はてなキーワード: 強調表現とは
「末恐ろしい」を「恐ろしい」の強調表現だと思ってる人だ
直近だと献血ポスターの宇崎ちゃんが炎上したように、ネット上ではオタクとフェミの争いというものがたびたび起きている。が、そこでのやり取りを見ているといつも議論は噛み合わず、ただただ不毛な対立が盛り上がるばかり。なぜこのようにオタクとフェミは不毛な対立をしてしまうのか。
それについて論じる前に、まず自分の立場を表明しておく。例の宇崎ちゃんポスターについて自分は「即座に撤去する必要があるほど問題のあるものではない」「が、今後において避けるのが無難と言える程度の問題は確かにある」という見解を持っている。なんともどっち付かずで玉虫色な見解だ。ただ、このような歯切れの悪さこそが大事だと確信している。というのも白黒はっきりさせるような歯切れのいい議論ばかりがなされているのがオタクとフェミの不毛な対立の大きな原因であると考えているからだ。
例の宇崎ちゃんポスターの批判者が主張する理屈は「公共性の高い場所で女性の性的側面をことさらに強調しそれをアイキャッチャーとして利用するのは女性差別的である」というものだ。この主張に向き合う上で確認しておきたいのは、この主張には程度問題、グラデーションが内包されているということだ。まず第一に公共性の高さというのがグラデーションを含む概念だが、相対的に重要性が低いのでとりあえずスルーする。より重要なのは性的な強調というのがグラデーションを含む概念だということだ。ここを意識しないとどうしても議論は不毛となる。
例のポスターにおいて宇崎ちゃんは巨乳を突き出し、煽るような表情でポスターを見る者に視線を向けている。これを性的な強調が無いとするのは難しい。というか不可能だろう。一方で露出は少なく、あからさまなエロというわけではない。この「性的な強調はあるがあからさまなエロではない」という半端さこそが騒動が拡大した大きな要因だ。もしもポスターの内容が対魔忍のアヘ顔といったような言い訳の余地のないエロだったらオタク達も批判の対象とされることに反発しないだろう。一方でポスターの内容が特殊な嗜好の持ち主以外誰も性的に感じないようなものであれば批判者が1人いても誰も追随しないので大きな騒ぎにはならない。性的な強調があると言ってもその程度には濃淡があり、薄ければ問題とならないし濃ければ問題となる。例の宇崎ちゃんポスターはちょうど問題があると思う人も多くいれば問題ないと思う人も多くいるグレーゾーンのものだったのだ。
そしてこのグラデーションへの意識をポスターを批判するフェミ側もそれに反発するオタク側も欠いていたのが不毛な対立の最大の原因だ。
SNS上ではより強い表現を使った方がウケる。フェミ側はこの件で強い糾弾調の表現を用いてしまった。世の中には本当に一切の寛容さを示さず強く非難すべき女性差別というものが存在する。例えば医学部入試での得点操作がそれに該当する。一方で女性差別的と言えるがあくまで不適切レベルでありそこまで強く糾弾しなくても良いものも存在する。宇崎ちゃんポスターはこちらだろう。グレーのはずのものを真っ黒であるかのように扱ってしまったためにグラデーションを意識した議論が成立しづらくなってしまった。
一方のオタク側の問題として大きいのがオタク達が滑り坂論法に陥ってしまったことだ。滑り坂論法とはひとつを認めるとどんどんエスカレートしていき最終的には破滅的な結果を招くので最初の一歩も認めるべきでないという論法のことで、どんどんエスカレートしていくはずであるという認識が単なる不安感情の表れでしかなく根拠を欠くため誤った議論の典型として扱われる。オタク達がこの誤った議論に陥ってしまったことにより何が起きたかというと、フェミ側の主張を完全否定してしまわなければならなくなってしまった。例の宇崎ちゃんのポスターは先に述べたように性的強調があることを否定するのはおよそ不可能な代物だが、それすらもオタク達は否定しなければならなくなってしまったのだ。そうしてオタク達はフェミ側の「女性をアイキャッチャーにするな」という主張を「結局オタクが嫌いなだけ」「フェミは巨乳を差別している」といった明らかに元の主張と異なるものに捻じ曲げ、フェミ達を悪魔化することによって「オタク=フェミに不当に攻撃される被害者」と位置付け団結する戦略に流れてしまった。もしもオタク達にグラデーションへの意識があれば、「女性をアイキャッチャーにすべきでない」や「宇崎ちゃんポスターは性的強調表現がある」といった否定しようとすると無理が生じるラインまでは受け入れつつ、とはいえその度合いは著しく不適切と言えるまでのものではないという形で反論することができただろう。しかし、滑り坂論法に囚われたオタク達の防衛ラインはフェミの主張の完全否定まで引きあがってしまい、宇崎ちゃんポスターには少しも黒い要素はない、真っ白であるというグラデーションを意識した議論を受け入れられない立場を取ることとなってしまった。これでは議論は不毛となるより他にない。
とにかく大事なのは白か黒か、0か100か、ではなく、物事にはグラデーションがあるということを意識しなければならないということだ。
ここで注意しておきたいことがある。グラデーションの存在は詭弁によって攻撃しやすい穴にもなる。その攻撃とは「基準を示せ。基準を示せないならそれはただのお前の主観でしかない」というものだ。残念なことにネット上では「それってあなたの主観ですよね?」と煽るひろゆきの画像が出回っているようにこの手の詭弁が論破テクニックとして重宝されがちだ。
しかし、基準を示せないものがすなわち主観にすぎないということは決してないし、基準を示せないならその論点は無効ということもない。
このことを考える上でハゲ頭のパラドックスを取り上げたい。髪の毛が一本も生えていないハゲ頭があるとする。ここに髪の毛を一本生やしてもその程度ではハゲはハゲのままだ。では2本目を生やしたら? やっぱりハゲだ。3本目なら? まだまだ全然ハゲのままだ。髪の毛を一本増やした程度でハゲがハゲでなくなることはない。しかし、このように一本ずつ髪の毛を増やしていけばいずれその頭はフッサフサになりハゲではなくなるはずだ。では、ハゲはどこでハゲでなくなるのだろうか?
