はてなキーワード: 収束とは
要約すると ステマアフィステマアフィと効いてる効いてる都合が悪いようだな
色々あってステマ肯定派(勝手に無断転載するクズらを肯定する人)と反ステマと嫌儲と祭り好きに火をつけて
焦土作戦となった
スレがステマステマで埋まったり、名前すらもアフィや効いてるに変わったり
機能不全に陥ってる状態。といっても元々ほとんどニュース速報もなくアンケスレが多くて何が機能してたのかわからんかったが
この楽しい騒動を炎上大好きの2ちゃんまとめアフィブログはほとんど詳しく取り上げない
過去やいつもと違う関係のない話題を取り上げる。つまんないとか言ってるところも
都合が悪いんだな。効いてそうだな。という感じで盛り上がってる
まあアフィブロガーにとってはつまんないだろうな
(検索してみたらもう動画上がってた→http://www.youtube.com/watch?v=R8m75vt93ew&feature=share)
何か謎の収束宣言やら一刻も早い再稼動やら…
こちらには事態の正確・詳細な情報も全く知らされていないのに説明や根拠なく、
反対の声、反論報道、その他諸々をガン無視した行為を展開する政府と東電に、
いい加減イライラが募ってきました。
2chで「特攻」とか見たけれど、現実的ではないというかやりたくないので、
個人が反原発、安易な再稼動反対を表明するにはどうすればいいんでしょうか?
憎しみで人が殺せたら、だなーw
非力だ。
スレは最低だけどな
----------------------------------------
961 名前: 955 Mail: sage 投稿日: 2011/11/04(金) 06:14:30.94 ID: dAmp84eb0
>>956
ほらwなんで頭からソレなのwあんた954か?www
「そりゃ」の根拠はなんだつうの
しかも何でそんな高圧的で上から目線で偉そうなの?wホントうけんだけど
随分前のやつだけど、自分の書き込み読みたくなって、憶えてた差別化できるキーワード
(ちあみに時は平成前、淫行条例施行前の出来事だから法的に大丈夫だよー☆)
http://bingtsept.blog98.fc2.com/blog-entry-479.html
http://blog.livedoor.jp/moekopi/archives/50121110.html
で期待に応えて書いてやるが、全部書いたら超長文になっちまうから、箇条書きで主なもんだけな
・一人暮らしを始め、毎日路上ナンパ即ハメとツーショットダイヤル(まだケイタイもネットもない時代)
・・中学生2人、高校生数人、専門、大学生、店員やOL多数(この時期バツの女はあるが人妻の経験はなし)
962 名前: 955 Mail: sage 投稿日: 2011/11/04(金) 06:24:27.77 ID: dAmp84eb0
・仕事辞めて専門時代、路上ナンパに明け暮れる、パーティーライン(ポケベル、PHS)
・仕事辞めてナンパの弟子だった専門の友達のとこで居候、ナンパに明け暮れる(ケイタイがほぼ普及)
・ナンパを仕事にしようと友人と決意、東スポの求人欄の「芸能スカウト募集」に応募、正体は宣伝材料詐欺の事務所
知らずに毎日昼から終電までスカウト、数え切れない数の女と知り合う
・詐欺事務所であることに気が付きトブ、改めて東スポの求人欄でスカウト事務所に応募
・どうせ東スポに一般芸能の事務所の求人なんてねえことは前回で身につまされたため、AVスカウトと振ってある正直な事務所に行く
・事務所の面接前に前もって数人ナンパしておき、面接後にどどっと女を連れていく
・最初、お前スカウトなんて出来んのか?って不審がってた専務の態度が豹変
同時期に入ったスカウトのなかで自分だけナイショで日払いの行動費が支給される(ちょっと自慢話)
・1日の最高記録は路上の声かけで直節事務所へ面接直行13人、半数は面接時におっぱいの露出まで行くつく
963 名前: 955 Mail: sage 投稿日: 2011/11/04(金) 06:26:01.67 ID: dAmp84eb0
