はてなキーワード: ソプラノとは
ふと、社会人デビューする前にこれを吐露しておくと肩の荷が下りる気がしたので下ろしておくことにしました。推敲は一切しないので悪しからず。
自分は小学校の時、音楽の授業での合唱に何故か強いモチベーションを持っていた。確かあの時はパヴァロッティの演奏のビデオを見たり、ソプラノ歌手のものを見たりしたかと記憶してる。それでもって家に帰るや否やソプラノ歌手の声真似をしようとしていた。声が変わるとそれは厳しくなって少し苦悩はしたが、声は大きかったことと中学に混声の合唱部があったこともあって真っ先に合唱部を選択した。
中学で3年テノール(バリトン寄り)を歌い続けたのは自分にとって一番長い合唱経験になっている。
高校に入るとき、自分は先行き不安定な歌で身を立てる訳にはいかないだろうから、と合唱から距離を置いて勉強に勤しもうとした。が、これにいくつかの失敗を伴った。
合唱から距離を置いた結果中学の合唱部時代の同期達と疎遠になった自分は荒れた自称進学校で格好のストレスのはけ口だったようだ。合唱に勤しみすぎたのか、自分には頼れる人間が合唱部の同期の他にあまり多くはいなかった。それどころか一部の同期には大分冷たい目を向けられていたように今は思う。ただその一方人数合わせに先輩に呼ばれて一度だけステージに立ったこともあった。
高校を出る頃から今まで、自分は合唱から距離を置くべきだったかどうかについては結論が出ないままでいる。そしてこれからも出ないと思う(こういうことを吐露したかった。)
2年を経て上京して、大学に入った際、大学のグリークラブが一曲入学式で歌っていた。ゆるそうな雰囲気を感じてここならやっていけるかと思ったが、ここで思いのほか高い壁に当たった。ミサの聖句の一つ一つが余りにも自分にとって重い物になっていた。かつて中学の頃は文章の意味を追いかけて、恐らくは絵本程度の世界を思い浮かべることが限界だった。大学に入って、あまりにもミサの聖句は苦しいものだった。半年持たなかった。
それから翌年、中学の同期と後輩に呼び出されて歌った。これは昔ともに歌った人間も居て勝手も分かりよかったのだが、やはりミサの聖句は重かった。しかしミサが一番ウケがよかったのも事実だった。結局、1年半ほどたったところで仲たがいしてしまい、それっきり今に至る。
結局自分にとってミサは何だったんだろうか。家は浄土真宗本願寺派と日蓮宗の両親の下に生まれ、それなりに二人とも経を唱える程度のことはし、自分もさせられた。そんな家で育った自分にとって、若いころはミサはもう一つ、どこか別のところで誰かが信じている神の姿を描こうとするものだったように思える。つまり、そこに神は、自分の中では居たように思う。
しかし、恐らくは不登校と化して自傷まがいなこともやっていた(出席日数もギリギリだった)高校時代辺りが節目だったかもしれない。
大学時代に歌うミサは自分にとって余りにどう歌えばいいか分からない、そんな曲だった。旋律を美しく仕上げることは、特に死ぬほど練習した中学時代の勘が多少なり働いてくれる。でもそれだけだった。曲が自分たちを支えている。しかし支えられる自分が何も描くことが出来ないような空虚感があった。神はもう居なかったように思える。
それなりに人を信頼して生きていた中学時代、人を信頼しなくなった高校大学時代ではあまりにもミサに対してモチベーションが違った。
1日経って、やはりある程度肩の荷が下りているのを感じているところです。
思いのほか拙文を人が見ていたので幾分かの追記をしておこうと思います。
グリークラブ=聖歌隊なんだから今思えばバカをしたなと思っています