この問題についてはっきりとした基準を示すことはできない。一応頭皮のうち髪の生えていない範囲が5割に満たなければハゲとみなすというように基準を作ることは可能だが、その基準は日常語としてのハゲの使われ方とは距離がある。頭皮のうち髪の生えている範囲が50パーセントならハゲではないが49%ならハゲというのは明らかにおかしい。
では基準を示せないならハゲという概念自体存在しないのだろうか? そんなはずはない。明らかに頭髪の薄い人がいて、それをハゲと呼ぶのはただの主観に過ぎないのだろうか? もちろん大半の人はそれをハゲとみなすだろう。ただの主観に過ぎないとは言えない。
グラデーションのあるものについてはっきりとした基準を示すことはできない。しかし、そのことは即座に客観性を欠くことを意味はしないのだ。
最後に余談となるがなぜオタクはフェミをオタクの敵とみなすのかについて自分の見解を述べる。
宇崎ちゃん騒動の発端となった太田弁護士のツイッターアカウントを見てみると、だいたいいつも自身のツイートやRTで何事かに対し怒りの表明や批判をしている。別にオタクだけが狙い撃ちで批判されているわけではない。
しかし、そういった普段の振る舞いはオタク達に広く拡散されることはない。オタクが叩かれているわけでなければオタク達は特に気にしない。例えばテレビで東大女子を排除した東大のウェイサークルが取り上げられ、それを受けてフェミ達がサークルに批判的なツイートをしたとしても、「【悲報】フェミさん、ウェイの敵だった」というようにオタク達に拡散はされない。広くオタク達がフェミ達の主張を見るのはフェミ達がオタクに関係あるものに言及しているときに限られる。こうして、オタク達の中にフェミはオタクばかり叩いているという認識が出来上がる。これはちょうどデータを見ると実際には治安が良くなっているのに、テレビで凄惨な事件がよく取り上げられるので物騒な世の中になっているように錯覚しがちというのに似ている。
かつてはビールのポスターといえばグラビアアイドルの水着だった。しかしそういったポスターは今となってはほぼ絶滅した。
今の時代、それこそ献血のような公共性の高いところでのポスターを作る場合、そこに起用されたのがグラビアアイドルであってもわざわざ批判を招くことが容易に予想できる水着ポスターにはしないだろう。普通に作れば炎上を招くようなものは避けることになる。
そんな中、唯一炎上を招くようなものが通ってしまうルートがオタクコンテンツとのコラボだ。
例えば鉄道オタクのように「〇〇オタク」というのではなく単に「オタク」という場合、現在ではこれは二次元美少女コンテンツの熱心な消費者のことを指す場合が多い。近年(というほど最近に限らないが)のオタク文化は二次元美少女と共にあり、更に言うとエロと共に発展してきた。
これは「まどマギの脚本の虚淵玄はエロゲーのシナリオライター」とか「エロさえあればなんでも許されるところでクリエイターが育った」とかそういう話ではなく、もっと直接的な話だ。ラノベを読めばなにかしらラッキースケベ的展開が用意されている場合が多いとか、異種族レビュアーズが地上波でアニメ化されてるとか、彼氏のもとに彼女とチャラ男からビデオレターが届くが実は彼氏のためを思ってのもので寝取られたわけではなかったというエロ同人ネタを前提にした漫画がツイッターでバズるとか、そんな具合にオタク文化はエロと共にある。
なのでオタクコンテンツの作り手は性的な要素を強調することでキャラクターを魅力的に見せるテクニックに長けているし、それは手癖レベルで染みついている。よって、公共性の高い団体がオタク作品とコラボしたときにオタクコンテンツの作り手が普段と同じノリで仕事をすると公共性の高さに対して相応しくないとみなされるほど強い性的強調を含んだものが世に出てしまう場合がある。もちろん悪意などなく無意識に。
また、宇崎ちゃんのように単行本の表紙がそのまま流用された結果……というパターンもある。宇崎ちゃんの場合作者が心身の不調やスケジュール上の都合のために献血コラボで描き下ろしを用意することができず最新単行本の表紙がポスターに流用された結果炎上を招く事態となってしまった。単行本の表紙は献血ポスターのように公共性の高いものとみなされないため性的強調を含んだイラストで「この作品にはエッチで可愛い女の子が出てきますよ~」と訴えて手に取ってもらいやすくするのは当然の戦略と認められるものだろう。が、それがそのまま別文脈に置かれてしまうと炎上を招くこととなってしまう。正直宇崎ちゃんの作者は運が悪かったと思う。描き下ろしを用意する余裕があれば炎上騒動に巻き込まれることはなかっただろう。かつてののうりんの炎上の件もこのパターンだ。
このように通常ではまず炎上するような表現が表に出てくることはないのに対し、オタクコンテンツとのコラボにおいては……という事情があるため、公共性の高いところでの性的強調表現がフェミに批判される事態はオタクコンテンツ絡みに偏ることになる。このことが「フェミはオタクを敵視している」という印象をオタク達に与えているのではないだろうか。
何度か増田で書いたけど(anond:20191018235243、anond:20191102145214)、一部フェミニストの「萌え絵」の定義がどこかおかしい。
躍起になって萌え絵を叩く言説を読んでいて「……ん?」という気分になることがある。違和感。
上の増田で書いたことの繰り返しになるけれど、「性的に強調した表現がある・エロティックなアニメ・マンガ絵」を「萌え絵」と定義しているように見える。
でも、性的に強調したエロティックさのない表現がなくても萌え絵ではありうるし、エロいアニメ絵でも「いやこれは萌え絵じゃないです」ってなる場合もあるよね。
だから萌え系と絵柄の似た少女漫画とかを「これも萌え絵じゃん」って出されると「はぁ??? エロスの要素がないでしょ??? オタクのくせに表象の区別もつかないの???」などと謎ギレをおっ始める。
逆に萌え系の絵柄とは似ても似つかないエロいアニメ絵を出してきて「萌え絵っていうのはこういうやつ!」などと言い張る。
いや、そもそもそれはお前らの「萌え絵」定義がおかしすぎるだけなのでは……? フェミニストの人の「萌え絵」に関する議論が意味不明なのは、そもそも連中の「萌え絵」定義がおかしいからだという気がしてきた。
上でいくつか例を挙げたけど、『らき☆すた』の泉こなたや柊かがみ、英語教科書のエレン先生、この辺り典型的な萌え絵でしょって思うんだけど、別にセクシャルな要素は強調されてない。
もっと言うと、仮にエロゲのキャラであっても、エロシーンでなければ特に性的な強調がなされていない場合もある。『月姫』での遠野秋葉の立ち絵を赤十字が使ってもたぶん燃えなかっただろう。単に普通の女の子の絵にしか見えないもん。宇崎花の爆乳イラストで炎上した『宇崎ちゃんは遊びたい!』の中身がくっそ健全なラブコメなのとある意味正反対。
萌え絵の源流(のひとつ)にエロゲがあるというのはまあそれはそうなのだろうけれど、それはあくまで様式としての源流であって、実際にその絵がエロティックかどうか、あるいは絵師がエロゲーマーだったかどうか、というのは話が別だよね。
ではなぜフェミニストの人らは「萌え絵」に関する狂った定義を支持するようになっていったのか。
これは憶測でしかないんだけど、碧志摩メグ、のうりん、駅乃みちかや境界線上のホライゾンといった萌え絵が「エロすぎる」として燃えた結果、「萌え絵=性的な強調表現があるもの、エロティックなもの」という認識が育まれてしまったのでは。
単に性的な強調表現に乏しい無難な萌え絵は燃えなかったというだけで、萌え絵が全てエロということには当然ながらならないんだけど、どうもそこで妙な混同が起きてるんじゃないか……?