・日々一日100人以上の声かけはノルマにし、そのうち10人はケイタイ番号を訊け、その10人のうち1人は脱ぎまで行く
(稼動の数ヶ月間を平均化するとほぼこの確立に収束する)すると月に30人は脱ぎの宣材撮影までこぎちけることになり
その30人のうち数人がAV女優となる、キャッチと平行し女優の管理も命じられる
・幸運にも始めて三日で単体が挙がり不労所得を得ることに成功(ただし現金化されたのは3ヶ月後であった)
・始めリードを許したキャバのキャッチの友人の所得に圧差を付ける
・ナンパやキャッチで知り合った女の子のとこ日替わりで泊まり歩く、数え切れない女のこと知り合った
・昼から終電までキャッチ、電車のなかでもかわいい子がいれば途中下車をしても声を掛ける、ホームでもキャッチ、帰宅中の徒歩でもキャッチ
深夜のコンビニでも外でタバコを吸いながら店から出てくるのを待ってキャッチ(これは全部ナンパ時代と何も変わらない)
964 名前: 955 Mail: sage 投稿日: 2011/11/04(金) 06:26:51.68 ID: dAmp84eb0
・数年経つとスカウト仲間ができネットワークが築かれ、キャバ、風俗、AVそれぞれの得意分野で女の子を回し合う
・フリーになりスカウト事務所を設立(設立というほど立派なものではないが)し、スカウトマンの管理と指導を数年
・風営法や迷惑防止条例の施行でスカウトが違法となり、これを契機に現場のスカウトから足を洗う
・キャバ、風俗、AVのスカウトが禁じられるなかで、何故か芸能だけは現在も路上でのスカウトが許されている
・時代の変化に合わせざるをえず、着エロ、グラビアのスカウトを始める、なんとか超弱小規模ながら芸能の末端に席を置く今日
965 名前: 955 Mail: sage 投稿日: 2011/11/04(金) 06:27:20.93 ID: dAmp84eb0
スカウトの面白さが消え失せてしまった為だ、ネットの普及から女のこ自らが自主的にAV事務所に申し込み、その門をくぐることが珍しくなくなり、今やそれが主流と言える
事務所の強さとは以前は、スカウト能力に長けた一人のスカウトマンの腕によって決するものだった
それが今や広告をどれだけ投下できるか、その宣伝量の物量のみの勝負になってしまったのだ
また情報が閉ざされていた時代、女のこの判断基準の全ては目の前のスカウトを信じられるか否かに掛かっていた
お金や条件がどうのではなく、「あなたを信じるからその仕事をしてもいい」という判断があったのだ
そして自分を信じてくれた女のこのため、好条件の仕事を得るため身を粉にし奔走しそれに応えるという矜持があった
966 名前: 955 Mail: sage 投稿日: 2011/11/04(金) 06:28:15.59 ID: dAmp84eb0
末期に時代に呼応するよう新人スカウトマンとの価値観の相違も顕わになる
路上で止めた女のこと話をつなぐ為に彼らはケイタイを開くのだ、そしてネット上の情報を誇示し信用を勝ち取ろうとしてた
まったくナンセンスに思えた、自身の態度、会話で女のこを止めることこそがスカウトマンの能力であったハズだ
これなら誰がやっても一緒、ネット情報の優越なら女のこ自身で決められること、路上の遇機の出会いなど必要もなく
もちろん若いスカウトマンは我々が通ってきた路上で凌ぎを削るナンパも経験もなく
ケイタイNSNによって女のこと知り合ってきており、これが時代であると観念するより他になかったのだ
※これ以前にもナンパにはケイタイの登場と普及という大きな転換期もあったのだが、これについては稿をあらためることとしよう
軽く行こうと思ったのに、途中からマジメに書いちまったよ…
全て落涙すほど懐かしい
968 名前: 955 Mail: sage 投稿日: 2011/11/04(金) 06:43:30.94 ID: dAmp84eb0
○末期には時代に呼応するように新人スカウトマンとの価値観の相違も顕わになる
