はてなキーワード: 看板とは
俺を某所に派遣してる派遣屋の担当者が「次の更新を辞退して貰えないか」と言ってきた
・俺の現場は慢性的な人手不足状態なので派遣先は増員したいと考えてる
・直接の原因は給与待遇が低すぎる(競合他社より2~3割くらい安い)
・待遇を上げられない原因は俺らしい
・新規募集である以上は俺の給料をベースにせざるを得ないが、俺自身はリーマンショック後に契約したため、給料は今の相場よりかなり安い(その代わり残業一切なしで休日も多めで副業も公認)
・俺が消えれば俺のいるプロジェクト自体を改廃して完全新規プロジェクトで募集し直せる(業務そのままで看板だけすげ替えて相場なりの給料で改めて募集できる)
「雇ってるのは向こうなんだから、俺が邪魔なら向こうから契約更新切ればいいだけじゃないですかね?」
「君の今いるところは人手不足が既に広く知られているので、そんな状況で君を切るとなると責任者が然るべき場で相応の説明が求められるんだよ」
「私もそこは強く働きかけたが『それだけは絶対に無い』と念押しされてしまった」
という事なんだそうな
真面目な話、議論が見える形で蓄積されまくった結果反差別掲げるならルッキズムとも一定の距離置かないとフェイク野郎感出てくるフェーズが目前まで来ているので、
耐えられなくなって看板降ろす人たちが続出すると俺は見ている
隊長のふとした一言と某隊員の熱望により、ついに実現したツアーといえば、「第一回東京ブラックツアー」で決まりである。東京のディープスポットを探訪していくという、とてもわかりやすいコンセプトが唯一の自慢である。今回は初回であるし、ディープな場所から抜け出せなくなることを避けるため、ツアーは昼間に行われることに決まっていた。それなのにそれなのに、予想通りというべきかいつもどおりというべきか、隊員の集まりは悪い。全然時間どおりに集まらない隊員、この先の我々の運命を暗示するかのような曇天、どんどんと下がるテンション、等々の様々な悪条件の中、我々は出発した。その出がけ、玄関で見知った顔を見つける我々3人。当然のごとく強制参加させ、隊員の数は4人に急増した。4人といえばSPEEDと同じ人数だ、これでもう心細くないね!
曇天の上野公園、しのばず池にいる鳩や鴨達も心なしかブラックに見える気がしてならない。今にもあの平和の使者である鳩が俺達を襲うのでは?、と意味不明の疑心暗鬼が次々とわき上がってくるほどに気分はダークである。目的地へ近づくにつれ、隊員の緊張は見てとれるほどになり、武者震いなのだろうかしきりと震えだす隊員もでる始末。そう、例の場所に向かう我々の姿を客観的に見れば、怪しい4人組=おやじSPEED(暗黒)といっても過言ではなかっただろう。目指す場所は上野某所の映画館である。「ほら、あそこだよ」という隊長の言葉に、なんともいえない緊張のさざ波が隊員達を駆け抜けた。その場所は、少し歩けば大通りに出てしまうくらい人通りは激しい所だった。
その映画館はそこにあった。紛れもなく、そこに。映画館は2階らしい。あせるな、と思いつつ上映時間を確認する我々隊員。まだ上映開始まで時間があるようだ。合議の結果、若者が集うゲームセンターで時間をつぶすことになった。しかし、どの隊員も緊張のせいかゲームには手を出さない。いや出せなかったのだ。あと数分後に行かなければならないあの場所のことを思うと。上映時間が近づき、なにはなくともとりあえずトイレを希望する隊員が続出する。しかし、京成線の駅のトイレには紙がなかった。とても嫌な予感がする。嫌な予感がビンビンするよ!
