報だと思っているので、いろいろ調べたりする。そうしてこういう場をめざとく発見してはADHDの情報を見せびらかす。
たぶん多動が強い人はまたちょっと違うんだろうな。
おわり
インフルになると、普段できてたことができなくなって、ああこれって精神エネルギー必要だったんだなって気付かされる
難しい仕事
相談に乗る
本を読む
小難しいアニメを見る(30分)
ーーーーー死ぬほど疲れてる時の壁ーーー
仕事をする
遊びに行く
ゆるいアニメを見る
エロいことをする
YouTubeを一本見る
ーーーーーインフルエンザの壁ーーーーー
考え事をする
コンビニに行く
ごはんたべる
LINEをする
お風呂に入る
↓
■anond:20230929162218言及先エントリを開く
鍵変えろよ
Permalink | 記事への反応(1) | 言及する | 16:22
記事への反応 -
〇D氏の報告ポストのみを見た現在の感想(A氏の判決後のコメントが無い状態)
解決されたことに胸をなでおろしましたが、私がD氏のファンであることから、D氏に肩入れして事態の推移を見守っていたことに気が付きました。もし私がA氏のファンであった場合、同様にA氏を応援していたでしょうし認知の歪みに今後気を付けていこうと考えました。
〇ポロポロとA氏周辺のランカーがD氏に対してと思われる名指ししない、具体的な指摘も無いツイートをしていたのが気になる
A氏周辺のランカーたちが、D氏についての曖昧な言及や具体的な指摘を避けたツイートをしていることが気にかかります。これは、単なる印象操作なのか、実際に問題行動があったのか疑問です。状況を考える限り、これは虚偽の風評や誹謗中傷につながる可能性があるように思えます。もしこれを見て心当たりのある方は気を付けていただきたいです。直接の言及ができないのが心苦しいのですが。
〇最近よく聞く言葉だが、具体的な根拠のない批判は誹謗中傷にあたる可能性があるため気を付けよう
以上の通りです。
〇去年年末か今年の年始か忘れたけどBPLで活躍しているプレイヤー複数名がA氏とパーティしている様子がツイートされていてリスク管理どうなってるのかと思った
BPLで活躍している複数のプレイヤーがA氏とのパーティをしていたようなツイートがありました。これに対して、リスク管理がどのように行われているのかについて気になりました。ただ会食することは問題ないと考えますが、それを公にするのはイメージ的にどうなのでしょう。また、過去にはD氏のツイート後の混乱している時期にBPLプロ選手や元プロ選手が出演するYouTube生放送において、A氏とMCをしていた方が共演する場面もありました。MCの方や現プロ選手は、過去に誹謗中傷被害を受けた経験があったと記憶していますが、これもどういった判断だったのか気になります。
嫌い
つっても公式から発表されたとか既に実装された情報についてツイートしたりするのは別にいいというかやった方がいいと思う
TL見てネタバレくらうのは最速で情報追ってないのにTL見た自分が悪い
でもわざわざDMとかリプとかでネタバレ送ってくる奴は嫌い本当に嫌い
公式本編見たりプレイしたりして知るよりお前から知らされる方が楽しいと思うか?
