はてなキーワード: スパイラルとは
俺もそんな感じだった。といっても増田のような色々な意味であからさまな家庭ではなく、父親は公務員、母は教員という家庭で中流家庭だったので増田のミニマム版のような環境だ。
母方は教員一家で結果としてうちの家は教育熱心な傾向にあった。ゲームは買ってもらえなかったがなぜかレゴは買ってもらっており、塾通いやお勉強用テキスト、体育会系思考に基づく体づくりのための食事には金をかけてもらえた。祖父や母は地方国立大を出ており地方にしては学歴は立派なものだったが、自分の幼少期当時にあった話(コーラを飲むと骨が溶ける、テレビやテレビゲームをしていると頭が悪くなる、詰め込み教育至上主義等)をうのみにした教育を施された。
父親は運動神経がいいほうだったようで教育当初は体育会系的なスポーツ教育方針だったようだが、教育が進められるにつれて母親の運動神経の悪さが似てしまったことが露呈すると勉強一本の方針に切り替えられた。勉強のほうもまず覚えろという教育で親のチェックの際に課題個所を覚えられていなかったら鉛筆やペンで腕を刺されまくった。
結果としては人の顔を伺うしか処世術を持たない、勉強もスポーツもろくにできない、自分で考えることが何もできない雑魚人間が出来上がった。
ここからは負のスパイラルだ。学校では世間話もろくにできないためコミュ力も上がらずメンタル面の成長は得られない。球技系クラブや部活に入った後もコミュ力がないため練習も上手くいかず一向に上達しなかった。
良かったことといえばこれらのおかげでどんなに嫌なことがあっても無心で継続するという局所的なメンタルだけは強くなったかもしれない。
両親の教育からは詰め込みの知識と負の経験しか得られなかったが、学校でいろいろな知人と関わりトライアンドエラーを重ねることで大学生~社会人同士のコミュニケーション上混じっても問題が少ない程度には成長することができた。同窓会には呼ばれない程度に中高の付き合いは壊滅的だったが、詰め込み教育の力でmarchに入学しそこで得られた知人のおかげでコミュニケーションの仕方を学び、現在は知り合い同士で飲み会をする際呼ばれる程度にはオフの付き合いができ社会人サークルにも加入している。
増田と自分の違いは家庭の重さと束縛が軽かったおかげかと思っている。
増田のほうがうちの何倍も裕福で増田自身自分よりも人間性能も上かと思われるが、家庭の方針に縛り付けられたせいでそれを発揮することができなかったように見える。
自分が身体的に大きくなったせいなのか、妹が自分よりも優秀な学校へ入学したからか、さじを投げたからかはわからないが、高校~大学と束縛が軽くなったタイミングで外の世界を知ることができ、人間社会に適応するための努力をするチャンスが生まれた。
繰り返すけど、あなたもまた、「正しい規範が描かれてるとでも思ってる」人は普通に存在すると想定したね。
イラストにはお墨付きがある訳だから、実際にそう捉える変な奴は存在してもおかしくない。
そう。
女性は女性であるというだけで、男と同じ仕事をしつつ、癒しを与える役割を持たされる。
これが男女差別でなかったらなんなんだ。
「女性かくあるべし」っていうイメージが漫画ドラマアニメ小説などなどに影響し、それをみた
変な奴らが現実の女性にフィードバックしてくる負のスパイラルがあるのさ。
今回のイラストだって、なぜ男性がクネクネで女性がキリリと立ってないんだ?
——…不自然に感じるんだったら、それが職場の男女の「かくあるべし」なんだよ。
旧態依然とした女性像に公式のお墨付きを与えて新しい起点になってほしくない、女性たちはそういう思いなのさ。
> 実際の職員にキャラの通りに振る舞えなんて要求してもいないのに
https://anond.hatelabo.jp/20240203183612
> 書いてないことを読み取ってかってに傷つく面倒くさいタイプ。
これは完全に逆で、かってに読み取って傷つけにくる面倒くさい人がいるのが問題。
ちょっとネガティブすぎるなーと思うけど、実態としてはそんな感じなのかな。
>リベラルの人たちは能登についてしばらくちょっと黙っててほしい
という話だけど、
ない想像力を働かせて考えてみる。
谷本県政時代から引き続く工業団地などの企業誘致、北陸新幹線。そして延伸へ向けた馳知事の尽力、などなど。
こうした地域の経済振興や観光アピールや公共事業、過疎対策をいろいろやってくれたからなのかな。県政評価は高いと思う。
県民しては、とりわけ28年も知事を務めた谷本には強くお世話になった感が強いのだろう。
でも谷本さん自身は当初、革新政党系の支持を受けて初当選したというのをさっき調べて知った。当時、森喜朗が推していた農林族の対抗馬を破った経緯もある。
2003年の能登空港の開港や小松空港の国際線就航などは、森喜朗が尽力したといわれているけれど、谷本とは不仲だったという。
2022年の谷本知事引退の際に、再び新たに農林族の山田が出馬することになり、保守分裂という事態に陥ったが、森喜朗は自分が育ててきた馳を推すことに決めた、という内容の記事もさかのぼってみた。そして行政側は第一次産業への理解が厚い山田を推す動きがあった一方、谷本は事実上、馳に自分の後継として信を託したという記事もみた。
