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これとかひどくない?
#講談社ラノベ文庫 [試し読み]5月新刊4月30日(火)発売!
「やりすぎた魔神殲滅者の七大罪遊戯(ニューゲーム)2 最強究極(オメガ)の七大罪使いは不死なる吸血鬼を殺し滅ぼす」
著: 上栖綴人 イラスト:GoHandshttps://t.co/xro9VA6S9Vhttps://t.co/sLgcDPH67x
公式サイト:https://t.co/UNmwTHxSFu pic.twitter.com/GcfYKITEX3— 講談社ラノベ文庫 (@K_lanove_bunko) 2019年4月18日
こんなんどう見てもエロ本じゃん。
大手なのにこんなの出すとか終わってるわ。
埼玉はまあどうでもいいんだけど。
南京とかアウシュヴィッツが無い、捏造って言ってる人って結局今言われてるような、って意味で言ってるのがほとんどに見える。
でもそれを受けてありましたって人はそれ自体の有無として憤ってる場合が多いように思う。
原爆が捏造って言われたらどう思うかって言い方をしてる人も見たけどあー捏造って言ってる人の話通じてないんだなって思った。
どっちが正しいとかじゃなく客観的に。
だって見てたら捏造って言ってる多くの人の言い分はどうも実際の罪より大きな罪だと騙られているって理不尽さを前に挙げたものでそれに対しての反論としてはあんまりよく分からない。
アメリカだって原爆5発落としたとか1000万人が死んだとか空襲は敵国日本を憎み殲滅する意図で主に民間人を殺す目的でレジャーのようにやったとか言われたらまあ普通に捏造だそれは違うって否定するんじゃない?って思うし。
国として主張してる、とする事に対して大きく離れたり証拠が精査されていなかったりバイアスがかった想像が含まれていそうな事ならって意味で。
捏造派が主張してるのはそういう事なんだし。
捏造派の立場や展開する言い分が正しいって事じゃなくて是非とか証拠の有無とか信用性とかじゃなくあくまで論理の構造と立場の話として。
感情面の事なんて反証し様なんてないけどそれでもそれは違うって言うと思うし実際アメリカさんも南京虐殺じゃないって言ってる人がよく言うやつと同じように大空襲の民間への攻撃問われて事前に逃げろってビラ撒いたし軍に関連するかしないかなんて分かりようがないんだからって言ってるわけで。
だからってその違うって否定がアメリカが当時民衆を殺した事を何とも思ってない証拠だって言うのは飛躍してるなと思う。
殺人で5人殺した奴に10人殺したって言ったらそんな事実ない捏造だ、って反省してようが元々の罪を認めてようが言うだろうしそういう話だと思う捏造派が言ってるのは。
繰り返すけどそれが正しいって話じゃないよ主張の論理の話。
でもそれに対して憤り、悲しむ人はその否定は全ての否定だって捉えたり人を殺す事自体の恐ろしさを説いたり殺したって事実に向き合うべきだっていうような事を言ってる。
そこで言うなら加害側とされる方が確実な証拠を反論として出せないならそこを違うと否定するのは倫理的に傲慢である、とかそういう類の話だと思うんだけど。
あるところで認知バイアス的。
ただただ噛み合ってないなって思う。
証拠とか証言とかそれぞれが実際どうかとかじゃなく外野から見てて言い分がキャッチボールやドッジボールどころか相手の頭高く遠投し合ってるなって印象。
相手のボール取れないから目端で追いながらこれがあなたの投げたボールですってポケットから自分のボール出して相手に投げてる感。
個人的には中国とかドイツとか日本とかユダヤとか埼玉とか高須とか関係なく、実際それをやったのなら中身が違っても否定するな、その違うって主張はやった事を認めてないのと同じだって論は意味分かんないなって思うけど。
実際の証拠があろうと無かろうと本当に10人殺してようと5人だろうと関係なく発想自体に法倫理的に引いてしまう。
けどその否定であり自身の正しさの主張ってその要素自体に中身関係なく被害者感情は煽られ傷つけるものなんだそれは酷い事なんだこれ以上何を傷つけようって言うんだって考えは理解はできる。
でもやっぱりそれが理不尽だ公正でない確実な証拠がない事なら語るべきではないって言い分も分かる。
語るべきでないとする事に対しての100%やってない、は100%やった、と程度は同じだと思うけど。
遠投してないでキャッチボールすればいいのにって思う。
わざと取れない方向に投げてる人も多い気はするけど。
anond:20190315022042 の続き。
本当にTV版からガラッと変わった。途中まで、ギャラクシーの侵入作戦が始まるところまではだいたい同じだった。しかし正直なところ名前と髪型でクーデターに失敗する噛ませ犬だと舐めていたレオン三島がまさかここまで有能であったとは。TV版から反省会を繰り返したのか三島よ。本作におけるTV版との分岐点はできる三島とついに人の心をインストールしたグレースである。まあ最終的にやっぱり三島は死ぬけど。
そして何より本質的な違いは二つ。オズマによる自分を演じることへの肯定と終盤のランカとシェリルの役割の裏返り。この二つの変更点により驚くほどすんなりとシェリルがメインヒロインに固定された。
劇場版で役割と設定が整理されストーリーが単純化したことで、TV版の中盤までの流れ(病に弱るシェリル、シェリルに惹かれるアルト、スターダムを駆け上がるランカ)から終盤への流れ(シェリルが行方不明、ランカからアルトへの告白)が一気にスムーズになった。というかTV版でも密かに思っていたけど、明らかにアルトくんシェリルのこと好きだよね!そうじゃないといくらなんでも終盤のあの展開はないよね!!つまりあの矢三郎めがいなければ(主にシェリルが)あそこまで苦しむことはなかったのだよ!!!