×末期に時代に呼応するよう新人スカウトマンとの価値観の相違も顕わになる
969 名前: 955 Mail: sage 投稿日: 2011/11/04(金) 06:48:33.01 ID: dAmp84eb0
○・1日の最高記録は路上の声かけで直節事務所へ面接直行13人、半数は面接時におっぱいの露出まで行きつく
×・1日の最高記録は路上の声かけで直節事務所へ面接直行13人、半数は面接時におっぱいの露出まで行くつく
970 名前: 955 Mail: sage 投稿日: 2011/11/04(金) 06:59:41.59 ID: dAmp84eb0
○ケイタイSNSによって女のこと知り合ってきており、これが時代であると観念するより他になかったのだ
×ケイタイNSNによって女のこと知り合ってきており、これが時代であると観念するより他になかったのだ
これは単に、キャラがしっかり描かれてるってだけの話に収束しそう。
バトル漫画や博打漫画が、なぜそれを感じやすいかと言うと、何かを天秤にかけるシーンが発生しやすく、キャラの思想や信念をお手軽に表現できるから。
命を対価にすることで、当該キャラの中での「行為や目的の価値」が一目瞭然。
なんらかの事件が起こらないと同じような事は出来ないし、そもそも何かを天秤にかけるという行為がネガティブになりやすいから。
時間をかけて、エピソードを重ねて、丁寧に描いていくしかない。
そうした作品で人気が出るというのは、単純に「キャラがしっかり描かれてる」という事。
もちろん、ギャグ要素やお色気要素、恋愛要素とか個別にあるけれど、キャラを確立させるって点に限定すれば、バトル物や博打物はやりやすい。
ボーナスだなんだって言ってるけど、あれ賃金引き下げたら誰もいなくなるだろ。それでその後入社する奴なんかいないだろ。俺がもし今の三倍払うから来てくれって言われても行きたくねえもん。正直腹は立つけど、辞めずに仕事してろ、と思う。
でもその一方、東電の社内のことなんか俺何にも知らないんだよなと思う。そろそろ日常になっちゃって麻痺しちゃって、普通に飲み歩いたりしてる社員もいるんだろうけど、その中でもきっと真面目に働いて胃を痛めてるような人もそれなりにいるんだろうな。と思うとな。同じ人間なんだよなとも思う。会社と個人は違うからなあ、何を思えばいいんだろうなあ。
話題に出ることは少なくなったけどまだ作業は続いているし、事態に大きな進展はない。毎日自分も普通に生活をしている中でたまに思い出してひやっとする。穏やかに収束する日を願ってやまない。
厨二病乙
どうせならどんな選択をしようとも
これを人々は運とか運命と呼ぶ。
とか位いってくれよ。ぶっちゃけつまんねーんだよ。お前
「あ」
これだけでも「大丈夫?」と言われたり、「頭大丈夫?」と言われたりする人。
もしくは、(あいつ何書いてんのやろ)って思われたりする人。
それか、無視される人。
世界という系を切り取ってみても、結局は、世界のミニチュアにすぎない。
小学校の教室という系も、地球という系も、マクロな視点では同じ。
教室内で楽しく談笑するグループ、アニメで盛り上がるグループ。
そして、机に伏せて寝そべっていたり、壁に向かって話続けていたりする人。
そういうものは、どんな年代が集まっても、どんな広い場所に居ても、変わらない。
そういう人はどこに行っても目の上のたんこぶでしかない。
本質を隠しても、何かしらで露呈する。
そうなれば、人は壁を作り、次第に疎遠になる。
何処の系にあってもそれは変わりなく。
そして、あぶれた人は、変わらない挙動を見せる。
かといって、もとからグループに属する能力がある人は、そんな挙動が無い。
低い確率で、その様な挙動を見せる可能性はあるが、グループからの追放でしかない。
昔なら、どこかで野垂れ死にするだけだった、何者か。
それが今では、家の中にひきこもっていれば食料もある。
家の中にひきこもっていてもネットで擬似的に誰かと繋がることが出来る。
この場合には、現実からもネットからも、二重の白紙化が起こる。
