はてなキーワード: 猟奇殺人とは
振り返り。忘備録
0~2歳 赤子
中流家庭に次男として生まれる。よく泣き、興味をいろんなものに抱き大声で喚く活発な子供だったらしい。ベビーカーが嫌いだった
3~6歳 幼稚園
幼稚園では人見知りの一方、見知ると良く大声で騒ぎ活発に遊ぶ子供だった。先生が変わった事で親が幼稚園を変えさせる。
そこでも活発で、自分より足が速く喧嘩も強い子といつもつるんでいた。喧嘩もよくしていた。
同時に絵が少し上手く、傷つきやすい繊細な子でもあった。運動やレゴ、一人遊びも好き。目立つのも嫌いじゃなかった。
7~9歳 小学校前半
活発で成績も悪くなく、よく騒いでいた。親が厳しい事に不満を持っていた。このころから少し不安障害的傾向もあったが隠せていた。忘れ物も多くした。
鬼ごっこをしたり折り紙が好きだった。ゲームが殆ど出来ない家庭で、漫画も禁止だった。友達ともあまり遊べなかった。
初恋をし、その子の事が大好きだった。完全に諦めるまで10年かかる。勉強はクラスで一番できていたが、親が黙っていたらしい。
ゲーム、漫画は禁止、外遊びも制限されていて、そのせいで友達から恨み言を言われる事もあった。
活発で友達とはポケモンの話をしたりしていた。12歳ごろから勉強が苦手に感じ始める。
強迫性障害になる。勉強も落ちぶれる。部活も上手く行かなかった。初恋の子に彼氏が出来る。
2chにハマったり猟奇殺人犯について調べたり、同時にたまに明るい子になったり暗くなったり。
勉強をしてもゲームが出来るわけでもないので、ずっと不満が溜まっていた。このころからこっそりゲームをしたり、友達とカラオケに行ったり、親を裏切る事を学び自由になる。
15歳ころから絵を描き始め、特に娯楽があったわけでもないのでハマる。
勉強は落ちぶれたままだがそこそこの高校に行く。強迫性障害で苦しみつつ、部活は上手く行き無くなっていた自信を取り戻し始める。
後輩で経験者が入ってきて自信を少し失う。小説をポチポチ書いたりする。
当時はあまりメジャーでなかったスマホFPSにハマったりする。絵を描き続け、2chのコミュニティで崇拝する人に出会う。
勉強と言うより、自分一人の時間に没頭する。幸せな時間でもあった。自分で色々思索を巡らしたりする。結局志望大学には受からなかった。
1年目に昔の初恋の子に遭ったり、久しぶりに恋をしたりしてフラれ、2年目に一発発起してサークルに入る。ケガや挫折も経験しつつ、荒波に揉まれ2年間努力した後そのまま退場。
自分を好いてくれる人も居たが結局付き合わなかった。
就活の時期はイラストかゲーム関係に就職したいと思い、予備校に入ったりするが、やる気も無く上手く行かず。結局ずるずるとニートに入る。美大に入りなおそうか考える
初めの2年間は家庭内のごたごたの対処。23歳で居酒屋のバイトを辞め、実家に寄生しつつ24歳の中盤にイラストのバイトを始め月1万を稼ぐ。実質ニート。
友達と月一でキャンプに行ったり飲み行ったり、運動をしたりしていた。ここらあたりでFPSにハマりはじめる。自宅で密造酒を作りはじめる。
残りの二年、コロナ初め頃の25歳で初彼女ができるがすぐフラれ、マッチングアプリで会いまくり一年で6人に経験人数が増える。挿入まで行かなかったは3人なので男女関係になったのは9人。
イラストのバイトで仲介先に文句を言って切られ、26歳の最後の半年は本物のニートになる。その間にプログラミング・ゲームエンジンの勉強をする。生活習慣が乱れ、振り返ると病んでいた。
それは幻想に過ぎなくて、我々は常に暴力を行使する側であり暴力を甘受しなければならない側でもあるんだな。
我々は常に暴力を振るっているし、そして常に暴力に晒されている側でもあるんだな。
何というか、そういう単純な地平が思いのほか人々には見えていないようなので、僕としてはビックリすること頻りなのである。
