はてなキーワード: クイズとは
アメリカ横断クイズを目指す中学生を、大人たちが寄ってたかって妨害している。とても見ていられなくて、悲しくて、この文章を書いている。
アメリカ横断クイズを目指した中学生の君へ。いま、君のもとにはたくさんの励ましのコメントと、まるで勝ち誇ったかのように上から目線で非難するコメントが殺到しているに違いない。画面をまっすぐに見ていられないほど、ひどいコメントもあると思う。まったくひどい話だ。
結論から言うと、君の挑戦は大成功だ。ほとんどの人には不可能な、最初のバズを起こすことができた。この次に君が起こすアクションに、注目が集まりやすい環境を作ることに成功した。
僕が君に伝えたいことが、一言だけある。それは「雑音を気にしてはいけない」だ。ネットには、君のことをあたかも心配している風を装って、文句を付けたいだけの奴らが山ほどいる。こいつらに、多くの挑戦者が苦しめられてきた。
こいつらは、自分という人間にほとんど何の価値もないことを誤魔化すために、ネットでマウントを取れる対象を探している。そして中学生の君は格好のターゲットになってしまった。もし君が事故にでもあえば、「ざまあみろ」と優越感に浸るだけ。それも単なる暇つぶしに過ぎない。こんな雑音に耳を貸してはいけない。
たしかに君は、未成年だ。法的には保護者が決めた範囲でしか活動できない。こればかりはどうしようもないんだ。でも保護者としっかり話し合って決めたことならば、ほかの誰にも文句を言われる筋合いなどないことも、覚えておいてほしい。
この次に、君がすべきことは何か。それは君の挑戦に文句を付けてきた有象無象の大人たちを「客」としてつなぎとめることだ。
例えば、アリアナ・グランデのタトゥーには多くの日本人がくだらない文句を付けた。それで、アリアナは損をしたのか? 事実は逆だ。アリアナの知名度はさらに高まり、有象無象がコンテンツを回した結果、彼女のもとには莫大な収益が転がり込んでいる。
もし君がインフルエンサーを目指すなら、こういう仕組みを理解した上で、次のアクションにつなげてほしい。ここから上に行けるのは、一握りの人間になる。だけど人生で何の挑戦もしていない、その他大勢のモブキャラで終わりたくないという気持ちがあるなら、きっと乗り越えられると思う。
君には、その資格がある。
クイズ王より
小学生向けのあるなしクイズなんだけど解けなくて悔しかったんでみんなも考えてほしい
http://blog.benesse.ne.jp/challetsu/line/hanamaru/171110/03.jpg
はてなーの皆さまこんにちは。今日も元気にウンコ漏らしてますか?初めて投稿します。
物心ついたころからずーっと気になっていたことがありまして。それはズバリ、「みんな作家の文体をどれくらい識別できてるんだろう?」という問題です。
気になった方は、まずは以下の問題に挑戦してみてください。
★以下の①~④と(ア)~(エ)の文章は、それぞれ同じ作家の書いた別の小説作品から、一部抜粋したものです。①と(イ)、②と(ア)...のように、同じ作者の作品どうしを組み合わせてください。
① そして彼が知ったのは、彼等の大部分が、原発というものの実態を把握していないらしいということだった。どこにどれだけの原発があるかも知らず、それが止まるということはどういうことかイメージできないようすだった。原発が止まっても大して困らないんじゃないかという意見もあれば、ろうそくを買うべきだろうかと異常に心配している声もあった。
② この人は母とは本当にお似合いだ。言葉に表現した瞬間、それが的を射ていても、本当のことを言っていても、なぜか必ず嘘っぽく聞こえ、薄っぺらい印象になる。この人のこの言葉と僕の事実とに挟まれて、僕のあの放火未遂っぽい事件は行き場を失ってしまったようだった。
