はてなキーワード: 中東とは
「こういうのがしたいからこういうのが欲しい」っていう何でもいいのでニーズに対してサービスや製品が提供されてるものって日本は普通に少ないよね
例えば何でもいいのでオリンピック選手になりたいから超マイナーなスポーツはじめたいので学べるところや道具売ってるところある?ってなるとほぼ自弁で自己調達や独学から始めるしかない
ネットのKKOやモテなくて狂った行き遅れのフェミとかが求める「キモくて性格の腐った自分でも高校生くらいのイケメンや美少女取っ替え引っ替えできるようになる方法や技術知識の類ある?努力はどんなことでもします」って聞いてもコンサルできる人間とかが全くいない
ひろゆきやホリエモンや怪しいYouTuberが「自己投資が一番いい」といってるけど
まず投資すべき物が日本には意外と少ないから具体的なことが全くいえないんだよね
まあキモくて性格歪んだオッサンやババアがイケメンや美少女囲って侍らせたいならミャンマー国境地帯や中東に行って現地のゲリラやイスラム国に入って工作員として訓練受けてからそのスキルで探しなさいとか具体的な話とかパッと出てきたらそれはそれで社会的な治安がマッハでやばいってなるんだけどさ
難しいよねそこら辺
日本人はよく無宗教と呼ばれるが、私はそれは当たり前だと思う。日本にキリスト教のような確固たる宗教が生まれるほどの素地もないし、その資格もないからだ。
宗教が生まれる素地とは、その宗教が生まれる土地の風土のことだ。風土とはその土地に住む人間の気質や文化の形成に関わる地理的、気候的環境のことである。
キリスト教のような一神教は自然の恵みの薄い中東の砂漠の風土から生まれた。そこでは神は人間の味方で、厳しい自然をも超越する。神の言葉である教典もその土地での生存戦略において合理的である。その信者は生活のありとあらゆる場面で神を拠り所にする。
一方で日本は伝統的にアニミズムという多神教の宗教観に依拠している。それは四季の変化や災害の多さ、生物種の多様さに起因していると言われる。そこで(沢山いる)神とはその様な自然環境の理由であり、アニミズムとはその中で人が生きる生存戦略である。故に日本において神とは必ずしも人間の味方ではなく、そこにあるだけの存在なのだ。神社が行う祭祀も神のご機嫌をとり、神と人間が共存共栄を図るための儀式である。
このような日本と中東の風土の差から、日本では信仰するに足る神様は生まれでてこないのだ。むしろそんな神が日本にいたらとんでもない憎き業を抱えた存在になるであろう(まあ、それを神と呼称することも無いであろうが)。日本には真の唯一絶対神は存在しえないのだ。それは仏教やキリスト教が伝来したときも変わらなかった。
無宗教というのは日本に外来の宗教が入ってきたときに、日本古来の習わしと共存共栄するための文化的産物であると思う。したがって無宗教は反宗教ではなく、むしろ宗教を維持する工夫であったといえる。そうでなければ仏教やキリスト教は今ごろ日本から排撃されていたかもしれない。
誤解なく言うと、私は日本において一神教の神を信仰することを否定したりとか、あるいは神道やアニミズム以外の信仰を認めなかったりするのではない。むしろ日本に住むどの人も何かしらの信仰を持つことを望んでいる。その時に同じ神を見ることは無いのだ。同じ所で安全に平穏に暮らしているその事実がより重要なのだからだ。
結論から言うと、東軍が勝ったパンティーラインに住んでる人かわいそう。
パンティー川家康は関ケ原でパンティーを被り討ち死に。パンティー川秀忠は切腹。両者のフンドシは一条戻橋に晒される。徳川家は結城秀康が引き継ぐも程なくパンティー川家に改名され実質滅亡。
その後パン東ィーには何人か大名が移り住んだが誰も定着せず荒れ野のまま。