暴力を使ったことのない人間などいない。暴力は我々の内部に根差しているし、我々は暴力を行使する。我々はそれによって何かを成そうとする。それが人間という生物の基本的な行動パターンじゃないかと思う。何故世の中の人はそういう理解から遠ざかっているのか、自分は暴力の主体ではなく暴力をただ甘受する哀れな人間であると何故誰もが名乗るのか。僕としてはその辺が不思議でならない。何故あんたたちは暴力の主体であるという意識を持てないのだ? 我々は暴力を普段から行使しているではないか、誰かを貶め誰かを踏みにじり誰かを圧殺することを通してでしか自らの繁栄を築き上げることなんてできなかったじゃないか、何故その意識から逃げるのだ? などなどと思う。
「我々は被害者だ」という文言は勿論限定的な文脈においては成立する。例えば、道を歩いている時に突然誰かにぶん殴られたとして、「俺は加害者だ!」などと宣う人間はいかにも不自然である。勿論、そういう文脈において人は被害者に成りうるし、俺も別にそれを否定しているわけではない。しかし避け難く我々は被害者であると同時に加害者であるのだ――それを誰もが理解していないということに対して原初的な違和感を覚えざるを得ない。何故皆はその共通普遍の認識から遠ざかるのか? 何故我々が加害者であるという意識を誰しもが持たずに生きているのか?
ホッブズの『リヴァイアサン』。その書物をご存知だろうか。多分、殆どの人々がかの書物を最初から最後まで読み通したことはないと思うのだけれど、社会科や世界史の授業で、「人間は万民が万民に対する闘争の状態にある」という著作中の警句を大いに聞かされた人は多いのではないだろうか。勿論これは事実でありまた慧眼である。いや、少し違うな。勿論、我々は皆お互いにお互いのことを殴り合っているわけではない。勿論、我々は皆が皆お互いのことを殺したり犯したり盗んだり騙しているわけではない。常にそれを行い続けているというわけではない。勿論、そのことくらいは俺にだって分かっている。でも、問題はそうじゃないんだ。我々が、この世界において、そういう具体的な行為に及んでいるわけではない。勿論それは分かっているのだけれど、でも、問題はそうじゃないんだ。僕たちはそれと分かるような暴力行為に出るわけじゃない。勿論、誰もが誰かの門前で誰かを殺したり誰かを犯したり誰かから盗んだり誰かを騙しているというわけじゃない。勿論、そうなんだけれど。
でも、結局のところ我々は誰かから盗まなければ生きていけないのである。
誰かを、騙さなければ生きていけないのであるし、誰かを犯さなければ生きていけないのであるし、誰かを殺さなければ生きていけないのである。それはとても自明のことなのだ。
勿論、我々は誰も殺したことがない。そうだと思う。俺もそう思う。俺は誰も殺していないし、誰からも盗んでいない。誰かに関して騙したことはあるかもしれないが、よく覚えていない。
でも誰かを傷つけたことはあるし、誰かを貶めたことはある。勿論それはそうだ。誰をも貶めず誰をも傷つけずに生きている人間などこの世にはいない。有り難いことにそれは明々白々の事実で、俺も例外なく誰かを貶めたり傷つけたりすることを、かつて息をするかのように行っていた。俺は誰かを踏みにじり、誰かを貶め、誰かを傷つけ、誰かの価値を下げていた。何らの見返りがあったわけでもない。そのような行為を冒すことによって自分自身に対して何らかの報酬があったわけではない。でも、俺はそれを毎日のように行っていたのである。
俺はある時にふとそのことに気付いたのだけれど、特にショックと言うべきショックはなかったと思う。一応きっかけと言うべきものはあって、それは当時俺の身近にいたパワハラ上司に対して憎悪の念を燃やしていた時であった。あの上司には価値がない、あいつには生きている価値がない、あいつは自己反省のできない俗物だ――そんなことを考え続けていた時に、何となくそのことが、ストンと腑に落ちたのである。
