はてなキーワード: 同姓同名とは
公的な申請書とか証明書に性別表記無くすって話で思ったんだけど、性別に限らずいろいろ要らない欄が多くね?
1番要らないと思うのは、住所。
電話がない時代の、問い合わせするときに葉書送ってた時の名残り?
住所はいろいろわかる、或いは誤解もうむよ。
田園調布って書いてあったら、あらお金持ちねって思うし、西成区って書いてあったら、あらって思うもん。
銀行の口座を開設するのに、住所いる?
そりゃ、昔は葉書や封書でやり取りしてたけど、今全部メールだしオンゲのアカウントとるくらいの感覚じゃん。
税法の都合上、国籍と市町村くらいは必要かもしれないけど、番地とかもうやめていいでしょ。
マイナンバーを誰にも知られてはならぬ番号みたいにして、なにしたいの?
なんなら、同姓同名を禁止すれば名前だけで個人認証できるけど。
ドメインみたいに。
ってなったりするけど。
高校時代、彼はいわゆるスクールカースト上位のキラキラ男子で、私はブスで厭世家でスクールカースト規格外のやべーやつだった。(今と比べたら)ある程度の自信を持っていたから、あまり悩まず(今と比べたら、であって当時はだいぶ悩んでいるつもりだった)生きられたけど、今考えると本当にやばかった。高校卒業して4年近く経つけれど、未だに半分くらい記憶がなくて、たまにフラッシュバックしてとてつもない羞恥心に苛まれることがある。
今考えると、自分が高校に馴染めないことを理解していて、どうにかして他人に存在を認めてもらいたくて奇行に走っていたのだと思う。学校でペ〇ローションをぶちまけたり、男女問わずセクハラしたり、マジョリティに対する暴言を吐いたり。敢えて人が嫌がることをするつもりはなく、理性のリミッターをぶっ壊して脊髄反射でやりたいことだけやって生きていたのだと思う。練習が面倒になって高校の部活は休部したまま卒業したし、授業も出たり出なかったりで適当にこなして、友達もあまり作らなかった。
高校を卒業して、浪人して、大学生になって、留年もして、それなりに社会経験を積んだし、自分のことをそれなりに理解できるようになった。結局のところ他人に興味がなく、人付き合いが著しく苦手だったこと、それ故に自分は異質だと薄々感じていたこと、それを自覚することを恐れていたことがすべての原因だったのだと思う。気付いてしまえばなんだそんなことかと思えるのだが、自分はどの状態で安定なのかを探る8年間はとてもしんどかった。14歳の時に引きこもりと不登校になって、15で諦め、16でリミッターをぶっ壊して18から軌道修正を始めて、もう22歳になってしまった。喪失感もなくはないが、20代前半で気付いてよかった、就活に入る前に気付けてよかったという安堵の気持ちの方が強い。普通の人はもうこの段階をこなしているのかと思うと本当に尊敬できる。
後輩がうちのサークルにいることは3ヶ月くらい前に知ったから私は心の準備ができていたけど、後輩はめちゃくちゃびっくりしたらしく、開口一番「え、まじで〇〇さんですか?え、同姓同名とかじゃなくて?」と言われた。二言目は「変わりましたね」だった。
そりゃそうだろう。眼鏡をコンタクトにしたし、化粧だって覚えたし、ちゃんと自分の体型に合う服を着るようになった。適度な露出も必要なことを知った。それなりの処世術も、飲み会のノリもコールも身につけた。異性に舐められない接し方も知っている。自分の精神状態すら把握できなかったあの頃とは違うに決まっている。
今まで培ったスキルを駆使してテンションを無理矢理上げて、嫌いな飲み会のノリで飲んで飲まされているところにそれだ。
駄目押しは「でも芯は変わってないですよね。」
泣くわ。
その日はあまり話せなかったので後日改めてご飯を食べたのだが、後輩自体はとても良い子で、ぶっ飛んでいた高校時代の私のことを理解できないなりに気に入っていたらしい。ほとんど話したことがなかったから知らなかった。また、自分と真逆のタイプの人間と話すことで自分を見つめ直せた。自信がない理由も分かったし、人に嫌われやすい理由も分かった。
最近は割と自分に素直に生きられていると思う。必要以上に他人との関わりを持たないし、昔よりは好きな服を着られているし、鏡を見るのが憂鬱でないし、普通であろうとするために頑張らなくて済んでいる。自分を抑圧していないから変な反発もなく、少し変わった人だと思われている。それでいい。
人が好きではないけど、わざわざ嫌われることをしなくてもいいし、好かれる努力もしなくていい。進んで自己開示はしない。嫌いなことに気を遣ってストレスを溜めない。それでいいんじゃないかな。
とにかくUIがクソ。
