はてなキーワード: 一刀両断とは
ナンバーディスプレイの番号見てハッと思って私でなかったんだけど、
下4桁が0110ってのは警察って言うので相場が決まってるじゃない。
私そんな心当たり無いんだけどなぁって。
心当たりあっても怖いんだけど。
でもさ、
これって発信番号って偽装できるのかしら?
もはや何を信じたらいいのか分からない状況。
でね、
なになに署って出てくるっしょ?
でも検索してもこの電話番号が一切どこにも出てこなかったので、
昨今何かしら検索してもページが出てくる世の中。
まったく逆に何も出てこないのも
怪しさをさらに増すような感じで、
でね、
再びかかってくるはずでしょ?
謎が深まるばかりなんだけど、
結局は偽装番号からかかってきたって納得のいくところなんだけど。
そう思うことにしたわ。
またかかってきたら出てみようかなって、
そんなことも無いと思うけど。
なんかちょっと怖いわ。
お届け物不在連絡と思っても私いつも事務所に届くようになってるんだけど、
予定していない荷物もそんなに届かないはずだし。
メールはスパミーなのは一目瞭然というか見るまでもない一刀両断で分別できて燃えるゴミの日に出しちゃえばいいんだけど、
一応慎重に中身を見ちゃうわよね。
あれがきっと危ない罠の橋を渡らせる渡良瀬川のあの歌を歌う人って今ど忘れしちゃったけど、
そんな感じで巧妙にクリックさせような感じで、
進んでいるのか後退しているのか全く分からないわよね。
ここだけは要用心したいところだけど
気を付けるとともに、
うふふ。
美味しいものに罪はないって美味しんぼの山岡さんも言ってる通りよ。
朝から楽しんでいるわ。
湯冷ましで一度少しお湯の温度を沸騰の温度より下げて入れると美味しいわよ。
あんまり緑茶って沸騰がんがんのお湯でしない方が美味しいのかも。
なんて。
すいすいすいようび~
今日も頑張りましょう!
あのさー
つまらなくなった途端のタイミングって言うのは運営がマネタイズが上手くいった証拠でもあるから
面白くなくなったSNSは儲かってるんだなぁーってつくづく思うわ。
ツイッターももはやどうでも良いことをどうでも良くつぶやいている方の人が少なくなってきているのかも知れないわね。
五万人ぐらいいると思うわ。
キャンプはあんまり行きたくないけどランプとかナイフとかのキャンプギアは欲しい!焚き火はしてみたい!みたいなことよね。
家庭用コンロじゃなくても、
もう普通にキャンプカレーを家で作ったらキャンプ気分なのかしらって思うし、
事務所のフロアのちょっと広いところでテント張ったっていいんじゃない?ってそこでお昼休み流しそうめんでもしたら
もうキャンプ気分よ!
家に居ながらの巣ごもりで
キャンプしたい欲を満たしてくれるかがってことも重要なのかも知れないわね。
だから
そうは言ってないわよね。
山に登って淹れるコーヒーが頂上で飲むと美味しいように
キャンプ地には行きたいけど寝るのは車の中でいいわ!ってことなのかしら。
結局は一緒なのよ。
キャンプに行ってテントの中では結局はノートパソコン開いてインターネッツを見ているから
あの大容量モバイルバッテリーがめちゃくちゃ売れてるって言うのも一理ありまくりだわ。
なるほどねーって思っちゃった。
それと、
的に手斧投げるアックススローイングが超流行ることを今ゆっとくわ!
リアルに手斧投げて的の丸太にすこーんって気持ちよく刺さって止まったら快感よね!
黄砂でぼんやり青空じゃない霞んだ感じを正に一刀両断したいものね。
うふふ。
パッと見はソーダ水に見えるけど甘くない炭酸水レモンウォーラーです。
すいすいすいようび~
今日も頑張りましょう!