自分のことを振り返ってみれば、自分だって誰もを貶め傷つけてきたじゃないかと。それをさも当たり前の行為のように行ってきたではないかと。
まあ、仕方ないよな、と。そう思ったのである。
まあ、仕方ないよな、だって、俺は俺だもんな、と。だって、俺は俺なのだから、誰かを貶めたりするくらいのことはするだろうな、と。
そんな風に思ったのである。俺は俺だから、俺は多分当たり前のように誰かを貶めたり傷つけたりするだろうと、自分としてはそれは明々白々の事実だと、ふと思ったのである。ある時に俺はそれに気付いた。まあ今更そんな青臭い自己発見について長々と語ることに些かの恥ずかしさがあるのだけれど、でもそれは個人的には大発見だったし、その発見について自分はこの数年間というもの忘れたことがない。俺は誰かを――
そう、人は誰かを貶めなければ生きていけないのである。そのことは明らかなのだ。
ずーっと昔、多分十五年くらい前なのだけれど、俺は猟奇殺人犯の伝記を読むのが好きだった。とても好きだった。彼らは変わった人物で、我々とは少し違ったものの考え方をした。
中でも印象に残っているのは、かの有名なジョン・ウェイン・ゲイシーで、彼の残したある一言が俺はとても好きだ。俺はその一言をここに書いてみることはしないけれど、でも、俺はその彼の一言がとても気に入ってしまったのである。その一言を聞いて、俺は、素朴にそうかもしれないな、と思ったのである。それはまるで、俺自身が無意識の内に誰かを貶め誰かを傷つけ続けて生きてきたことを、ある時ふいに直観したのとまるで同じくらいに、臓腑に染み込んでくる言葉だったのである。ああ、そうかもしれないな、と俺は思ったのだ。その言葉に。
とにかく我々は日々誰かを貶め誰かを傷つけ、時には犯したり殺したり盗んだり騙したりしながら生きている。それはあまりにも自明のことじゃないか、と俺は思う。
我々の人生はどこから始まったのかと言えば、当然二十年前であり三十年前であり四十年前なんだけど、我々の祖先はどこからやって来たのか、という話をした時に、辿ることのできる歴史には果てがない。我々は遺伝子のボートに乗って何千万年も旅をしてきた、あるいは、何億年と旅をしてきた。
我々の中にある遺伝子の声を聴く時に、そこには声にならない声がある。我々はその声に耳を澄ませ、そしてある程度言語化された呻きを聴くことができる。我々は、その微かな声を頼りに、歴史を辿ることができる。我々は遺伝子のボートに乗って何千万年も旅をしてきた、あるいは、何億年と旅をしてきた。
当然ながらその歴史は暴力と共にあった。恐らく、そこには絶えざる暴力の連鎖があった。我々は多分誰かを殺し続けてきただろうし、誰かを犯し続けてきただろうし、誰かを騙し続けてきただろうし、誰かから盗み続けてきたことと思う。
我々は誰かから犯され続けてきたし、誰かから騙され続けてきただろうし、誰かから盗まれ続けてきたと思う。
それは幻想に過ぎなくて、我々は常に暴力を行使する側であり暴力を甘受しなければならない側でもあるんだな。
我々は常に暴力を振るっているし、そして常に暴力に晒されている側でもあるんだな。
何というか、そういう単純な地平が思いのほか人々には見えていないようなので、僕としてはビックリすること頻りなのである。
暴力を使ったことのない人間などいない。暴力は我々の内部に根差しているし、我々は暴力を行使する。我々はそれによって何かを成そうとする。それが人間という生物の基本的な行動パターンじゃないかと思う。何故世の中の人はそういう理解から遠ざかっているのか、自分は暴力の主体ではなく暴力をただ甘受する哀れな人間であると何故誰もが名乗るのか。僕としてはその辺が不思議でならない。何故あんたたちは暴力の主体であるという意識を持てないのだ? 我々は暴力を普段から行使しているではないか、誰かを貶め誰かを踏みにじり誰かを圧殺することを通してでしか自らの繁栄を築き上げることなんてできなかったじゃないか、何故その意識から逃げるのだ? などなどと思う。