ちなみに好きなシーンは、アルトに会えなくなってもいいのかと優しく問うグレースと答えに詰まるシェリル、アルトの病室での包丁を巡る不器用な二人のやりとり(イチャイチャ)、放課後オーバーフロウのイントロに合わせて閉まっていくマクロスクォーターの外装。
ところで劇場版ではオミットされたTV版終盤でのランカとシェリル:バジュラと交感できる声をしているせいでミンメイの再来と政治的に担ぎ上げられ生体兵器としての運用に疲れていくランカ、病に犯されながらも自分にできる最大のこと(ランカの代わりに死を覚悟して歌う)を選ぶシェリル、という無駄に重い展開も増田はかなり好き。特に歌ったら死ぬことに気づいているから最終決戦の前にアルトに恋人ごっこは終わりと告げる(= 強がる)シェリルとそれを聞くアルトのシーンがとても好き。そういえば劇場版はこの「今は答えないで。歌えなくなってしまうから」部分はランカのセリフになっていたな。どっちのシチュエーションでも振られる流れだよなあ。
冒頭のバジュラの巣の攻略や大気圏内でのマクロスクォーターのサーフィンマニューバ、やたらと陽気で軽そうだがシリーズファンからするとこれ以上ない安心感が得られるYF-19からの声、S.M.S大隊によるマクロスキャノン斉射、そしてアンタレス1との熾烈なドッグファイトなどなど見所だらけだった。増田が一番グッときたのは、実はバジュラの巣攻略戦での隧道内のブレラの操縦テク。このシーンは狭い隧道を先行するブレラをアルトが追いすがるという形なのだが、驚くべきことに狭い上にバジュラも向かってくるのに、ブレラは一度も変形を行っていない。可変戦闘機バルキリーのセオリー(様式美ともいう)通り、垂直方向への移動や複数体のバジュラの掃討にガウォーク変形で対処し即座にファイターへの変形で高速移動を行うアルトに対して、ブレラはファイター形態のままインプラント特有の反応速度をもって、機首の向きをわずかに調整することでノンストップでバジュラの殲滅と移動を行うのだ。マクロスの様式美を否定するような非常に地味ないぶし銀の描写がよかった。
TV版の不満点であった超時空二股エンド。アルトくんはっきりせいやと前の感想に書いたが、劇場版ではズバッとアルトくんの男らしい告白で三角関係に決着がついた……ついたのだけど……ついたのだけど、だけど、
思いが通じ合って両思いになった恋人たちが次の瞬間に離ればなれになるなんて、そんなことは望んでなかった!