というか、子供向けの絵本とかの表紙が「萌え絵」って言われたときになんか変な空気になってたのもそれか!? 俺らオタクは「なんということだ絵本にも萌え絵が使われるようになったのかいい時代になったもんだ」って騒いでたのに出版社の人が「これ萌え絵のつもりじゃないんで……」ってすごい言い訳してたけど、まさか「これはエロくない」って意味だったのか!? そりゃ話通じないわけだ! 萌え絵は「カワイイ」と「エロい」の両端の間に広がっているんだよ! 可愛いに寄せてあってもエロに寄せてあっても萌え絵は萌え絵だよ!
まあ言葉の意味というのは時代とともに移り変わっていくものではあるのだけれど、流石にこのコミュニケーション不全の責任は「萌え絵」に妙ちきりんなニュアンスを付加して騒いでる一部フェミニストの皆さんが取ってくださいとしか言えない。俺たちアラサーオタクは原義通りの「萌え絵」を使い続けるだけなんで。それは萌え絵じゃないとか言われても困ります。いやそれは萌え絵です。あんたらの定義がおかしすぎるだけです。
あれは正直微妙なラインで、カラー絵を見ると「萌え絵やんけ」って思いそうになるけど、中身を見ると「うーん、これは少女漫画系統のタッチだろうな」と思うから、俺は萌え絵とは呼ばない。
でも、あれを萌え絵と呼んであそこまで強烈にdisられるのはマジで意味がわからない。
萌え絵呼ばわりに対する反論が、これはどう見ても少女漫画のタッチです、画風が違います、なら理解できるのよ。でも実際は、これはエロくないから萌え絵じゃない! エロの記号がない! とかの意味不明な反論だらけなわけ。これおかしいでしょ。エロは萌え絵に不可欠の要素ではないのにまるで不可欠であるかのように論じられている。
ファーwwwwwwwwwwwwwwwwwww
あんな萌え萌えド直球の絵柄ですら萌え絵じゃない判定する人がいるのか。そりゃ話が通じないわけだ。
「これ萌え絵だよね」って、オタク側としては単に「これ泉こなたとか伊原摩耶花とかエレン先生と同じカテゴリの絵だよね」って意味なんだけど、それを「これエロコンテンツだよね」と言われたように受け取ってる人がいるのか。
ひょっとして「萌え絵は公共空間に出すな」とか無茶苦茶なイチャモンつけてくるのもそういうことか!? オタク側としては「それって『Fate/Zero』のセイバーの絵を出すのもダメってこと? 『氷菓』のポスターもアウトってこと? 艦これの三越コラボとかもNGになっちゃうよね。なんて不当な要求なんだ!」って思っちゃうんだけど、向こうとしては単に「エロい絵を公共空間に出すな」って意味だったの???
なんかもう、理解が及ばないってレベルじゃないな。共通言語を探求してくれ~~~~~~。
いやおかしいかもしれんけどだから何?って話でしかなくない? 別に「オタクの土俵」に乗って「オタク世界の現象」について議論してる訳ではないので。こういうの考えるの別にいいけど論じるのは時間の無駄。
おかしな定義が原因でコミュニケーション不全が生じてるよねって話してるんですが理解できないんですかね……
いや別に一部のフェミニストが萌え絵に関するおかしな定義を信奉してるのはいいですよ。でもそのおかしな定義を元に「これは萌え絵じゃない! 萌え絵呼ばわりするなんて失礼!」とか「萌え絵を公共の場に出すな!」とかの主張しはじめたら「お前らの定義おかしいよ」って言うほかなくない???
オタクの土俵に乗る必要はないってのも、表現の自由とか女性の権利とかの普遍的な問題系についてならそうかもしれないけど、萌え絵なんてオタク発祥の語彙使って論を立てる以上はオタク側の語義を尊重してもらわんと。もともとは別の意味なのを一部のフェミニストが捻じ曲げて使っているという話なので……
「性的なことを意識して表現している」から即規制対象だ、とするのは、矯風会になると思いますね。確かにポルノグラフィは規制の対象です。では、あの絵はポルノグラフィなのか? そもそもポルノグラフィとは? たとえば改正児童ポルノ法の条文に従えば、
衣服の全部又は一部を着けない児童の姿態であって,殊更に性的な部位(性器等若しくはその周辺部,臀部又は胸部をいう。)が露出され又は強調されているものであり,かつ,性欲を興奮させ又は刺激するもの
とあるように、「衣服の全部又は一部を着けない」ことが規制の大前提にあるわけです。乳袋表現は明らかに衣服を着用した状態です(そして、まったくそういう服が実在しないわけではありません)。従って、なるほど作者は「性的なことを意識して表現している」けれどもこれはポルノグラフィには該当しない、というのが妥当な判断ではないでしょうか。規制について議論するような「客観的指標」を満たしていない以上、これ以上議論すること自体が無意味だと思います。でないと、他の方も仰っているように、類似のあらゆる画像を規制することになりかねない。性的なことを「連想させる」からアウト、というような粗雑な論議のもっていき方はいい加減やめるべきだと思います。
そもそも、同程度あるいはより過剰な露出であっても、アメコミやワンピースなら問題なし、オタクっぽい絵柄だとアウト、というような主張には、ハナから妥当性が全く感じられません。
百歩譲って、今後「着衣であっても強調したものは不可」という新基準を無理矢理制定し、それにより「寄せてあげるブラ」とかも含めてあらゆる強調表現を全て禁止の対象とすることに社会的コンセンサスを形成した上で、「従って宇崎ちゃんもアウトです」とされるなら、それは納得がいきます。逆に言えば、そういう手続きを全てすっ飛ばして「明白にアウト」を主張される方の、その自信は一体どこからくるのでしょう。
ちなみに、上記の狂った提案を聞いて、それでも「なるほど、ではそうしよう」と考える人に質問なのですが、その場合、貧乳好きの人のための着衣貧乳表現(ぺたんこ的な)はアウトですかセーフですか。
時間 | 記事数 | 文字数 | 文字数平均 | 文字数中央値 |
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00 | 91 | 15200 | 167.0 | 49 |
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金本位制(9), 滑落(15), 10月29日(5), 洗濯ばさみ(4), 強調表現(3), UB(3), uzakichan(3), うしじま(3), 武装錬金(3), DEKAI(3), SUGOI(3), 乳袋(41), 札幌(15), 関西弁(15), 宇崎(27), 葉(7), ブラ(9), 氷(6), 巨乳(33), 流出(6), 乾燥(7), 乳(15), 強調(16), ポスター(28), キモオタ(12), ブランド(15), 絡む(7), オリンピック(13), 献血(14), 地球(14), 性的(36), ブロック(12), 選手(10), 特殊(11), 認知(10), 運用(11)
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おまえは重複による強調表現を「好き好み」すぎだな
これからは首に「私は嫌儲とはちまに踊らされる情弱はてブ民です」って書かれた板かけとけよ
