はてなキーワード: ハワイとは
ハワイ住みだけど今夏なんだよね
バックパッカーを経て北米大学院に留学し、いまはとある地方の中堅私大で教員をしている者です。
千葉大の全員留学がずいぶんと批判されているが、大学生になるまで海外にでたことがない学生はけっこういる。パスポートをとったことがない学生も。そういう学生がパスポートを作り、イミグレを通って国際線の飛行機に乗り、外貨への両替をしたりするのは、社会に出る前に経験しておくべき大切なことではないかな。
千葉大の「留学」は二週間くらいの研修的なものも含まれるらしい。ウェブサイトによると、プログラムによっては留学プログラムそのものへの参加費は大学持ちで、渡航費等を学生が負担するものもあるそうだ。その程度なら、学生が親に頼らずに自分でアルバイトしても参加できるだろう。
企業も、パスポートをとったこともない、国際線の飛行機の乗り方も知らない社員より、知ってる社員の方が使いやすいのではと思うけど、どうなんだろう。
海外経験があると言っても、パパやママとハワイや台湾のような日本語が通じるところに言ったことがあるだけとかも結構多い。そういう学生には言葉が通じないところで現地の学生と共同でなにかさせるというは大事な経験になるだろう。海外が合わないなと思ったら、海外に出ることがなさそうな仕事に就くことを目指せばいいわけだし。
うちの大学の卒業生は全員、comfortable zoneを出る経験をしています、と大学が示すのはそんなに悪くないことのように思う。
例の育児ボーナスのやつ、自分がああいう家庭の子供だったからすごくしんどい。
その家庭ごとに幸せがあるし、私は切り取ったライン部分しか知らないから、
あのご夫婦が幸せならそれでいいと思うけど、同じくあのラインしか見ていない蚊帳の外の
人たちが絶賛してるのが意味分かんなかった。
普通に予定もあると思うんだけど、
明日から3日予定変わります!育児以外暇だよね!対応出来るでしょ!
っていうのが非常にしんどい。
事前に言って欲しいって言ってる人にサプライズ苦手ですか?
って聞いている人がいたけど、個人的に相手の都合を全く考えていないのは
私はそういう、自分(父)以外は全員暇で予定を合わせられると思っている家庭で
育って、サプライズ(というより突発的に自分がしたくなる)、自営業で
自由に休めるし結構稼いでいたから、規模もいちいちデカかった。
っていう感じで、私は旅行と重なる日に提出しないと、進級できないのに
(事前に提出が出来ないもの)葬式ということで事前に提出して、
それが出来ない。
学費を止められたら進級できても通えないし
了承するまで、ずっと怒鳴り散らされて、
話は戻るけど、今回のもそういう可能性は結構あると思うんだよね。
美容院?予約が一杯だし無理だよ~、
子供が幼稚園とかだったら役員会議とかも結構頻繁に開かれたりするし。
明日、明後日の予定も全て把握したうえでサプライズの可能性も十分ある。
それに、思い通りに行かなくてもそっか。で済む夫ならそれでいいと思う。
私の育った環境がくそ過ぎかつ、相手の出方を被害妄想かっていう方向で
想像してるから、あのご夫婦ではなくて自分のトラウマが勝手に蘇っただけだから、
そこはほんとに申し訳ない。
ツイートがバズったばかりなのに、「俺もさみしいし」の枕詞がついたら、
このくそ寒い中イチゴ狩りに行くのは可愛くてキュンとするっていう反応に
なるのが、最高に気持ち悪かった。
まずは味っていうよりも、香りだよね。
一般に美味いとされるコーヒーは、味がどうこういうより、何かを感じることもなくスッと入ってきて、でもいい匂いは感じるというか。缶コーヒーや安いコーヒーがダメだとされるのは、金属臭さとか悪い豆のエグさとか邪魔して、スッと入ってこないところなんだよね。スタバが良いとされるのはその逆で、特に何かが臭いの邪魔してくることが全くないよねあのコーヒーは。