ただ思い合う二人がイチャイチャしているところを見たかっただけなのに……
初見のときはこのエンディングで完全に固まった。そしてエンドロールの「dシュディスタb」(願いは叶うとヒロインズが歌う)を聞いてすわビターエンドの先のハッピーエンドかと沸き立ったのだが、生命維持装置に繋がれて昏睡しているシェリルの脳内想像ライブという可能性に思い当たりより消沈した。しばらくアルトがシェリルのことを愛している設定でTV版世界に戻ろうかと考えていたのだが、絶対に救いはあるはずだと考えて二週目へ。そしてなんとか一つのこじつけに思い当たった。
そう、眠り続けるシェリルは眠り姫のモーチフであり、王子様(アルト)のキスで目を覚ますのが必然であるのだ。TV版ではシェリルとランカの両方から唇(一部R18)を奪われていたアルトであるが、運命付けられたように劇場版ではシェリルにされた頬へのキスしかない。これはもうそういうことだろう。運命だよ。よって増田の中では、アルトくんが(アイくんとかで)なんとかしてフロンティアのシェリルのもとへ戻ってきてシェリルの目を覚ましたあと、二人で幸せになることが確定しました。多分アルトの病室での一幕のように互いにからかいあってイチャイチャするのだろう。よかった……。
サヨナラノツバサでも「禁断のエクシリア」から始まり、二人の掛け合いと会場のバタバタ具合が楽しい「Get it on〜光速クライmax」、めちゃめちゃイントロが格好よく演出もパーフェクトな「放課後オーバーフロウ」、そしてエンディングのお祭り「dシュディスタb」と素晴らしい曲ばかりである。ただ、劇場版を代表する曲となると「ダイアモンドクレバス」だろう。イツワリノウタヒメでのバジュラを呼び寄せてしまったことや、ギャラクシー軍のミッション開始の合図だったこと、墜落したフロンティの教会跡など劇中の要所で美しくも悲しいこの歌が効果的に使われていた。
それから見ていて気になったのがライブの演出。演出といってもすごく手のかかったCGの方ではなくて(これもすごかった)客席の後ろからステージを映すカメラワーク。カメラが歌手を追うPV型ではなく観客との一体感を深めるライブ型の演出を選択したのは興味深い。ミュージックシーンがPV中心からライブ興行中心へ転換しつつあったことと関係しているのかもと考えた。なお増田はPCモニターで見たからそこまで臨場感はなかったのだけど、当時劇場で見た人は自分がライブに参加している感覚を味わえたのだろうか。またサイリウムなどを持ち込んで応援上映のようなことができたのだろうか。
そしてもう一つ気になったライブがアルカトラズ刑務所での「星間飛行」からの流れ。何と言っても慰問ライブに参加していた/できなかった囚人たちが声を合わせてこの歌を合唱するのだ。正直はじめはなぜランカ中島リーさん以外の声を入れてせっかくの星間飛行を邪魔するのかと思った。ただ、よく考えるとランカ・リーの星間飛行を聞きたいのならばCDやPVなりを聞けば良いことに気がつき、そこでようやくこのシーンがマクロスの伝統である歌の力を素朴な形で描写していることに気がついた。
増田の理解としてはマクロスのメカニズムというのは武力と歌の相互補完にある。武力では暴力は防ぐことができても心(世界)を変えることはできない。歌は心(世界)を変えることができるけど暴力に対しては無力。しかしその二つが合わさることで等身大の人間が奇跡を起こすことができる。そのリアリティがSFをコアに持つマクロスのメカニズムであり、非対称なこの関係性に三角関係が加わることで豊かなドラマが生まれてくるのだと思う。
この歌の力という面からフロンティアという作品を見ると、二つの場面が思い浮かぶ。TV版の星間飛行ライブと先ほど挙げたライブ@アルカトラズだ。前者は言わずと知れた、ゼントラーディー部隊の反乱を歌とキラッ☆のみで熱狂の海に沈めた伝説のライブである。このライブの演出は、最初は戸惑っていた兵士たちが曲が進むにつれ武器を投げ出し鼻血を噴きそして最終的にクァドランが肩を組んで踊るという実にアホなものだが、歌が心を変える様子をこの上なく描いていた。アルカトラズのライブはというと、先に書いた通りランカを知っていた知らなかったに関わらず荒くれ揃いの囚人たちが自ら歌を口ずさみ心を一つにする。これが星間飛行のすごさであり歌の力であるのだ。なおこのライブ、この後のクランのアジテーションから囚人たちと看守たちの大乱闘がGet it onに乗せて始まるというやっぱりアホな展開になるのだけど、やっていることは単なるテロである。そして最後の「ランカちゃん〜」と「ジェリ゛ル゛さ゛〜〜ん゛」のコールに吹き出すのである(何度見てもこの部分で笑ってしまうのだけどエキストラなのかな?)