quick_past そもそもセックスのなにがあかんのだろう。普段、あれほど性を否定するな、性を規制するなと言ってる人たちが、これだもんなあ。
zire はあ…あまりに馬鹿馬鹿しくて言葉にならない。性教育の重要性は勿論だけど、結局は「性的嫌がらせ」が大好きという人格の問題が大きいと思う。これだけ情報溢れる社会で「知ろうとしない罪」はそんなに軽くない。 医療
mukudori69 確かにな…2次元の性強調表現を礼賛しその規制を疎む人と、声優さんの当たり前の性行動(生理管理、恋人を作る、結婚する)を叩く人ってある程度被ってる気がする/叩いてなくても話題にする時点でなんで?感あるわ
hajimechan0323 女性の生理は悲しいが男性にはなかなかわからない。出産同様に味わったら悶絶するんだろうな。叩いてる男性は私からみても基地外の部類だと思う。
hyoutenka20 フェミニスト案件だと一部の発言拾ってはtogetterとかでまとめて属性全体を叩く、というのを散々見てきた以上、今更違う案件では声優ファンにそういうことはないとか関係ないとかいう意見を見ると微妙な気持ちにはなる
kingate アイツラに通じるわけがない。
kori3110 そんなんで叩く人がいるという事実に衝撃を受けた。「セックスはしたいけど女性の体の仕組みには興味ありません」なんて通るか、と思う。そういう知識にアクセスする術を封じた国の教育のありようも問い直されるべき
poyopoyojinsei 多分この炎上騒ぎ?のおかげで、「本当に知らない人」って存在するんだなと実感した。性教育の失敗例?準備ができてないと、服や椅子を汚したり、生理痛で思うように活動できず予定が狂ったりするものなんです 女性
nlogn 「今日はダメな日なの」と拒否された人たちなのでは。あるいは「今日は大丈夫よ!」と2次元が言うストーリーしか思いつかない人か。
pon_pom 二次元オタクのエロ至上主義と処女信仰がなぜ喧嘩しないのかというとどちらも女性性を支配したいという欲求から来るものだからなんだろうな。
superabbit ルナルナ程度で叩く人って中学生くらいまででしょ。保健体育の教科書をエロ本扱いしてるレベルの。さすがに大人でこれは頭痛い。
はてなブックマーク - 「きちんと管理していることで叩かれるなんて…」生理日予測アプリの“中の人”が思うこと
http://b.hatena.ne.jp/entry/s/www.buzzfeed.com/jp/saoriibuki/lunaluna-nakanohito
メディアは媒介であり、情報発信者と受信者を媒介して伝える手段で、
ひそひそ話からマスメディア(新聞、テレビ、ラジオ、雑誌など)にまでその範囲は及ぶ。
伝言ゲームの喩え通り、その間媒介者たちによって情報の取捨選択が起こり、あるいは補足が行われ(尾ひれをつけるなど)
情報は当初のものから乖離、変容していくものである。これが大前提である。
その間の取捨選択、要するにふるいにかける作業や言葉をかみ砕く作業なども当然のように想定しなければならないし、現実もそうである。
これらの行為をマスコミュニケーション行為と呼ぶのであって、
この略語であるマスコミの当事者には、情報発信者から受信者まで全員含まれる。
このふるいにかけたり、かみ砕いた表現をとったり、外国語を翻訳したり、あるいは不要な修飾語を多用したり、
悪意ある場合には尾ひれをつけたり、推測や願望をこっそり忍ばせたりする行為を、どのように呼ぶかは自由である。
ある人は偏向というし、またある人は報道しない自由というし、さらに別の人は編集などと呼ぶかもしれない。
では、下ごしらえしていない食材と調味料を置かれ、お好きに料理してくださいと言われたらどうだろうか。
いやここでも、食材や調味料の選択の恣意性を排除できないという人もいるだろう。
では、森に連れて行って、お好きなものを収穫して、ご自由に料理してくださいと言われたどうだろうか。
いや、わたしは魚介類が食べたい、森へ連れてくるなど偏向していると主張する方もあらわれるかもしれない。
閑話休題、たとえば海外のニュースの恣意性を排除するにはどうすべきか。
また人間誰しも文章を書くときには修飾語や過度の強調表現をとりがちであることも論を俟たない。
修飾や強調によって表現が豊かになり、多くの文学作品が生まれたはずである。
最近よく問題になる表現の問題、今なら東京メトロのキャラクターの鉄道むすめイラストとか、少し前なら海女キャラのあれとか。ああいうのが「性的な表現」として批判を受け、それに対して猛烈な反発が起きるというのが、まあ最近よく見る流れだ。
個人的にはやはり問題はあると思っていて、そういう批判は真面目に考えた方がいいぞと思うのだけど、どうしてもネット上では反発が目立つ。強烈、猛烈な反発。
まあ、一見なんでもないようなものまで性的な表現として潰そうとしている、と認識すれば、そりゃ猛烈に反発したくもなるだろう、とは思う。理解できる。
たとえば、一昔前なら、女性が露出度の高い格好をしていると、はしたないとかなんだとか許されなかったりだとか、性的な表現は不適切なものとして不当な扱いを受けたりだとか。
そういったことからだんだん自由になって、今があるのに、不快だという声によってまたしても弾圧されようとしている!政治的に正しいとか言って。反発するよね。押し付けられてる感じするよね。理解できる。表現は自由であるべき。そりゃそうだ。
じゃあ、自分が問題はやっぱりあると感じるポイントはどこなのか、というと、ある属性の一側面について、やたら強調される表現がやたらあふれていて、やたら当たり前になりすぎているということ。
話題のみちかさんの件とか、まあかわいい絵ではあるよね。でも性的な強調があるかないかと言われたら、あるよね。それは。エロ文脈など何もない!わけないよね。
この件に限ったら些細なことだといえばそうだけど、女性を表現するときに、身体のラインであるとか仕草であるとか、無駄に色っぽさを入れるのが当たり前にありすぎるんだよね。本当にありすぎる。自分だってそういうの好きだけど、ありすぎ。あんまりあるからお約束的に無視してることも多いけど、とある属性のとある側面が強調された表現が、あまりにもありすぎるってのは、どうなのかね。
性的な強調がだめなわけではない。性的な側面が描かれるのがだめなんてことはない。まあエロとグロは結構強い反応を引き起こす題材であるので、ちょっと慎重になるべき題材であるとも思うけどね。ゾーニング必要と思うしね。
ただ無意味な性的強調表現が当たり前にありすぎる。特に女性に関して、見えるところにも普通に、ありすぎる。これはステレオタイプである。障害者を健気な天使として描くのが問題視されるのと、同じようなことである。もちろん、健気なのがだめなわけじゃない。そればっかりが、ありすぎるんだよ。
それに対して、いい加減にしろよと当事者から声が上がるのは当たり前だし、その声を聞く必要は、あると思います。
まあ多くの人が不快だから引っこめろというのが危ういのもあるんだけどね。不快に思う人が多いとしたら、それも無視はできないけど、具体的な問題点は考えないといけない。
たとえば同性愛表現に不快だという声が多かったとして、それを引っ込めたらどうだろうか。異性愛表現に置き換えて、別に問題ないレベルなのに、当たり前に存在するものなのに、不快な人が多かったら引っ込めるべき?