そう考えると、保守王国石川県というけれども、一枚岩じゃなかったけれども鋭く対立もしていなかったというのも今後の復興を考えるうえでは、いろいろと興味深いと思った。
そんなところへ、ワイドショーやらSNSで、インテリ風吹かせた連中が、能登の限界集落は遅かれ早かれ滅びる運命だったのが早まっただけで
この際、復興過程では、そういうところを切り捨てて優先順位をつけるべきだ、とかいう雑な議論が耳に入ってくると、それは地域の人間としてはイラっとくるのかもしれない。
想像だけど。
余談ーー
また初動に関して、「馳知事はよくやっている」論も、わからなくもない。
馳氏は谷本県政時代に後回しにされていた地震被害想定など、災害リスク軽減のための取り組みを見直そうと着手していたことは事実で、
今回の震災に間に合わなかったいうのは事実だとしても、馳知事だけの責にするわけにはいかないだろうと思う。
あと、今回初動の遅れの原因のひとつとして、石川県や北陸地整が本来事前に取り組むべき道路啓開計画が未整備だったという指摘もある。
総務省は去年の段階でいくつかの地整や県に対して是正勧告を出していたから、いくら県政2年目の新人知事といっても知ってはいたと思う。
これって建設業者など指名業者と事前協定をし、迅速に予算を執行するうえで超重要なんだけど、結果としては後回しになってしまった。
ただ、去年から道路啓開計画に着手していたとしても間に合わなかった可能性が高い。
そういう意味では、馳知事はよくやっている、あんまり叩くな、という県民の気持ちはわかる。
一方で、発災直後の対応を外野があれこれ批判しているうちに、交通インフラの問題は解消しつつあり、あれよあれよという間に復興モードにスイッチが入っていく。
復興初期段階のスピード感というのはものすごく早いので、初動の問題点はいろいろあったにせよ、そんなことの検証にあまり時間を割いている余裕はなく
これからがれきの処理やら広域の自治体間協力も必要になってくるなど、馳知事には復興の手腕が問われることになる。
という感じであるので、震災後一ヵ月になろうとしているこのタイミングでは、
県民はもっとポジティブに前向きに物事をとらえたほうがいいんじゃないかと思う。
多分、震災3か月後には初動の失態なんて議論は過去のものになって、もうしていないと思う。
disられていじけて、保守がますます保守に、というルサンチマン丸出しのネガティブなスパイラルもわからなくもないけど、
だからと言って、何も知らない外野がわーわー騒ぐのは止めようもない。ましてやネット空間なんて。
しかし、外野の意見のなかには、今後国や行政がどう動こうとしているのかのヒントもあるのも確かなはず。
そこは地元の人間だけではルサンチマンを越えられないかもしれないけれど、災害復旧のプロセスで入ってくるさまざまな他者(民間の支援企業だったり、NPOだったり、コンサルだったり)との対話の機会が今後増えてくると思う。
よそからきた民間の経験などを踏まえて、外部の冷静な視点で意見を再整理してゆく、ということもまた大切と思う。
そして、実際、国や行政が復興モデルに着手し始めると、とりわ予算をつけることが前提となると、行政としては長々と議論してもらいたくないので、予算執行を急ぐのが世の中の常。
復興公営住宅にしても行政が「これならすぐに着工できますが」と提示されたものから復興が進んでいくなかで、ただでさえ経済的に苦境に陥っている被災者に、地域を出てゆくか、受け入れるかの二者択一で選べという形で行政主導が突き付けられる、というのが東日本の教訓としてある。
しかもスピード感のある復興とか国や県はかっこいいことを言い出すに決まっているので、恐らく震災半年後くらいには被災者は決断を迫られる。え?そんなこの状況でまだ決断できない、という被災者も多かろうに、行政は「受け入れるひと、この指とまれ」方式なので、行政の提案を受け入れた人だけが救済を得られ、地域を出て行った人はどうなったかは統計すらないというのが実態となる。
それこそ、発災直後はヒーローにみえていた馳知事が、復興期には被災者に苦渋の選択を急がせる役人顔をするかもしれない。
心理的メカニズムとして馳はヒーローだというマインドがどんどん強固なものになって、ますます保守保守していくなかで、次に復興の話がやってくる。
ルサンチマン的な心理的メカニズムから解脱して悟りを開いている人が何人か周りにいればいいんだと思う。
そういうことの萌芽を、今の時点で何も知らない外野がわーわー騒ぐ言葉の端々にちょろっと見出せることがあるかもしれない。
先日、被災地域ではようやくボランティア活動が本格的に開始されることになった、というニュースをみた。
外部の人間がこれからわんさか入ってくる。これまで入っていただいていた100くらいのNPO団体も含めて。
そのなかには、東日本含め、過去の復興の経験を持つ人も多くいるはずで、そういう方々と交流をする機会が増えるんじゃないかなと思う。