パン東ィーなんて今もほとんど人が住んでいないド田舎の話は誰も興味がないと思うので話を元に戻す。
パンティーケ原の戦い後、小早川秀秋が白パンティーを履くも5年で病死。その後は豊臣秀頼が白パンティーを履く。日本は上杉、宇喜多、毛利、島津などが各地域を100年ほど分割支配し、相互監督をはたらかせていたが、パンティーぬがしっこが起こらず、外国との下着交易も進みパンティー業が発展していったので時代遅れな武士は次第に消えていった。その代わりに交易で利益を上げた大名が豊臣を中心にパンティー体化していく。というわけでこちらの歴史の授業ではいちいち武将の名前なんて覚えない。そちらではやたらと武士がもてはやされているらしいが、こちらでは武士は鎌倉幕府まではともかく、室町幕府以降はフンドシしか履いていなかった印象で、野蛮で恥ずかしい存在でしかない。交易でパンティーが発展しているので、日本のせまーいフンドシでチンポなんてものを覆わせて税金を徴収するなんてバカなことはパンティーケ原の戦いの50年後にはなくなった。18世紀に入ると各地域の下着難民や縫製労働者が蜂起して自パンティー権が漸次的に認められるようになっていく。そちらとは違って武士の強権的な支配がないのでゆるやかにパンティー化していく素地があった。パンティー教も新旧両派が認められ、汎帝教と二大勢力になっている。その後、ヴァンディー教やパンツィル教を信じる人も増えていく。フンドシがいなくなっていくにつれてブリーフやトランクスは消えていった。後述のように、近隣のアジア諸国でもトランクスは消えていった。今でも下着の残骸のようなものは残っているが装着する人は誰もいない。
19世紀になると大名が支配していた地域で縫製労働者や下着難民の代表者からなるパンティー会と豊臣を首班とするパンティー人からなる下着会が設置されていく。いわゆる列強とも条約を締結したが、そちらの江戸幕府とかいうものが結んだような不平等条約ではない。もちろん条約は下着会が承認する。19世紀の半ばにはアメリカやヨーロッパの思想がパンティー語に翻訳され、誰でも読めるようになっているが、モンテスキューやロックの思想はパンティーと大して関係がないということで学校で議論する程度。そちらの学校では武士の強権的な支配によって作られたせいで自由に議論することは認められてないらしいけど、こちらは子どもたちが自由にパンティーを履いて走り回るのがメイン。この教育をきっかけにパンティー族の力は次第に失われていく。19世紀半ば以降は欧米列強に対抗するため、近隣諸国と連合巨大パンティーを形成する構想が何度も浮かぶ。アジア大陸では日本と同様、汎帝教とパンティー教がメイン。フンドシ教は非合理的なので衰退。ここでは一致できるのだが、しかし、ヨーロッパ発の裸体主義思想の影響もありうまくいかない。結局最初は2~3か国の同盟からパンティー連合が始まる。19世紀終盤にはアジア圏と欧米列強との間で大きなパンティー戦争が起きる。フンドシのような抑圧的で野蛮な下着が早い時期になくなり、無駄な戦争はしなくなっていったこともあり、1年ちょっとで早々に講和条約を締結。20世紀を迎える。
20世紀に入ると漸次的に汎アジア国家条約連合(PANTY)が形成されていく。PANTYはそれぞれの装着者で温度差はあるものの人体の曲線的な魅力を布地が補強するコンセプトからなる。パンティー列島地域は力を失ったパンティー族が政治的な実権を失い、国民代表からなる下着会と各地域の代表者からなる元パンティー院、PANTY議会に派遣される議員が存在している。ヨーロッパで発生したヌーディズムと戦う第二次世界大戦はこちらの世界でも勃発する。しかし、パンティー地域に没個性で野蛮なフンドシが存在しないこちらの世界では他国に侵略を行うようなことはない。PANTY含む連合国がイタリアのヌーディストとノーパンドイツを倒して戦争は2年半で終結。