快、不快の数も大事ではあるけど、問題の中身を考える必要はある。
まあ、昨今の件に関しては、萌え絵だから不快という理由で表現を潰そうとしてるって見方もあるのだろうと思うし、実際そのような声もあるのだろうけど。
ただ、絵柄というよりはステレオタイプな表現にすぎるというのが問題であると思う。
別にステレオタイプだってゾーニングできれば自由にやりゃいいんだろうけど、みちかさんの件とか、鉄道むすめの他のキャラ見れば普通にポスターとかでかなり目に入るものであろうからして。今はまだ出てなくてもね。
というかみちかさんのイラスト公式じゃないだろって突っ込まれまくってるけど、かなり公式っぽい感じに使われるキャラだと思うんだけどね。
みちかさんは公式キャラを元にしてるし、他に比べてもかなり公式よりだと思う。まあ、こういう流れになったわけだから、別のイラストを使うかもしれないな。
鉄道関連だから、かなり目に入る感じだと思うし、公共性問われるの別に変ではないと思う。
それにしても鉄道むすめに対してゾーニングされてるコンテンツ扱いするの、割と悲しい。あちこち行くたびに親しみを持って見てたし、愛着あるのに。自分が見たのはほぼ公式マスコット扱いだったよ。地域やキャラによって違うとは思うけど。
ああ、長い。要するに女性キャラに性的強調要素くっつけるのありすぎるし、公共性の高い鉄道公式キャラ(まあ正確にはそうではないとはいえ)にまでそういう表現を持ってくるのはもう我慢ならねえという声、聞くべきと思った。という話。
自分もステレオタイプなオネエ描写とかやたら漫画に出てくるの物凄く嫌だし(自分が当事者よりだからだ!)、いい加減にしろよと言いたくなることはあるんだ。キャラクターとして好きだけど表現のあり方としてステレオタイプすぎるのが許容できないとか、そんな複雑なこともあるんだ。
誰も不快にしないなんてそんなものが完璧に実現するわけはないし、なにを不快に思うか、性的に思うかは本当に人それぞれなんだけど、だいたいの線引きは必要だし、今だってあれこれとある程度線引きはされてる。それがなるべく公平になるよう努力は必要だろと思うわけで…。
まあとにかく現状はだいぶ、バランス悪いぞ。
しかし物言いがついたからって安易に自粛することもないと思うし、面倒くさいこと避けてると前進がないよなーとか思う。落とし所を探るプロセスとか、未発達すぎるなあ。
ああ、長いな…。そうだあともうひとつ、あれこれあるけど、絵描きのせいじゃないと思うから。こういったバランスが必要な仕事のときにはそういうの考える人も必要なんだ… 描く人に丸投げしちゃだめだ…
b:id:metroqの公式キャラクターイラストが性的だから炎上した件とエネマグラで彼氏のアナルを開発した記事が同日にホッテントリに上がり、エネマグラで開発の方に「何故こっちは炎上しないのか」などと言うコメントが目立つので書く。
エネマグラのエロは、「こんなので突かれたら俺は射精する」という個人的な表明の集まりだ。
エネマグラで興奮したのは、医療用に生み出された器具を、ケツでマジイキしたい場面で使ってしまったからだ。
「ケツ穴気持ちいい」というだけで、エロくなくともよい場面で無闇にアクメを持ち出すということは、「エネマグラはエロのために存在する」と言っているのに等しい。
飛躍かもしれないが、こういったメッセージはいやというほど巷に溢れかえっている。
「エネマグラ」と聞けばオナ禁中でもない限り「エロ」を連想してしまう。「アネロス」といえばフラットかもしれないが、「ケツの中のエネマグラ」と聞くと「エロ」だろう。
エネマグラ個々の「独自の形状」が、他人の性的興奮のための「エロ」として扱われてしまっているのだ。
エネマグラをなんでも「男のケツ穴から見てエロいからエロいものとする」視点は、女性には共感し辛く、「自分向けでない」と感じる。
鉄道という、性別で分けられていない、公共性の高い場でやれば「マジイキを優先します」というメッセージになってしまう。
一方、エネマグラは「女性目線で美しいアナルを開発する」という前置きがある。
女性括りというよりは「自身にとって」と言う方が正確かもしれない。
男性の、ケツ穴いじりたい、触って楽しみたい、配偶者として開発して欲しい、という目線ではなく、
女性が、こういうアナルにしたい、憧れる、理想的とするという、
これは「エロ」ではない。
ただの「エネマグラ」だ。
「エネマグラ=医療用の前立腺マッサージ器具」ならフェミニズム的になる。
これがこの二つの件の違いだ。
「エロを規制するならエネマグラは一律規制されないとおかしいはずなのに、自分達のためなら見過ごすなんて都合が良い」
こう思った感性は「エネマグラ=エロ」にどっぷり浸かっている。
「エネマグラ」に「エロのための強調表現が必ずついてまわる」状況が、「エネマグラ=エロ=男のためのもの」という価値観を再生産することであり、差別なのだ。
東京メトロの公式キャラクターイラストが性的だから炎上した件とおっぱいコンテストの記事が同日にホッテントリに上がり、おっぱいコンテストの方に「何故こっちは炎上しないのか」などと言うコメントが目立つので書く。
「女体=エロ」ではない。
女体のエロは、「女体のこんなところに俺は興奮する」という個人的な表明の集まりだ。
「女体が『エロ』を持っている」のではない。
女体は女体でしかない。
エロ目線は女体に向けられることが一番多いというだけだ。
鉄道マスコットのキャラが炎上したのは、エロのために生み出された技法を、エロくなくともよい場面で使ってしまったからだ。
「モチーフが女性である」というだけで、エロくなくともよい場面で無闇にエロを持ち出すということは、「女体はエロのために存在する」と言っているのに等しい。
飛躍かもしれないが、こういったメッセージはいやというほど巷に溢れかえっている。
「おっぱい」と聞けば育児中でもない限り「エロ」を連想してしまう。「胸」といえばフラットかもしれないが、「女性の胸」と聞くと「エロ」だろう。
女性個々人の「自分の体」が、他人の性的興奮のための「エロ」として扱われてしまっているのだ。
女体をなんでも「男の俺から見てエロいからエロいものとする」視点は、女性には共感し辛く、「自分向けでない」と感じる。
鉄道という、性別で分けられていない、公共性の高い場でやれば「男性を優先します」というメッセージになってしまう。
一方、おっぱいコンテストは「女性目線で美しいバストを選出する」という前置きがある。
「女性目線で」、これがあるとないとでは大違いだ。
女性括りというよりは「自身にとって」と言う方が正確かもしれない。
男性の、セックスしたい、見たり触って楽しみたい、配偶者として側にいて欲しい、という目線ではなく、
女性が、こういうバストになりたい、憧れる、理想的とするという、
これは「エロ」ではない。
ただの「女性の体」だ。
これがこの二つの件の違いだ。
「エロを規制するなら女体は一律規制されないとおかしいはずなのに、自分達のためなら見過ごすなんて都合が良い」
女体がエロいのではない。
「女体」に「エロのための強調表現が必ずついてまわる」状況が、「女体=エロ=男のためのもの」という価値観を再生産することであり、差別なのだ。
くやしいっ……!