トイレの事は諦めて、我々はその映画館へ向かった。ちなみに映画は2本立てである。これから約2時間の長丁場である。しかし、隊員1号はそのことを知らなかった。このことがあの悲劇の序章だったとは、全隊員露ほども思っていなかっただろう。年季の入った階段を縦列に並んで登る途中にも、映画を見終わった人達だろうか、次々と人が階段をおりてくる。もう誰も信じられない、あの人もこの人もそういうのなのだ、そうなんだあの中ではすざましい饗宴が繰り広げられているんだ、と思いながら階段を登っていくと、「ヤング薔薇族ショー」という看板が突如現れる。ますます下がるテンション。ふと階段の上を見ると、そこにはいかにもなもぎりのおばちゃんがいた。一番最初に階段を登り切った一人の隊員が、おばちゃんに近づくと、何かを指さすおばちゃん。そうである、自動販売機で切符を買うのである。ハイテクである。自動販売機へ向かった隊員へ、たたみかけるようなおばちゃんの言葉が襲いかかる。「どっち?薔薇族?学生さん?」。思わず「は、はい」と答えてしまう隊員だった。実はそこには劇場が2つあり、切符売り場は共通だったのである。もうひとつの映画館はピンク映画館だった。次々と無言のまま切符を、学生の切符を買う我々隊員であった。血の契りを交わしあい、相当に団結しているはずの隊員達であったが、その時には既に他の隊員を省みる余裕はなかったようで、会話を交わすこともなくなっていた。そして、ひとかたまりにはならずに、ひとりひとり左奥にある劇場へ向かうのであった。
妙な圧迫感。第一印象はこれにつきている。72席あるという座席は、ぱらぱらとしか埋まっていない。それなのに、壁際にたつ人が異常に多い。なぜだ。と、座席を見渡して、先に着席していた隊員を見つけると、思わず安堵の息をもらしてしまう自分がいじらしい。あれ、でも、事前のミーティングでは一番後ろに座ろうと決めたはずじゃあ。。。何故か入り口のすぐ側の列、後ろから4列目ほど、に整列して座っている隊員達であった。その顔は暗い。その場の嫌な感じに、その顔は真っ暗であり、しかも皆うつむいていた。一番最後に劇場入りした隊員1号は、既に着席していた某隊員の左隣に座った。隊員1号の左隣は一番端の席である。そう、その時点ではスクリーンに向かって一番左の端の席が空いている状態だった。ふと嫌な予感、突然の頭の回転、第六感で席をうつる。当然、左端にである。それは、隣を空席にしておくのは危険すぎるという判断からだった。身の安全を確保したあと、少し落ち着いて上映開始を待つ間、なにか生暖かい気がしてならない。しかもポマードなのかなんなのか、嫌な匂いがエアコンから暖風とともに排出されているようだ。もうテンショメーターは左に振り切れ、ほぼ0になっていた。
ブザー、暗転、上映開始。まわりは気にせず映画に集中しよう、と心に決めて観賞を開始する。初っ端から、現代映画とは思えないチープ感が漂っている。なんなんだあの貧相な女優は。と思っている間に、例のシーンに。変則的な格好に思わず心の中で笑ってしまう。これがそうなのか、と訳も分からず納得している自分。そしてストーリーは展開を見せはじめるのだが、映画に集中などできなかった。ストーリー自体のしょうもなさもさることながら、それよりも気になったのはまわりの人間達、隊員以外の動向だった。のれん状のカーテンが掛かっているだけの、ドアのない入り口のすぐそばに座っているせいか、上映中にも頻繁に出入りする人々が気になるのである。そして、席に座ったとたんに立ち上がって壁際に立ったと思ったらすぐに別の席に座る客が気になるのである。そして、壁際に立つ人の後ろに立って腕を前の人にまわしている人が気になるのである。その場所で、落ち着いて映画を見ることは不可能であった。このくだらない映画はいつ終わるのか、そんなことばかり考えはじめたのは、まわりの人間模様が気になりはじめたのと同時だったかもしれない。その間にも、入り口付近では相も変わらず人が頻繁に出入りし、通路に出て奥にあるトイレの方へ向う人あり、がら空きなのに人の隣に座る人あり、映画よりもその様子が気になってしようがなかった。いつか、それは我慢の限度を超えるほどに。
1本目と2本目の休憩時間に他の隊員と一緒に抜け出そう、と決めた。その時決めちゃったのである。とにかくこの場所から早く抜けだしたかった。いつだいつだいつ終わるのだ、と思っているうちに、映画はどうにかスタッフロールまでたどりつく。当然普通の映画館でよく見られるような、スタッフロールで立ち上がり帰る客はいない。いつもはそんな客を苦々しく思っていた隊員1号も、この時ばかりは一刻も早く立ち去りたかったのはいうまでもない。終了。「1999(映倫)」の文字に驚愕する。最新の映画だったのだ。あの映像感で。それよりも、ようやく帰る事ができることが嬉しいかった。しかし、ライトよ早くつけ、と熱望しているのに、なかなか客席のライトはつかない。ライトがついたら全員で帰ろう、と思っていたのにライトはつかない。そう、その時、次の映画がはじまってしまった。2本立てなのだから当然である。軽い衝撃を受けつつ、あと1時間我慢するか、いますぐ立ち去るか、立ち去るなら他の隊員にはどう伝えるか、数秒の間に色々な考えが渦巻く。そもそも、大抵の映画館なら休憩時間におしゃべりしているうるさいカップル等が必ずいるものだが、この映画館には言葉が存在しない。無言のコミュニケーションがその場を支配している。とても他の隊員に話しかけられるような状況ではなかった。もし、今左端に座る自分がいなくなると、某隊員の左隣には二つの空席ができてしまう。それはきつい。自分だったらそんな状況は嫌だ。でも、この生暖かい嫌な雰囲気にあと1時間は耐えることはできない。すまない、と心の中でつぶやきつつ、他の隊員には無言で席を立ち、もぎりのおばちゃんの前を抜け、逃げ去るようにその場を立ち去った。つらい選択であった。すまん。