「我々は被害者だ」という文言は勿論限定的な文脈においては成立する。例えば、道を歩いている時に突然誰かにぶん殴られたとして、「俺は加害者だ!」などと宣う人間はいかにも不自然である。勿論、そういう文脈において人は被害者に成りうるし、俺も別にそれを否定しているわけではない。しかし避け難く我々は被害者であると同時に加害者であるのだ――それを誰もが理解していないということに対して原初的な違和感を覚えざるを得ない。何故皆はその共通普遍の認識から遠ざかるのか? 何故我々が加害者であるという意識を誰しもが持たずに生きているのか?
ホッブズの『リヴァイアサン』。その書物をご存知だろうか。多分、殆どの人々がかの書物を最初から最後まで読み通したことはないと思うのだけれど、社会科や世界史の授業で、「人間は万民が万民に対する闘争の状態にある」という著作中の警句を大いに聞かされた人は多いのではないだろうか。勿論これは事実でありまた慧眼である。いや、少し違うな。勿論、我々は皆お互いにお互いのことを殴り合っているわけではない。勿論、我々は皆が皆お互いのことを殺したり犯したり盗んだり騙しているわけではない。常にそれを行い続けているというわけではない。勿論、そのことくらいは俺にだって分かっている。でも、問題はそうじゃないんだ。我々が、この世界において、そういう具体的な行為に及んでいるわけではない。勿論それは分かっているのだけれど、でも、問題はそうじゃないんだ。僕たちはそれと分かるような暴力行為に出るわけじゃない。勿論、誰もが誰かの門前で誰かを殺したり誰かを犯したり誰かから盗んだり誰かを騙しているというわけじゃない。勿論、そうなんだけれど。
でも、結局のところ我々は誰かから盗まなければ生きていけないのである。
誰かを、騙さなければ生きていけないのであるし、誰かを犯さなければ生きていけないのであるし、誰かを殺さなければ生きていけないのである。それはとても自明のことなのだ。
勿論、我々は誰も殺したことがない。そうだと思う。俺もそう思う。俺は誰も殺していないし、誰からも盗んでいない。誰かに関して騙したことはあるかもしれないが、よく覚えていない。
でも誰かを傷つけたことはあるし、誰かを貶めたことはある。勿論それはそうだ。誰をも貶めず誰をも傷つけずに生きている人間などこの世にはいない。有り難いことにそれは明々白々の事実で、俺も例外なく誰かを貶めたり傷つけたりすることを、かつて息をするかのように行っていた。俺は誰かを踏みにじり、誰かを貶め、誰かを傷つけ、誰かの価値を下げていた。何らの見返りがあったわけでもない。そのような行為を冒すことによって自分自身に対して何らかの報酬があったわけではない。でも、俺はそれを毎日のように行っていたのである。
俺はある時にふとそのことに気付いたのだけれど、特にショックと言うべきショックはなかったと思う。一応きっかけと言うべきものはあって、それは当時俺の身近にいたパワハラ上司に対して憎悪の念を燃やしていた時であった。あの上司には価値がない、あいつには生きている価値がない、あいつは自己反省のできない俗物だ――そんなことを考え続けていた時に、何となくそのことが、ストンと腑に落ちたのである。
自分のことを振り返ってみれば、自分だって誰もを貶め傷つけてきたじゃないかと。それをさも当たり前の行為のように行ってきたではないかと。
まあ、仕方ないよな、と。そう思ったのである。
まあ、仕方ないよな、だって、俺は俺だもんな、と。だって、俺は俺なのだから、誰かを貶めたりするくらいのことはするだろうな、と。
そんな風に思ったのである。俺は俺だから、俺は多分当たり前のように誰かを貶めたり傷つけたりするだろうと、自分としてはそれは明々白々の事実だと、ふと思ったのである。ある時に俺はそれに気付いた。まあ今更そんな青臭い自己発見について長々と語ることに些かの恥ずかしさがあるのだけれど、でもそれは個人的には大発見だったし、その発見について自分はこの数年間というもの忘れたことがない。俺は誰かを――