増田がマクロス7のサウンドブースター演出に違和感を持ったのは、サウンドブースターにより視覚化・数値化された歌が武器(ビーム兵器、バリア兵器)のように使われていたから。それと力と歌をバサラ一人が担当するのにも関わらず王道のマクロスフォーマットでストーリーが作られていたため、最終的にバサラ一人で世界を平和へ導くという一人の人間を超越した行いをさせてしまったことも同様。作品テーマとして武力を否定しラブアンドピースを狙っていたのは理解できるのだが、武力の代わりとしてサウンドブースターというまた別の武力を持ち出し、バサラ一人に全てを背負わせたため普通の若者の織りなす物語というセオリーを壊してしまったように見えた。洗脳されたバロータ兵を初めから出すのではなく、初めは市民トラブルを歌で解決するというような入りかたでもよかったのかなと思う。
最後になぜ増田がシェリル派なのかというとプロフェッショナルであることの誇りと責任さらにケー鯛(口からアンコ出る)を愛用するセンスを持ち、泥水をすすっても生き抜く根性があり、たとえ死を迎えることになっても自らの役割を全うする覚悟をまとい、でも支えを失うと心が折れそうになる繊細な所があり、そしてアルトくんをからかう姿がとても楽しそうなシェリルが好きだからです。
次はIIかデルタを見る予定。アイドルものと聞いてあまりデルタには興味が湧かなかったのだけど、たまたまワルキューレの歌を聞く機会があり、メインボーカルの声にぶっ飛んだので俄然興味が湧いた。アイドルものであのガチ音圧の人がメインを張るってかなり攻めてると思うのだが、どういう狙いがあるんだろ。
V痛くなかったんだ、いいなあ。
Vの真ん中(よく外国人のネーちゃんがアイスの棒みたいに残してるとこ)が一番痛いわ。
面倒になって、なんとか美容外科みたいな所で、医療レーザー脱毛やった。
VIOの6回コースで、2年くらいかかったと思う。2年前に完了。
Vの上らへんはもう生えなくなったけど、下の方とIはやっぱ生える。
本数は減ってると思うけど、毛自体はちゃんと陰毛って感じの縮れ毛。
ワキも一緒に受けてて、こっちは99%無くなったんで
やっぱ陰毛はだいぶ強い毛なんだと思う。
まぁ、完全になくなると、銭湯とかで若干気まずいかも知れないんで
今回のレーダーどうとかのあれやこれ、あるいは昔の取り決めを反故にする裁判などなど、どう考えてもおかしいのはあっちだしくそが、という気分で一杯なのだけれど
もし万が一仮に、我が国と彼の国が敵対することになるとするじゃないですか、白と黒
そんで、あの上にもなんかめんどくさい国があるじゃないですか あれも黒く塗っときましょう(万一の万一、ほんとに同じ色になりかねないですよね)
横にはやたらと態度と国土がでかい国があるじゃないですか 赤いとこ
寒いとこにはなんか酒臭いでかい国があるじゃないですか もう何色でもいいんだけど、まあ青
つまり白対白以外で分かれたとすると、じゃあ我が国が最前線になっちゃいますよね
べつに彼の国くらいは殲滅できるとして、その他まで相手できるかって、無理だし嫌ですよね
ならまああの国とグダグダしても、それによって、我が国の前に、一つ駒が置けてるって考えると、それはアリじゃない?
あんまし追い詰めて、色がひっくり返っちゃうと、めんどくさいことになるよね
まあ、同じ色とは言われたくない、濁ったネズミ色だけどな
とは思いつつも、ほんとにまったくほんとにまったくだよなあ!ほんとに
女性化粧品みたいな商圏にしたいならまず既存のアレらを殲滅しないと無理だよな…
それに商圏が育つまで発展途上の化粧男さんを暖かく見守って笑わない社会だとはお世辞にも言えないし…
なかなかに恵まれた2018年秋アニメの中で自分に一番ヒットしたのがゴブリンスレイヤーだった
かいがいしい女神官ちゃんかわいいだけで視聴継続していたのだか、物語そのものがなかなかに趣深かった
この作品の中で主人公のゴブリンスレイヤーは作品世界の中での最強クラスキャラでもなく、何か特殊能力があるわけでなく、自分の能力を如何に雑魚であるゴブリンを効率よく殲滅するかだけに使うことに特化したキャラとして描写されている。
まあそうなった原因は幼少期の体験にあるという、過去から何十番と煎じられた話である。
(結果「心が壊れた」と作中で描写されている有名キャラはFateの主人公とか)
この作品の中で他と異なる色彩を放つのは、作品世界の中で存在が明示されているスーパーキャラが別にいるということである。世界の脅威はこの勇者によって解決されるのであるが、勇者は自分たちの街を常に守る存在ではない。
その中でゴブリンスレイヤーはこの自分たちの街を守る存在として描写される。
ゴブリンスレイヤーは凡庸な冒険者よりは強い存在であるが、別に特別強いというわけではない。本人もそれを自覚しているし、自分の限界を知っている。
その限界の中で自分の守れる範囲で自己犠牲をして人々の生活を守ろうとする。
ほぼ大抵の人は自分が地上の勇者でなく、なんでもないただの人だと自覚する。
その諦めの感覚は救いでもあるのだが、現状維持の麻薬でもある。
麻薬に溺れず、たとえ勇者でなくても街の戦士として必死になれば何か得られるのではないか。
そう思わせる内容であった。