ネットで意見を発信するときに怖いのは何だろうか。クソリプ、炎上、個人情報の特定、色々懸念すべき点はあるだろう。
でも一番怖いのは「自分より詳しい奴がいる」ことではないかと思う。
自分より詳しい奴からの反論に、自信を持って自説を貫ける人は少ない。
例えるなら、ゼミの教授がゼミ生の論文・研究発表に立ち会っているようなものだ。自分より知識も経験も上の人間が、「私はこんなこと発見しましたよ!」という青二才のプレゼンに常に目を光らせている。プレゼンが終われば詳しい奴による質疑応答の時間であり、考えもしなかった多角的な視点からロジックの穴を突いてくる。
もちろん、自身の経験談を語る程度であれば何も問題ない。身に起こった出来事を当事者の感性から描いたエッセイは、第三者には得難い貴重なエッセンスが含まれており、自分が世界で一番詳しい情報になるからだ。
しかし、経験談以外の「主張」に対してはそうはいかない。主張には多かれ少なかれ反論が来る。その主張が中道ではなく擁護か批判の側に寄っていればいるほど、反論の数は多くなり論説も激しいものになる。
誰かを批判するときは批判される覚悟を持て」というが、こっちは一人で相手は無限。
どう考えてもフェアな殴り合いではないだろう。
そんなこんなで、自分より詳しい奴は数人から数万人までたくさん存在している。
こんな世界で自分の意見を表明するというのは、実はとても勇気のいる行為ではないだろうか。
常に「自分が言っていることは正しく、反論に耐えうるものなのか?」という疑念に苛まれ、事実関係に間違いはないか、自分の論拠と相対するデータが出てこないか、細心の注意を払って文を書いていくことになる。そうして苦心しながら書き上げた主張を詳しい奴らが一刀両断するのだ。
そしてタチが悪いことに、ネット上では自分の意見が簡単に見られ、識者も気軽に集まれてしまう。
「ゼミ内発表」という閉じた空間での出来事ならまだ優しい。教授はゼミ生の発表にも、「よく調べてあるね」という寛大な言葉を投げかける(もちろん教授によるが)。その言葉の前には「学生にしては」という枕詞が隠れているが、決しておくびに出すことはない。
ところがネットはそうは行かない。発信者が青臭い学生だかいい年したおっさんだかなんて関係なしで、間違えば容赦ないツッコみが来るし、内容次第では炎上する。しかもゼミのような内輪の場ではなく完全なるオープンの場である。
自分の卒論が一億人に見られると言われたらどう感じるだろうか。私は最悪の気分になる。主張は的を得ておらず、構成はちぐはぐで論拠はずさん。内容は知識の薄い素人がデータを継ぎはぎした妄想の延長線上であり、はっきり言って人目に耐えられるものではない。
ネットには語る人間がたくさんいる。twitter、note、増田といった匿名のSNSがある。
匿名者だけではなく、落合陽一、オリラジ中田、会社の看板を背負ってnewspicksにコメントする人間など、専門外が顔出し名出しして、これからの世界」について自信満々に語っている。
新しいプログラムを前に
何その圧迫感。
何の訓練にもならないことぐらいわかるよね。
薄々そんな気はしてたけど、別の仕事してる友人に話したら一刀両断された。
やっぱそうだよね。
全く割に合わないんだけど。
日々色々変化はある会社だったけど
私はそれが結構なショック。
良くも悪くも緩かったけどそれがこの会社の居心地の良さだったのに。
いきなりの態度。
なんか嫌な感じ。
それをCEOが言うとかなら分かるんだけど
いつのまに随分を偉くなったんですかね。
たかだか10分の査定で私の実力上から目線でジャッジされたくないし負けないけど。
それに、、、急に力持ちだした人って、
どっかの地点で辞めていくから。
仕切り屋な感じは前から感じてたけど
今回のはやりすぎ。
私は細く長くひっそりと続けていきたいので
静観して 時を待つわ。
こういう時、てんでバラバラに仕事してるこの仕事の形態がちょっと残念。
同僚がどんな人なのか大体分かるし、
こういった愚痴も言い合えるのに。
リモートの不便さ。
信用を本当にできるかどうかは微妙。
口をつぐむしかないんだと思う。
最近、自己肯定感を高めるメソッドなどを読んで自分の中で意識改革があったのだけれど人間は「ダメでもいい」のだ。
「ダメでもいい」のだけれど「ダメでもいい」と思えるようになるのがわたしには難しかった。