ではないんですがかなり出身校に偏りがあり、出身の中学から90人程度、ほかの中学も10~30人程度の塊で進学して来ている人が殆どで、既にその中でコミュニティが存在しているというのが実情でした。後東〇予備校に9割の生徒が通っていて、金銭的事情でそういった所に所属しなかったのも大きいかもしれません。
今の自分の思想は無神論に寄っていて、神を熱心に信仰している他人が不思議に思えてしまうのです。
それに、ミサはKyrieなどがそうですが、「私はあなた(神)を讃えます」みたいな内容、つまり信仰の告白を歌詞に含む曲が多い以上それを非キリスト教徒が歌うことに疑問符を隠せないでいます。
言われてみると、合唱と神というスコープを通して興味関心が少しずつハッキリとしてきた人生かもしれません。少なくとも信仰は無神論寄りになって、クラシックな合唱からは足が遠のいているのが実情ですが、時には歌を歌う人、神を信じる人の気持ちを感じる機会を得られればと思います。
木嶋佳苗死刑囚の持つモテテクを学ぶために裁判傍聴をするなど追っかけをしている女性のこと。
ググった程度ではネタ元は出てこないが
神林広恵, 高橋ユキ 編著「木嶋佳苗劇場 : 完全保存版!"練炭毒婦"のSEX法廷大全」 2012年6月宝島社刊
第3章 なぜカナエに魅せられたのか?(座談会 追っかけ!カナエギャル大集合 木嶋佳苗のここが凄い!-「カナエは中毒性のある女なんです」
あたりにソースがあるのだろうか?
ここらあたりにも似たような記述。
「母性愛をください」“木嶋ガールズ”に続き、男子大学生にも木嶋佳苗ファンサークルが……|日刊サイゾー
http://b.hatena.ne.jp/entry/www.cyzo.com/2012/04/post_10465.html
2012.04.17 07:00 女性セブン 木嶋佳苗支持の声に「病的なナルシシズム崇拝は怖い」と作家
https://www.news-postseven.com/archives/20120417_101970.html
2012.04.15 07:00 女性セブン 木嶋佳苗 鈴が鳴るようなソプラノ声に記者から「声かわいい」
https://www.news-postseven.com/archives/20120415_101928.html
2012.03.26 16:02 女性セブン ブスと呼ばれるのは平気な木嶋佳苗 ただし田舎者扱いは嫌い
「カナラー」は見つけられなかったが「木嶋佳苗ギャル」、「カナエギャル」という単語は2012年ごろ使われている。女性セブン、ポストセブンが広めたように見える。「カナエギャル」にという用語は週刊文春が広めたものかもしれない。女性セブンは「木嶋ガールズ」。カナラーと呼ばれたかは分からないがその手の人たちはいたらしい。
学生時代と社会人になってからと合唱やっててずっとアルトパートやってました
もちろんやらされてたわけではなく自分の場合は自ら手を挙げてだけど
ソプラノとはまた違った魅力があるんだけどなかなか分かってもらえないのは少し寂しいですね…
そんなことより増田はアルトパートを軽視してる感があるけど、アルトはいいぞ、なぜならその歌を知ろうとしたからこそ聴こえる旋律を自ら歌えるからだ
多分ソプラノが主旋律の歌を想像しているのかなと思いながら語るけど
主旋律はなんとなく聴く立場でも知ることはできる、でも実は副旋律に支えられているから楽譜以上に輝いていられるのだ、そのことにちゃんと気付けるのは副旋律を聴けるまたは歌えるものだけなんだ
すなわちアルトパートは練習するだけでその歌をもっと素敵に聴けるようになるお得なパートなんだ
熱く語ってうざくなってしまったけど最後にこれだけは主張したい、合唱や合奏はピアノ含め全てのパートが主役だから自分の音も周りの音もちゃんと聴いて存分に楽しもう
ブランクリニック 業界最安値に挑戦! 気になるその脱毛料金は?