かといって、全てが許容されて透過するわけでもない。
都合の悪い言動は、全てが増幅される。
あぶれ者のあぶれ者。
切り取る系に何らかの外力が働く。
それによって、最下層民は更なる迫害を受けることとなる。
その外力は、親からの言葉、社会からの逃避概念、いらだち、嫉妬。
上位層はその様なことは考えず、ただ互いに互いを助けあう。
最下層は互いに互いを罵り合う。
富むものはより富む。
最下層は行き場の無い不平を、上に押し付けずに下へと与える。
結果、圧迫された最下層は、行動することすら出来ない。
箱の中がすっかり暗くなってしまってから、もう随分と時間が経ちました。
入れられる以前に小耳に挟んだことなのですが、どうやらこの箱の中には猛毒の入った小瓶が置かれているそうです。小瓶は口を溶接されて密閉状態にあるものの、すぐ側には振り上げられたまま固定された金槌が設置されていて、その金槌はとある時間がきた途端に振り下ろされるのだそうです。
そのとある時間なる時がいつを指すのか、私には全くわかりません。いまこの瞬間にもその時が来ているのかもしれないし、あるいはもっと先のことだったり、考えたくないことではありますが、もう過ぎてしまったことだったりするのかもしれません。金槌は誰の影響を受けるでもなく、独立した一つの事象として、完全な確率五十パーセントで振り下ろされることになっているのです。小瓶は割れてしまうのかもしれないし、割れないままかもしれない。私は死んでしまうかもしれないし、生きたままいられるのかもしれない。
激しい憤りを覚えずにはいられません。私の生死という何よりもの重大事項が、私はもとより誰からの手も離れて、唯一、五十パーセントなどという無機質極まりない確率だけに委ねられているなんて。ほとほと酷いにも程があるのではないのでしょうか。
加えて理不尽極まりないことに、この五十パーセントという確率をより厳密なものにするために、箱に入れられた私には様々な枷が与えられたのです。
例えば視覚について。小瓶と装置が見つかっては壊されかねないとのことから、箱には完璧な遮光が施されることになりました。完璧な暗闇。暗黒と呼んでも差し支えのない暗さが用意されたのです。よって私には、少し先の様子はもちろんのこと、私自身の輪郭さえ視認することができません。そこに本当に私の身体があるのかどうか、馬鹿げた話ではありますが、疑いすら持ち得てしまえる暗さなのです。
また聴覚についても、同様の理由からか、自ら発した声さえ聞きとれない程に徹底した遮断が施されています。どのような原理が働いているのかは不明です。そもそもなにも見えないのですから、確認のしようがありません。ですから以下は推測になりますが、もしかしたらここに入れられる前に鼓膜を破られたのかもしれないし、あるいは箱を形成する外壁に特殊な吸音板が使用されているのかもしれません。
兎にも角にも、防音吸音共に優れすぎた暗い箱の中で、私の視覚と聴覚は文字通り死んでしまっているのです。
極めつけとばかりに、全身を支配する身じろぎひとつ取れない虚脱感もまた、私に与えられた枷のひとつでした。暴れないようにとの理由から、箱に入れられる際に何かしらの弛緩剤を投薬されたのでしょう。半ば強制的に同じ姿勢のまま横たわらねばならなくなったので、次第に皮膚感覚が麻痺していきました。
何も見えないし聞こえない。嗅覚も味覚もあてにならない上に、触覚までも機能不全に陥った。つまるところ私は五感を全て支配されてしまった木偶のような有様を晒しているのです。非情極まりない状況です。これほどまでに不自由を徹底するくらいなら睡眠薬を投与してくれたらよかったのにと思わずにはいられません。一つも外傷を与えられないまま生殺しにされている気分なのです。私という生命、存在について、これ以上ないほどに蔑ろにされているという屈辱感が、辛うじて私の精神を狂わせず律してくれているのです。