外部の人間は玉石混交で、なかには、インテリ風な意見を持つ人もいるかもしれない。
間垣の里なんてどうでもいいんだよ、堤防なんだよ生命の安全第一なんだよ、とかね、中にはいるかもしれない、例えばだけど。
そういうときに、その意見もちょっと違うよね、と言ってくれる人もまた外部の人だったりするので、不協和音のなかだからこそ貴重な意見も拾える。
そのときに、いちいちルサンチマンに陥っていると、聞く耳をもたなくなって、聞けるはずの意見にも耳を閉ざしてしまうことにもなりかねない。
とはいっても、これといってどうしようもないことかもしれないけれど。
増田を書くとき、大抵「なぜこの文章がこの世に存在する運びになったか」という言い訳から書き始める。
今回もやはり例に漏れない。アノニマスでのダイアリーでご丁寧に言い訳。難儀な性格だと我ながら思う。
うつとは付き合い始めてもう五年近くになるが、未だに自分のうつについては何も分からないままでいる。
私の場合は、気候に加えて何種類かの不安や悲しみが同時期に積み重なり、トリガーとなるパターンが多い。
不安や悲しみは自らの努力で解消可能なものから、不可能なものまでさまざまだ。
今回もそうだし、五年前もそうだった。
うつについては、それ以外理解できていることはない。ないのだが、最近うつに関して感じたことを書き留めておこうと思い、増田を書くことにした。
未来の自分の道標になるかもしれないし、ならないかもしれない。これは、私のための文章だ。
盛りに盛って自己肯定感は低下の一途を辿り、何を言っても、何を考えても面白みに欠ける。独創性もない。何か行動を起こそうにも、冷えて硬くなった脳が軽やかな動きを阻害する。
そうして、「自分はつまらない人間である」という意識から自己肯定感が更に低下する。典型的なうつによる負のスパイラルに陥っている。
おまけに寒い。毎日毎日、体の芯から凍りつくような寒さに文字通り震えている。都心で大雪など降るなアホたれ。
うつ症状が軽い時期は、アイデアがするすると湧き出てくるものだ。
例えるなら柔軟性のある、水をたっぷり含んだスポンジに近い。脳に少しの力を加えてやれば、まとまりのある言葉が簡単にアウトプットされる。情報もサッと染み込み、インプットも楽勝だ。
出てきた言葉やアイデアには、自信が持てる。整然とした美しさや、鮮やかさに自信が持てる。
力が要らず、アウトプットに不満もない。健康的な思考の活動だ。
対して、うつ症状が重い時期の脳は、「凝り固まっている」という表現が適切に思える。
アイデアや言葉は頭の中に堆積しているが、脳がガチガチに硬い。硬い脳を叩こうが押そうが、うんともすんとも言わない。
目から入ってくる絵や文字の情報もろくに整理できず、ドロドロとしていて頭の芯まで染み込まない。
うんと力を込めて、ようやく絞り出された雀の涙ほどのアウトプットは、濁っていて美しくない。
強い力を要し、アウトプットに全く満足できない。これ程不健康で悲しいことはない。
だが、私はこうして文字を書けている。
そして重要なのは、今書いている文章に別段美しさも、鮮やかさも感じないのだが、なぜか心が安らいでいる。
この現象に気がついたのは、ここ数日のことだ。
冒頭からつらつらと書き続けて分かったが、やはり私は難儀な性格だ。
匿名で書く日記ですら書く言い訳が必要だと思っているし、「面白みに欠ける」ことが嫌いだ。たぶん発言に「独創性」も欲しいのだろう。
なぜこのような性格なのか。おそらくそれは私の言葉やアイデアが、基本的に「自分とセットで社会から評価されるもの」という前提にあるからだろう。
仕事でも、趣味で文章を書くときでも、限られた友人同士でしかやり取りしないSNSでも、「自分と、自分の発言がどう見られているか」で常に頭がいっぱいだ。そういうシーンでは自分と、自分が発信する表現は地続きのものなのだ。
別に私が面白くなくても、独創性がなくても、美しくなくても、実は誰も怒ったり責めたりはしないのだが……そのような自分の醜態を、おそらく私自身が一番許していないのだろう。
だからこそ、この苦しみはなかなか解けにくいのだ。
だが、気がついた。
「自分とセットで社会から評価されるもの」ではない文章は、脳からアウトプットするのがあまり苦ではない。例えば、この増田のような文章だ。
匿名で宙に放り投げる文章は、社会で活動している自分からはぷっつりと切り離された存在だ。しがらみや他人の目に囚われない文章をアウトプットする行為は自由で、とても快適だ。
私の場合は、おそらくこの思考の活動がリハビリになるのではないか、と感じている。
この活動を起点として、自分が「面白みに欠ける」ことや、自分のアウトプットに「独創性」がないことを許す。
自分の発言やアイデアは、本来もっと自由で快適だったことを、体と頭に思い出させる。そうすれば、次第に脳は元の柔軟なスポンジに戻るだろう。
希望的観測を含むうつ真っ盛りの時期の所感だ。少し楽観的すぎたか。
しかし、言葉が自由で快適なことを思い出すリハビリなのだから、能天気なくらいでちょうどいいはずだ。楽観的に表現できる、ということが重要にも思える。