銀座と名古屋にしかないみたいだけど、ブランクリニックの全身脱毛が安すぎてやばい・・・。
大体美容クリニックで全身脱毛をしようと思ったら40~50万は覚悟しないといけないけど、ブランクリニックはVIO+顔付きで15万以下・・・。ただし、「エコ得プラン」というプランの料金で規定数に達したらこのプランは終了するらしい。
昔は男性の脱毛もやっていたみたいだけど、今は受付をしていないそう。女性専用の美容クリニックになっていくみたい。
ブランクリニックで使われている脱毛機は「メディオスターNext Pro」、「ソプラノアイス・プラチナム」という最新マシン。
従来のものより圧倒的に痛くないらしい。
痛みが怖いという人にもオススメのクリニック。
未だ謂わなひで好色めゐた其の云葉
期待なんて鉛のやうに重ひ
魅了して母よりも大きゐ其の胸で
曝す覺悟が有るのならば
億万の液のベッドに
埋れ見る夢よりも
馨しく私は生きてゐるおw
如何すれば醜ひスレが
開かずに羽ばたゐて逝けるのか
一人スレの中
うpし続けても
糞スレと貶されて
絆されるの
ネ申樣と何処までも馴れ合ひ
死んでも良ひ此の尊ひネ申の胸の中
埋れる事が出来るのならば
氣ニシテル譯ヂャナヰ
滅び逝く子供達の學力
復明日も目覺める度に
壱百億の種を蒔く
眠らなゐ魂のヲナニ猿
喰ひ込むパンテヰ 一滴の液
何視てもカルピスに思へや爲なゐ
ブチ撒けて母に見つかる僕
カルピスと悟られなゐやうに誤魔化して
此れは如何見ても精子なのでせうか
もう謂はなひで卑猥めゐた其の云葉
囁ゐて母より優しひソプラノで
どんな覺悟も出來るならば
さぁ謠ってよ其の震へる唇で
醉ひ癡れて私の( ゚∀゚)o彡゜おつぱゐで
射拔く勇氣が有るのならば
他のところでは書けないのでここで。
といっても全部ではなく、インタビュー部分だけ。
えみつんは高校生の時から音楽活動をしていて、その後に音大に進み、声楽科で優秀な成績(公式サイトによると主席)で卒業した、若い頃からプロ志向の高い歌手だ。
そのような人が、将来もしかしたら成功して有名になるかも、という想像をせずに、安易にあのような仕事をするはずがない、というのが、その理由だ。
どうせそっくりさんだろうと思っていたし、目に入る「検証画像」も、「えみつんこんなブサイクじゃねえよwww」と草生やしてみてた。
ところが、その後に新しくリリースされた「インタビュー部分」である。
このキャプチャーを見た時、私は思った。「これ えみつんじゃね?」
インタビュー部分は、このソフトのクリティカルな部分に当たらないためか、動画サイト等で見ることができる。
「うわ…これ えみつん…じゃね?」
もうね、何も知らないで見ちゃうと、絶対にえみつんだと信じてしまう、そのぐらいのモノですよこれ。
声も、番組で作ってるのとは違うけど、その質は「やっべ えみつん?穂乃果?」と思ってしまうもの。
「本人出演です」って言われたら、確実に信じるレベル。
これ、確かにえみつんに非常に似ている。でも、似ているのは最近、ここ二年ほどのえみつんに、なのだ。
このビデオは最初の発売年が2008年とされていて、その素材の撮影は当然それ以前になると考えられる。
さて、ネットで簡単に見ることのできるえみつんの動画は、やはりラブライブ!のものだ。初期のライブやニコ生イベント等のもの。今から遡ること4〜5年前。当該AVが撮影されたとされる時期からしても3〜4年ほど経過しているわけなのだが、今よりもその頃に近いであろうとは思われる。
その4〜5年前の映像を見ると…えみつんは例のAVに出てくるよりもずっと若く見える。
若く見えるどころではない、別人のようだ。
実際、初期の集合写真で、一番見つけにくいのがえみつんだ。消去法でやっとわかる。今よりもずっと細い。どちらかといえばぽっちゃりに見える、22歳頃とされる例のAVより、当然細い。
もちろん女性は、化粧等で見た目をまったく変えることができる。同じようになんじょるのを見ていくと、まるで別人だ。今の方がずっと若い、カワイイ、好き。
でもこの体格への違和感が拭えない。えみつんは声楽科に在籍し、ソプラノ歌手として、当然必要な筋肉を鍛えていたはず。「腕相撲は事務所からNGにされてる」という証言もあるのだから、所属時にはすでに相当の筋力があったのだろう。その割にこのAVに出てくる女優の身体はだらしない。
えみつんは太いイメージがあるが、それはラブライブ!でダンスをするようになってから、おそらく歌に必要な部分以外を鍛える必要が出てきたのだろう。
少なくとも、公式に残されているデビュー後の写真、映像では、初期の頃のえみつんは細く、キャリアを積むに従ってよりたくましくなっている。
そのピークは2015年の夏頃で、この頃のアニサマ、ファンミの映像で見るえみつんは弁解しようがないほどに太い。これは筋肉だけではなく、りっぴーの証言「地方巡業でみんなで美味しいもの食べるから太った」あたりに理由があるのではないか。
そういう「比較的最近の写真」に似ている、「およそ8年前のえみつん」とされる当該女優には、違和感を禁じ得ないのである。
ではこの人物は、ただのそっくりさんなのか?