そんな考え方になってしまったのは高校生のとき国語の教科書に載っていた、夏目漱石の『こころ』の登場人物Kの影響が大きい。
Kの生家は寺で、修行僧のようなストイックさを持ち勉学に励む青年だ。恋愛にうつつを抜かして真面目な話に取り合わない「私」に対して「精神的に向上心のないものは馬鹿だ」と一刀両断する。
わたしはこの「精神的に向上心のないものは馬鹿だ」に非常に感銘を受けてしまった。
精神的に向上心を持たなければいけない。自分に至らぬところがあれば努力しなければならない。決して現状に満足してはいけない。そして努力の見られない他人を見下すようになってしまった。
(余談だが他人をdisることで自分より下がいると思い込みたいのか、自己肯定感の低い人ほど他人に対して攻撃的になってしまうらしい)
自己肯定感の低い人間がそれらの行動をとるとどうなるのかというと、結果としてわたしは自己否定のループに陥ってしまった。
こうあらねばならないという理想だけが高く努力を続けるが、結果を残せず「もっと頑張らねば」という感情だけが残る。次第に「こんなに頑張っているのに結果を残せない自分とは……」「いつまで頑張らなければならないのか」「頑張っても結果を残せない自分は精神的に向上心のない馬鹿だ」と思うようになった。自己を肯定できない負のループだ。
自己肯定感を高めるメソッドに「小さな目標を立ててそれを達成し続けている」というものがある。だがそれは間違いだと思う。
間違いというより、成功体験を積み重ねることで自信がつくというのは理にかなっているが、高い自己肯定感というものは「ありのままのどんな自分でも肯定できる」ことだ。自信がある=自己肯定感が高いというのも間違いではないのだが、どんなに失敗しても、結果を残せなくても「それも自分だ。それも良い」と思えることこそが自己肯定感の高さなのだと思う。
最終的に「精神的に向上心のないものは馬鹿だ」の大ブーメランを受けて自死してしまうKの末路には目を伏せて、この言葉を信仰していたわたしにはどうしてもダメな自分を肯定することが難しかった。ダメな自分を受け入れているのは「精神的に向上心がない」。完全にKに呪われていた。
だが人間は「ダメでもいい」らしい。自分のこころを守るために、失敗を重ねた自分を罰して傷つけないように「ダメでもいい」ことを受け入れられるよう考えてみた。「このままでもいい」と言い換えてもいいのかもしれない。今まで向上心をなくさないよう気を張りすぎていたのか、現状を肯定するよう努力してみたら、すとんと心が軽くなった。自己肯定感が低い人間は少しくらい図太く生きてみるのもいいことなのだろう。
身の丈にあった幸せや、すぐそばにある大切なものを慈しむことも自己肯定感を高めるために必要なのかもしれない。「ダメでもいい」とこころで唱えながら今日もKの呪いと戦っていく。
大学院を中退して久しい。記憶が正しければ、私が大学院中退を決意したのは6月末であったことから、あともう少しで半年が経つ。
さて、就活についてはようやく良い風が吹いてきた。金融の、ある分野において業界上位三位以内の地位にある企業の最終面接の一歩手前まで進めることができている。
一部上場のIT企業(Sier)については、最終面接を控えるところまできた。ESを提出した後に任意の質問会をやると聞いたのでそれに参加してみると、人事が質問会で「この質問会でESブラッシュアップしてね」なんて言い出した時は冷や汗が止まらなかったが。
どちらの企業も来週面接であることから、中々にプレッシャーではあるが、何とかなるだろう。
ところで、前回の記事で「まあ、プライドが高いお前は上場企業じゃなけりゃ満足しないんだろう(⇔身の程を知れ)」といった趣旨のコメントが付されていたが、当然である。プライドが高いからこそ、私は結果を出せないと満足できない。そのお陰で、就活もここまで進めれている訳だ。実は、総合商社の中途枠についても、二次選考まで進めれていたりもした。とは言いながらも、今現在も無職であることには変わりがないことから、彼彼女をあざ笑うにはまだ時期尚早ということで、この程度にしておく。内定が出たら改めてあげつらう予定だ。
エントリー中はなりふり構わず履歴書を送りまくっていたし、後輩にESや面接の方針について教えを乞うたりもしていたので、どちらかというとプライドをかなぐり捨てているような気もしたが。キレてノートパソコンを叩き割ったりと結構な醜態を晒していたし。