https://togetter.com/li/2293203
この方はn=1としてC99の体験の話をしているけれど、C99に限らず直近のC103(冬コミ)まで参加して相性悪いよなあ、と思ったので書こうと思います。
C99に矮小化してしまってるので、「あの回は特別で他のジャンルも似た感じだった」というコメントが散見され、自分もそこを加味してしまうとよくないなあ、と思ったのと、
書いているのはC100まで女性向けサークルでサークル参加(と日によっては一般参加)、以後は一般参加のみの人です。
また便宜上女性向け・男性向けという呼び方を使い、比較として現在女性向けの主流である赤ブーブー主催イベントの内容を書いています。
あくまで個人の見解であり、これもまたn=1の話というのは念頭に置いておいてください。
まず筆頭として「午後チケット」というものが女性向けと相性が悪すぎます。
公式によると午後チケットの人は12時30分から入場とありますが、C103は午前チケットで11時頃着の12時頃会場入りできたので、実際はもう少し後だったのではないか、と思います。
Togetterのコメントなどにもありますが、女性向けサークルは撤収が早い傾向にあります。
これは
という理由がよく挙げられますが(最後は男性向けもそうじゃないかと思いますが)
・搬出で並ぶのが大変
というのもあります。
マンレポでも「箱を持って並んでいたが台車に乗せてもらえて助かった」というのは鉄板の投稿内容です。
https://www.comiket.co.jp/info-a/MR/mr.html
箱1個でも本(紙)がみっちり詰まっていると重たく、腕力のない女性は搬出大変です。それを抱えてずっと並ぶのは結構きつい。
コミケの搬出は並びます。この辺りも過去のマンレポを参照してもらえると明白なんですが、閉会間際に出そうと思うと1時間は見込まないといけなかったです。
なので、早めに撤収し、列が出来る前に搬出してしまいたい、というのがあります。
昔はウエストウイングもHakoBookもなく、翌週にある赤ブーブーのイベントの搬入がクロネコヤマトのみというものあり、長蛇となっていました。しんどかった。
赤ブーブーは現在セルフ出荷といって予め専用伝票を受け取り、それを貼った箱を搬出場に持っていって渡して完了というシステムがあります。すごく楽です。
長くなりましたが、「女性向けの場合は撤収が早い為、一般参加者の中で午後チケットという選択肢は除外されてしまう」という話でした。
それはそうだろう、と言われそうですが、赤ブーブーのイベントは現在でも10時開始で遅くとも12時には一般待機列はなくなります。
規模が小さいイベントだったけれども、一番早かった時は10時30分に一般待機列が解消していた記憶があります。
コミケも以前は12時~13時頃にはフリー入場になっていたと思いますが、現在は上記の通り午前チケット・午後チケット別で並ばなければいけません。
並んでも買いたい本があれば別ですが、女性向けサークル数も減ってる現在ではちょっと遊びに行く程度では参加がしにくくなっています。
それならば通販を使って並ばず確実に手に入れたい、となってしまうのも道理です。
また、コミケの一般参加者は男性の方が比率が高いです。少し古い情報ですが、下記の資料が公開されています。
https://www.comiket.co.jp/info-a/C81/C81Ctlg35AnqReprot.pdf
女性向けが減った今では更に男性の比率が増えているのではないかと推測出来ますが、それは一度おいておきます。
もうこれはどうしようもないですが、それが参加者がほぼ女性の赤ブーブーのイベントと比べて忌避される理由になります。
個々の体格差の問題ではなく、女性が1000人より男性が1000人の方が質量が大きいです。またパワーもあります。
一般入場列が来ると机が揺れます。揺れるだけならいいですが、ずれます。机上の本が落ちます。押さえていても負けます。
「走らないでください」と言われてもお目当てを目指して早歩きになるし、あちこちに方向転換することによってえらいことになります。
また、一般参加で動くにも男波に揉まれると移動が大変です。容易に埋もれます。あとリュックが顔に当たります。
それと抽選というのもコミケを避ける要因になっていると思います。
ただでさえお盆・年末なのでスケジュールのやり繰りが必要になるのに、当落が出るのは1~2ヶ月前です。
C103ですと12月30日31日の開催で11月10日に当落が出るスケジュールでした。
シフト制の職の人はもうシフトの締切後かもしれないですし、遠方の場合は繁忙期なので新幹線や飛行機、ホテルを早く手配しなければなりません。
また、予約を万全にしておいても落選していたらキャンセルをして行かないということも充分あり得ます。
一方赤ブーブーは基本先着順で、満了近くなるとSNSやサイトで告知もあります。申し込めば不備などを除きスペースは用意されます。
つまり申し込んだ時点から参加に向けてのスケジュールなどのやり繰りが出来るのです。