まず最初の入金手段が銀行振り込みしかない。日本の銀行システムが糞なのは取引所のせいじゃないけど、振り込みだと同姓同名ユーザーの区別がつかないから振込者名義に指定のID文字列を付ける必要があり、付け忘れると入金が行方不明になる。なんじゃそりゃ!自己責任とは言え、案の定2chでは付け忘れて入金が届かず嘆く人が後を絶たない。うまく入金できても反映まで時間がかかる。クレジットカードか、せめてPayPalぐらい使えるようにしろや。
あとは仮想通貨のアドレス。取引所間で通貨の移動をする際には40文字の16進数の文字列を、手動でコピペしなくてはならない。しかもその文字列が通貨の種類ごとに違っていて、間違えて送るとお金が消える。ただの16進数の文字列なので、人間が見ても間違ってるかはわからない。2018年の決済方法とは思えないUIのプリミティブさ。人間はミスをする生き物なのに、フールプルーフの概念が全く存在しない。
ちょっとUIやUXが原始的すぎ。こんなもの作ってブロックチェーンという発明に対して恥ずかしいレベル。これでは主婦や老人には敷居が高くて始められないだろ。仮想通貨が株やFXみたいに広まるのはまだまだ先。
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曖昧さ回避 「ベートーヴェン、ベートーベン、ヴァン・ベートーヴェン」はこの項目へ転送されています。その他の用法については「ベートーヴェン (曖昧さ回避)」をご覧ください。
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別名 楽聖
生誕 1770年12月16日頃
死没 1827年3月26日(56歳没)
活動期間 1792 - 1827
ベートーヴェンのサイン
ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン(独: Ludwig van Beethoven、標準ドイツ語ではルートヴィヒ・ファン・ベートホーフェンに近い[1]、1770年12月16日頃[2] - 1827年3月26日)は、ドイツの作曲家。J.S.バッハ等と並んで音楽史上極めて重要な作曲家であり、日本では「楽聖」とも呼ばれる。その作品は古典派音楽の集大成かつロマン派音楽の先駆けとされている。
目次 [非表示]
1 生涯
2 作風
2.1 初期
2.2 中期
2.3 後期
3 後世の音楽家への影響と評価
4 芸術観
5 思想
6 人物
6.1 名前
7 死因また健康について
7.1 聴覚障害について
8 親族
9 弟子
10 代表作
10.1 交響曲(全9曲)
10.2 管弦楽曲
10.3 協奏曲、協奏的作品
10.4 室内楽曲
10.5 ピアノ曲
10.6 オペラ、劇付随音楽、その他の声楽作品
10.7 宗教曲
10.8 歌曲
11 著作
12 伝記
13 脚注
14 参考文献
15 関連項目
16 外部リンク
16.1 録音ファイル
16.2 伝記
生涯
ベートーヴェン(1803年)
1770年12月16日頃、神聖ローマ帝国ケルン大司教領(現ドイツ領)のボンにおいて、父ヨハンと、宮廷料理人の娘である母マリア・マグダレーナ(ドイツ語版)の長男[3]として生まれる。ベートーヴェン一家はボンのケルン選帝侯宮廷の歌手(後に楽長)であり、幼少のベートーヴェンも慕っていた、祖父ルートヴィヒの援助により生計を立てていた。ベートーヴェンの父も宮廷歌手(テノール)[4]であったが、元来無類の酒好きであったために収入は途絶えがちで、1773年に祖父が亡くなると生活は困窮した。1774年頃よりベートーヴェンは父からその才能を当てにされ、虐待とも言えるほどの苛烈を極める音楽のスパルタ教育を受けたことから、一時は音楽そのものに対して強い嫌悪感すら抱くようにまでなってしまった。1778年にはケルンでの演奏会に出演し、1782年11歳の時よりクリスティアン・ゴットロープ・ネーフェに師事した。
1787年、16歳のベートーヴェンはウィーンに旅し、かねてから憧れを抱いていたモーツァルトを訪問したが、最愛の母マリアの危篤の報を受けてボンに戻った。母はまもなく死没し(肺結核)[5]、母の死後は、アルコール依存症となり失職した父に代わり、いくつもの仕事を掛け持ちして家計を支え、父や幼い兄弟たちの世話に追われる苦悩の日々を過ごした。
1792年7月、ロンドンからウィーンに戻る途中ボンに立ち寄ったハイドンにその才能を認められて弟子入りを許され、11月にはウィーンに移住し(12月に父死去)、まもなく、ピアノの即興演奏の名手(ヴィルトゥオーゾ)として広く名声を博した。