そう、人は誰かを貶めなければ生きていけないのである。そのことは明らかなのだ。
ずーっと昔、多分十五年くらい前なのだけれど、俺は猟奇殺人犯の伝記を読むのが好きだった。とても好きだった。彼らは変わった人物で、我々とは少し違ったものの考え方をした。
中でも印象に残っているのは、かの有名なジョン・ウェイン・ゲイシーで、彼の残したある一言が俺はとても好きだ。俺はその一言をここに書いてみることはしないけれど、でも、俺はその彼の一言がとても気に入ってしまったのである。その一言を聞いて、俺は、素朴にそうかもしれないな、と思ったのである。それはまるで、俺自身が無意識の内に誰かを貶め誰かを傷つけ続けて生きてきたことを、ある時ふいに直観したのとまるで同じくらいに、臓腑に染み込んでくる言葉だったのである。ああ、そうかもしれないな、と俺は思ったのだ。その言葉に。
とにかく我々は日々誰かを貶め誰かを傷つけ、時には犯したり殺したり盗んだり騙したりしながら生きている。それはあまりにも自明のことじゃないか、と俺は思う。
我々の人生はどこから始まったのかと言えば、当然二十年前であり三十年前であり四十年前なんだけど、我々の祖先はどこからやって来たのか、という話をした時に、辿ることのできる歴史には果てがない。我々は遺伝子のボートに乗って何千万年も旅をしてきた、あるいは、何億年と旅をしてきた。
我々の中にある遺伝子の声を聴く時に、そこには声にならない声がある。我々はその声に耳を澄ませ、そしてある程度言語化された呻きを聴くことができる。我々は、その微かな声を頼りに、歴史を辿ることができる。我々は遺伝子のボートに乗って何千万年も旅をしてきた、あるいは、何億年と旅をしてきた。
当然ながらその歴史は暴力と共にあった。恐らく、そこには絶えざる暴力の連鎖があった。我々は多分誰かを殺し続けてきただろうし、誰かを犯し続けてきただろうし、誰かを騙し続けてきただろうし、誰かから盗み続けてきたことと思う。
我々は誰かから犯され続けてきたし、誰かから騙され続けてきただろうし、誰かから盗まれ続けてきたと思う。
好きな作家がいる。彼はどうも「普通」に対して何か思うところがあるらしく、その作家の作品には普通になれない人々が多々出てくる。
ここでいう普通ではないというのは猟奇殺人者とかセックス依存症とかそういうのじゃなくて、普通の両親の元に生まれて普通に進学して働いて~っていうレベルの話だ。
作品に出てくるのは、ただただ働かない人、夢を追いかけ続ける人、家から出ることがほぼできない引きこもりとかがいた。
僕の人生もなんか微妙に普通じゃなかった。幼いころ父をなくして片親育ちだし。でも親は新しい人を見つけてその人の子供まで作った。でも結婚はしてない。
そのうえ僕も気にしなきゃ表面化しないレベルの精神障碍者だった。これが原因で大学では3留することにはなった。
ちなみに作家と僕の年は近かったりする。そんなことはどうでもいいか
僕は普通になろうとしてた。普通の大学を出て普通にそれなりの会社に就職してサラリーマンになって~な人生を歩もうとしてた。
僕が不通になろうとして、大学に進学して、普通になれなくて、留年したとき作家の作品にであった。
普通になろうとしなかった作家が書く普通じゃない人々の日々は当時の僕にはなんというか元気をくれたと思う。
その作家が書く普通じゃない人々はなんというか少しだけリアルだったと思う。そういうありかたもアリなんだろうかと思わせてくれた。
まぁでも結局のとこ、僕はその作品と出会ってから3留してなんとかして大学を卒業し、それなりの大きさの会社に就職して、今もまぁそれなりに働いてる。
完全に普通になれたかというとそうではないけどまぁ普通に食えてて倒産の危機とか全然考えなくて済むサラリーマンにはなった。
関係性オタ、というんですか?