私は、私の生命を、その生き死にを決定する何よりも重大な決定権があからさまに奪われてしまっていることが憎い。生命の存続を決定づける要素というものが、たった一つ、誰からの意図からも独立した、純粋極まりない確率にだけ寄っているという事実が、憎くて憎くて堪らないのです。
どうして私はこんな箱の中に入れられなければならなかったのでしょう。こんな馬鹿げた箱の中で、徹底して自由を奪われたまま生死の恐怖に怯えなければならないのでしょう。
こんなに理不尽なことがあっていいのでしょうか。こんなに残酷なことがあっていいのでしょうか。
私はいま、とても孤独です。胸にぽっかり穴が開いたとか、むせび泣いてしまうとか、そんな孤独よりももっと深淵にある、一面の虚空とでも言うべき孤独感にやられてしまっているのです。すごくすごく、ものすごくさびしいのです。独りぼっちのまま、永劫の暗黒に投げ出されてしまったものですから、絶対零度にも等しい肌寒さに打ち震えることしかできないのです。
箱の中からは一切の遠近感が失われています。暗黒だけが広がっていて、どこかにあるはずの小瓶と金槌は当然のごとく、箱の壁も底も天井も全て消えさってしまったかのようです。無論、実際にはそこにあるのでしょう。けれども、ありとあらゆる感覚器が閉ざされ麻痺してしまった私には、当然のようにそこにあるはずの物ども(実際にはそれ自体に何かしらの存在意義が与えられているはずなのに)が、ないも同然になってしまっているのです。
正直に告白しましょう。私にはもう、箱の中に私がいるという前提にさえ自信が持てなくなってきています。確かに私というものは存在している。こうして取り留めもないことを考え、あるいは空想している私の自我ないし意識とか精神などと呼ばれている唯一性は確保されている。けれども、その唯一性が本当に箱の中に閉じ込められているのかどうか。本当はもっと違う、どこか異質な空間を漂っているのではないか。疑念を払拭し切ることができないのです。
もしかしたら、いまこうしてここにある私は、どこか遠く宇宙の果てを漂っているのかもしれませんし、マリアナ海溝の水底に横たわっているのかもしれない。あるいはキラウェア火山の火口からマントルの方向に向かって沈下しているのかもしれません。
私には私自身を覆う箱がどうなっているのか知る術がないし、五感が死んだままではここが箱の中なのかどうか判別がつかないのです。
加えて、いまここにある私が本当に生きているのかどうか。そんなことさえも私には確認する方法が与えられていません。ともすれば私は、二分の一の確率をすでに通り過ぎてしまっているのかもしれないのですから。私はもう死んでしまっているのかもしれませんし、運良く生き残っているかもしれません。弛緩剤を打たれた身体で浅い呼吸と僅かな拍動を続けているのかもしれないし、その全てが停止したままだらんと横たわった肉塊になっているのかもしれません。
私は私自身の肉体を自由にできるだけの力を奪われてしまっているのです。私という思考が生命活動を続ける健全な肉体に宿っているなどと、一体誰が認めてくれるのでしょう。完璧な暗闇に毒された五感は、すでに感覚器としての意義を失くしています。私にはもう本当を確かめるだけの機会さえ与えられていないのです。ありとあらゆる想定は、もしかしたら私自身が作り出した捏造なのかもしれない。私を巡る様々な状況や、そもそもの私という唯一性についても、プログラムされたロールプレイにすぎないのかもしれない。
私という存在について、口惜しいことに、ゆらぎの只中にある私には振る舞い方を決めることができないのです。
叶うことなら、誰かに私を見つけ出してほしいくらいです。私を閉じ込めた狭い箱をこじ開けて、私がどうなっているのかを観測して、私の有り様を決定して欲しい。私にはもうそれだけの力が残されていませんから。身動きも取れないまま、孤独に身を震わせ続けることしかできないのですから。
全能の神であれば、光あれと呟くこともできることでしょう。無茶な願いだと承知のうえですが、そう告げることができたのならどんなによかっただろうと感じずにはいられません。
自身を巡るありとあらゆる不確定なゆらぎを自らの意思で確定できるなんて!