20歳代後半ごろより持病の難聴(原因については諸説あり、鉛中毒説が通説)が徐々に悪化、28歳の頃には最高度難聴者となる。音楽家として聴覚を失うという死にも等しい絶望感から、1802年には『ハイリゲンシュタットの遺書』をしたため自殺も考えたが、彼自身の芸術(音楽)への強い情熱をもってこの苦悩を乗り越え、再び生きる意欲を得て新たな芸術の道へと進んでいくことになる。
1804年に交響曲第3番を発表したのを皮切りに、その後10年間にわたって中期を代表する作品が書かれ、ベートーヴェンにとっての傑作の森(ロマン・ロランによる表現)と呼ばれる時期となる。その後、ピアニスト兼作曲家から、完全に作曲専業へと移った。
40歳頃(晩年の約15年)には全聾となっり、更に神経性とされる持病の腹痛や下痢にも苦しめられた。加えて、度々非行に走ったり自殺未遂を起こすなどした甥カールの後見人として苦悩するなどして一時作曲が停滞したが、そうした苦悩の中で書き上げた交響曲第9番や『ミサ・ソレムニス』といった大作、ピアノ・ソナタや弦楽四重奏曲等の作品群は彼の未曾有の境地の高さを示すものであった。
1826年12月に肺炎を患ったことに加え、黄疸も併発するなど病状が急激に悪化し、以後病臥に伏す。病床の中で10番目の交響曲に着手するも未完成のまま翌1827年3月26日、肝硬変のため56年の生涯を終えた。その葬儀には2万人もの人々が参列するという異例のものとなった。この葬儀には、翌年亡くなるシューベルトも参列している。
作風
初期
作曲家としてデビューしたての頃は耳疾に悩まされることもなく、古典派様式に忠実な明るく活気に満ちた作品を書いていた。この作風は、ハイドン、モーツァルトの強い影響下にあるためとの指摘もある[6]。
中期
1802年の一度目の危機とは、遺書を書いた精神的な危機である。ベートーヴェンはこの危機を、ウィーン古典派の形式を再発見する事により脱出した。つまりウィーン古典派の2人の先達よりも、素材としての動機の発展や展開・変容を徹底して重視し、形式的・構成的なものを追求した。この後は中期と呼ばれ、コーダの拡張など古典派形式の拡大に成功した。
中期の交響曲はメヌエットではなくスケルツォの導入(第2番以降)、従来のソナタ形式を飛躍的に拡大(第3番)、旋律のもととなる動機やリズムの徹底操作(第5、7番)、標題的要素(第6番)、楽章の連結(第5、6番)、5楽章形式(6番)など、革新的な技法を編み出している。その作品は、古典派の様式美とロマン主義とをきわめて高い次元で両立させており、音楽の理想的存在として、以後の作曲家に影響を与えた。第5交響曲に典型的に示されている「暗→明」、「苦悩を突き抜け歓喜へ至る」という図式は劇性構成の規範となり、後のロマン派の多くの作品がこれに追随した。
これらのベートーヴェンの要求は必然的に「演奏人数の増加」と結びつき、その人数で生み出される人生を鼓舞するかのような強音やすすり泣くような弱音は多くの音楽家を刺激した。
後期
1818年の二度目の危機の時には後期の序曲集に代表される様にスランプに陥っていたが、ホモフォニー全盛であった当時においてバッハの遺産、対位法つまりポリフォニーを研究した。対位法は中期においても部分的には用いられたが、大々的に取り入れる事に成功し危機を乗り越えた。変奏曲やフーガはここに究められた。これにより晩年の弦楽四重奏曲、ピアノソナタ、『ミサ・ソレムニス』、『ディアベリ変奏曲』、交響曲第9番などの後期の代表作が作られた。
後世の音楽家への影響と評価
ベートーヴェンの音楽界への寄与は甚だ大きく、彼以降の音楽家は大なり小なり彼の影響を受けている。
ベートーヴェン以前の音楽家は、宮廷や有力貴族に仕え、作品は公式・私的行事における機会音楽として作曲されたものがほとんどであった。ベートーヴェンはそうしたパトロンとの主従関係(および、そのための音楽)を拒否し、大衆に向けた作品を発表する音楽家の嚆矢となった。音楽家=芸術家であると公言した彼の態度表明、また一作一作が芸術作品として意味を持つ創作であったことは、音楽の歴史において重要な分岐点であり革命的とも言える出来事であった。
中でもワーグナーは、ベートーヴェンの交響曲第9番における「詩と音楽の融合」という理念に触発され、ロマン派音楽の急先鋒として、その理念をより押し進め、楽劇を生み出した。また、その表現のため、豊かな管弦楽法により音響効果を増大させ、ベートーヴェンの用いた古典的な和声法を解体し、トリスタン和音に代表される革新的和声で調性を拡大した。