さて、私は上のどちらかの企業で王手をかけて上がる予定でいる(が、一応今も履歴書は送りまくっている)。金融の方はやはり選考難易度が高いことからまだまだ気は抜けないが、ITの方はコロナ禍であるにも関わらず敢えて増員していたぐらいだし、「最終面接で落ちることは基本的には無い」というのが就活サイトでの定説である(らしい)から、余程の地雷を踏みぬくか、ドジを踏まなければ内定は出ると睨んでいる。金融の方で面接を何度もしたから、これが活きてくれば良いのだが…。
そんな時、「私は一体何をしたいのか」と考えた。前の記事でも書いたが、私は資格を取ってプロになろう、という心づもりでいた。実は、この思いは今でも捨てきれていない。
そして、その資格であるが、実は金融ともITとも親和性が良いのだ。シナジーが大きいだけでなく、その両者について深い理解をしている有資格者が少ないことから、収入の面でも大きく期待できる。社会にも十分貢献できると思う。
ただ、金融 or ITのプロとして生きていくのも楽しそうだと感じるのだ。
金融については所謂部門別採用ではないため、基本的にはその足で走り回って数字を上げることになるだろうが、人と話すのが好きな自分としては極端な苦手意識はない。一時はクラブナンパなんかもしていたぐらいなので、目の前で蹴り捨てられる程度じゃヘタレることもない(流石に悪意むき出しの悪口を言われた時は少しキツかったが)。また、金融については学部・院生時代にある程度かじっていたので、苦手意識は全くないどころか得意と言い切ることもできる。勿論、いわゆる金融マンであることから死ぬほど大変であろうが、楽しめる気はする。
ITについては、大昔に自分でパソコンを組んだことの他、ネットサーフィン経験を通じてセキュリティ・ネットワーク周りのことを最低限身に着けたことを除けば、全く知識がない。今現在基本情報技術者試験の勉強をしているが、何が分からないのか分からない、という部分が大半である。ただ、参考書を見た瞬間に脳がストレスを感じる、ということはない。Javaの解説ブログなんかも流し読みしてみたが、面白かった。全く適性がない、ということはないと思う。金を産めるか、という質問について胸を張ってイエスといえる自信はやはりないが。
就活生は、どのようにして自己のキャリアを定めるのだろうか。学部時代のある友人は、憧れを理由に、その企業を選んでいた。金を理由にその企業を選んだ友人もいる。その企業の製品が本当に好きだからということで、その企業へ進んだ友人もいる。
どの友人も、見事であると思う。内定をきっちりと取り切っているし、何より行動に対する結果が伴っている。そして、今も尚働いている。素直にすごいと思うし、心の底から尊敬している。将来的に転職をすることになったとしても、私からすると学部時代にそのようにはっきりとしたキャリアプランを持つことができていたことそれ自体が大変素晴らしいことだと思う。
私自身、それなりに将来のことを考えて進路設計はしてきたつもりだったが(母親に奨学金を使いこまれるのは流石に予想外だったが)、良いように言えば知的好奇心が強い、悪いように言えば器用貧乏なタイプなのだ。この性格から、上記の企業で知識を身に着けながら学部時代より抱いていた思いを実現するべきか、それともその道のスペシャリストとして生きていくべきか、と今もくよくよと悩んでいる。一刀両断的な判断はあまり好まないため、どこかでグレーゾーンを設定して落ち着くことになるとは思うが、今現在それを設定できない自分に対するもどかしさは結構感じている。
秋葉原通り魔事件。宮崎勤の事件。ああいう事件で「抑圧されて育った人間の歪み」を見聞きするたびに、他人事ではないなと感じる。
母親は教育関係の仕事をしており、子どもを立派な大学に入れたスーパーマザーである。
しかし、その子どもは、無事に無い内定引きこもり無職(一応学生)となっている。社会性が育つ場面で極端に制限をかけられた子どもがどうなるか。20年をかけた壮大な人体実験の記録を一つ読んで欲しい。
1.恐怖で抑圧させて勉強させられてきた幼少期