新鮮な反応が見たいとかお前の快楽のためにこっちの楽しみを奪うな
しかもこういうネタバレしてくる奴、自分で見たかったって言い返すとバカみたいに凹むんだよ
何で自分の楽しみ奪われた上にお前のメンタルケアまでしなきゃいけないんだよ
一人じゃなく何人もこういう奴がいる最悪
東京オリンピックでボランティアに参加した女性が相当淫らだったらしく、Twitter(当時)でなんかリベラル系の男が「日本人として恥ずかしいから外国人相手にすぐ股開くのやめろ」ってツイートしたら同じくリベラル系の女垢達が「日本の男の魅力の無さ」に話すり替えて発狂してたな
インターネットの悪いところの1つとして、「できない人」の声が大きくなるところがある。「要領よくできる人」「コミュニケーションがうまい人」「なんだか楽しそうにしている人」のことを、そうじゃない人が「自分はできないけど」と自虐含みでバカにする。羨ましさが反転して攻撃になる。
たとえば発達障害なら、発達障害ではない人のことを「定型発達」「健常者」などと言い、「定型発達」の生きやすさと発達障害の生きづらさを言い連ね、「定型発達」の人々が非常に無神経であるかのようにまとめる。しかしかなり言いがかり的なものもあるというか、「定型発達、そんなスーパーマンじゃねえから…」と言いたくなるようなこともある。人間、だいたいグラデーションだ。
で、クワーッとなったのを抑えるために、オードリー若林正恭の「完全版 社会人大学人見知り学部卒業見込」(角川文庫)を読んだ。とてもよかった。
すごいよかったのは、若林の言っていることがだんだん変化すること。連載の最初では「スタバで『トール』っていうのが恥ずかしい」と言ってたりするのだが、途中から「別に恥ずかしくないぞ!」と言い出す。過去の自分のネタ帳を読んでこう振り返る。
「テレビに出たい!」「お客さんに笑ってもらいたい!」となぜ素直に書けなかったのだろう。他人事のように考えを巡らせた。それを書いたら最後、いよいよ本格的に自分の力不足を直視しなくてはならなくなるからだろうな。それを書く強さなんて勿論持ち合わせていなかった。だからこそ、それを手にする気がないことを殊更に強調することが、当時の精一杯の自己防衛だったのだろう。
この辺りの文章が超絶に刺さった。素直にうらやんだり、素直に悔しがったり、素直に憧れるのは体力がいる。それよりもちょっとスカしたふうにふるまったり、すごい人をかえって下げてみたりしたほうが全然傷つかない。でもそんなひねくれやこじらせた自意識や他人に対するレッテル貼りは、人間を不自由にする。
全然関係ない話なのだが、私は非常に感謝していることがある。むかし「部屋が汚い」ということを記事にしていたら、「発達障害(ADHD)なのではないか」というコメントをもらった。それに対して私は「そうなのかな?」と思っていたのだが、自身がADHDであり、それについての文章をよく書いていたYさんが、そのことについて怒ってくれた。
その怒ってくれたものの中身はあんまり覚えていないのだが、「増田ちゃんは部屋が汚いことを気にしているのに、そういうレッテル貼りはいかがなものか」のようなものだったような気がする(違ったかもしれない)。
ADHDがらみの話は私の中で非常に混迷している。ADHDの特徴を、当事者やその周りの人が知っておくことは、生きやすさ、過ごしやすさにつながると思う。「どうして自分はこんなにできないんだろう」と悩んでいる人が、ADHDの情報を知ることは、とても救いになるし、大事なことだと考えている。
ただそれは当事者と、その周りの人が楽しくコミュニケーションするために知っておくべき情報であり、赤の他人がその相手を理解しやすくするためにレッテルを貼り付けるものであってほしくないという気がする。たいていそういうのは雑になるものだから。それは「発達障害」という言葉でもあるし、「定型発達」という言葉でも同様に発生している。
ttps://x.com/ao8l22/status/960065753872416772?s=20
ttps://x.com/ao8l22/status/960066055988129792?s=20
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②パク増
③パク増再投稿(元のパク増本人?)
自分よりプラスに見える人間をまずバカにするやり口、本当に好かない。リ..
https://archive.vn/2021.03.19-214155/https://anond.hatelabo.jp/20210319191550
お気持ちも何も、選挙直前に言い出すまではインボイスに全然反対してなかったの過去ツイート検索してみてるわ。
赤松健がそもそも、成功して大ヒットした作品に後から金を注ぎ込むべきって、とうに失敗した選択と集中をアニメ漫画でもやりたがってる人じゃん。
最近増田やTwitter(現X)がインボイス制度の話で盛り上がっているのを見ていて思う。
「インボイス制度の話も大事だけどさ、近畿圏在住の増田としては関西・大阪万博の方を何とかしてほしい」と。
Twitter(現X)とかを見ていると「中止を求める」というツイートをしている人が多数いるけれど。
中止を求めるんじゃなくて「大阪府で(大阪府民を対象に)2025年関西・大阪万博の開催の是非を問う住民投票を開催する」ように求めて欲しいな。
調べてみたら、過去に開催間近になって住民投票で反対多数だったために万博が中止になったことは何度か有るらしいし、
住民投票で反対が有ったなら開催が決定していても開催を中止に出来るという特例が、万博の開催ルールの中にあるらしいから。
本当に中止を望むなら、開催の是非を問う住民投票を求めて欲しい。