あこがれは、しかし一方で臆病な陰影を生み出すものです。箱が開かれ、私が見つけられて観測され、結果的に私の有り様が決まることについて、嘘偽りなく告白すると、確定されるいまに不安を感じていることから目を逸らすことができなくなるのです。
生きているのか死んでいるのかさえも自分自身では確かめようのない私ではありますが、それでもやっぱり死ぬことは怖いのです。死んでいると決定してしまうことが生理的に恐ろしいのです。どうしても受け付けられない。きっとそれは私がまだ具体的な死という現象を体感することも想像することもできていないからなのでしょう。
いいえ、なにも私に限った話ではないのでしょう。人徳有望な仁君名君であっても、極悪非道な殺戮者であっても、遍く存在する人畜無害な一般人であっても、誰だってそうだろうと思うのです。年老いた人や、病床に伏せる難病患者であるのならば、もしかしたら限りなく近しい想像を働かせることが可能かもしれません。が、それでもやはり具体的な体験については一生不明なままだと思うのです。
結局、死とはゆるがせにできない圧倒的な意味を持つ終着点だと思うのです。時間というもの、あるいは意識というものが絶対的な不可逆性を有しているように、たとえそれが儀礼的な通過点や他に類を見ない印象深いイベントであったとしても、決して覆すことのできない絶対的な事柄に違いないのです。
私は、いまここにある私という思考は、私を巡る様々な有り様が決まった瞬間にここから存在しなくなります。頭までどっぷりと浸かった、熱くも冷たくもない、温度を感じることのできない完璧なぬるま湯を抜かれてしまって、否応なしに外気に触れざるを得なくなってしまうからです。
そんな取り返しの付かない変化が恐ろしい。死んでいると決定づけられるだけに限らないのです。私にはもう、生きていると決まってしまうことさえ不安で不安でたまらないことなのです。
きっといまここにある私は、永遠とも感ぜられる点に留まった小さな小さな幻想のようなものなのでしょう。それ以上広がることもなければ縮まることもない、伸びることもなければ短くなることもない。拡散することも閉塞することもない、数学的に正しい唯一一点に留まったまま自己の同一性を勘違いしてしまった幽霊のような存在なのでしょう。
その点は、座標平面上の至る所に存在し、同時にとある一箇所には存在していないのです。一心同体も同然となった私のことなんて気にも留めないで、ある特定の事象が起こった瞬間に、その事象が起こったありとあらゆる時空間の中のたった一つに、まるでバスから降ろすかのようにして私を収束させるのでしょう。
またそんな点に留まってしまった幻は、実物になる可能性も、霞となって消え去る可能性も平等に有している。
私はいま、どんな時空間にも存在し、ありとあらゆる性質を有していながら、同時にどんな性質からも見放された孤独に苛まされています。誰かに見つけて欲しいと願う一方で、その時一体私がどこにいるのか、どのような姿になっているのかが不安でならないのです。
時間とか空間というものは今現在にだけ収束されていて、未来にしろ過去にしろ、縛られ細められた現在から遠ざかれば遠ざかるほど拡散しているんじゃないかな。
私が認知できる(あるいはそう錯覚しているだけの)現在は漸近線のようなもので、それぞれの過去から未来に伸びているもののそれらは互いに限りなく似通っている。
ただしその延長上に見える景色は無限大に食い違っていて、イメージとしては一昔前に流行ったような気がするホワイトホールとブラックホールが繋がっているモデルが一番近いのだと思う。
さて、無限大に拡散する過去と未来というものがあって、その屈曲率が過去と未来で鏡合わせの値であった場合、その過去と未来は究極的に言えばどこかで交わるのではないだろうか。
端的に言えばループが完成してしまうのではないかということだ。それがどんな流れになっているのかはわからないけれど、ぐるぐると同じ時空間を巡っていると想像すると面白い。
あるいは、何らかの弾みで現在を縛り細めている紐が揺れたり振動したとする。影響は遠方になればなるほど大きくなり、拡散した過去と未来の屈曲率は大きく変動することだろう。