スケジュールといえば盆・年末という日程がそもそも無理という人もいます。ジェンダーバイアスになりますが嫁仕事というやつです。
逆に「コミケは申し込みから日が長いからジャンルスパンが短い女性向けにあっていない」ということについては懐疑的です。
例えば2024年6月に開催される赤ブーブーのイベントがもうすぐ満了と告知されています。
こちらは募集スペースが倍になってからの早期満了であり、特定のCP(ジャンル)のみのイベントです。
https://twitter.com/AKABOO_OFFICIAL/status/1739187539360260448
https://twitter.com/AKABOO_OFFICIAL/status/1744545230106599600
ジャンルスパンについても昔は男性向けの方が短いと言われていた(「クール毎に嫁が変わる」など)ので、差はないと考えています。
つらつら長くなりましたが、元々C99以前から女性向け参加者が減っていたところ、更に追い打ちとしてチケット制で更に減ったというのが個人的な意見です。
減ったのはサークル参加者が先か、一般参加者が先か、については不明ですが、因果がスパイラルになって減っていっていることは確かだと思います。
ではコミケはこのままでいいのか、ということについては個人的にはこのままでいいと思っていますし、今更女性向け参加者を増やすことは難しいでしょう。
確かにコミケと赤ブーブーのイベントでは空気感も違いますし、評論系の同人誌などは後者ではあまりありません。
しかし、コミケは規模が大きくメディア露出などもしていますが、いってしまえば同人即売会の一つです。
先述の評論系ならば「文学フリマ」「おもしろ同人誌バザール」「コミティア」、さらに特定ジャンルに絞れば「技術書同人誌博覧会」「めしけっと」などのイベントもあります。
なんでも一強の時代というのは長く続きません。色々な同人即売会が存在し、それぞれが盛り上がっていた方がいいのでは、と個人的には思います。
労働で搾取されて、男だからって冷遇されて、老後は貧困で飢え死ぬんだよ
だから俺は子供なんて絶対つくらねえし、当然結婚なんかもしねえ
「お前が少子高齢化の原因」だって?それで結構だわ、わざわざ子供作って衰退地獄の責任転嫁したくねえからよ
俺たちに残された道は刹那的に生きて40~50代でキッパリ自殺すること、俺は覚悟してるよ
そうしないと負のスパイラルは止まんねえからな、どこかの世代で高齢化衰退地獄の流れを断ち切らなきゃいけないからな
今のくそ老人共は負のスパイラルの責任を下に押し付けてるだけなんだよ、根性根性言うけど一番根性ねえのはおめえらだからな?老害
はやく腹切って死んでくれ、まあおめえらがやらなくても俺たちがやるわ
その代わり一生俺たちに偉そうな顔すんな老害ども
社会人になって数年、仕事が忙しくなり、職場で理不尽な事が増え、それが精神的な余裕の無さに繋がって彼に距離を置かれ、それがさらに心の余裕を…というスパイラルの果てに破局。
異性と肌を合わせる事が数少ない癒しの手段だった自分にとって、パートナー不在状態は、ゲームで言う所の体力が少しずつ減っていく状態も同然だった。もちろん他のストレス解消法も色々と試してみたものの、セックスと同等の効果を感じられるものには結局巡り会えず、週末は一人でひたすら呑んでタクシーで深夜帰宅してばかりだった。
そんなある週末の深夜、自分でもよく覚えてないが運転手に実家の住所を告げていたらしく、気が付くとx万円のタクシー代を立て替えてくれた兄に抱きかかえられて部屋に運ばれていた。それが拙かった。季節は残暑も厳しい頃。Tシャツにハーフパンツ姿の兄に「おんぶ」された時、その密着感と体温から猛烈、いや激烈な感覚が体を駆け巡った。「これだあああ!!!!」と。「ここにいるじゃん!!!!」と。
で、その夜のうちに兄と関係を持った。
「こうでもしないと自分はダメになってしまう」「私のためだと思って」「誰にもしゃべらなければいい。死ぬまで秘密にするから」「一回だけでいいから」「入れなくていい。ただ抱き合うだけでいいから」と、泣きじゃくる私に兄が折れる頃には夜が明けていた。人倫に反する事だという自覚は微塵も無かった。シャワーも「カラスの行水」同然に済ませ、兄のTシャツとトランクスをはぎ取り、ひたすら兄との密着感を貪った。
入れなくていいという言葉で無理矢理妥協させた兄ではあったが、そんな約束最初から守る気など自分には全くなかった。兄は割と本気で抵抗したが、半分本気半分演技の涙でねじ伏せた。
数ヶ月ぶりのセックスはただただ気持ちよかった。勿論自慰はやってたけど、物の数に入らない位によかった。「脳味噌が痺れる」というのはまさにこれの事かと。途中で何回ヨダレを兄のTシャツでぬぐった事か。
事後、兄は私の頭を撫でていた。どんな顔をしていたかは、何となく見れなかった。
ちなみに実家で兄と同居している両親(というか、兄「が」両親と同居しているのだが)は一階の寝室で寝入っており、二階の兄の部屋とは比較的離れていたので気づかれずに済んだ。