一方のブラームスは、ロマン派の時代に生きながらもワーグナー派とは一線を画し、あくまでもベートーヴェンの堅固な構成と劇的な展開による古典的音楽形式の構築という面を受け継ぎ、ロマン派の時代の中で音楽形式的には古典派的な作風を保った。しかし、旋律や和声などの音楽自体に溢れる叙情性はロマン派以外の何者でもなかった。また、この古典的形式における劇的な展開と構成という側面はブラームスのみならず、ドヴォルザークやチャイコフスキー、20世紀においてはシェーンベルク、バルトーク、プロコフィエフ、ショスタコーヴィチ、ラッヘンマンにまで影響を与えている。
芸術観
同時代のロマン派を代表する芸術家E.T.A.ホフマンは、ベートーヴェンの芸術を褒め称え、自分たちロマン派の陣営に引き入れようとしたが、ベートーヴェンは当時のロマン派の、形式的な統一感を無視した、感傷性と感情表現に代表される芸術からは距離を置いた。ベートーヴェンが注目したものは、同時代の文芸ではゲーテやシラー、また古くはウィリアム・シェイクスピアらのものであり、本業の音楽ではバッハ、ヘンデルやモーツァルトなどから影響を受けた[7]。
ベートーヴェンが「前衛」であったのかどうかは、多くの音楽学者で見解が分かれる。原博は「ベートーヴェンは前衛ではない」と言い切り[8]、彼は当時の「交響曲」「協奏曲」「ソナタ」「変奏曲」などの構造モデルに準拠し、発案した新ジャンルというものは存在しない。ただし、「メトロノームの活用」「母語での速度表示」「ピアノの構造強化と音域の拡張」「楽曲の大規模化」「大胆な管弦楽法」「演奏不可能への挑戦」「騒音の導入(戦争交響曲)」など、後世の作曲家に与えた影響は計り知れないものがある。
思想
ベートーヴェンはカトリックであったが敬虔なキリスト教徒とはいえなかった。『ミサ・ソレムニス』の作曲においてさえも「キリストなどただの磔(はりつけ)にされたユダヤ人に過ぎない」と発言した。ホメロスやプラトンなどの古代ギリシア思想に共感し、バガヴァッド・ギーターを読み込むなどしてインド哲学に近づき、ゲーテやシラーなどの教養人にも見られる異端とされる汎神論的な考えを持つに至った。彼の未完に終わった交響曲第10番においては、キリスト教的世界と、ギリシア的世界との融合を目標にしていたとされる。これはゲーテが『ファウスト』第2部で試みたことであったが、ベートーヴェンの生存中は第1部のみが発表され、第2部はベートーヴェンの死後に発表された。権威にとらわれない宗教観が、『ミサ・ソレムニス』や交響曲第9番につながった。
また哲学者カントの思想にも触れ、カントの講義に出席する事も企画していたといわれる[7]。
政治思想的には自由主義者であり、リベラルで進歩的な政治思想を持っていた。このことを隠さなかったためメッテルニヒのウィーン体制では反体制分子と見られた。
その他にも、天文学についての書物を深く読み込んでおり、彼はボン大学での聴講生としての受講やヴェーゲナー家での教育を受けた以外正規な教育は受けていないにも関わらず、当時において相当の教養人であったと見られている。
人物
身長は165cm前後と当時の西洋人としては中背ながら、筋肉質のがっしりとした体格をしていた。肌は浅黒く、天然痘の瘢痕があったとされるが、肖像画や銅像、ライフマスクや近年明らかとなった多彩な女性関係などから容貌は美男とは言えないものの、さほど悪くなかったのではないかと思われる。表情豊かで生き生きした眼差しが人々に強い印象を与え多くの崇拝者がいた。
基本的に服装には無頓着であり、若い頃には着飾っていたものの、歳を取ってからは一向に構わなくなった。弟子のツェルニーは初めてベートーヴェンに会った時、「ロビンソン・クルーソーのよう」、「黒い髪の毛は頭の周りでもじゃもじゃと逆立っている」という感想を抱いたと言われる。また作曲に夢中になって無帽で歩いていたため、浮浪者と誤認逮捕されてウィーン市長が謝罪する珍事も起こった。部屋の中は乱雑であった一方、入浴と洗濯を好むなど綺麗好きであったと言われる。また生涯で少なくとも60回以上引越しを繰り返したことも知られている。
当時のウィーンではベートーヴェンが変わり者であることを知らない者はいなかったが、それでも他のどんな作曲家よりも敬愛されており、それは盛大な葬儀と多数の参列者を描いた書画からも伺える。しかし、「ベートーヴェン変人説」も、メッテルニヒ政権によるデマであるとする見解もある。
潔癖症で手を執拗に洗うところがあった。
性格は矛盾と言っても差し支えのない正反対な側面があった。人づきあいにおいて、ことのほか親切で無邪気かと思えば、厳しく冷酷で非道な行動に出るなどと気分の揺れが激しかった。親しくなると度が過ぎた冗談を口にしたり無遠慮な振る舞いを見せたりすることが多かったため、自分本位で野蛮で非社交的という評判であったとされている。これもどこまで真実なのかは定かではないが、ピアノソナタ・ワルトシュタインや弦楽四重奏曲・大フーガつきの出版に際して、出版社の「カット」命令には律儀に応じている。癇癪持ちであったとされ、女中(女性)に物を投げつけるなどしばしば暴力的な行動に出ることもあったという。
