2019-03-19

埼玉とか南京とかアウシュヴィッツとか

なんか見てると言語の壁に近いものを感じる。

埼玉はまあどうでもいいんだけど。

南京とかアウシュヴィッツが無い、捏造って言ってる人って結局今言われてるような、って意味で言ってるのがほとんどに見える。

でもそれを受けてありましたって人はそれ自体の有無として憤ってる場合が多いように思う。

原爆捏造って言われたらどう思うかって言い方をしてる人も見たけどあー捏造って言ってる人の話通じてないんだなって思った。

どっちが正しいとかじゃなく客観的に。

だって見てたら捏造って言ってる多くの人の言い分はどうも実際の罪より大きな罪だと騙られているって理不尽さを前に挙げたものでそれに対しての反論としてはあんまりよく分からない。

アメリカだって原爆5発落としたとか1000万人が死んだとか空襲は敵国日本を憎み殲滅する意図で主に民間人を殺す目的レジャーのようにやったとか言われたらまあ普通に捏造だそれは違うって否定するんじゃない?って思うし。

国として主張してる、とする事に対して大きく離れたり証拠が精査されていなかったりバイアスがかった想像が含まれていそうな事ならって意味で。

捏造派が主張してるのはそういう事なんだし。

捏造派の立場や展開する言い分が正しいって事じゃなくて是非とか証拠の有無とか信用性とかじゃなくあくま論理構造立場の話として。

感情面の事なんて反証し様なんてないけどそれでもそれは違うって言うと思うし実際アメリカさんも南京虐殺じゃないって言ってる人がよく言うやつと同じように大空襲民間への攻撃問われて事前に逃げろってビラ撒いたし軍に関連するかしないかなんて分かりようがないんだからって言ってるわけで。

当然復讐意図で行われたものだって人もいるけど。

からってその違うって否定アメリカが当時民衆を殺した事を何とも思ってない証拠だって言うのは飛躍してるなと思う。

殺人で5人殺した奴に10人殺したって言ったらそんな事実ない捏造だ、って反省してようが元々の罪を認めてようが言うだろうしそういう話だと思う捏造派が言ってるのは。

繰り返すけどそれが正しいって話じゃないよ主張の論理の話。

でもそれに対して憤り、悲しむ人はその否定は全ての否定だって捉えたり人を殺す事自体の恐ろしさを説いたり殺したって事実に向き合うべきだっていうような事を言ってる。

そこで言うなら加害側とされる方が確実な証拠反論として出せないならそこを違うと否定するのは倫理的傲慢である、とかそういう類の話だと思うんだけど。

あるところで認知バイアス的。

ただただ噛み合ってないなって思う。

証拠とか証言とかそれぞれが実際どうかとかじゃなく外野から見てて言い分がキャッチボールドッジボールどころか相手の頭高く遠投し合ってるなって印象。

相手ボール取れないから目端で追いながらこれがあなたの投げたボールですってポケットから自分ボール出して相手に投げてる感。

個人的には中国とかドイツとか日本とかユダヤとか埼玉とか高須とか関係なく、実際それをやったのなら中身が違っても否定するな、その違うって主張はやった事を認めてないのと同じだって論は意味分かんないなって思うけど。

実際の証拠があろうと無かろうと本当に10人殺してようと5人だろうと関係なく発想自体に法倫理的に引いてしまう。

けどその否定であり自身の正しさの主張ってその要素自体に中身関係なく被害者感情は煽られ傷つけるものなんだそれは酷い事なんだこれ以上何を傷つけようって言うんだって考えは理解はできる。

でもやっぱりそれが理不尽だ公正でない確実な証拠がない事なら語るべきではないって言い分も分かる。

語るべきでないとする事に対しての100%やってない、は100%やった、と程度は同じだと思うけど。

遠投してないでキャッチボールすればいいのにって思う。

わざと取れない方向に投げてる人も多い気はするけど。

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