私は同じ二階の元の自分の部屋へ行き、押し入れに仕舞われた布団を引っ張り出して裸のままひっくり返った。しばらくして、兄が私の服とバッグを持ってきてくれた。
両親には、「仕事が行き詰まって精神的にきつくなってホームシックになった」と説明した。実際そうだったし、ひたすら仕事の愚痴をこぼし続けたので、両親も疑わなかった。父は一人娘の突然の帰郷に気をよくして「今日も泊まっていけ」と言ってくれた。二日目の夜は、兄は早々に寝てしまっていた。それが兄なりの拒絶の意志表示なのだと私は察した。
日曜の夕方、兄が車で最寄りの駅まで送ってくれた。道中、私たちは一言も喋らなかった。駅に着いて、「まあ、無理すんなよ」と兄が言うと、私は「ごめん、ありがと」と言い残して帰路に就いた。少なくともこのときまでは、自分はこの一度きりで終わらせるつもりではいた。
兄とのセックスの効果は絶大だった。自分のミスは激減し、相手のミスを許す余裕も生まれた。何より、兄との行為を反芻しながら自宅でする自慰が、その効果をより長く持たせてくれた。夜もぐっすり眠れるようになり、肌の荒れも目に見えて解消していった。
が、それが永久に続くわけでもなく、2ヶ月も経つ頃にはその効果は薄れつつあった。これは拙い。また「補給」しないと。そう思った時には既に携帯で兄に電話していた。
そして、何だかんだでなし崩し的に、兄と一ヶ月に一、二度セックスするようになった。両親にばれるわけにもいかず、また私のアパートの住民達にも、兄を彼氏だと認識されたりしたら万が一の場合も考えられるので、ムラッと来た時はアパートと実家の中間の駅に兄を呼び出し最寄りのホテルに直行、そして数時間後に別れる、という流れだった。勿論ホテル代その他諸々の費用は全部私持ちで(兄は自分が出すと言っていたが私が拒んだ)。
今冷静に振り返ってみても、相当に人の道を踏み外してるなとしみじみ思う。あの頃は自分が気持ちよくなる事しか考えてなかった。兄に対しても、あれでも一応男なんだから別に損はしてないはずだと自分勝手に思い込んでいた。セックス自体も完全に受け身で、兄に何かをしてあげようという発想すら無かった。
けれど旦那(になる人)とつきあい始めて、本気で結婚を考え始めた頃になって、「ああ、私はこの人に絶対に言えない秘密を抱えて一生過ごすのか」とか「私をこんなに信頼してくれているこの人を、自分は一生だまし続けて生きていかなければならないのか」という事に気づいてしまい、また兄にも同じ業を背負わせてしまった事を深く後悔し、何となくそれ以後自分で兄を遠ざけてしまった。自分の結婚式でも目を合わせずじまい。実の兄の体を求める度胸はあったくせに、謝罪する勇気は私にはなかった。今思えば最低な卑怯者だな。
そうやって実家自体とも疎遠になった頃、兄から結婚式の招待状が届いた。届いたその日の夜、兄の携帯から電話が鳴った。思わず電話に出た。兄は陽気な声で「お、元気?」と。私はその場で泣き出し、何度も謝った。兄は「お前も旦那とうまくやれてるみたいだし、俺もようやく人並みに落ち着けるし、お前が苦しむ事はもう何も無いだろ」と言ってくれた。
別に落ちも何も無い。兄との関係は今も旦那には黙ったままだし、兄との肉体関係もそれ以後全く無い。ただ、あのとき兄が自分を受け入れてくれたからこそ、今の自分があるんだろう。匿名で吐き出せる程度にはなれたのでここに書く。
ブツブツ文句を言われるかもしれないが、それだけの価値がある。
人間、その組織の中で役割を持たずに安心していられるほど強くはない。
もちろん中には、そういうこと気にしないメンタル強めの人もいる。もしお前さんの相手がそういう人なら、それはそれでいい。
でも、大半の人は不安でおかしくなってしまうので、その前に何かしらやらせてあげた方がいい。
えてして、仕事を押し付けられて文句を言う人ほど、不安耐性が低い。「自分は家事を押し付けられている」という人は、「家事を押し付けられている自分」というものを表明したい人なのであって、決してその状況を改善して欲しいわけではないから気をつけろ。
だから、「なんか文句言われて鬱陶しいから、家事はこちらでやった方がいいんだろうな」という気を起こすと崩壊のスパイラルに入る。そこはグッと堪えるんだ。
ようやく安倍が政権中枢腐敗の権化であったと社会でも共通認識が深まってきたように思う。安倍語録を振り返って、あれは一体何だったのか分析したい。というか腑に落ちた。
「台湾有事は沖縄有事」。急激に脅威と化す中国を敵国認定し、日本人に徹底的に恐怖を煽り軍事強化の言質となったわけだが、円安誘導の日本の安売りと貧困化を成し遂げた起爆剤だった。貧困化と政権腐敗という二段構えが揃ったので日本戦地化はほぼ避けられなくなったわけだが、この日本史に残る転換点を招いた大戦犯は他ならぬ安倍だったというわけだ。ウクライナとガザの戦争でむしろブリクス陣営が息を吹き返したと見て次は中国だと思えば、もはや変えの効かない半導体技術を持つ台湾ではなく、貧困化であえいでる日本のほうが戦地化させやすい。負のスパイラルに陥っているので今後日本はさらなる貧困化と政権中枢腐敗、政治不信は加速されるだろう。しっかり教育と学問、科学も弱体化させているし。