私は物心つく3歳の頃から、毎日「ノルマ」を課せられ、やりたくもない勉強と向き合い続けてきた。母親が帰ってくる前までに母親の決めた「ノルマ」を仕上げないといけない。このノルマが終わっていないと、「指導」が始まるのである。例えば、「なぜ今日は出来なかったのか」について一時間、二時間、と向き合う。答えられず無言でいると「そうやって私を無視するのか」と詰められ、「バカだったからです」と答えれば「勉強が出来ないバカは家から追い出す」、「離婚したダメ父親の元に送る」、などが提案される。この「話し合い」は深夜にまで及び、「なぜできなかったのか」答えさせられる「自己批判」の時間では「どのように答えればこの人は納得して寝かせてくれるのだろうか」をパニック状態の頭で考えることとなるが、どれを答えても地雷。最後には不甲斐ない自分に関する悔し涙を流す。すると「反省しているポーズをとるな」と詰められる。涙を拭けとティッシュを渡され、鼻水を拭いたティッシュを丸めて置いておく。
「今日のノルマをやってから寝るよ」。勉強をしていて情けなさに涙をこぼすと、「泣くな!」と怒られ、鼻水を拭いたティッシュを口に入れられることもあった。彼女自身、子どもを支配するのに必死だったように思う。子どもの一日というのは大変長く、誘惑に満ちているので、ついつい遊んでしまうのだが、昨晩課された、あるいはノルマ棚に置かれたプリントを見て勉強をするほど私は賢くはなく、この「指導」の時間が辛く無駄な時間だったと感じる。
そんな物理的な圧で勉強に向かわせてくる母親であったから、うちはゲームが禁止だった。周りの友達が全員「たまごっち」を持っている中、買ってもらえずに輪に入れないということもあった。何度かお願いをしてみたのだが、ダメだったし、この人には何を言ってもダメだと分かっていたから、諦めた。現在、「スーパーマリオ」や「ポケモン」は基礎教養だと思うが、私はそれらで遊んだことが無く、アクセスできなかったため、それらに関する話題が出た時に全くついていけないのがかなり困っている。一生困ると思う。「ポケモンの金銀並みだな~」とかいう比喩表現を聞いたとき、「そうですね」とへらへらと笑って合わせていくスキルを20過ぎに身に着けたが、付け焼刃感というか、相手の言っていることが何も分からないので悲しい。
友達の家でやればいいというお声もあるだろうが、「母の目の敵にしているゲームを触ること」は私にとっては「大麻にトライすること」くらいハードルが高かったのである。今でもゲームをしている人を見ると謎の居心地の悪さを覚えてしまう。
漫画は、年の離れた兄弟が大量に所持しており、そこからこっそりと借りることが出来た。捨てられたジャンプから、好きな漫画をカッターで切り抜いて、単行本を作っていた。ただし見つかると「私刑」である。生命活動を勉強時間に全振りすることで東大に合格できると思い込んでいた母親は、勉強以外の活動をしていると烈火のごとく怒った。弟の気に入って隠し読んでいた「純情パイン」は八つ裂きにされて捨てられてしまった。
幸いにして私は小説を読む方にはまっており、私のメインの趣味である読書は「推奨」される行為だった。(ただしノルマをやった後、寝る時間を惜しんで読書を優先すると叩かれる)図書館のお気に入りの本は読みつくしたし、母親の検閲(中身には興味がなく、文字かそうじゃないかが重要だった)をクリアする「涼宮ハルヒの憂鬱」等ライトノベルには大変お世話になった。グロ系や耽美、18禁のものも、「本」なので良かった。ここに関しては寛大な処置を頂いたと思っている。
そんな読書少女に育った私は、頭でっかちの、言語性だけが身に付いた、悲しいモンスターだった。小学生の頃、女子特有のクラスのトラブルに悩んだ時、最高指導者である母に相談してみた。すると「増田ちゃんはそんなレベルの低い子と無理して仲良くしたいの?」と一刀両断。そうか。周りの子はレベルが低いから、関わらなくていいのか。誤解した増田ちゃんは「基本的に物腰は柔らかいが、トラブルにすら巻き込まれないように一歩身をひく付き合い」を心がけるようになる。また、友達と遊ぶことは制限されており、家に友だちを呼んではいけなかった。新しい友達も「どこの、誰で、何をしている親の、どういう子」かを説明するという責任があり、母親に認められない子と遊ぶことは良い顔をされなかった。そんな中でも文通をしたり、こっそり会うといった方法で仲良くしてくれた友人には頭が上がらないのだが、やはり「友人と遊ぶ」ことがダメなので、せっかく仲良くなったクラスメイトとお祭りや、ショッピングなど楽しいイベントに出かけることは出来なかった。(そもそも自由なお金がなかったし、バスにも乗れなった)