そのように断じてしまうのを躊躇してしまうほどに、このビデオに登場する人物は、えみつんによく似ている。
冒頭で記したように、えみつんの経歴や昔の映像を見ていなければ、確実に本人だと信じてしまえるぐらいには似ている。
これをまったくの赤の他人と断じるのは、さすがにご都合主義的に感じる。
もちろんその可能性はあるし、一ファンとしてはそうであって欲しい。
しかし、そうでない可能性もある。
私が思いついた仮説はこうだ。
家族構成ははっきりしないが、両親の他、二人の妹がいることは確実である。
もしこの女優が、えみつんの二人の妹のどちらか、もしくはこれまで言及されたことのなかった姉だとしたら?
「一切語られたことのない姉がいた」
というのが、ご都合主義的だと思われるだろう。
しかし、語られなかった理由があるとすれば?例えば厳しい父親に反目して、早い時期に家を出ていた、とか。絶縁状態にあり父は許しておらず、その父に活動を喜んでもらえている中で、家族も見ているTwitter、ブログ等でその話ができなかったのでは?とか。
そしてもし「このAVに出ているのは自分ではない。ただし、自分の身近な人物である」という仮説が正しければ、
「出演は否定。しかしそれについて何も語れない」という現状には、説明が付くのではないか。
わかってる。すべて憶測だ。
噂されているような事実はないのだと信じたい、いちファンの妄想だ。
ただし、これまでに記したようなこと、更にはAV業界の厳しさ(必ず身分確認を行う。”素人もの”と言いながら本物の素人など当然使わない)などを考えたら、これがえみつんだとは、ちょっと考えられないんだよね。
再販されたこともしかり。販売元は当然、その後のトラブルを防ぐため、出演者の情報は保持しているだろうし、であればもし本人なら、現在芸能活動をしているプロ歌手の”出演作”の取り扱いには、もっと慎重になるだろう。個人撮影の流出モノというわけではないのだし。販売元が「この女優は本人ではない」と確信しているからこその、速やかな再販売なのでは。
事実を知る人物、本人とか、販売元とかが語らない限りは、真実はわからないわけだし、そのような日が来ることは、ないだろうしね。
見なけりゃよかった、っていうのが、本音ですよ。
演奏に代金は払いたくないのか(一部のコメントに対して。最初の文章から変わっています)|ソプラノ川上真澄の音楽とバラがいっぱい、時々子育てブログへようこそ!