しばらく映画館の付近で待つが、他の隊員が出てくる気配はない。あと1時間耐えることを決めたのだな、と判断して、ツアーからひとりぼっちの帰還を果たした。なんともいえない疲労感をかかえつつ。その頃、あの映画館では、左端に二つの空席を抱えこんだ某隊員に緊急事態が起きていた。その列の左端に座る見知らぬ人。この時点でおかしい。席はがら空きである。そのうち席をひとつ右に移る見知らぬ人。完全におかしい。席を移る意味がわからない。そして、見知らぬ人の右手が某隊員の左膝に。。これ以上は詳細不明のため描写できないが、その隊員が無事帰還したことだけは記録しておきたい。
脱力感、疲労感、倦怠感。どうやら全員無事帰還した我々隊員は、今日の日の事を忘れたくても決して忘れられないだろう。そして、この記録をここに残すことによって、あなたの心の中にもいつまでもこの体験は残り続けるだろうし、どこかの誰かによって語り継がれていくだろう。疲れた。
財務次官のテレ朝記者へのセクハラ騒動に関連して、産経新聞の元女性記者だという人が、新聞記者の取材とはどういうものかをツイートしたのがまとめられて、はてなでもホッテントリにはいっている。
つまりは、重要人物の懐に入り込んでから情報を聞き出すのが仕事である以上、そこには篭絡、恫喝、バーター(取り引き)といった手段が用いられており、今回のセクハラもその延長線上で起こったことと言いたいようである。
平たく言えば、朝日がエロ事務次官からネタを引き出すために、女性記者を送り込んでいたんだろ?ということを匂わせたいのだろう。
現実のところ、この見立てはかなり確度が高いと思うけれど、と、同時に旧態依然とした、悪い意味での記者だなあ、という感も深い。
業界の片隅に身を置いていた一員として言えば、たしかに、「そういう記者」はある程度の成果をあげて、社内政治も上手だから、出世も早いのである。
ただ、そういう記者が尊敬されているかというと、必ずしもそうではない。
本当にすごい記者は、恫喝だのバーターだのしないでも、すごいスクープを放つのである。なぜか? 地道な取材と知識の積み重ねと、そしていざという時に信用される人間性があるからである。
なお、ここでスクープというものには二種類あることに注意しておいていただきたい。
一つは「いずれ明らかになることだが、どこよりも早く伝える」という速報性のスクープである。
一般的に新聞記者が追いかけるのは、こちらであることが多い。で、こっちの場合は、とにかくネタ元に食い込むのが一番早い。だから、セクハラをものともせずに女性記者を送り込むことにもなる。
ところが、世の中にはもう一つ、「報じられなければ真実が隠されてしまう」という独自性のスクープがある。
こちらは、実は恫喝だのバーターだのは、あまり通用しない。地道な調査報道の結果や、義憤に駈られたリークによってもたらされるからだ。
「このままでは真実が埋もれてしまう」という情報を新聞記者に、託すとき、必要なのは信頼関係である。人として信用できなかったり、権力に近すぎて真実を揉み消しかねない記者にリークするアホはいない。
人間というのは、こうみえて案外「良心」を持っていたりもするもので、真実が報道されないことに憤りを感じ、本当のことを話したい人というのはいるのである。
そういう人は恫喝しても話してはくれないが。
古い話で恐縮だが、田中角栄を退陣に追い込んだ「田中角栄研究」が書かれたとき、筆者の立花隆と文春の取材班は角栄にあったことはなかったそうである。
あのレポートは、地道に登記簿謄本を取り寄せて角栄の土地取引の履歴を追うなど、調査報道のお手本ともいうべきものだ。
森友の土地取引は、豊中市議が建築予定の看板に感じて情報公開請求したことから始まるそうだが、こういう人の訴えも掬い上げる記者かいなければニュースにはならない。
「独自性」のスクープは「速報性」のスクープに比べて、手間もかかるし記者の力も試される。
だから、普通に報道機関に属する記者が追いかけるのは「速報性」の方が主だ。
しかも、「特ダネ」をとって誉められること以上に、「特落ち」をやらかして怒られることの方を気にしなければならない組織が多いから、記者はせっせとネタ元とのお付きあいにはげむことになる。
情報公開なんて意識が希薄で、情報伝達に時間がかかる時代なら、記者がお偉いさんに取り入って話聞いて、それをまとめて伝えることに、意味もあっただろうが、いまや、ニュースがでるとなれば、先手を打ってネタ元自体がネットでいくらでも発信できる時代である。
となれば、自分は記者のフィルターを通した速報なんぞより、独自のスクープを読みたい。
だが、ジャーナリズムが、ほんの心の片隅にでも「キレイごと」を忘れてしまえば、それは単なる「情報ゴロ」にすぎない、と思う。
交差点に「北5西8」と看板があって、隣の交差点まで歩くと「北4西8」とまた看板がある
どっちが北なのか迷ってもとりあえず隣の交差点まで歩けば地理を把握できるし
追記)
だからさあ、「その人が嫌な思いをしたからハラスメント」って定義、自分が共感する相手にしか使わないでしょ?