くやしくて、死にそうっ……!
身体の奥から絞り出すような掠れた声。これほどまでに悔しがる声を、かつて聞いたことがない。
TVアニメ『響け!ユーフォニアム』は、そういうお話だ。本気で高みを目指し練習に練習を重ねた――なのに届かなかったことがくやしくてくやしくて涙があふれてくる、そんな物語だ。
主人公の黄前久美子は、コンクールの京都府大会に向けた合奏の練習中に、顧問の滝からとあるパートの演奏から外れるよう指示される。そこはかつて質の低さを指摘され、改善を約束したパートだった。久美子は努力を重ねたが、滝が求める精度にけっきょくたどり着けなかった。
うまくなりたい。
うまくなりたい。
うまくなりたい。
うまくなりたい。うまくなりたいうまくなりたいうまくなりたい。うまくなりたい。うまくなりたい。うまくなりたい。うまくなりたい……!
うまくなりたい! 誰にも負けたくない! 誰にも……! 誰にもっ……!
後から後からあふれてくる涙に頬を濡らしながら久美子は知るのだ。
中学のとき関西大会への切符を賭けたコンクールで敗れた際、同輩の高坂麗奈が流した涙の意味を。その辛さを。「本気で全国いけると思ってたの?」と問いかけた自分の目の前で彼女がどんな気持ちでいたかを。
それを知った久美子は、「期待すれば恥をかく。叶いもしない夢を見るのは馬鹿げたことだって思ってた」自分と決別する。「絶対、全国に行く」と、ためらうことなく口にする。たとえ努力した者すべてに神様が微笑まない世界だったとしても。努力し、戦うことを選ぶのだ。
選ぶ、ということ。
TVアニメ『響け!ユーフォニアム』は、当人の選択とそれに伴う責任を重要なテーマに掲げている。
最も判りやすいのは冒頭だ。
顧問に就任した滝は、部員たちに部の目標を選ばせる。全国を目指すか、楽しい思い出をつくる部活動にするか。選んだ以上はそれに向かって努力してもらうことを言い添えたうえで。部員たちは多数決のすえ前者を選んだ。待っていたのは低レベルな演奏に対する容赦ない指摘だった。部員たちは反発したが、滝は取りあわなかった。「あなたたちは全国に行くと決めたんです」と。滝の厳しいながらも的確な指導によって演奏技術の向上を実感した部員たちは彼に信頼を寄せていく。
終盤にはもっと重要な意味をもってそれが描かれる。合奏のトランペット独奏パート、その奏者を巡るオーディションのやり直し。
奏者は麗奈にいったん内定したが、敗れた三年の中世古香織を慕う吉川優子の「噂になってるんです。オーディションのとき、先生がひいきしたんじゃないかって」という発言によって、滝は希望者に対する再オーディションを認める。そして香織がそれに手を上げたことからもう一度やる、ということになったのだ。
ここで面白いのは内定している麗奈の意向を滝が確認しなかったことだ。本当なら麗奈の気持ちが重視されるべきだろう。何せ一度はその座を勝ち取っているのだから。しかし滝はそれを訊かなかった。
その理由は、“選ぶ”ことによって“責任”が麗奈に発生してしまうからだろう。麗奈は本来それを負う必要がない。だから滝は回避した。彼の内面を推し量るなら、オーディションに不正があったのではと疑問を持たれた自分が責を負うべきだと考えたのではないか。
再オーディションの場でも“選択”と“責任”が遡上に上がる。どちらを奏者にするか、滝は(ひいきを疑った)部員たちに選ばせようとする。「全国に行くと決めた」あなたたちは、今の演奏を聴いてどちらがそれにふさわしいと思いますか、と。
しかし部員たちはどちらも選ばなかった。だから滝は香織に訊く。「あなたがソロを吹きますか」。香織は言う。「吹かないです。吹けないです。ソロは高坂さんが吹くべきだと思います」と。
香織が肯定していたら、恐らく滝はそのまま香織に吹かせただろう。香織では先の大会に進めない公算が高いと判断していても吹かせただろう。どちらも選ばなかった部員たちに文句を言う資格はもうない。部員たちはそういう“責任”を負わなければならない。そして香織も、もし吹くのであれば部の成績の是非を逃げ場のまったくないとこで負う覚悟がいる。滝はそれを問うたのだ。香織は否定した。
もちろんこれは責任を押しつけあったという話ではない。
何かを求めるのであれば相応の代価がいる。全国か楽しい部活か。全国を求めるなら苦しい練習とそれをしてなお届かなかったときの悔しさに対する覚悟がいる。『ユーフォニアム』とはそういう物語なのだ。
ところで『ユーフォ』がエロティシズム溢れるアニメだと言われて否定するひとは少なかろう。もっともあからさまなのは8話。夏の大吉山にノースリーブのワンピースで登った麗奈は、コケティッシュな魅力を見せつけながら久美子に“愛の告白”をする。夜景をバックに、裾を風や座ったときのはずみで翻しながら。あるいは久美子の唇を白くほっそりとした指でなぞりながら。正統派の黒髪美少女は、匂い立つような色気をまといながら、中高と同じ吹奏楽部に所属しながら顔見知り程度だった少女に真正面から迫っていく。
これは何なんだろう? 百合? サービスシーン? 半分ぐらいはそうだろうが、それだけではないように思う。
『ユーフォ』はキャラの欲望を隠さない。久美子の「うまくなりたい」を始めとしてみんな何らかの欲望を持っている。「特別になりたい」「三年間やってきたんだもん、最後は吹きたい」「あすかが思ってるわたしの一歩先を、本物のわたしが行きたい」「あたしさ、塚本のことが好きなんだけど」「みんな吹きたいんだ」「コンクールに出たいんだ」「全国」。
だから肉体は、欲望の主体がちゃんとそこに存在していることを証明するかのように、画面いっぱいに生々しく描かれる。
終盤はもっと直截だ。