いやBLじゃなくても、創作ネタに使われる…ファンアートがファンアートじゃない…。
弟が舞台やちょこっとドラマに出るようになってから、共演者相手のBL妄想や、ファンアートを装った妄想が多く届きますよ、本人にも、私たち家族にも。
直接送りつけられることもあれば、こんなのがネット上にあるよ、と知り合いから届きます。
送ってくれる人は悪気なくて、こんな風に描かれてるよ~ってネタっぽくは言うんですが(ほとんど同級生や幼馴染みのしわざ)。
正直、恋愛感情の夢?妄想も怖いです、ストーカー化するんじゃないかと。
でも私も兄も、芸能活動してる本人の弟もそのあたりは覚悟していて、ストーカーや家族に関わるものは断固警察介入させますからね、とデビュー前に母と約束していた。
予想外に困ったのが二次創作の的になることで、BLもそうだし、BLじゃなくてもファンアートもそう。
兄弟みんなオタクなので二次創作もわかります、BL趣味も腐女子もわかります。
でもいざ、自分や自分の役がBLにされてみると、本人も最初は苦笑…だったのが、たまに怒りをにじませるのが増えてきたなぁと。
腐女子がテーマの「私がモテてどうすんだ」の映画に出演しているTHE RAMPAGEのメンバーが、「好きな人がメンバー同士のカップリング妄想してたら?」に対して「それはちょっとキツい」「それはちょっと怒ります」と答えていましたね。
わかるわかる!これだよ!と。
弟はグループではないですが、同世代で仲の良い共演者と遊んだりしていて、インスタにあげるたびに「関係性オタク」の女子たちがBL目線でくいついてくる…。
相手さんは、そういうのも人気を高めるために必要だと思っていてスキンシップするんですけど、弟はそういうの基本ダメ。
これは弟ではなく先輩□□さんのインスタですが、
○○くんと一緒にいるんですか?
○○くんとスタライして!
結婚しちゃいなよ!
よくあるコメントですが、まれに○○くんと××さんとの関係性推しの方に、□□さんが間男扱いされるコメント入っていてびっくりしたり。
一緒に映ってるの○○くんじゃなくて弟です…。
でも何か言われるかも(付き合えとか、間男だとか浮気じゃんとか…)なので、弟はネタばらしせず沈黙してます。
……
……
"ファンアート"って…本人に見られてもいい"応援"ですよね?
違うのかな。まずここが違う?
でもファンアートと言われたら本人は応援の意味だと思います。名前を出して鍵かけずに発信されてますし。
ファンアート……の漫画…、(これは同級生がサーチして弟に送ってきたものですが)、完全に妄想では???二次創作では??
ファンアート…シナリオ内になかったifを妄想して、描いてる人の趣味嗜好ごりごり反映しててもファンアート??