高校では、最初は素敵な友人グループに属させてもらった。友人たちと仲良くしてもらって感謝しているが、その中でも「この間のショッピングモールで~」のような会話にはついていけないことが増えていく。ついに深い交流をすることは出来なかった。今でも交友関係を続けている同級生同士がとても羨ましい。
そういった抑圧の下で生きてきた結果、やはり20代半ばで実感しているのが、「勉強だけ出来てもダメ」ということだ。
最近の教育分野では「非認知能力(社交性とかもろもろ)」が重視されているが、詰め込みノルマ型の勉強の成果をどうにか形にしたり、就職して社会に還元したりする上ではこの能力が必須である。元々ASD傾向がある上に、社交の一切合切を無駄と切り捨てられて育ったことは大変大きな損失だった。そもそも母親も社交スキルが低く、同級生のママを見下しながら、自分が適応できないことの憂さ晴らしをしていた。母親も、社交スキルをどう教えて良いか分からなかったのだと思う。その結果、「コミュ強を見下す」という戦略に走ってしまった。結果はどうか。増田で長文を投稿し、コロナもあって友人関係が更に狭まり、就活で全滅の、「無敵の人」予備軍の出来上がりである。
母親は上記のようなことをほぼ忘れ、「でも〇大に受かったから、よくママ頑張ったでしょ」と承認を求めてくる。〇大に受かっていなかったら、今よりも肩身が狭い、バカのコミュ障が出来上がっていたかもしれない。
ただ、〇大に受かった後、うつになり、頭の良さがかなり下がったので、結局「何もできないコミュ障」が完成してしまった。
20年をかけ、社会的なコミュニケーション能力を切り捨てて詰め込み教育をするとどうなるか??うつになり、頭も悪くなる。
「アルジャーノンに花束を」のチャーリィよろしく、どんどん阿呆になっていく様を記録して後世に残すことが私の役目なのかもしれない。
中断していたゼノブレイド2を再開するようになって
やはりBGMいいな…と車中でサントラを流しながら奥さんのお迎えに行った
奥さんが乗ってきた所で流れていたのがこの曲
Drifting Soul
少し聴いた奥さんが開口一番
「何なの、このエンディングで登場人物全員皆殺しになってる時に流れてそうな音楽はw」
とのたまった。
「いや、死んでるのは主人公のジャリボーイを助ける渋いおっさん一人だから…」
とフォローする僕。
「ふーん」
そんで次に流れた曲がこちら。
Counterattack
そしたら奥さんは
「何なの今度は一転攻勢みたいになったけど」
というので、
「まぁこれはおっさんが死んだ後に、ヒロインが駄目ぇー!イヤボーンして覚醒変身する時に流れる時の曲なわけよ」
と僕が返すと、
と一刀両断してくれるわけ。
ああ〜〜〜!!! 好き!
歪んだ発想かもしれないけどホント好き!
この女に惚れて本当に良かった。
イオンに行ってお買い物して帰りました。
昨日も私のレジにしか並ぼうとしないお客様が来店。その時も私はカフェマシン洗いに没頭していたのだが、日曜の夕方にも関わらず、急に混み始めたのでレジに戻ったその時に、私のレジにしか並ぼうとしないお客様が列の前から三番目くらいに並んでいてこっちを見ているのに気づいた。私はついうっかり素が出てしまい「またお前か!」という気持ちを眉間の皺で表現してしまった。そしたら私のレジにしか並ぼうとしないお客様はなんというか、友達にでもするようなアイコンタクトを返してきた。それで、私のレジにしか並ぼうとしないお客様は順番通りにAさんのレジの方に行った。それが夕方6時くらいのこと。
私のレジにしか並ぼうとしないお客様は夕方そんな感じで私のレジで会計できないと、必ず20時~21時の間に再来店する。その口実なのか何なのか、1度目の来店のときにタバコを買わずに帰って、二度目にタバコを買うのだ。
で、やっぱり昨日も私のレジにしか並ぼうとしないお客様は21時になる少し前に来店して私のレジで会計をしていった。しかもつれの人数が前回よりも増えている。前回の、年配の男性でどうやら私のレジにしか並ぼうとしないお客様が私のレジに並ぶ為に当店に来ていることをわかっていてわざわざ着いてきている人と、その人と同じくらいの年齢に見える女性だ。なんなんだろう、この三人組……家族?