それが前提にまずあって、その後に苦味とか酸味の強弱があるよね。
それらは別にめちゃ美味しいって感じじゃないんだけど、アクセントになって香りの印象を強めるとか、長いこと口の中に残って香りを継続させてくるとか、そういう効果をかもすんだよね。
でもここは好みがわかれるよね。苦味が嫌な人も酸味が嫌な人もいるし、あるいは砂糖やミルクを入れた時の口の中に残る甘味が嫌って人もいるし。
その好みをもっと極端にしたところで、コーヒーのコクってものが問題になってくる。ハワイコナとかが一番極端だけど、コーヒーが個性を主張しだして、いよいよ苦味とか酸味とかがメイン面してくるよね。これは既にコーヒーが好きな人が飲むものだと俺は思う。
【読んだもの】本を購入しようと思ったら、リアル書店やネット書店、最近では出版社による直販(弊社もやってます)などさまざまなあるかと思いますが、今回ご紹介したい『アーギュメンツ#3』という評論誌は「手売り」、つまり関係者による直接販売というきわめて珍しい流通チャンネルを選択した書籍です。売り方の時点でかなりチャレンジングな企画なのは明らかで、魅力的な論稿も多数収録されているのですが(レイ・ブラシエ(佐藤正尚訳)「脱水平化―フラット存在論に抗して」や、大前粟生さんの小説「断崖」もすごかった)、その中の波勢邦生さんの論考「トナリビトの怪」が本当に本当にすばらしかった。ので、今回はそれについて書きます。
当該論考のテーマをおおきくまとめると、理性的で自己判断できる存在としての近代的主体(いわゆる「強い主体」)の淵源にあるものとしてのキリスト教という一般的なイメージに対して、ハワイ・日本・沖縄におけるキリスト教受容史をふりかえることで別の可能性(本書でいう「隣人」)がたちあがる場としてダニエル書・イザヤ書を読みかえすという試みといえます。
いろいろ論じたい点はあるのですが、とくに筆が冴えるのは、小原猛『琉球奇譚 キリキザワイの怪』に紹介されている怪談「ジーマー」の話です。曰く、ある男性が「ジーマー」という老婆に「神様の用事の手伝い」を頼まれる。それは波上宮という砂浜で、彼女の三味線に合わせて民謡を歌うというもの。そこで事は起きる。
知ってる歌は歌い、知らない歌は手拍子をうつ。適当にこなすうちに背後の砂浜に人が集まりはじめるが、おしゃべりの中に英語やうめき声が聞こえるなど、奇妙な何かがそこにあった。徐々に不審なおもいにかられたその男性は後ろを振りかえる。「すると、そこには誰もいなかった」やがて夜も明けて、ジーマーの三味線も鳴り終わったあとに砂浜をみてみると、声が聞こえた場所には子どもをふくめた無数の足あとが残されていたという。こうした情景に、その男性は戦争(太平洋戦争のことか?)の傷跡を読みとり、波上宮の鳥居を抱きしめて泣く。「みんな死んでしまった。父親も、幼馴染の友達も、学校の恩師も、みんなみんな死んでしまった。自分は生き残ったが、果たしてこれは良いことだったのだろうか。自分のようなくだらない人間が生き残って、優しく勇気のあった友達や、才能のあった人々が死んでしまう。この差は何なのだろうか?」(30ページ)
この「ジーマー」は沖縄固有の物語ですが、波勢さんはここに「死者との交換可能性」という「怪談の本質」を見ます。生者と死者の想像力が同時に起動する場所、そこに怪談という物語は立ち上がる。そして同論考にとって重要なのは、この「怪談の想像力」はキリスト教のテクストにも見出されるという点です。
(「怪談として聖書を読む」というこの箇所は本稿でもっとも屈折し、そして読みでのある所なのですが、そこはあえて飛ばします。気になる方は「アーギュメンツ#3」をお買い求めください)
この怪談という想像力からみて、「西洋近代的自我による主体的区分による解釈は、恣意的でグロテスクな切断」(34ページ)となります。しかしバベルの塔の神話が示すように、神は常に「言語と文化を奪われたものの側に立ち上がる」。つまり強き主体の側にではない、という点が重要です。