③ 船長主催の晩餐会は、さんざんなていたらくであった。夕刻から、この時期には珍しい西風が吹き始め、それは次第に客船を上下に揺らした。乗客の中でもとりわけ過敏な者は、晩餐会のための服に着替える前に、すでに船酔いにかかって、各自のベッドに臥してしまった。
④ 札幌の街には今年最初の雪が降り始めていた。雨が雪に変わり、雪がまた雨に変わる。札幌の街にあっては雪はそれほどロマンティックなものではない。どちらかというと、それは評判の悪い親戚みたいに見える。
(ア): 夢の中の俺はまだ子供で野球のバットか何かを捜しに来たのだ。暗闇の中で金属バットが触れ合ってカランコロンと甲高い音を響かせる。俺は広いフロアを見渡す。たくさんの影はしんと静まり返って何も動かない。
(イ): バーは、二階に著名なフランス料理店があるビルの三階にあった。長い一枚板のぶあついカウンターと、四人掛けのテーブルが二つあるだけだったが、いかにも酒を飲むところといった風情で、助成の従業員はいなかった。
(ウ): 三人目の相手は大学の図書館で知り合った仏文科の女子学生だったが、彼女は翌年の春休みにテニス・コートの脇にあるみすぼらしい雑木林の中で首を吊って死んだ。彼女の死体は新学期が始まるまで誰にも気づかれず、まるまる二週間風に吹かれてぶら下がっていた。今では日が暮れると誰もその林には近づかない。
(エ): 十九年前にさらわれた赤ん坊がどこにいるかを、早く彼女に教えてやらねばばらない。白血病で苦しむ息子が助かる道があることを示してやらねばならない。言葉を発しようと息を吸い込んだ時、小さな疑問が彼の胸に宿った。それは瞬く間に大きくなり、やがては衝撃となって彼の心を揺さぶった。
・答えは↓
【答え】
①- (エ) 東野圭吾
②-(ア) 舞城王太郎
③-(イ) 宮本輝
④-(ウ) 村上春樹
①: 東野圭吾「天空の蜂」(講談社、2015年、p124、ハードカバー版)
②: 舞城王太郎「イキルキス」収録「パッキャラ魔道」(講談社、2010年、p193、ハードカバー版)
③: 宮本輝「海辺の扉(上)」(角川書店、1991年、p151、ハードカバー版)
④: 村上春樹「カンガルー日和」収録「彼女の町と、彼女の緬羊」(平凡社、1983年、p50、ハードカバー版)
(ア): 舞城王太郎「煙か土か食い物」(講談社、2004年、p117、文庫版)
(イ): 宮本輝「海岸列車(上)」(毎日新聞社、1989年、p162、ハードカバー版)
(ウ): 村上春樹「風の歌を聴け」(講談社文庫、1975年、p77、文庫版)
(エ): 東野圭吾「カッコウの卵は誰のもの」(光文社、2010年、p204、ハードカバー版)
いかがでしたでしょうか?
なぜこんな問題を作ったのかといいますと、自分はけっこう文体に敏感な方なのではないかと、密かに感じてきたからです。
同じドラッカーの作品でも、上田惇夫訳の「マネジメント」はすごく好きなのに、上賀裕子訳だとなぜか全然頭に入らなかったりします。趣味で読む本は、好きな著者のおすすめで買ってみたものの、文体が気に入らなくて読み進められないことも多いです。(村上春樹はすごい好きなのに、おすすめのサリンジャー「ナインストーリーズ」は受けつけない、など。翻訳版をよく読む方にはあるあるなのでは)
それぞれの作者ごとに、「この人は勢いがあって脳が活性化する感じ」とか「クールな感じで読んでいても全然感情を感じない」とか「頭の中に繊細で暖かいイメージがふわっと浮かぶ」とか、料理でいう味みたいなものがあります。
小説じゃなくても、エッセイでもビジネス書でも、どんなジャンルにも作者ごとの「味」がある。そして、これはその人の持つ「文体」が決めている部分が大きいと思っています。(本の装丁も全体の1~2割くらいは関係してる気がします。料理を載せる皿によってちょっと味の感じ方が変わる感じ?)