安倍にとっては憲法改正なんて興味の外。防衛費増々にさせた上でのキックバックと機密費で自身とお仲間の懐を肥やしたいだけだったわけだが、ご本人のあまりにつまらぬ小悪人のような思惑は大きく飛び越えて日本という国は今後の存続をかけた岐路に立たされている。ただ余りにお痛が過ぎて山上烈士に処分されたんだがこれが間に合ったのかどうか。今後を見守りたい。このシナリオでいけば山上氏は益々日本の生けた英霊のごとし祭り上げられてしまうのだが、さすがの彼もここまでとは思っていなかったろう。
安倍という名のモンスター誕生は日本の憲政史にも名を刻むほどの転換点だったと後の歴史の教科書には記されることになるのだが、彼自身は全く能力も実績もなく頭脳も明晰ではなかった。国会の場では国民の代表たる議員の質疑を尽く全く無視し、無関係な音声を垂れ流しただけだった。その事実はもうネットでも散々根拠とともに示されている。さらに倫理観を持たず国民の血税で肥やしにすることを厭わず、国会無視という脱法的方法でも抑えきれないと見るに、検事総長人事に手をかけようと試みた。もう一人の日本を窮地から救った英雄は、黒川と賭け麻雀を嗜んだ朝日や産経の記者たちになるかもしれない。
つまり、いずれにせよ安倍自身の崩壊を招いたのは自分自身が生み出したモンスター(自ら手製の散弾銃を製造し強硬に及んだ山上、検事総長人事という重要な局面の直前まで病的に賭け麻雀を続けた黒川、昭恵夫人、などなど)に他ならず、安倍という存在は自ら国とともに自己を崩壊させるメカニズムそのものだったのだろう。世界史では政権腐敗が国を傾ける要因になると座学で学ぶわけだが、こうして実践として演習として学ぶことが出来た。安倍さん、ありがとう。
30歳前後の頃、俺はまだ自分のやりたいこと自分の納得できることをやりたいという話をしたら、足るを知れだの大人になれだの青い鳥だの散々揶揄された。
無視してやり続けてアラフォーになる頃には自分でも納得できる仕事をできるようになってきて、評価や収入も伴うようになり、学生の頃には想像もしていなかった方向の好奇心や知識が蓄積して、これからもっとやれることが沢山あるなと感じるようになっている。
元増田みたいな感じでなんか勝手に絶望して自分の可能性をどんどん閉じていくタイプの人たちって、俺を叩いていた人たちのように、20代とか若い頃から既にそういうマインドなんじゃないかと思うんだよな。
自分の心を守るためなのか知らんがそういう連中がネットとかで「足るを知れ」と連呼して、それを真に受ける若者をさらに増やすという負のスパイラル。
https://blog.tinect.jp/?p=80847
この作品集の登場人物たちには「東京をやっていこうとしている」という言葉がよく似合う。彼らには「東京」への過剰適応、いや、「東京」への依存というべき性質がみてとれる。それで自分自身を救おうと頑張っているのに、実際には足元をすくわれている。
https://p-shirokuma.hatenadiary.com/entry/20230307/1678181885
そうしたわけで『この部屋から東京タワーは永遠に見えない』には、自分の物語を生きている主人公がいないようにもみえる。主人公たちは、他人のことをよく見ていて、他人を見上げたり見下したりしている。自分自身のことも冷ややかに見ている……ようにみえるが、実際のところ、この登場人物たちは自分自身が本当に欲しいものがなんなのか、目星がつけられていないようにもみえる。「東京」をやっていく能力や背景が足りなかったのが表向きの躓きにみえて、実のところ、自分の物語、自分の執着についてこの人たちは把握できていないのではないだろうか。その結果として、東京という物語に人生を乗っ取られたマリオネットのように欲しがり、行動してしまう。
https://amamako.hateblo.jp/entry/2022/01/28/195109
そしてそうであるがゆえに、「正しさ」を求めてフォロワー数という神を信じる行為が、むしろその神に振り回され、「自分がどうあればいいのかわからない」という不安を生み出し、そしてその不安を解消するためにさらにフォロワー数という神にすがるという、負のスパイラルが生まれるのです。つまり、構造的に「フォロワー数」というバイオモドキ神は、その神にすがる限り、メンタルを悪化させ、「メンヘラ化」を促進してしまうわけです。
https://note.com/sizes/n/n3a481a971253
我々が求めていたものは一体なんだったのか?と考える。作業窓だったはずのDiscordで陰口を叩き合うこと?「#絵師進化録2022」をミュートワードに設定しながらいそいそとクロッキーを始めること?切磋琢磨していたはずの相互の絵描きが抜け駆けして、いつの間にかリムーブされること?とてもそんなふうには思えない。人生は有限で、他者に捧げれば縮減する。どれだけの人間が、あなたの人生を略奪していったのか?