その後、PANTYとブルマ圏、欧米諸国との間でイタリアとドイツを再建。アジア大陸では中国全裸党とPANTYの戦いが続くが、1964年に休戦。中華全裸共和国はそちらの世界よりも規模がかなり小さく(朝鮮半島の付け根北部地域のみ)、影響力もあまりない。PANTYは中東諸国に対するブルマ圏やアメリカの侵略からの防衛にあたり、友好関係を現在に至るまで結び、勢力圏を拡大。意地でもヌーディズムを譲らないソ連と意地でもブリーフを手放さないアメリカは1980年代になると衰退していく。インドや中東諸国が加入したことでPANTYは汎アジア・インド・中東国家条約連合(PANTIES)へと改組される。PANTIESとブルマ連合がアメリカとソ連の再建の中心となる。
21世紀に入ると世界はPANTIES、ブルマ連合、全裸連合、ノーパン連合、紐パン連合の連邦国家で構成されていく。返す返すも、そっちの世界のように東パンティーの野蛮な武士が支配権を握らなくてよかったと思ってる。
タイトルで強烈な文言を述べたが、私個人は神様を信仰していない。私は神様ではなく自分に幸福をもたらしてくれる縁や尊敬できる偉人を信仰している。
私の家系は日蓮宗であるが、それを意識することはほとんどない。葬式や父の実家の仏壇を拝むときだけだ。クリスマスも初詣もするし、お守りを持つこともある。
このような態度は無宗教と呼ばれ、日本人の多くはこれに分類される。中にはこれを宗教的態度の欠如であると批判する人もいる。私が小学四年生の時の担任教師はこれをおかしいと非難した。
しかし、私はこのような「無宗教」が日本で起こったことや、無宗教の人が宗教の恩恵にあずかれるのはおかしいことではないと思っている。
日本人の宗教観は、この世には沢山の神様がいるという宗教観である。この世のあらゆる事物にはそれぞれの神様が宿り、神様達の動きによりこの世界の因果関係が決定されると考えた。それぞれの神様は人間と同じく感情を持つものとして考えられ、祭祀や信仰はその神様のご機嫌をとることに近かった。この宗教的態度は外国から仏教や儒家思想、キリスト教などが入ってきても変わらなかった。
このような宗教的態度が生まれた背景を和辻哲郎のエセー「風土」は日本(および東アジア)の雑多な生態系と災害の多さに求めた。日本人は古来より抗いがたい災害に見舞われ、それに耐える忍耐力を養った。そしてその気象条件は同時に命の恵みも与え、我が国に植物や動物の息吹があまねく見受けられるのである。
こうした環境が日本人の精神を作り、その精神から人格を持つ沢山の神様を生み出したのである。これは自然環境が変わらぬ現在でも同じであり、欧米や中東のような一神教的な絶対神が日本を征服できないのはこのような理由がある。一神教の神は、多神教の神の国の一部として取り込まれるのだから。
遠藤周作の小説「沈黙」では、日本に伝来したキリスト教の教えが日本に根付かず改変されていることを元宣教師のフェレイラが嘆くシーンがあるが、それは上の風土を考えれば当たり前のことなのである。
一方でキリスト教やイスラム教などの一神教が誕生したのは、砂漠の国の中東からである。そこは日本とは全く異なる生命の息吹が皆無の殺意の大地である。そのような状況から砂漠の民のヒューマニズムへの関心はとりわけ高く、それが人間の味方である絶対唯一神への信仰を生み出した。
それがヨーロッパに入り浸透したのは、ヨーロッパの民族は合理的で従順だったからである。ヨーロッパは生態系が単調で、人間からすれば自然は全部「役に立つ」ものだった。そこから古代ギリシャ・ローマに代表される科学的合理的思考がこの地で起こり、それはヒューマニズムに満ちた一神教を受け入れたのだ。