そうなったとき、ループとして成立していた一つの過去と未来が切り離されて、全く別の過去と未来と繋がってしまったとする。
その際考えられるのはループが新しくなったなどというものではなく、拡散した未来の先に、すでに過ぎ去ったはずの過去が新しい時空として繋がることである。
現在の地点から見れば(それが可能であれば)、不確定のまま暗黒に繋がっていた未来が既知の過去に繋がることと同意であり、それはつまりその過去の先に観測者としての現在と同体の現在を眺めることでもある。
その瞬間現在は、不確定のままだった時空の繋がる先に、ドッペルゲンガーを見つめることになるのだ。
同じくして、過去を見つめた観測者は、記された過去の遙か向こう側に予想された未来を見つけることになる。その先には、たった今観測者たる現在を見つけて驚いている現在の姿を見つけることになる。
ついでにネットゲリラの古い記事あさっていたら、米沢氏の話がでてきた。
http://shadow-city.blogzine.jp/net/2007/12/post_1352.html
米沢氏のコミケに対する方針というのは徹底していて、とにかく「中身には干渉しない」という姿勢だった。本人は水木しげるマニアで、自分でも漫画を描いたりするんだが、コミケも当初は「創作同人誌」の売買の場として作られたんだが、蓋をあけてみると、1970年代は少女漫画、80年代はアニメ、それからロリコンと、目論見とはまったく違ったモノで占領されてしまう。それでもイヤな顔しないで黙々と参加サークルのために開催し続けてきた。
もう語り尽くされていることではあるだろうけど、こうした場をつくるということ(そのために多大なリスクを負いチャレンジするということ)、この倫理観、もう大分議論は収束/終息したのだろうけど、Pixivのナントカさんもよく考えた方がいいんじゃないかなー。
町田ひらく、うさくんといった、ロリコン雑誌から出てきた(あるいは育てられた)漫画家がのびてきたこともそうだし、あるいは青林工芸社やコミック・ビームも90年代のアングラ感をまるでかんじさせず2000年代にはいって目覚ましい成果をあげた。人が何かを表現するそのエネルギーに場を与えるということは、札束に書かれた数字より富んだ意味があると僕は思うけどな。
「収斂進化」と同じ意味で「相似・相近現象」って言葉を,「所さんの目がテン!」という番組で聞いた事がある.サボテンとユーフォルビアが似てる理由として解説されていた.ネット初めて15年間ずっと検索し続けてるけど,そういう言葉は誰も使っていないみたい.なんか勘違いしてるんだろうか?
見通しのまったくたたない問題に対する意見を集めるために,専門家にアンケとって,それを公表して,それを基にもっかい専門家に考えてもらってアンケとって,公表して・・を繰り返すアンケート法のこと・「収斂収集法」っていう言葉を使って習ったんだけど,やっぱりググっても出てこない.「収集収斂法」でも「収束収斂法」でも出てこない.「デルファイ法」という言葉で解説が見つかる.
正直今の脱原発騒ぎには萎えるばかりだ。事故が収束してないのに何やってんの。
福島県が脱原発を表明って、押し付けられた側なんだから原発拒絶っていうのが正しいんじゃないか。
この期に及んで現福島県知事を悪役にするとか呆れるんだけど。
多変量解析とかベイズとかは、ブームが過熱して馬鹿までもが大量に流入してきてる感があるから
そろそろバブルが弾けて適正規模に収束していくんだろうなと思ってる。
そうそう。無理なもんは無理なんだから、変に拘らないで発展性のある方向に切り替えればいいのにって思う。
自然言語で説明しても数字を使っても同じだよってことを理解できない馬鹿への対応とかは「馬鹿を丸めこむ方法学」などとして
分離してそっちでやればいいのにと思う。
旦那と私はよく一緒に風呂に入る。
旦那が先に風呂場に入り、湯船につかり、体を洗う段階で私を「おーい」と呼ぶ。
私は呼ばれてから風呂場に行き、身体を洗う旦那の横で湯船につかる。
体を洗った旦那が先に風呂を出るので、それから私が体を洗うのがいつもの流れだ。
しかし昨日、私はこの流れを無視した。
見たいテレビが始まる前に入浴を済ませたかったので、旦那に呼ばれる前に風呂場に行ったのだ。
