漢字こそ違うものの、ひびきや、ちゃん付けの呼び名はまったく同じ。重要人物だからだろう、ひらがなで読み方を振られることが多く、つどつど、敏感に反応してしまう。
その小説は、映画化もした有名小説で、私はその作家さんの他の作品も好んで読んでいる。描写は、映像どころか、そのシーンの気温や静けさまでありありと思い浮かぶほどうまく、だからこそ、私は名前を呼ばれるたび、ずしんと重いものを感じてしまう。
性格も、考え方も、取り巻く環境も違う別人だし、そもそもこれは作り話だ。よくある名前だし、私以外にも同じ気持ちになる人は何千人といるだろうし、気にすることなんてない。しかし、その登場人物は主人公と密接した関係であり、彼女の死によって物語が広がっていくので、どうしても、彼女が、私と同じ名前を持つ彼女の死にまつわる話を中心に話が進んでいく。
読み始めて、まだ70ページほどだ。
引き込まれる力は他作品と変わらずすごく、このまま進めばこの週末には読み終えてしまうだろう。
でも、これ以上読み進めることができそうにもない。
心が、信じられないほどさみしくて仕方がないのだ。
読み始めてから3日、言いようのない喪失感と寂しさが、私の中で拭えずにへばりついている。
単なる気温の変化による体調不良かななんて思ってたけど、私は、自分の名前が死んでしまったことがひどく悲しく、さらに自分のことのように感じてしまって、知らず知らずのうちに傷ついているようだ。
母がつけてくれた名前が好きだ。
この世でいちばん反応する言葉は、やはり自分の名前だろう。それが、常に死とセットで使われる世界。遺骨、火葬、そして、その死を、主人公はまだ、70ページの段階では微塵も寂しがっていない。
それはもう、他の何とも比べられない負傷感だ。夢の中で自分が死んだような、あるいはそれよりも身近な死にも感じる。
うまい。読者をこんな風に思わせる作者の書く文章は、とてつもなく上手なのだろう。でも、わたしには少々重すぎる。
今回、図書館で文化を見かけたのでたまたま借りて読んだのだけれど、実は私は、この本の単行本も発売されてすぐに購入し、今も本棚の奥にある。そのときは読みきったのだけど、なぜか内容をすっかり忘れてしまい、久しぶりに読みたくなって、手軽な文庫を手にしたのだ。
読みながら、そうだ思い出したこんな話だったと思うのだけれど、読むまでそれが思い出せない。記憶の、奥の方に押しやってしまっているのだ。おそらく、初めて読んだときも同じようにショックを受けたんだと思う。この小説の中の出来事を、過去の嫌な記憶と同じ扱いをしているのだ。
たぶん、登場人物の名前が違えば、こんな気持ちにはならなかったと思う。もっといえば、この小説の登場人物の3人が、肉親と同じ名前なので余計に客観視ができない。
私は自分の苗字(本名)と同じ芸名の有名人がそろそろお年なので 今後もし亡くなったら報道されたりして 知り合いとか仕事関係者にちゃかされたり心配されたりとにかくなんらかのこ...
全く意見の異なる政治家と同姓同名なんだけど、やっぱり3割増にイラッとするね
どうもこんばんは 伊藤誠です