炎天下での練習。頬を火照らせ汗を滴らせながら練習に励む彼女たちは、ときに渇きを癒そうと喉を鳴らしながら水を飲む。それらのシーンは例外なく艶めかしい。オーディションに勝って奏者に選ばれたい、今は手こずってるパートをもっとうまく吹けるようになりたい。喉の渇きは、そういう欲の隠喩表現だ。ときに口元を濡らしてしまうほど勢い良く飲むのは満たされることを強く欲してるからだ。
あの夏の夜。これから山に登ろうというのに、麗奈はノースリーブのワンピースにヒールサンダルという格好だった。対する久美子はTシャツとショートパンツにシューズというラフな出で立ち。片やデート、片や気心の知れた友だちとのお出かけのよう。その落差は気合いいれておめかししてきた麗奈の“欲”を際立たせる。
『響け!ユーフォニアム』は、何より絵でその強さを表現している。
音楽マンガには演奏の素晴らしさを聴衆のリアクションによって表現する手法がある。『ユーフォ』でもサンフェスへの出場を賭けた合奏や、サンフェスにおけるマーチングの際にこれが用いられた。アニメだから音そのもので質の高低は表現可能だし実際されているのだが、強調表現として使用されたのだ。
しかしながらラストのコンクールでは聴衆の反応がいっさい描かれない。いったいこの差はなんだろうか。
冒頭でも述べたように、『ユーフォ』は努力に努力を重ねたのに鳴らしたい音へとたどり着けなかったことやオーディションに敗れコンクールへ出られなかったことがくやしくて涙を流してしまう物語だ。
努力そのものには何の価値もない。滝も誰も努力したことを褒めない。努力の末に響かせた音にのみ評価が下される。聴衆は、久美子たちの努力を一切しらない。ホールに響き渡るあの音が努力の末のものなのかそうでないのか一切しらない。
しかし我々は知っている。努力をし、欲をむき出しにしてぶつかり合ってきた先にある音だと。滝に叱責され、炎天下で汗を滴らせ、楽譜に「全国」と大きく書き込み、がむしゃらに努力してきた先にある音だと。だからそれはきっと素晴らしいのだ。みんなが積み重ねてきた努力を知る葉月が「いっすね……」と呟く音はきっと素晴らしいのだ。
そこに聴衆のリアクションはいらない。ステージの上でまばゆい光を浴びた久美子たちが響かせる音、それは素晴らしいに違いないと我々はもう知っているのだから。
親から理想の愛情を得られなかったため大人になって病むアダルトチルドレンパターンはオタクにもしばしば見られるが、
男オタの「バブみ」と女オタの「モンペ」が同時に流行っているのは興味深い事象だと思う。
「バブみ」はキャラクターに保護者らしさを感じ、甘やかして欲しい、包み込んで欲しいと思う気持ち。
「モンペ」は物語の製作サイドに「もっと○○ちゃんを登場させてください!」などと要求するキチファンを指したのが最初のようだが、
最近は「○○ちゃんが可愛くて可愛くてモンペになる」という愛情の強調表現としての使われ方の方がよく見かける。
男オタの幼児退行と、女オタの保護者化。対照的であるが、心理士によるアダルトチルドレンの実際の治療では、
患者が子供になりきるロールプレイではなく、親になりきって子供を愛するロールプレイが使われている。
フィクションには自己治療に使えるという側面がある。ここから考えると、女オタの方が「治っていく」可能性が高いのではないか。
リンク先のおすすめ品と主張が合わないのは同じだが、これとも少し目線が違うな。やはり人はそれぞれ重きをおく部分が違う。
私は面倒くさがりの片付け超絶苦手人だが、ちょっと節約してる趣があると罪悪感がないのが好きで、生ごみの匂いが嫌いだから燃えるゴミだけはこまめに捨てる感じの性格です。
とりあえず、洗濯機くらいはあってもいいなあ。全自動洗濯機なんてほっときゃあとは干すだけだもん。
あ、ちなみにリンク先のブコメでおすすめされてた乾燥機付き縦型洗濯機使ってたけど、あれも一長一短だった。
乾燥機能はあれば便利かもしれない。ただしこの機能を使うのは綿製品のタオル下着程度だから(ほかはしわくちゃ&痛む、すぐ毛玉みたいになる)、あんまりタオル洗わない人は恩恵が少ない。
綿埃の処理が結構頻繁に必要なので面倒くさがりにはおすすめできない。電気代もかかる。
でも乾燥機能で乾かしたタオルは柔軟剤を少し入れるとすっごくいい香りでフカフカになる。気持ちいいよ。あと槽内にカビが生えにくい。
もし乾燥機能がほしいのなら安めの機種に搭載されている「風乾」ではなく「熱風乾燥」を必ず選ぶこと。風乾はおまけ程度の能力しか無い。というか、槽内のカビ防止以外に意味あるのかなアレ?
汎用性を求めるなら乾燥機能付き洗濯機よりも除湿乾燥機+ホームセンターかなんかで売ってる室内用物干しをおすすめする。
朝洗濯→帰る頃には乾く が天気関係なくできる(なぜ夜の間やらないかというと、うちの除湿機は音がうるさいから…)。
なんか除湿機もデシカントだかコンプレッサーだかの方式で向き不向きあるらしいんで調べて買ってくれ。
掃除機はきれい好きじゃないから適当に買えばいいと思うけど、安物のサイクロン掃除機は重い上にコードが太くて動きづらくフィルタ掃除がすこぶる面倒だった。ほんとフィルタの掃除が面倒だった(強調表現)。
置き場所に困らないのなら紙パック式のそれなりのメーカーの安い掃除機がいいかな。でも本体でかいからちょっと動きづらいんだよね…。部屋が狭いと余計に。
大きなゴミが取れないけどクイックルワイパーささーでもいいと思う。ウェットタイプ使えば手軽に濡れ拭きできるし。
え?ルンバ?床にモノおいちゃうんで…ずぼらですんません…。床にものがなくてもワンルームなら狭くてルンバ使う程でもない気がするし、二部屋以上あると敷居の段差でつっかかりそうだけどどうなのかな?