ここで、あらゆる神や宗教を吸収する多神教の国日本と一神教が人々を統べる欧米や中東の差異が分かる。そして、これが日本の無宗教を受容する態度と非難する態度の違いを生み出すのだ。
一神教的宗教観は日本の無宗教を非難するが、それは無宗教が神様を信仰しないからだ。一神教の神は世界の創造者で裁定者で救済者なのである。それを信仰することが彼らの人間として生きることの証なのだ。故に無宗教は非人間的な態度であり、シリアルキラーと同類の存在なのだ。先の私の小学校の先生も無宗教を人間として無節操な態度と考え、非道徳の理由を無宗教に求めたのだ。
その上で私は一神教的宗教家の方々の私の宗教観への批判に反論したい。私が信仰しているのは神を持たない宗教であると。
先ほど私は日本の宗教観ではこの世の事物にはそれぞれ神様がいると述べたが、それはあくまでいるだけであり信仰する神ではない。物事の因果を神の所業と考えているが、それを起こす神が気まぐれでそれが沢山いる以上もうどうしようもないのだ。もしこれが人だったら早々と見限るような神々は沢山いるのだ。神は人を選ぶのだろうが、人間も神を選ぶのである。
私も以前は神は正しいメッセージを授けてくださると思っていたが、いつまでたっても授けてくださらない。それは当たり前のことであり、雑多な風土に宿る神が雑多なメッセージ以上の何かを発信することは出来ないのだ。日本の土地では裁定者たる神はいないのである。「沈黙」でも、主人公の前に裁定者は最後まで表れなかった。裁定者は日本という沼地で溺死したのだ。故に主人公は生きるという決意で生き延びたのだ。
「沈黙」では神を心のなかで生きる存在と最終的に結論付けたが、私はその神の存在意義は最初から否定した方が楽なように思えるし、そちらが神様にとってもありがたいであろうと思う。そうでないと私は神様に対する「たかり」になってしまい申し訳なさで死んでしまいそうだ。
何か危機に陥ったときにかつては祭祀や加持祈祷に頼っていたであろうが、科学の時代においては科学の方が日常生活では「烏合の衆」よりかは帰依出来る。
今のコロナ禍でも、精神的基盤を補強する役割以外では、神頼みよりも衛生的処置や医療措置の方が遥かに大事なことはすぐに分かる。
では私は何を宗教に求めているかというと、私の心と世界とのコミュニケーションである。世の中には理不尽なことは沢山ある。そんなときに世界が沈黙し私を嘲笑しているように錯覚することがある。
だが、それは私が世界とのコンタクトを放棄しているからである。世界は私を嘲笑していない、語りかける励ましの言葉はある。私がそれに気付くとき、私は心を開き癒されるのだ。その回路を開くことが私の宗教的態度である。私が信仰しているのはそうしたものである。
私は長々とここまで語ったが、私は他人の宗教的態度を否定するつもりは毛頭ない。私には私の納得する宗教的態度があり、それを大切にしている。故に他人にはここで語ったことに対抗しうるだけの宗教的態度があると考えられる。私はそれを侵すつもりはないし、相互不干渉を守りたいと思う。自分の守りたいものと同じように他人の守りたいものは守りたいのだ。
私の記事は以上だ。
https://b.hatena.ne.jp/entry/4697255375992717346/comment/Windfola
こいつ緑茶が日本でしか飲まれていない日本の文化だと思ってるのか?
日本では中国のお茶=烏龍茶みたいなイメージがあるけれど中国では烏龍茶はそこまで飲まれていないというのは有名なトリビアだ。中国でも6〜7割は緑茶を飲んでいる。
「緑茶は日本のもの」なんてとても言える状況じゃない。シェアを見れば明らか。
このブコメにこんなにスター集まってるのはちょっと無知すぎるだろ。
そもそも「どこか一国のもの」という主張は排他的でイメージ悪い言い回しだから
わざわざそんな主張するのはどうかと思うが。