はてなキーワード: 情けは人の為ならずとは
http://taida5656.hatenablog.com/entry/2018/07/18/213740
筆者の方のブログに直接コメントしようと思ったけど長くなったんでこっちで。
15話放送前に書かれた文章に対して15話の内容を反論材料にするのはいささか卑怯かもだけど、それ以前のエピソードを見ても明らかに記事中の考察とは反する描写があったので、難癖をつけておく。
あいねちゃんの安請け合いしてしまう性格や過剰なサービス精神の危うさは記事の中で指摘されているとおりだし、個人的にもプロフェッショナルとしてのアイドル活動と私人としての友達づくりがバッティングしてしまう展開は期待してたりする。
しかし、あいねちゃんは友達と認識した相手に対して非常に献身的である一方で、他人からの善意を遠慮なく受け取れる子であり(八百八の車に舞花ちゃんと乗ってる)、更には積極的に他人に助けを求められる子でもある(15話だけでなく、1話では弟らの遊び相手にみおちゃんを引き込んでいる)。
あいねちゃんの「友達」はあいねちゃん側から施して終わりの一方通行ではなく、相手から施されることも含めた関係だし、例として挙がっている士郎や映司と違って、その行動原理は義務感や切迫感でもなければ、他人と問題を分担できずに一人で背負い込むこともないだろう。
そしてあいねちゃんの友達側も、あいねちゃんの困っている様子に対して損得勘定なく行動している。15話の同級生や商店街の人々以外にも、9話ではみおちゃんが身も蓋もない名前のキノコをあいねちゃんのために採ってきている。
よって、作中の「友達」に対する利他的な姿勢は、あの世界の住民が皆大なり小なり持ち合わせているもので、あいねちゃんだけが持つ異常な精神性ではない。友達想いの傾向が強すぎるのが問題であって、友達を想っての行動そのものを否定したり人とは異なる思想とした描写は現時点で存在しない。
個人的には「トモダチカラ」なるものは滅私奉公の自己犠牲精神ではなく、「困ったときはお互い様」「情けは人の為ならず」の心を引き出すものではないだろうかと思う。
度の超えた世間知らずという設定も、世界観の導入(ことアイカツに関してはお仕事モノなのだし、素人が業界に小慣れててもなんかイヤじゃん?)や明快なキャラ立てという側面もあるし、というかマンガ的誇張もあるだろうに、それを人格的欠陥に結びつけるのも短絡的じゃないのかね。
私だってただの一視聴者だし、あいねちゃんのオリジンは放送されない限り知る由もないから記事の「友希あいね喧嘩したことない説」「友希あいねトラウマ抱えてる説」を否定はできないけど、ありもしない裏を勝手に見出して「心の闇は深い」なんてショッキングに煽っとけば注目してもらえるんだから楽な商売ですわな。商売ではないか。
でもまあ、「エマちゃんは小動物関連で何かトラウマ持ってそうじゃない?」って言われたら薄ら笑みを浮かべつつ首肯してしまうのは確かです。エマちゃんごめんなさい。
まとめてみました。
以下、私の意見です。
クリエイターさんは、「情報を無料にするな!」と叫ぶことに時間を割くのではなく、その時間を使って、情報が無料化される時代を読んで、高品質の作品を作り出すべきだと僕は思う。
多くのクリエイターは、あなたのように絶大な知名度を得るまでに、莫大な時間をかけているのです……。
この意見と、
糞ダセー。
……いや、モノによっては、そういうモノがあってもいいのかもしれません(←ここ大事!ニュースになると切り取られる部分ね)。
自分のやってる仕事を「お金もらってるから糞ダセー」と言うのか……?