約めて言えば、会社における社員教育のせいだ。それと「仕事」に対する意識の違いだ。
アメリカの会社は大手であればあるほどいわゆる「即戦力」を取りたがる。何かしらの技能、資格、実績を有している人々をリクルートするのだ。だから、しぜん中途採用が多くなる。つまり、最初から「プロ」として雇われるわけだ。
対して日本の会社はいわゆる新卒一括採用を行う。たいして技能も実績も持たない純真無垢な新人社員をOJTで実地教育していく。このとき、社員たちは様々な分野の部署をたらい回しにされる。どの部署についても一定の知識を得られるように、よくいわれる「ジェネラリスト」教育ってやつ。
しかし、このジェネラリスト教育に罠がある。というか、教育後の人材の使い方に罠がある。
アメリカの会社員はプロフェッショナルなので、基本的に自分の分野外の仕事はできないし、仮にできたとしてもしない。日本ではよくある「君、◯◯もできるって言ってたよね? ちょっと助けてよ」が通用しない。なぜなら、それは契約にないから。もしその人から助けを借りたければ、金を払って雇い直すしかない。
一方で、(まあ企業にもよるけど)日本の社員はそのへんかなりユルユルだ。極端な話、全然自分とは関係ない他部署を特別な技能を発揮して手伝ったところで、お礼なんて感謝の言葉と、よくて飲み代のおごりくらいだろう。「会社は仲間なんだから、家族なんだから、親切(ただばたらき、と読む)にするのがあたりまえじゃん?」という意識だ。持ちつ持たれつってやつ(自分のほうが持つとは言わない)。
それだけじゃない。こうした仕事における「境界のゆるさ」はどんどん拡大されていく。
まず日本人は仕事とそれ以外の時間をあまりわけない。国勢調査かなんかのアンケートに出ているが、日本人の人生の優先順位のトップにくるのは「仕事」だ。その意識がトリクルダウンを起こした結果、「仕事外の時間も仕事の話をしてもいい」という変な慣例ができる。
たとえば、「飲みニケーション」といわれるものがそれだ。日本企業で働く外国人はよく「ニホンジンは飲み会で業務に関する重要な情報交換を行うカラずるいデース」と愚痴る。そう、業務時間外に仕事の話をしあうのは彼らにとって「ずるい」のだ。一時期の喫煙室なんかもそうした役割を担っていた。
そして残業。サービス残業。これについての説明は不要だろう。文字通り、自分の時間を会社のために捧げているのだ。タダで。
こうした仕事と人生、公私の境界線がゆるゆるになっていった結果、さらりまんたちの倫理もメルトダウンしてくる。
彼らはニコニコ動画や youtube にあげられているちょっと面白い専門技術を持った面白い人々の動画を見て、あるいは pixiv のイラストなどを見てこう思う。
「この人たちは『親切で』こういう面白いものを公開してるんだ。良い人たちだなあ」
そこに奴隷を収奪するプランテーションオーナーのような攻撃的意識はない。むしろ、彼らはプロフェッショナルに「好意」を持って「讃えて」いるのだ。
そこには「この人たちは『たまたま』特別な才能や技能を持っていて、そういうものがあるんだから当然『親切』で芸を提供してくれるよな」という考えが底流にある。「尊敬」などはない。あったとしても「技能」ではなく、「態度」や「生き様」などといったその人自身の人間性に対する部分への尊敬だ。
日本の「芸」は大道芸人だから〜「芸」は自分でも習えるから「芸」なのだ〜などというなまっちょろい歴史解釈的説明づけなど及びもつかない残酷さがここにはある。日本人の「プロに金を払わない主義」は間違いなく近代日本社会が、私達が作り上げ是認してきた監獄なのだ。
私たちは根本的な錯誤をしている。プロは「誰にでもできること」を「助け合い」のために使う人間ではない。「誰にでもできるわけじゃないこと」を「報酬」のために行使する人間のことだ。言葉で言えばまるで簡単だし、誰でも表面上は「そりゃそうだ」と思うかもしれない。でも、日常的に誰しもがプロをプロとして扱えるように振る舞えるわけではない。わかっているはずなのに。わかっているはずなのに。わかっているはずなのに。なぜだろう。なぜそうできないんだろう。
社員教育システム、そして仕事に対する倫理観を根底から変えないかぎりこういう悲劇は今後も続くし、「プロ」は永遠に軽視されつづける。そしてこの国において「◯◯しないかぎり」という言葉は暗に「未来永劫実現しない」という意味を含んでいる。つまり、これが日本だ。がんばってはたらいていこうな!