中から水音がしなかったので、(湯船につかってるんだろうな)と思ってドアをあけたら…
旦那は洗い場に立っていて「うわっ、うわっ、びっくりしたー!びっくりしたー!」と、異常なまでにうろたえていた。
何かおかしいと思って旦那をよく見ると、旦那のチンコはギンギンに勃起していた。
すぐに事態を察した私は、驚きつつも「ごめんね!ごゆっくりー」と風呂場のドアを閉めようとしたのだが、旦那が「いいから!いいから!いいから!入っていいから!」と叫ぶので、結局一緒に入る事になった。
風呂につかりながら「途中でしょ?私が出してあげようか?」と聞くと、旦那はボソボソと「もう終わったから…」と言ったあと「見られたー!見られたー!妻に見られちゃったー!」と悲痛な叫び声をあげながらジタバタ暴れだした。
実はずっと笑いをこらえていた私は、恥ずかしそうに身を捩る旦那に我慢できず、つい爆笑してしまった。
「ぎゃはははは!旦那、お風呂でオナニーしてたーーーー!!!」
「わ、笑わないでー」
「どうりで排水溝がよく詰まると思ったら…」
「してないよー、いつもはしてないよー!」
「「うわっ、うわっ、びっくりしたー!」だってwwww」
「わーん、もう言わないでー」
爆笑しながらひとしきり旦那をからかった後「ごめんごめん」と謝って、もう2度とこの事は口に出さないと約束し、「風呂場オナニー目撃事件」は収束した。
チンコギンギンでうろたえまくる姿に思わず爆笑してしまったのだだけれど、よく考えたら旦那はかなり可哀想だ。
主婦の私は日中は家に一人だけれど、一生懸命働いている旦那には一人の時間が殆どない。
仕事に疲れて帰宅し「寝る前にちょっとオナニーしたいなぁ」と思っても、常に私が側にいるのでエロ動画の一つも見れないのだろう。隙を見て、風呂場でコソコソやるしかないのだ…
たまには旦那の休日に私が一人で外出しようかなと思う。
旦那よ、爆笑してゴメンね…
pixivは「pixivはイラストを描く人や興味がある人が作品を介して気軽にコミュニケーションしたり、自分で描いたイラストや許可を得たイラストを投稿できるコミュニティ」である*1。しかし、pixivの運営から投稿者に十分な説明がないままに、pixivに投稿されたイラストが運営によって削除された事例が存在する*2。一方で、pixivには「デッサンやアナログ作品等を撮影した写真(実写)であれば」投稿することができる*3。しかし、その条件に該当しない写真が削除されずに今だに存在している*4。
明文化された利用規約などは「ルール」である。そして、コミュニティ内で定められたルールは、その構成員が互いに信頼して行動するための基礎となる。pixivであれば、例えば「特定の条件を満たす画像を投稿してはならない。投稿した場合は当該画像を削除する。」というルールが存在することにより、利用者は他の利用者の不快な投稿に遭遇することなくイラストを閲覧でき、また、利用者はルールに反しない限りは投稿したイラストを運営に削除されることはない、ということを期待することができる。しかし、先に挙げた二つの事例から、現在のpixivには明文化されていない、言わば「隠れルール」が存在すると考えられる。控えめに言っても、運営は利用者にそのような疑念を抱かせている。このようなコミュニティにおいては、運営と利用者の間で信頼関係は成立し得ない。それがイラストの投稿・削除というpixivのシステムの根幹に関わるのであれば尚の事だ。
pixivが今回の騒動を収束させたいと考えているのであれば、この「隠しルール」を明文化することだ。それは「特定のタグがつけられた投稿は規約違反でなくても削除します」「特定のユーザの投稿は規約違反でも削除しません」かもしれない。あるいは「削除するもしないも運営のさじかげんひとつです」かもしれない。あるいはもっとまともなものかもしれない(私はそれを期待している)。いずれにせよ、「隠しルール」が明文化されてルールとなることにより、運営に対する利用者の信頼は回復しうる。少なくとも、利用者が運営を信頼するに値するか否かを、より正確に判断できるようになる。それは、利用者の「おえかきたのしす」の感情を収益の源泉とする企業が行うべき、最低限の行為である。