でもこの「味」って、大まかにはみんな感じるところがあるはずだけど、誰もが全く同じように感じていることはあり得ない。みんなで同じ料理を食べていて、「おいしい」「苦い」「熱い」などの大まかな感じも方向性は決まっていても、それをどこまで感じているかは人による。(同じ「辛い」カレーを食べても、人によってピリッとする辛さなのか、喘ぐくらいの辛さなのか、という辛さのニュアンスは異なるはず)
これって料理の味ならみんな共感できると思うんですけど、文章の「味」についてはほとんど議論されない。これって実際はどうなのか、という実験でした。
今回挙げた作家について、個人的に感じる「味」はこんな感じ。(あくまで個人の感想です。前者二人の文体は大好き、後者二人はうーむ。ストーリーはそれぞれ面白いと思います。)
・村上春樹: なんの抵抗もなくすっと頭に入って、胸にふわっと煙みたいに広がって染み渡る。イメージが幻想的ながら、ありありと脳裏に浮かぶ。もう村上春樹っぽいとしか言えない。
・舞城王太郎: 「文圧」のすごさ。リズムと勢いで、パンパン読ませる。胸が暖まって脳が活性化する感じ。文体で読ませる作家。天才。
・東野圭吾: 必要最低限の情報量。情報は伝わるが、感情はあまり伝わってこない。マックのハンバーガーみたいな感じ。
・宮本輝: いいところのお坊っちゃん。淀みなく流れる川のように流麗。美しい文章だが、あといま一歩感情が胸に迫ってこない。脳の活性化がいまいち。
最後までお付き合いいただいたはてなーの皆さん、ありがとうございます!皆さんのやってみた結果は、コメントで教えていただけるとありがたいです。あと余裕のある方、同じような問題作って自分にもやらせて...!!
マスコミが愚かなインタビューを続けるのはそういうのを望んでいる視聴者がいるからだ。要するに日本人がバカなのが問題なのだ。
日本の大学生が一部のトップ層を除いてまったく勉強しないのは有名な話だ(卒業が簡単という問題もある)。大学受験が終われば勉強することをやめて遊び放題。恋愛、飲み会、サークル、ヤリサー、アニメ、漫画、ラノベ、ゲーム、ネトゲ、ソシャゲ、パチンコ、風俗……。これが日本の現実。テレビCMも日本の民度をよく表しているといえるだろう。
本来大学入学後の高等教育でいかに自分を高めるかが重要であるのに日本人は大学入学試験を通過すると学習をやめてしまう。高等教育で得られるはずの教養をないがしろにし頭はずっと大学受験のままだ。暗記でどうとでもなる簡単な入学試験が頭の良し悪しを測る尺度になってしまっている。これは日本人全体の問題だ。真の意味での「知」を軽侮し、雑学クイズに明るいことこそが褒められる。日本はそんなレベルだ。大学入学率が50%程度あっても日本人はずっと雑学クイズから抜け出せず愚かなままなのだ。
視聴者である日本人がバカだから日本のマスコミはバカ向けに報道する。もしバカ向けでない番組制作をすれば視聴率が取れない。商業主義のマスコミは商業主義を裏切るほどにはバカではないから、バカ向け制作をやめないだろう。
そこそこ長いです。
よくある中2病ハーレムラノベをアニメ化したものだったが、そこそこクオリティが高く、面白かったので、イベントに行った。
イベントは、アニメの名場面振り返りや、アニメに関するクイズ大会など、まぁ定番な感じではあったが、それなりに盛り上がっていたとは思う。
自分も、こういうイベント自体は久しぶりだったので純粋に面白かった。
これも定番かも知れないが、口々に「本当にみんな仲が良くて~」と言っていて、実際声優同士の会話の距離感は近かったと思う。
バラエティコーナーで、若手の声優が若干スベったり、どうしていいかわからない空気になった時、ベテランの声優が助けに入ったりしているのを見て、なんとも言えない温かい気持ちになったものだ。
そして、最後。OPとEDを声優が熱唱し、一通り盛り上がり切ったところで、キャストの最後のあいさつの時間になった。