師ハイドンに、楽譜に「ハイドンの教え子」と書くよう命じられた時は、「私は確かにあなたの生徒だったが、教えられたことは何もない」と突っぱねた。
パトロンのカール・アロイス・フォン・リヒノフスキー侯爵には、「侯爵よ、あなたが今あるのはたまたま生まれがそうだったからに過ぎない。私が今あるのは私自身の努力によってである。これまで侯爵は数限りなくいたし、これからももっと数多く生まれるだろうが、ベートーヴェンは私一人だけだ!」と書き送っている。(1812年)この「場を全くわきまえない」発言の数々はメッテルニヒ政権成立後に仇となり、大編成の委嘱が遠ざかる。
テプリツェでゲーテと共に散歩をしていて、オーストリア皇后・大公の一行と遭遇した際も、ゲーテが脱帽・最敬礼をもって一行を見送ったのに対し、ベートーヴェンは昂然(こうぜん)として頭を上げ行列を横切り、大公らの挨拶を受けたという。後にゲーテは「その才能には驚くほかないが、残念なことに不羈(ふき)奔放な人柄だ」とベートーヴェンを評している。
交響曲第5番の冒頭について「運命はこのように戸を叩く」と語ったことや、ピアノソナタ第17番が“テンペスト”と呼ばれるようになったいきさつなど、伝記で語られるベートーヴェンの逸話は、自称「ベートーヴェンの無給の秘書」のアントン・シンドラーの著作によるものが多い。しかし、この人物はベートーヴェンの死後、ベートヴェンの資料を破棄したり改竄(かいざん)を加えたりしたため、現在ではそれらの逸話にはあまり信憑性が認められていない。
聴覚を喪失しながらも音楽家として最高の成果をあげたことから、ロマン・ロランをはじめ、彼を英雄視・神格化する人々が多く生まれた。
死後、「不滅の恋人」宛に書かれた1812年の手紙が3通発見されており、この「不滅の恋人」が誰であるかについては諸説ある。テレーゼ・フォン・ブルンスヴィック(独語版)やその妹ヨゼフィーネ(独語版)等とする説があったが、現在ではメイナード・ソロモン(en:Maynard Solomon)らが提唱するアントニエ・ブレンターノ(独語版)(クレメンス・ブレンターノらの義姉、当時すでに結婚し4児の母であった)説が最も有力である。しかし、「秘密諜報員ベートーヴェン」[9]のような、これらの定説を覆す新たな研究も生まれている。
これらは氷山の一角に過ぎず、20-30代でピアニストとして一世を風靡していたころは大変なプレイボーイであり、多くの女性との交際経験があった。この行動を模倣した人物に、後年のフランツ・リストがいる。
メトロノームの価値を認め、初めて活用した音楽家だといわれている。積極的に数字を書き込んだために、後世の演奏家にとって交響曲第9番やハンマークラフィーアソナタのメトロノーム記号については、多くの混乱が生まれている。
彼はイタリア語ではなく、母語ドイツ語で速度表示を行った最初の人物である。この慣習の打破はあまり歓迎されず、多くの当時の作曲家も速度表示にはイタリア語を用い、本人も短期間でイタリア語に戻している。
パンと生卵を入れて煮込んだスープや、魚料理に肉料理、茹でたてのマカロニにチーズを和えたものが大好物であった。またワインを嗜み、銘柄は安物のトカイワインを好んでいた。父親に似て大の酒好きであり、寿命を縮めることになったのは疑いがない。
コーヒーは必ず自ら豆を60粒数えて淹れたという[10]。
名前
原語であるドイツ語ではルートゥヴィヒ・ファン・ベートホーフェン ドイツ語発音: [ˈluːtvɪç fan ˈbeːthoːfən] ( 音声ファイル)と発音される。
日本では明治時代の書物の中には「ベートーフェン」と記したものが若干あったが、ほどなく「ベートーヴェン」という記述が浸透していき、リヒャルト・ワーグナーのように複数の表記が残る(ワーグナー、ヴァーグナー、ワグネル)こともなかった。唯一の例外は、NHKおよび教科書における表記の「ベートーベン」である。
姓に“van”がついているのは、ベートーヴェン家がネーデルラント(フランドル)にルーツがあるためである(祖父の代にボンに移住)。vanがつく著名人といえば、画家のヴァン・ダイク(van Dyck)、ファン・エイク(van Eyck)、ファン・ゴッホ(van Gogh)などがいる。