最近見た漫画は弟のファンではなく共演者のファンが描いたもので、弟の役はその漫画では他愛もない脇役でギャグみたいな内容でしたけど…弟は「こういうのって本人見てないと思ってるのかな」と。
内容はBLではなかったですが、演じたキャラクターを揶揄するギャグ。
先輩相手だったので「俺□□さんに、こんな(失礼な)こと言わんよ~!」みたいな反応してて。
確かにその辺弟はめちゃくちゃ礼儀には気を付けていて、役もそんな無礼講キャラでもなかったので、「伝わってないんだな~」と本人が反省してましたが…。
きれいな一枚絵でも、「なんでこれ、一人(○○くん)だけ目ェでかくてまつ毛バシバシなんやろ(他は男性的に描かれてる)」「"ウケ"なんじゃない?」「やめーや」って話したこともありますし(がんばって鍛えてるのに一人だけやたら女性的な見た目に描かれる)
←これほんと本人も俳優友達くんたちもみんな嫌がるけどよく見ますよね。特定の方"だけ"急に女の子みたいに描くので…ウケ…?を察してしまって、きれいな絵だなー以前に「あっ…」となってしまい「これは…たぶん見ちゃだめなやつだったね~」「○○くんには見せられんね~」。
文字だけの妄想ツイートでも、「○○(共演者)くんこんなドクズじゃないのにね」「妄想なのに、断定系(~しそう、~してほしい、じゃなくて、~するよね絶対、~した(小説風?))だとマジでそれしてるっぽくてやだ」とかも…
猟奇殺人犯役似合いそうな顔!とかほんと家族は傷付くので…(兄弟みんな顔にてる…泣)。
もっと売れてあっちこっちでありもしないゴシップ書かれるようになれば、こんなくらい気にならなくなるよ~
有名税ってやつ?攻撃するような誹謗中傷じゃなければがまんしなきゃね~
ファンアート勢、夢勢、妄想ツイート勢、BL勢…みんなちょっとでも相手は実在してる人間だよって思い出してね…見てますから。見て、これ知り合いや友人同士で言われてもやだなぁって思うようなこととして、伝わってますから…。
批判したいとかじゃなくて、ファンで、絵とかツイート見せたいという思いなのだとしたら、ちょっと内容のこと考えてね…それ言われて喜ぶ?それ妄想すぎない?大丈夫?
自分の創作活動のネタにして、自分が褒められるネタにしたいだけにみえてしまう時、あります。
妄想は妄想です。それはファンアート、ファンツイじゃなくて妄想の二次創作!!
せめてそういうのは隠れてやってね!隠れていればこちらも見て見ぬふりできるからね…。
ほんとに、Twitterなら鍵つけるだけでこちらもあえて掘ろうとしませんから…。
描くとSNSで人気者になれるかもしれないけど、推し自身や推しの仕事仲間や家族が傷つくかも嫌かも気にするかも、よりもそれは優先する楽しさなのかな?
もし応援したい気持ちがあれば、仲間内でこっそり交換しあったりする楽しみ方してみないかな?
感想や応援なんかはすごくすごくうれしいし、事務所マネさんがわざわざ感想ツイートキャプチャー送ってくれたりするのでうれしいみたいです、ファンアートも保存させて頂いてます!
(でもこれ先輩俳優さんが、インスタで「ファンイラストありがと!」って反応したら「反応しないのがマナーです!」「消してください!」って怒られたみたいで、えーっ応援絵に反応ダメってどういうこと!?となって、私もそれはわからんな~と、今回のこの記事に繋がりました…)
そして最後に
「妹が一人いるようです!」
いねーよ、姉だよ。姉と兄だよ!!
みんな、信じるなよ!
Twitterで回ってきて、あっそういう意味に見えちゃうかなと思ったところを修正しました。
Twitterで周囲の人が悪いとおっしゃっている方もいました。送ってきてくれる周囲の人は悪くないので、そこは理解してください。
なにより、どこでどういう反応されているのか収集するのは本人だけじゃできないので、事務所さんからスクショもらったり、周囲の人が教えてくれているのが仕事で助かっているので。
なので、だれでもみれるところにワンクッションもなしにあるものなのに、それを見たり教えたりする奴が悪い、みたいなのはやめてくださいね…。