「もし、またこうやって集まれる機会があれば、次はもっと楽しいイベントに……!」
楽しげにアニメの思い出を振り返りつつ、最後の言葉は大体こんな感じであったが、その時の顔には、どこか陰があったと思う。
何故だろうと思った時、ああ、と一人で合点した。
原作やコミカライズは粛々と進行するだろうが、それ以外のメディア展開は恐らく望めない。
キャパは1000人くらいの小さい会場だが、多めに見積もっても700人くらいしかいなかったと思う。
そして、二期の発表はなかった。
夢を見せて幻想の物語を売るのがアニメや漫画だが、現実は非情だ。金を生み出さなければ消える。消えてしまう。
次はない。もう二度とこのメンバーで集まって何かする事はない。
それが分かっていながら、それでも「また次があったら」と言う。
ああ、と思った。これが人生だ、と。
大学生が言う「今度飲もうぜw」
遠い所に転校してしまう友達に言う「絶対また会おうね。毎月手紙書くからね」
それらと同じだ。とりあえずその場を収めるための言葉だ。
本当にそう思って言う人もいるかも知れない。ただ大体の場合、その思いや熱は、いつの間にか散ってしまう桜のように、どこかへと消えていってしまうものではないか。
こんなに楽しいイベントだったのに、アニメはあんなに面白かったというのに。
もう二度と、この時間は訪れない。もう二度と、キャラクター達が画面の向こうで活躍する新たな姿を見ることはできない。
そう思い至った時、なんとも言えない切なさと悲しさに、息が詰まりそうになった。
泣きそうになった。
帰りの電車に揺られている時、それらの事実にどうしようもなく寂しくなった。
ただ、ただだ。
過ぎ去っていく過去や、楽しかった時間にいくらすがっても、時は進む。日々は続く。
きっといつか「またこうやって集まれる機会があれば」なんて言葉は忘れてしまうかもしれない。
俺のこの気持もきっと一週間もすれば――いや、3日も経たない内に忘れてしまうかもしれない。
ただいつの日かふと、アニメを見返してイベントの事を思い返し、「あの時は楽しかったな」と思い出せる事だろう。
世界の無情さも、現実の非情さも、社会の残酷さも関係なく、純粋な思い出として俺の胸で生き続けてくれる。
それだけは誰にも奪えないものだ。
それだけは、この世界で、現実で、社会の中で、なんとかもがいて生き続けている俺たちへの、人生からのご褒美なのかもしれない。
子供と一緒にamazonプライムでしまじろうの映画を見て、衝撃を受けた。『しまじろうとくじらのうた』という作品だ。
ご都合主義なストーリーや安易なお涙頂戴な展開はどうでもいい。
それよりなによりあんな直接的に子供に性的な目線を向けるキャラクターが、それも敵ではなく、しまじろうたちに近い存在として出てくるの、これやばすぎないかな?
映画の途中、しまじろうたちが使っていた道具が壊れてしまうのだが、それを発明した亀の爺さんが修理してやる条件として提示するのが、クイズ。そして、答えらたら直すが、もし答えられなかったら女の子のキャラクターにチューする、と脅すのだ。この亀、その後も、その子の手を握ったり、終始、女の子にセクハラ的な言動をとる。
しかもこの女の子キャラ、スカートも履いてないすこしやんちゃな(wikiによると男勝りな)子として描かれているんだけど、そこに性の対象として視線を向けることで、「結局女は女」的な作者側の考えも透けて見えて、ドン引き。
そして、この亀の言動はそのまま否定されることなく、亀はしまじろうたちの身内、味方として受け入れられていく。しかし、亀って。どんな隠喩だよ。
昭和の映画ならまだしも、2014年作。そのまま駄作として埋もれるならまだしも、amazonプライムで今日も日本中の子供たちに見られる続けるわけ。
ベネッセ、まじか。よくこんなん作ったな。そしてよく平気で垂れ流してるな。これがベネッセの教育か。俺は二度と子供に見せないよ。