vanはドイツ語、オランダ語では「ファン」と発音されるが、貴族を表す「von(フォン)」と間違われることが多い。「van」は単に出自を表し、庶民の姓にも使われ、「van Beethoven」という姓は「ビート(Beet)農場(Hoven)主の」という意味に過ぎない。しかしながら、当時のウィーンではベートーヴェンが貴族であると勘違いする者も多かった。
偉大な音楽家を意味する「楽聖」という呼称は古くから存在するが、近代以降はベートーヴェンをもって代表させることも多い。例えば3月26日の楽聖忌とはベートーヴェンの命日のことである。
詳細は「フリーメイソン#ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン」を参照
死因また健康について
慢性的な腹痛や下痢は終生悩みの種であった。死後に行われた解剖では肝臓、腎臓、脾臓、他、多くの内臓に損傷が見られた。これらの病の原因については諸説あり、定説はない。近年、ベートーヴェンの毛髪から通常の100倍近い鉛が検出されて注目を集めた。鉛は聴覚や精神状態に悪影響を与える重金属であるが、ベートーヴェンがどのような経緯で鉛に汚染されたかについても諸説あり、以下のごとくである。
ワインの甘味料として用いられた酢酸鉛とする説。
1826年の1月から、肝障害による腹水治療を行ったアンドレアス・ヴァヴルフ医師が、腹部に針で穿刺して腹水を排水した際、毛髪の分析結果では腹部に穿孔するたびに鉛濃度が高くなっていることから、傷口の消毒のために使用された鉛ではないかとする説。
聴覚障害について
難聴(40歳頃には全聾となった)の原因については諸説[11]ある。
耳硬化症説
伝音性の難聴であり、中耳の耳小骨の「つち・きぬた・あぶみ」の内のあぶみ骨が硬化して、振動を伝達できず、音が聞こえなくなる難病。ベートーヴェンの難聴が耳硬化症である論拠として、ベートーヴェンが人の声は全く聞こえていなかったにも関わらず、後ろでピアノを弾いている弟子に、「そこはおかしい!」と注意したエピソードが挙げられる。これは耳硬化症に特有の、人の声は全く聞こえなくなるが、ピアノの高音部の振動は僅かに感じ取ることが出来る性質にあると考えられる。
又、ベートーヴェンは歯とピアノの鍵盤をスティックで繋ぐことで、ピアノの音を聞いていたという逸話もこの説を裏付ける論拠として挙げられる。
先天性梅毒説
「蒸発性の軟膏を体に塗り込んだ(水銀の可能性。当時梅毒の治療法の一つ)」という記述がある為に、論拠とされている。しかし、後にベートーヴェンの毛髪を分析した結果、水銀は検出されず、又、梅毒は眩暈(めまい)の症状を併発するにも関わらず、そうした話が無い為に、先天性梅毒説は説得力の乏しいものとなっている。
鉛中毒説
上載の死因また健康についてを参照。
メッテルニヒ政権説
ベートーヴェンが難聴であっても完全に失聴していたかどうかは、21世紀の現代では疑問視する声が大きい。ベートーヴェンは1820年代のメッテルニヒ政権ではブラックリストに入れられたため、盗聴を防ぐために「筆談帳」を使った可能性は大きい。その延長として「ベートーヴェンは暗号を用いていた」という仮説に基づく「秘密諜報員ベートーヴェン」[9]という書籍が出版された。
有名な逸話に「女中に卵を投げつけた」という類の物が残されているが、これは「女中に変装したスパイ」への正当防衛であるという見解がある。
デビューほやほやのリストの演奏に臨み、彼を高く評価したのは、もし失聴していれば出来ない行為である。
完全失聴や聴覚障害を患った作曲家に、ボイスやフォーレがいるが、彼らの作曲活動はその後伸び悩んでいるのに対し、失聴したベートーヴェンはその間に多くの重要作を書いている。
親族
フランドル地方・メヘレン出身。ケルン大司教(選帝侯)クレメンス・アウグストに見出され、21歳でボンの宮廷バス歌手、後に宮廷楽長となった。
祖母:マリア・ヨゼファ
父:ヨハン
母:マリア・マグダレーナ(ドイツ語版) ヨハンとは再婚(初婚は死別)。肺結核により死去。
甥:カール(ドイツ語版) カスパールの息子。1806年生まれ~1858年没。1826年にピストル自殺未遂事件を起こす。
弟:ニコラウス・ヨーハン
同姓同名の兄や妹2人がいるがすぐになくなっている。
弟カールの血筋が現在も残ってはいるが、ベートーヴェン姓は名乗っていない。カールの直系子孫の一人であるカール・ユリウス・マリア・ヴァン・ベートーヴェン(1870年5月8日生まれ)が1917年12月10日に他界したのを最後に、ベートーヴェン姓を名乗る子孫は途絶えている。
弟子
カール・ツェルニー - クラヴィア奏者・作曲家。
フェルディナント・リース - ボンのクラヴィア奏者・作曲家。