「神は奪われ排除されたものの側に立ち上がる。歴史と非歴史の境界で『主体』と『弱い主体』を隔てる壁は消失し、ありうべからざるものが現れた。」「ぼくはそれを『隣人』という言葉に求めたい。なぜなら聖書において隣人とは、まさしく自他の交換可能性を示す言葉だからだ。」「隣人が現れるとき、『神を愛せ、己を愛するように隣人を愛せ』というイエスの声が、聞こえ始める。隣人は、神の赦しを伝達するぼくらの似姿であり、またぼくらの赦しを待つ異形のものでもあったのだ」(35ページ)
ここで提示された「隣人」は、大仰で圧倒するような<他者>、私たちの理解を拒む絶対的な<他者>ではないでしょう。どこにでもいるあなたであり、わたしであり、そして誰かです。これはブルーハーツの歌に出てくるような、といっていい。そう思います。(すこし恥ずかしいけれど、いや、しかしそう言ってしまっていい)
「隣人の思想」、波勢さんの論考が到達した地点をそう呼んでいいと思うのですが、ここで示された思想の内実とともに、この思想に至る論述があくまでもキリスト者としての波勢さんの信仰に貫徹されている。ここに本稿のもうひとつの傑出した点があります。
たとえば「昨年11月、九三歳で祖父が死んだ」ではじまる本稿は、「キリスト教信仰を告白せずに死んだ祖父が天国でないどこかへ行ったのではないかと不安になった」という文章が地の文で、鍵括弧抜きで出てきます。たぶん信仰をもたない人にとってこの一文は、理解の遠い、「向こう側の人」の言葉に聞こえるのではないでしょうか。(本稿の最後、註のラストの文章も「神に栄光、地に平和、隣人に愛と怪。感謝して記す」です)
「聖書を怪談として読む」という本稿の試みをもし信仰をもたない人がするならば、さじ加減をまちがえたとき即座に「他者の信仰否定」になるでしょう。でも、波勢さんはあくまでも信じることで聖典を読み替える(またはこれまで読まれなかったものを読み解く)という姿勢を貫く。そこにこのテクスト独特の緊張感と救いがあります。
イスラーム法学の中田考先生や、このたび『トマス・アクィナス』でサントリー学芸賞を受賞された山本芳久先生などもそうですが、これまで護教論や宗学として避けられがちだった信仰者自身による学問的考察のいくつかには、相対主義と決断主義のあいだでさまよう私たちの課題を乗り越える何かがあるように思います。私にとって本稿はまちがいなくその一つです。そう断言していいものがこの論稿にはあると考えます。
以上、編集Aは自社本を紹介していないどころか本すら紹介していないのではないか疑惑もあるのですが(広報誌とか、雑誌の特集号の論稿とか)、これにて「トナリビトの怪」の長文の感想を終わります。ご清聴ありがとうございました。
・川は公害で真緑色、海は赤潮で赤色。背骨がグネグネの魚が取れる
・発がん物質DDTを頭からぶっかけ。今は使えない危険な農薬も使いまくり
・中共の気違いがぼかすか原爆の空間実験をしていたから雨に濡れると頭が禿ると親に叱られた
・人さらいが横行してたから5時過ぎまで外で遊んでると「サーカスに売られてしまうから」という理由で親に殴られた
・どぶ川はメッキ工場の青酸廃液できれいなエメラルド色がデフォ
・ソーセージ工場からは肉の生残滓がものすごい蒸気とともに排出されて即腐敗
・ジュースの素はなぜか陽の光に当てると色が消えた
・川崎球場はガラスでできた1合瓶が後ろから飛んできて普通のサラリーマンが殺し合いのけんかをしていた
・おとなは戦争で人を殺した経験があるやつがうようよいたからけんかはいつも殺し合いのようだった
・下水がないので、バキュームカーというウンコ収集車が定期的に来る
・空き地が多く、危険な薬品や資材などが雨ざらしなってて子供がそこで面白がって遊んでた
・野犬がうろうろしていて襲い掛かってくる
俺が考えたわけじゃなくて
5chに書かれてたのを張り付けただけなんだが