東京、配信者、絵描き、題材は違うが、似たものを論じている記事を読んだ。
何かしらの成功に憧れた結果、心身をすり減らしてしまう。そんな人たちに向けた警句でもあり、救いの手でもあるのだろう。
自分も、ツイッターでそういった人をしばしば見るし、(紹介した記事ほど上手く言語化はできないけど)似たようなことを考える。それで、老婆心からつい声をかけたいなあと思う。基本ROM専で特に接点もないからしないけど。
https://p-shirokuma.hatenadiary.com/entry/20190222/1550830348
それでも、人間の行動・発達・人生には多かれ少なかれの寄り道があってもおかしくないはずですし、症例として事例化すべき人と、症例未満のものとして目をつむるべき人の境目はつねに曖昧であるはずではないか、と私は考えています。
ただ、上の記事が言うように、多くの人間はある程度そういう所があるんだとも思う。
例えば、昔は陽キャ&リア充って感じのサッカー少年、そして今は自立した立派なサラリーマンをやっている順風満帆そうな人を想像してみてほしい。
そんな彼だって、東京でSAPIXがどうとか言って受験戦争をする者の如く強いサッカークラブに憧れたり、フォロワー数を伸ばすために色んなことをする超てんちゃんの如く練習法を変えたり、さいとうなおきやディープブリザードの言葉を聞く絵描きの如く有名選手のインタビューを見たりしていたのかもしれない。また、社会人になっても、周りの社員にサッカー少年時代のようなコンプレックスを感じるときはあるかもしれない。
https://p-shirokuma.hatenadiary.com/entry/20190217/1550390275
その一方で、実際にバカッター案件となるような炎上を起こしている学生は非常に少ない。たとえ年間10人やそこらの若者がバカッター案件をやらかしたとしても、それは1000万人のなかの10人程度のことである。交通事故のリスクに比べると、バカッター当事者になるリスクはずっと低い。
多分、僕たちが思ってるよりインターネットで身を崩す人はずっと少なくて、みんな適量用法を守って嫉妬や渇望に付き合っていると思う。
でも、そうじゃない人のためにこういう記事があるべきとも思う。
写真を撮る人を撮る人を撮る人。
視界を写真に撮って切り取る人がいる。なるほど新しい。
写真を撮る人もまたレンズを向けられる対象の例外ではなく、写真を撮る人を更に撮る人もいる。なるほど新しい。
そうしてメタを取ったようでいて、更にその人もまた同じ状況に晒されている。なるほど新しい。
展開があるのってせいぜいここまでで、それ以降は3人目と同じだと思う。
撮る人を撮る人を撮る人を撮る人も、撮る人を撮る人を撮る人を撮る人を撮る人も大して違わない。
これはニュアンスの色をぼんやり表す程度の例え話なんだけど、いわゆるお笑いの天丼は原則数回までみたいなのってそういう事なのかなって思った。
あと最近冷笑って言葉が流行ってて、冷笑する人を冷笑する人を冷笑……みたいな無限のスパイラルが発生するって言われてる。けど無限というのとはなんとなくちょっと違うような気がする。展開が止まってるから。
今日はエネルギー、角運動量...等々のオブザーバブルの例とシュレーディンガー方程式の関係を学びました。
ところで、Twitterである操作を行うことにより、数学に関連するおすすめが多く表示されるようになりました。
そうして、とある数学者の動画が表示されたので、じっくりと視聴しました。
数学が情報として表示されると、こう言われているような気分になります「政治のことは忘れなさい。数学の問題を解いていれば趣味にもなるし、平和だ」
世の中には様々な政治的問題があります。日本国内のインフレスパイラル、地球温暖化とカーボンプライシング、ウクライナ情勢、石油価格の問題などです。
数学の問題とは違い、これらは価値判断の問題です。排出権取引に賛成する人は将来世代にも考慮して温暖化を解決しようと言いますが、反対する人は短期的に「自分が生きている間」の利益だけを考えます。
あるいはインフレの問題は、インフレを抑えようという実質値を考慮する人は賃上げに反対しますが、名目値だけを見る人は賃上げを要求するのです。
価値判断の問題は、声の大きさで勝負が決まってしまう部分があります。フォロワーだけは沢山いる自称データサイエンティストが「コイツは意識他界系だ」などと言うと、そのレッテル貼りに同調する人が出てくるわけです。
そのような政治の話には、もしかしたら関わらないほうが良いのかもしれません。政治の話を中心的に行う人をミュートし、数学に引きこもりたい気分です。
しかし、寛容さが必要だと思うこともあります。数学の話をする人の中にも、肩書や知識の量でマウントを取るどうしようもない人がいます。こういう人を「見ないようにする」よりは、自分が寛容になるほうが手っ取り早いと思うのです。
つい最近、ある政治活動家が、「各々のミツバチは、ニューロンとして見るのが良い」と言っていました。
人間社会もそういうものかもしれません。誰かがイシューを発見したり、意見したりすれば、それはニューロンのように伝達され、物事が部分的にわかってきます。
そしてその情報は保存されます。一歩々々、何か知識の塊が進化を遂げているのかもしれません。
それとも、それは退化でしょうか。ある話題で社会が二極化した場合、どちらかが間違っているのではなく、異なる前提を持つ人が価値判断で争っているのかもしれません。