ルドルフ大公 - ベートーヴェンの最大のパトロン。のちにオルミュッツ大司教。弟子としては唯一、ベートーヴェンが彼のために曲を書いている。
ドロテア・エルトマン男爵夫人 - メンデルスゾーンと交流。
アントン・シンドラー - 秘書だが、弟子とされることがある。
代表作
詳細は「ベートーヴェンの楽曲一覧」を参照
交響曲(全9曲)
第1番 ハ長調 op.21
第2番 ニ長調 op.36
第3番 変ホ長調 『エロイカ(英雄)』 op.55[12][13]
第4番 変ロ長調 op.60
第5番 ハ短調 (運命) op.67 [12][13]
第6番 ヘ長調 『田園』 op.68 [12]
第7番 イ長調 op.92
第8番 ヘ長調 op.93
第9番 ニ短調 (合唱付き) op.125 [12][13]
『レオノーレ』序曲第1番 op.138
『レオノーレ』序曲第3番 op.72b
序曲『コリオラン』ハ短調 op.62
交響曲『ウェリントンの勝利またはビトリアの戦い』 op.91
『命名祝日』序曲 op.115
『アテネの廃墟』序曲 ハ長調op.113
『献堂式』序曲 ハ長調op.124
協奏曲、協奏的作品
ピアノ協奏曲第5番 変ホ長調 『皇帝』 op.73 [12]
ヴァイオリン協奏曲ニ長調 op.61
ロマンス第1番 ト長調 op.40
ロマンス第2番 ヘ長調 op.50
三重協奏曲(ピアノ・ヴァイオリン・チェロのための)ハ長調 op.56
合唱幻想曲 ハ短調 op.80
弦楽四重奏曲(全16曲)
第7番 ヘ長調(ラズモフスキー第1番) op.59-1
第8番 ホ短調(ラズモフスキー第2番) op.59-2
第9番 ハ長調(ラズモフスキー第3番) op.59-3
第10番 変ホ長調(ハープ) op.74
第11番 ヘ短調『セリオーソ』 op.95
第12番 変ホ長調 op.127
第13番 変ロ長調 op.130
大フーガ 変ロ長調 op.133
第14番 嬰ハ短調 op.131
第15番 イ短調 op.132
第16番 ヘ長調 op.135
弦楽五重奏曲 (全3曲)
ヴァイオリンソナタ(全10曲)
第5番 ヘ長調 『春』 op.24
第9番 イ長調 『クロイツェル』 op.47
チェロソナタ(全5曲)
ピアノ三重奏曲(全7曲)
第5番 ニ長調『幽霊』 op.70-1
第7番 変ロ長調『大公』 op.97
その他の室内楽曲
ホルン・ソナタ ヘ長調 op.17
六重奏曲 op.81b
七重奏曲 変ホ長調 op.20
管楽八重奏曲 op.103
ピアノソナタ(全32曲)
第8番 ハ短調『悲愴』 op.13
第15番 ニ長調 『田園』
第17番 ニ短調『テンペスト』 op.31-2
第21番 ハ長調 『ヴァルトシュタイン』op.53
第23番 ヘ短調 『熱情』 op.57 [12][13]
第26番 変ホ長調『告別』 op.81a
第30番 ホ長調 op.109
第31番 変イ長調 op.110
第32番 ハ短調 op.111
その他のピアノ曲(変奏曲、バガテル等)
創作主題による6つの変奏曲 ヘ長調 op.34
創作主題による15の変奏曲とフーガ(エロイカ変奏曲)変ホ長調 op.35
『ゴッド・セイヴ・ザ・キング』の主題による7つの変奏曲 ハ長調 WoO.78
『ルール・ブリタニア』の主題による5つの変奏曲 ニ長調 WoO.79
創作主題による32の変奏曲 ハ短調 WoO.80
創作主題による6つの変奏曲 ニ長調 op.76
ディアベリのワルツによる33の変容(ディアベリ変奏曲) ハ長調 op.120
アンダンテ・ファヴォリ ヘ長調 WoO.57
幻想曲 op.77
ポロネーズ ハ長調 op.89
7つのバガテル op.33
11の新しいバガテル op.119
6つのバガテル op.126
バガテル『エリーゼのために』 WoO.59
本来の曲名は『テレーゼのために』であった、という説が有力視されている。
オペラ、劇付随音楽、その他の声楽作品
歌劇『フィデリオ』 op.72c
劇付随音楽『エグモント』op.84
劇付随音楽『アテネの廃墟』 op.113
宗教曲
ミサ曲 ハ長調 op.86
ミサ・ソレムニス ニ長調 [12]
修道僧の歌
歌曲
アデライーデ op.46
汝を愛す
鶉の鳴き声
新しい愛、新しい生
口づけ
追憶
懺悔の歌
西暦2015に最高裁が「選択的夫婦別姓は却下」と判断を示しました。
これを受けて原告団長の塚本協子さんは「判決を聞いて涙が止まらなかった」
「『塚本協子』として生きること、死ぬことができなくなりました。」と述べました。
しかし待ってください。それって法律で解決しなくちゃいけないことでしょうか?