おそらく、西野さん的には「最終的には『恩』で世界を回したい、だけどいきなりは無理だから、まずは絵本業界から手を付けてみました」ってところなのだと思います。
そう思うのは勝手ですが、そう思ってない他の絵本作家にとってはいい迷惑です。
西野さんにとっての「お金を貰わないと回らない仕事」が絵本作家にとっての「絵本創り」だったりするのですから。
絵本業界でこういう前例ができてしまったことを好ましく思わない人も当然いるでしょう。
西野さんのやったことは、確かにマーケティングでは多々行われている事だし、これからの情報化社会を考えれば正しい選択です。
しかしながら問題なのは、有名人にしかできないことを、さもすべて一般のユーザーがすべき事のように説いたことだと、私は考えています。
…てなワケで俺は無料にするけど、その代わり他のクリエイターに「西野はタダにしたんだからおまえもしろ」なんて絶対言っちゃダメよ。
西野さんはこう言っていますが、問題は「タダにする/した」ではなく、「無料商法」を時代の波だ、と論じているところです。
世の中にはそう思わない「職人」も沢山いるってわけです。
自分が精魂込めて作った作品を「無料です!」という文句に釣られて寄ってきた、作品の価値・努力をわかろうともしないユーザーに扱ってほしくはないのです。
そういう点にも少し気を使ってもらいたかったなぁ、と私は思っている次第です。
ここまで私の駄文にお付き合いしていただいた方、本当にありがとうございました。
1捕 お金を借りたことは1円単位でも絶対忘れない、「期限より早く」「必ず」返す
2投 人の悪口を言わない。嫌な人がいるのは人間だし当たり前だけど、口には出さない方がいい
3三 自分の損を厭わない。人におごったり、自腹を切ることを避けない(もちろん許容範囲の中で)
4二 思いやりを持つ。情けは人の為ならず
5右 好きなことを作る、続ける。または特技を持つ
7中 自分のためになることに金を出す。健康、趣味、特技、生産性向上に「投資」する
9左 やりたいことはすぐやってみる。考える前に行動に移す。
http://www.mudainodocument.com/articles/40003.html
1捕 お金を借りるが、借りたことを忘れる
2投 人の悪口を声に出す、不平不満が多い
3三 自分が損をすることを極度に嫌う
4二 思いやりがない。もしくはゼロ
5右 好きなことや特技がなく、作ろうともしない
6一 継続的に身になることをしていない、または、上手くなろうとしない
9左 やりたいことはあるが、結局、行動しない
初投稿です。ここで文章を記して少しでも某大学の小論対策にでもなればなあ、と思っています。早速ですが自分の人生観について記したいと思います。
私は「他人のために」という言葉が嫌いです。皆さんの中には「会社のために」仕事をしている人はいますか?「お客様に喜んでいただくために」仕事をしている人はいますか?もしいるのなら、その仕事に給料が全くつかなかったとしても(全くは言い過ぎかもしれませんが)、その仕事をやりますか?「No」と答えたのならば、偉そうな顔した上司などには大バッシングを食らうかもしれません。しかし、私はここで「No」と答える人が素直で正しいと思います。いくらその仕事が好きだとしても、お金がなければ生活できません。その能力は、自分が働いてお金を貰うためにあるのです。
つまり「他人のために」という言葉は、何某かが自分のために他の人が動くよう「自己犠牲」を美化して惑わしているに過ぎません。仕事をするにも他の人に優しくするのも全部自分のためです。
どうやったら世界が良くなるか、歴史は繰り返さないかずっと考えている。
情けは人の為ならずという言葉と、生は悪であり魂を浄化するために人生で徳を積まなければいけないというピタゴラスの哲学を狂信的に信じて毎日毎秒生きている。
毎朝神社に行って神にも祈ってる。皆が幸せになればいいと心から思っている。全てを受け入れて生きている。ほかでもない自分のために。
俺自身が幸せかどうかは知らないけど、俺は将来、誰もが羨むような人間になる。
だが今がどうしようもなく耐えられない。毎日俺が起きる度に一歩ずつ死に近づいてるみたいだ。立ってるだけでも辛い。鏡を見たら涙が出る。
俺は、近頃は正しいことをしてきたつもりだ。脳がショートするくらい社会がどうやったらよくなるか考えてるんだ。今までの罰なのか?俺が一体なにをしたっていうんだ。早くこの独房から抜け出したい。幸せってなんなのか知ったけど、今度は自由について教えてくれ、神様。
月収16万円 40代アルバイトが餓死 生活保護申請通らず 市役所「知らん。俺は悪くない」 【2chまとめ】ニュース速報嫌儲板
http://newskenm.blog.fc2.com/blog-entry-47075.html
肉屋を煽てる豚は
自らが豚ではないと、いや豚になることはないと
例えば
ガンになったら?
車に轢かれて障害者になったら?
通り魔に襲われて半身不随になったら?
サリンガスによってまともに話せなくなったら?
火事で全てを失ったら?
生活保護を叩くことで得られるのはなんだ?
増田に告ぐ
明日もしも失職し全財産を奪われ家族が全員大病を患い自身が障害者になったら?
明後日を生きることはできるか?