燃えるゴミは最初に書いたようにこまめに捨てちゃうので、自治体の指定ごみ袋をそのままゴミ箱にセットして使ってる。
というか、ゴミ箱ですらなくて使用済みダンボールに切り込み入れて取っ手を引っ掛けられるようにして使ってる。使っておいてなんだけど、これは見た目があまりにもズボラすぎるのでやめた方がいい。
セットするゴミ袋は小さめのサイズにしておくとすぐに一杯になって「すてなきゃ!」って気分になるので、あまり大きな容量のじゃないほうがいいと思う。
缶ゴミやらは透明な袋に入れて捨てなきゃいけないっていう決まりになってるので、取っ手付きビニール袋を引っ掛けるだけの100均グッズをゴミ箱代わりにしてる。
どのくらいゴミが溜まったか可視化されてやはり「捨てなきゃ!」って気分になれる。
でもいつも缶とかビンとかの日、忘れちゃうんだよなあ。トリアタマだから隔週だと記憶されない…。
自炊は確かにやすさを追求していろいろ犠牲にしないと割高になるけど、その代わり自分好みの暖かいご飯が食べられるから余裕がある時はできるだけしている。野菜好きだからいっぱい食べたいけど、惣菜や外食って野菜の比率が少ないんだよなあ。野菜多いと高いし。
ちなみに給食リスペクトで一回の食事には、野菜(青い野菜と白い野菜と赤い野菜を日によって使い分けるか混ぜる)と肉や魚、そして炭水化物を必ず入れるようにしている。するとうまい飯になる。
ザルについて。確かにパンチングは水切れ悪いが、洗うときのつまりにくさはピカイチ。隙間にカスが挟まることはほぼ無い。サビも殆ど起こらない。
つまり、美味しさより片付けの楽さを求めるあなたならきっとパンチングで幸せになれる。
リンク先のブログで紹介されてるボール+ザルは高過ぎると思う。アフィでもないのになぜあんな高いのを…?
そして料理にこだわらないが自炊はするのなら、元増田と同様にフライパンはテフロン加工またはマーブル加工がおすすめ。
鉄のフライパンの下準備と手入れは大変そう(使ったこと無いので聞いた話からの推測)。
包丁はオールステンレスもいいけど、セラミック包丁も錆びなくていいよ。砥がなくていいというか砥げないし、たいてい1回分の研ぎ直し券がついてる。
まな板はすぐ汚くなって漂白とか面倒なので、100均で曲げられる薄いまな板を買って使ってる。
重くないので洗いやすいし、かけて干しておけるので衛生面もクリアー。それでもだんだん汚くなってくるので、そうしたら買い換えればおk。
あ、あと洗った食器を置くザル付きバットみたいなやつ!あれね、面倒くさがりはバット(水受け)を敷かない方がいい。
一人暮らしを始めたばかりの頃、夏場にずっと水を捨てないでいた結果ウジが湧いた…。
初めて見るウジにビビりながら震える手で処理したよ。ウジが見てみたいひとはやってみるといいよ。
買ったほうがいいものじゃないけど、缶・ビン・プラスチックは洗っておくとごみの日を忘れて放置しまくっても悲惨な状態にならないので洗い物のついでにすすぐひと手間をかけること。
私からは以上だ!
日本出版社協議会と名乗るわりにあまりに日本語に不自由なブログエントリ「拝啓 アマゾン・ジャパン様: 日本出版者協議会」が話題なので、
論文、たまにビジネス文書の添削で食っている(それだけじゃないけど)俺が添削してみた。
(コメント)Amazon.co.jpを運営している会社に何かを訴えたい場合は「アマゾンジャパン株式会社」が登記上の名称ですのでこちらをお使いください。
「アマゾン・ジャパン」株式会社という会社は存在しないもしくは別会社の可能性があります。
御社が開業以来、人文書並びに文学系の専門書に比重のあるわが社にとっては、大型書店以外では店頭販売の機会が少ないものを含めて大変お世話になっております。当初から比べれば、現在ではわが社の月の売上の15%を占める状態にあります。
(添削例)人文系並びに文学系の専門書の出版に重きを置く弊社にとって、貴社の開業による弊社の売上への効果は目覚ましく、現在では月の売上の15%を占めるほどとなっております。
(コメント)複文を用いたことによって文全体の論理関係が不明瞭になっています。何に大変お世話になっているのかがよく分かりませんでした。
また、御社は口語で用いられる単語であり、文語では貴社を使います。また、わが社も全文の小社との意味の兼ね合いからやや不適切ですので、弊社に改めたほうがよいかと考えます。
御社が、わが国の再販制度を前提に、世界有数の通販会社のノウハウ、特に顧客管理と流通システムの導入による販売力の展開は、わが業界に“黒船的”な変革を迫る物でもありました。当初は、定価販売と送料を含めた書籍の直販の一般的な販売スタイルでした。それでも売上を伸ばし続けたのは、御社の通販会社としての底力であり、業界全体に学ぶべきものを突きつけるものでした。
(添削例)貴社が、日本の再販制度を前提として、世界有数の通信販売のノウハウ、特に顧客管理と流通システムの導入を行いその販売を展開したことは、日本の出版業界にいわゆる「黒船的」な変革を迫るものでありました。当初の貴社の販売スタイルは定価販売と送料を含めた書籍の直販という一般的なものであったと記憶します。しかし、それでも貴社の売上が伸長しつづけたのは、通販会社としての(意味不明瞭。販売モデルの?)優秀さを示したものであり、業界全体に学ぶべきものを突きつけるものでした。
(コメント)日本語でのダブルクォーテーションによる強調("黒船的")は一般的でありません。日本出版社協議会がアメリカ英語の強調表現を用いることの意味がよく分かりませんでした。
また、いざというときに出てくる強い力という意味の底力という単語をこの文章で使う意味もよく分かりませんでした。どのような底力を発揮したのかも不明瞭です。
御社のモットーでもある「読者(消費者)第一主義」という名目による送料の無料化は、大量の物流を確保することによる企業努力の結果として運送会社の協力もあっての成果として評価すべき面もありますが、いわゆる正常ルートの版元→取次→書店の店頭販売という送料不要の通常コースを外れる直販商品の定価は送料分を見込んだ値上がりの傾向を生みました。
(添削例)貴社のモットーである「読者(消費者)第一主義」に従ったものと思われる送料の無料化は、大量の物流を確保することを見込んだ運送会社の企業努力も相まって、評価するべき面を有していると考えますが、いわゆる正常ルートである版元→取次→書店の店頭販売という…、