真犯人の名前を教えましょう。旧姓で呼んでくれない職場、旧姓で呼んでくれない銀行、旧姓で呼んでくれない葬式。
やつらです。
数年をかけて裁判を何度も起こすより! 三井住友銀行に毎日クレームを送りましょう。
この投稿を見たら「ペンネームでも簡単に口座が! マイナンバーを持ってお近くの銀行へ!」のキャンペーンをしてください。
「パスポートに名前を記入させないで」とお便りを送りましょう。
年賀状なんてやめて、外務省とか東京都生活文化局とかに絵葉書を送りましょう。
「佐藤から始まる同姓同名なんてたくさんいるんだから『本日は晴天なり』と自筆記入させてくれませんか?」と添えて。
「子供の姓はどうするんだ」
今回の訴訟では、子供の姓のルール改正は求めていませんので、「結婚時に決めた戸籍筆頭者の姓に統一する」だけです。もし、別のニーズ(子供は新しい姓にするとか)が発生したら、また時代に合わせて改正を検討すればいいと思います。海外のように、両親の名字をくっつけて子供の姓にする時代が来るかもしれませんね。「ますだおかだ」とか。
みなさんには役人の友達がいませんか? みなさんの友達は泣いていませんか?
「鈴木と佐藤が結婚するだけで『鈴木』『佐藤』『鈴木佐藤』『佐藤鈴木』『鈴佐』『鈴藤』『佐木』『木藤』とにかくたくさんだ!」
ただでさえ無駄の多い役所仕事に無理難題を要求するのは、みなさんの反対するところではありませんか?
選択的夫婦別姓は結局、戸籍にしがみついているだけですから最高裁が別姓を認めてくれたところで無意味です。
子供の名字は、親の名字は、先祖の名字は、友達の名字は……。戸籍に全てを任せようとしてしまいます。
選択的夫婦別姓の先にあるのは、子供が「父親の名字になりたい。母は要らなかった。戸籍を変えたい」と訴訟を起こす未来です。
効率的・実務的に言って役所をただ混乱させるだけの選択的夫婦別姓制度には断固反対していくべきで、
「そういえば所ジョージさんって芳賀隆之って戸籍上なってるらしいですが、所ジョージの方が本名って感じがしません?」と不動産会社の人に言いましょう。
選択的夫婦別姓なんて結局、子供の名字をどうするのか決めなくちゃいけないんですから。
既に主旨は述べましたが、ではどうして戸籍を擁護するのか整理させてください。
みなさんもご存じの通り、夫婦別姓というのは極めて男女差別的な側面があります。
中韓が現在も夫婦別姓であるように、極東では女性は家族の中でただ一人、男の姓を名乗ることを許されないものでした。
そこで明治維新の頃、列強のルール「妻は夫の名字を名乗る」という先進的な男女差別へと乗り換えたのが日本です。
名字の話をするだけで昔の各国のパワーバランスの話になりました。
名は……ちょっと土地を変えれば全く違う理論で働いている、とても価値のあるものです。年輪です。地層です。百科事典です。
ロシアには「父親の名前が、子供に自動的に足される風習」があります。「父称」で検索。
プーチン大統領は「ウラジーミル・ウラジーミロヴィチ・プーチン」という名ですが、ミドルネームにあたる「ウラジーミロヴィチ」は父親から来ています。
砕いて言うと「ウラジーミル、ウラジーミルの子の、プーチン」です。ウラジーミル・プーチンの父もウラジーミルだとミドルネームに書いてあるのです。
父親と子供の名前が同じというのは日本からすると変かもしれません。
しかし「名前に無頓着な名前」は世界的には多々あることで、マクドナルドは「ドナルドの息子」という意味だとされています。
マクミランは「ミランの息子」、マッカーサーは「アーサーの息子」とされています。
名は文化・歴史的に価値のあるもので、善とか悪とかそういう尺度で語るべきものではありません。
日本では源義経は牛若丸だし、豊臣秀吉は羽柴藤吉郎だし、鳳凰院凶真は岡部倫太郎だし……。
名は大切なものではありましたが、そのせいか代わりの名前がぽんぽんと出てくるものでありました。
選択的夫婦別姓の先にあるのは「寿限無」や「ピカソ」のように長い長い名前です。
「親のせいで俺の名前120字以上になった! ツイートできない!」となります。
そういう一般的な人間のユーモアと役所仕事というのは相性が悪いものです。
名乗りたい名前があるなら自由に名乗ってくれて構いません。それが国民の総意になる未来もあるでしょう。
しかしそれはともかくとして国がきちんと古くさく管理するのを許してあげてくれないでしょうか?
そうしてきちんとされたものが百年先、千年先にどう解釈されるのか私たちには全く想像できないのですから。
普通にマジレスすると、今まで同姓にするのを押し付けられてきたわけで、選択肢がなかったので、選択肢ができればみんな幸せにになるでしょ?ということなんだけど、どの辺がわからない?
そういう理屈なら、「姓を名乗らない」「無姓にする」という選択肢も当然同時に認めてくださいね。
選択的夫婦別姓を導入する時点で、親子や家族のまとまりを示すものでもなくなるわけだし、「姓なんて必要ない」と思う人も当然出てくるでしょうね。
同姓同名が容認されているから、姓と名を合わせれば個人が識別できるということもないですし。
難読苗字や変わった苗字などでイヤな思いをしてきて「結婚しないと姓を変えられないのは不便だ」と思っている人もたくさんいるでしょうから、姓は自由に変えられるようにしましょう。そういう選択肢を作りましょう。