自己責任の名の元に国民はだれもお前を助けなくていいとされている
それが、日本だ
家族のため犯罪に手を染めることすらいとわない人間らしい人間に
人生をうばわれるかもしれない
セーフティネットは誰が為にあるのか
情けは人の為ならず巡り巡って人のため
「ベンチャー役員三界に家なし」のユウタロスさんが、通りすがりの64歳無職に1歳の子供を殴られる被害に遭いましたが、
「持たざる者を擁護」って、ここで通りすがりの無職を擁護するようなものだと思うので。
ユウタロスさんの家族と、1歳児を殴るメンタリティの64歳無職だったら、後者の方が断然「持たざる者」じゃないですか。
恵まれないから暴力を振るってもいい、孤独で傷ついているから他人を搾取してもいい、
この手の「被害者面で自己正当化している加害者」からは、とにかく距離を置きたいと思っているし、支援する気は無いです。
毎月結構な金額だけど「金ならどうぞどうぞ、時間はやらないけど」という感じです。
haruharu1 『奪う者は弱者』『弱者の犠牲になって磨耗する必要はない』説っぽい。でも奪う者が弱いのではない。奪うことでしか得られない弱者の存在と、単純に奪う者の存在とを混在していると思う。悪はそんなに弱くはないぞ
「奪う者」になるのはヘドロがどんどん湧いてくる思考のクセを持っているからで、
そういう思考から抜けだせないのは頭が悪いからだから弱者だよねと思っています。
内面はというと、親にしてもらうのが当然で、親が自分に割いてるリソースを軽んじるし、親への不満ばっかりです。
子供は弱い。経済的にも精神的にも自立出来ないし、親次第のところが大きいです。だから「奪う者」になる。
低所得で孤独な人々の行動の特徴として、大人になっても中学生相当の考え方・ものの見方からアップデートしてないというのがあります。
私はそれを怠惰とか悪とかじゃなく、そういう脳のスペック、と思っています。器質的な話です。
大学生になっても64歳になっても「奪う者」から成長できないと、当然のように周りの人間を使います。
「奪う者」って、悪に目覚めて成るものじゃなくて、対等な大人同士で与え合う立場に一生成れない不具者ってことだと思います。
gazi4 程度問題かな。どんなに優れた人間であろうと、個々人のリソースは乏しい。分け合うことは必要だし、増田の言う頭のいい人は、与えたことも経験にできる。
与えるばっかりだと頭が良くても潰れますよ。頭は、自分が潰れない環境作りに使ったほうが良い。
元エントリの性犯罪者は、屋上娘にしてもらったことの価値を軽んじるじゃないですか。
屋上娘が子供の頃に大人の役割を期待されて、仕方ないと諦めさせられて、ケア役割を押し付けられて身につけた能力でも、
「屋上娘にとっては簡単なことだったのだろう。それが僕の救いになった!」みたいに軽んじちゃうじゃないですか。
いや、お前ソレ、「簡単だったらいいな」と「簡単に違いない」の区別がついてない案件だろ、と思いましたね。
プロのイラストレーターが「タダで絵描いてください」と乞食みたいなリプ受けて傷つくのも、
自分が身につけた能力の価値を軽んじられた気がするからじゃないですかね。
でも乞食ってそういう感じなので。リソースを無為に無限に毟り取られるばっかで、何の経験にもなりません。
Amarron 時代や文化で人間の価値が変わる所や、能力や環境が幸福に繋がりそれは功績ではなく運である所が少し理不尽だと思う事も共感できる。Pepperの話がテロスと定言命法を思い出す。哲学的な印象。
哲学は全く知りませんが、「功績ではなく運である所が少し理不尽」という部分を読んで、「分かっていただけた」と思いました。
結果を決めるのは運と努力、両方の要素が関わりますが、結果を出した人ほど努力が9割だと思いたがる。
私は運が9割だと思います。
運がいい人への攻撃の気持ちは無く、むしろ私は運がいい人が好きです。
運が悪かっただけの人を差別している!となじられようが、「そうで~す」という感じ。
ヒトラーのように障害者は死ねみたいには思わないので、社会保障費は喜んで支払います。
それは自分も事故や病気で障害者になる可能性があるとか、自分の能力が下がった訳ではなくても社会の変革によって
誰からも認められなくなり実質障害者状態になる可能性があるからです。不当な支払いとは全然思いません。
yamorca 世間が無神経に置き去りにしている処をしっかり見る人の声。増田は姥捨て容認派みたいだけど、同じ視点を持って公共の福祉の最大効力を求めてる人も居る。情けは人の為ならず
江戸時代は、姥捨て"容認"も何も、姥捨てするしか成り立たなかったですよね。社会が。
公共の福祉のレベルが上がった要因は、国の技術レベルが上がって豊かになったからですよね。
物質的に豊かになった結果、江戸時代と比べて餓死は減りましたが、
コミュニケーション乞食として、屋上娘さんやはせさんのような人に縋り付く人間は減らせて居ません。
「公共の福祉の最大効力を求めてる人」って何をやってるんでしょうか?
健康な人間に、福祉を必要とする人間に奉仕する義務を与える活動でしょうか?それ暴力じゃないですか?
それと、持つ者側、奪われることに怯える側でしか物事を考えない人に言いたいのは、
自分も事故や病気や加齢によって、奪う側に転落する可能性がゼロではないということです。
奪う赤ちゃんとして生まれ、与える大人になり、奪う老人になって死んでいくのが人間だと思います。
私は老人になっても出来るだけ、生きた人間を自分が生きるための奴隷にしたくないですね。
道具なら構いません。だから心についての言説より、技術についての言説の方が、愛に溢れているとすら感じます。