いくら被害者に肩入れしているようでも、あれは結局自分の感情のゴリ押し以外のナニモノでもないの
つまり自分の感情のゴリ押しさえ可能であれば、極端な話、被害者はどうでもいい、ただの立て看板でもいい
そいつの立場も主張も関係なく、気に食わない奴をシバき倒せればそれでいい
全て理にかなっているじゃないか
「なんですか あなたは」
「おや、ご存知ではない? 生活教も、随分と普及したものですね。私の顔を知らない人間まで布教活動をするほどとは」
普段活動をしている時の、如何にもな宗教家っぽいコスチュームが露わになった。
それを目にし、辺りがザワつく。
「ああ! 教祖様だ!」
実際に見比べて分かったことだけど、ニセ教祖は装飾品が多くて、教祖のほうはむしろ質素な服装だった。
自分でも思っていた以上に、大体の雰囲気でしか記憶していなかったらしい。
アニメとかマンガの、バレバレな変装シーンを馬鹿にできないな。
或いは、時代劇の印籠とか、主人公の正体がお偉いさんのパターンとか。
「そうでしたか これは失礼しました わたしは ここ一帯で 生活教の布教活動を しているものです」
だけど、ニセ教祖はたじろがない。
何か、この場を逃げ切る打算でもあるのだろうか。
「それと引き換えに免罪符を提供している時点で、明らかな商売です」
「違います お金では ありません この“ライフポイント”という 石を用いています」
見た目こそカラフルだが、駄菓子屋とかで売っていそうな、チャチな安物っぽい。
これでカード自動販売機を動かすから、金を使ってはいない、という主張だろうか。
「無意味なオタメゴカシはやめなさい。結局そのライフポイントを換える際に金銭を使っているでしょうが」
だけど、大した理屈じゃないことは、誰の目を見ても明らかだった。
むしろ『金を使っている』という意識を逸らすために、あえてワンクッション挟むという姑息なやり口でしかない。
その後もニセ教祖は様々な理由を展開していくが、どれも言い逃れとしてはかなり苦しかった。
だけど、周りから漏れてくる声は、俺以上に素っ気無いものだった。
「なんというか、興醒めっすね……」
「もう帰ろうーぜ。つまんねーよ」
今のこの状況は、傍から見れば単なる“内輪モメ”だ。
面白半分で入信している人が多い生活教において、彼らを求心するのは結局「面白さ優先」。
このまま問答を続けても、世間には悪評が広まったまま、そして信者にはそっぽを向かれる。
宗教に限らず、世間でそういった流れができたとき、イメージを払拭することがどれだけ大変なのかは言うまでもない。
そのことに、教祖はまだ気づいていない。
いや、気づいたところでもう手遅れだ。
教祖自身に非がなくても、“その後”のことについて「生活教」という看板と、「教祖」という立場があまりにも重くのしかかる。
ニセ教祖を見逃すか、或いはケチがつくことを覚悟で断罪するか。
一見すると有利なはずなのに、試合をとるか、勝負をとるか、みたいな戦いになっていた。
俺も飽きてきたので、その場から離れようと思った、その時。
「どうやって それを証明すると?」
「いま、ここで、ハッキリとさせましょう。“異端審問”です!」