三人組は外の、私のレジからよく見える位置でしばらく立ち話をしていった。煙草一本吸い終えるくらいの時間だろうか。実際、私のレジにしか並ぼうとしないお客様はこっちに背を向つつ喫煙していた。灰皿から距離あるんだけど、吸殻ちゃんと灰皿に捨ててったのかどうか。
私のレジにしか並ぼうとしないお客様が車を停める場所はいつも決まっていて、店の出入り口の一番近くで、私がいるレジがよく見える所なのだ。私のレジにしか並ぼうとしないお客様は店を出たあとも長時間車の中にいることが多い。昨日の二回目のときは、私のレジにしか並ぼうとしないお客様が来店する前から、その場所にピカピカの黄色い高そうな車が停まっていた。
三人組が帰って行ったあと、Aさんが
「予想通り、またヤツは来やがりましたね!」
と言った。毎度のことだがAさんは結構楽しんでいる……。Aさんが言うには、夕方の想定外のピーク時に私のレジにしか並ぼうとしないお客様は店内をうろうろ徘徊したあと、レジ待ちの行列に並んで斜めに顔を出し、前の客の人数を数えて、私のレジに並べそうにないと判断したのか列を外れ、またしばらくして並び直して同じことをして列を外れ、三度目にしてやっと、しぶしぶと言った感じですごい不機嫌ヅラでAさんのレジに来たし煙草も買っていかなかったという。そんなんだったので、Aさんは「ヤツはまた必ず来る!」と思っていたそうだ。並び直してるとか、私は全然気付かなかった。
私のレジにしか並ぼうとしないお客様のよくわからん所は、あからさまに私のレジに並ぶことに執着しているのに、第三者目線から見ても私のことを全く好きそうな感じではないというところだ、とAさんが言った。私から見てもほんとその通り。思いかえせば、あのお客様は前からたまに来る人だったが、頻繁に来店するようになったのは去年私が入店してからで、以来Aさんは殆んどあのお客様の会計をしていないという。来店の頻度に対して明らかに会計する回数が少ない、と。で、この間の金土と、Aさんは都合で珍しく二日連続でシフトに入っていたらしいのだが、その二日とも、私のレジにしか並ぼうとしないお客様は来店しなかったという。私のいる火木日曜にしか、あのお客様はやっぱり来ないのだ。
性別を問わず、お客様の中には店員の片方が男でもう片方が女だったらどっちか特定の性別を選びたがる人がいる。例のお客様も、もしかすると私に執着しているのではなく、女に接客されることに執着するタイプである可能性はある。今、当店の夕勤で女は私だけだし。
この春までいたベテランのパート女性と組んでいた時はどうだっただろうか? あの頃も私だけが執着されていただろうか? と、記憶を辿ったが、よくわからない。その頃は全然気にもとめていなかったからかもしれない。
前に勤めていた店ではどうだっただろう? あの頃は、私はほとんど七十歳近い女性バイトと組んでいた。思い返せば、二人で店番をしているわりには、あのお客様を見る機会がおおかったような気がする。当時も「この人よく来るな」とは思っていたけど、それはお客様が毎度来るとき同じ派手な色のTシャツを着ていて目立つからそう思ったのだ。でも、当時もあのお客様はわざと私のレジに並んでいたのだろうか?
まあ、うっすらと気持ち悪いものの、例えば「出待ち」みたいな明らかに一歩踏み込み過ぎなことをする訳でもないので、気を付けるったって何も対策は取れないのだが、前々から粘着されているのは確かなので、これ以上の何かをされたらオーナーに即相談ですな、とAさんと話した。
AさんにしろBさんにしろ、私が特定のお客様にどうやら粘着されているようだというボヤキを聞いて、即座に気のせいwwwと笑ってバッサリ一刀両断せずに、粘着現場を観察したり検証したりして事実であると確かめてくれて、実に親切というか……まともな対応をしてくれたのだが、こんな「まともな対応」を仕事でされたことって過去にないので驚いている。いや、これで驚く私のこれまでの人生がおかしいのかなあ。